おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

生麦事件。その痕跡をたどる。事件現場。記念碑。生麦事件参考館。横浜その12。

2014-03-06 23:21:06 | 旧東海道
 神奈川宿から少し川崎に戻った「生麦」。「京急生麦」駅下車。ここも訪れてみました。「生麦事件」の地。
「第一京浜」に出る手前の道を入ると、「生麦事件参考館」。訪問したときは閉まっていました。
横浜市からの「横浜まちづくり功労者賞」などさまざまな額が飾られてある。

 生麦事件参考館 浅海武夫
 表彰理由 生麦事件参考館を私設し案内を行い記念碑以外に資料館等のなかった地元において地域への関心を高め魅力あるまちづくりに貢献しました 1996年2月 横浜市

 なお、


資料館巡りや地元の方が語る歴史に耳を傾けるのも歴史旅の醍醐味。今回は生麦事件の貴重な史資料が収蔵する「生麦事件参考館」が閉館するとのことで、このコーナーでは、同館長で地元在住の研究家・淺海武夫さんに伺ったお話

rekigun.net/original/travel/namamugi/‎

 で特集しています。淺海さんの長年の「生麦事件」資料収集と研究・分析に並々ならぬ意気込みと一念を強く感じました。
 この記事によれば、昨年、閉館したようです。行ったとき、ちょうど棟続きの隣のおうちから老夫婦が出てきました。写真から見ると、どうもこの淺海さんとお見かけしたのですが・・・。お声も掛けずじまいでした。

 生麦事件は、幕末、文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。


 文久2年(1862年)8月21日(旧暦)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向き、幕閣人事に強行介入したのち、京都へ帰ることとなった。
 行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人4人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。
 4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある。
 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人たちに対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかった。
 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを打たれた。
 マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、無傷だっため横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川宿にあった、当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。
 リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義であったという。
 なお、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。
 この事件は、大名行列の供回りの多数が抜刀したものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて、処理を誤れば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなった。
 事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で生麦に向かううちに、横浜在住の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。
 久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。
 神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。
 当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいた。一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。
 生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまった。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
 文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。
 折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。
 再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。
 幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。
 10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
 肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾を大きく露呈させたものでもあり、以後、条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「正泉寺」の位置が現在と変わらなければ、事件発生現場は付近と思われる。南が神奈川・横浜方面。南北に続く道が「旧東海道」。左上部、斜めの線が鉄道(新橋~横浜)の線路。

「生麦事件発生現場」碑。


 文久二年八月二十一日辛未(かのとひつじ)晴天
(薩摩藩主) 島津三郎(久光)様 の上洛の行列と異人4人内女1人、横浜より来て本宮町勘左衛門前にて行き違おうとしたとき、下馬しなかったので切りつけられた。
 直ちに逃げ去ったので、追いかけて一人を松原で討ち取った。外の3人は神奈川(宿)の方へ傷を負ったまま逃げ去った。
 お役人様が桐屋へご出当、村の役人一同も桐屋に詰めた。
右の異人の死骸は外の異人が大勢来て引き取っていった。

               生麦村名主 関口日記より

平成11年1月生麦事件参考館設置



その地点から北(品川方向)を望む。「旧東海道」。
旧東海道沿いとあって、古い家屋が残っている。
「懸崖の松」という風情。
神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。
 ただし、現在は、横浜環状北線建設のため、仮移設されている。
移設に関する説明板。キリンビール横浜工場」に沿った旧東海道。
碑文の説明板。
中村正直による撰文(書き下し文)。 
もともとはこの道(旧東海道)が第一京浜に合流する手前に「碑」があった。
北側を望む。
第一京浜から旧東海道との合流地点を望む。左手を入ったところがリチャードソン遺体発見現場。
一歩通行路の左奥。

1970年頃のようす(「同」より)。赤丸がその付近。
正面がキリンビール横浜工場。第一京浜に架かるガードより望む。奥の左手が「碑」のもともとある場所。
「第一京浜」のガードを通過する貨物列車。石油タンクが連なって「東高島駅」方向へ。



HPより)

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