今日のアジサイ。・・・やはり梅雨時に映える花。
昨年は6月中旬頃に立ち寄りましたが、季節の変化が早い(関東地方は? )のか、アジサイも五分咲き以上に。
そこで、隅田公園(浅草側)まで。
隅田公園の台東区側にはたくさん植えられています。
アジサイに関わって、たくさんの一言。
いろんな種類のアジサイが。
去年は「タチアオイ」がたくさんありましたが、今年はほとんど見かけません。
去年のようす。
「梅雨葵」とも言われます。
スカイツリー。
「山の宿渡し跡」碑。
隅田川渡船の1つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に渡船を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。
「隅田川」に架かる「桜橋」まで戻ります。その途中に、「竹屋の渡し跡」碑。
隅田川にあった渡し船の一つ。山谷堀から 向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前 あたりとを結んでいた。
『待乳の渡し』ともいい, また『竹屋の渡し』とも云う。 明治40年刊の『東京案内』には『竹屋の渡』とあり, 同年発行の 『東京市浅草全図』では, 山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き 『待乳ノ渡,竹家ノ渡トモ云』と記している。
「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと, あるいは, 山谷堀に竹屋(家)という船宿があったことが その名の由来とされている。
「渡し」の創設年代は不明であるが, 文政年間 (1818-30) の地図には, 「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見られる。
隅田川にのぞんだ 今戸や 橋場一帯は 風光明媚な地であったという。 文人墨客たちの題材ともなった 今戸橋や山谷堀は, 寛文11年(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから, 江戸時代初期には造られていたらしい。 「渡し」は, 昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであった。
ふと見ると、「平成中村座発祥の地」碑。
現在は、広場になっています。
「浅草観音」の裏手でも開いたような記憶が。この場所を含めて、何回か観に来ました。江戸の歌舞伎小屋という雰囲気でたいそう楽しめました。「お大尽席」があったりして。二階席、幕の向こう側(内側・舞台袖)で観たことも。間近に役者の表情、所作が味わえました。勘九郎(当時)の才気溢れる芝居を堪能。勘三郎になってからも、・・・。
いっとき勘九郎(勘三郎)の追っかけまがいのことをして、歌舞伎座などあちこちに出かけました。まだまだこれからという時に惜しくも亡くなってしまいました。
息子達が、今、頑張っています。
浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりである。
翌年(2001年(平成13年))以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の18世中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行わなかったが、勘三郎の遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の2代目中村七之助、2代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行った。(「Wikipedia」より)
初演の『隅田川続俤 法界坊』を観ました。そのあともいくつか。歌舞伎座での『野田版 研辰の討たれ』はなかなか面白かった。
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