今日は若草山の山焼き。古都奈良の初春の風物詩。伝統のある行事です。このところ、奈良には出かけたことがありません。もっと南の飛鳥には、レンタサイクルで回ったこともありますが、それもちょっと過去の話。
そういえば、平城京の跡を訪れたこともありました。広大な敷地に立って、夕日を眺めたことも。
伊豆の大室山などでも、2月には山焼きをやっています。もともと小高く、丸い山頂の山ですから、実に見事な光景です。
また、山焼きとは言えないでしょうが、東富士演習場(裾野)でも、一面のススキの原を焼いているようで、その直後に、車で通ったことがあります。さぞかし見事な山焼きでしょう。
冬枯れの、乾燥した草に火を放てば、あっという間に燃え広がる。下手すれば、山焼きならぬ、山火事になって被害を生みます。時々話題になりますが、きっと若草山でも火付けから火の始末まで、担当する地元の消防団(?)には大変な苦労があると思います。
ここで、豆知識(ちょっと「ガイドブック」から)
若草山は古くから葛尾(つづらお)山、九折山(つづらやま)と呼ばれており、三重目の頂上は前方後円の巨大な鶯塚古墳である。江戸末期まで、この鶯塚古墳はウシ墓と呼ばれ、ここから出る幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの草山を翌1月頃までに焼かなければ、翌年に何か不祥事件が起きるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こった。
元文三年(1738)12月に、奈良奉行所は九折山に放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てた。
しかし、その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになった。それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべきもので、供養の為でもあった。
なお俗説として春日・興福寺と東大寺の領地争いがもとだと伝わっている。
明治以降をみると、明治11年2月23日に行われ、現在のように夜間行事となったのは同33年2月17日です。(春日日記)戦前は、2月11日に行われ、昭和25年からは、成人の日であった1月15日に行われている。さらに、平成12年からは、「成人の日(1月の第二月曜日)」の前日の日曜日に行われている。
奈良時代の頃の若草山は、現在の春日山と同じような樹林であったが、鎌倉時代の建長7年(1255年)には農民が若草がよく生えるように新春に野焼きを行った記述があり、既に樹林はなく今の状態に近い草山だったと考えられる。
昭和20年頃の若草山は、誰でも自由に山の出入りができた。今みたいにすすきがほとんどなく、全面芝生に近い山で、ほんとうに若草山であった。それでも、山焼きの時は芝生のたけが10cmほどあったのでがよく燃えたそうだ。今みたいにススキほどの火の勢いはないが、徐々に燃え広がっていく光景は見事だったらしい。
〔鶯塚(うぐいすづか)古墳〕
若草山の山頂には5世紀頃築造された鶯塚古墳がある。全国的にも山の山頂に作られた古墳はめずらしい。南向きの前方後円墳で全長103m、前方部幅50m、後方部径約61m、の2段築成で、墳丘前方部の各所と後円部西側に円筒埴輪列が確認されている。又後方部の頂上に亨保十八年(1733年)に建てた「鶯陵」の碑がある。
奈良では、3月に入ると、二月堂のお水取り。久々に奈良に出かけてみようかとも思います。そうそう、吉野山の千本桜も見に行く予定です。
そういえば、平城京の跡を訪れたこともありました。広大な敷地に立って、夕日を眺めたことも。
伊豆の大室山などでも、2月には山焼きをやっています。もともと小高く、丸い山頂の山ですから、実に見事な光景です。
また、山焼きとは言えないでしょうが、東富士演習場(裾野)でも、一面のススキの原を焼いているようで、その直後に、車で通ったことがあります。さぞかし見事な山焼きでしょう。
冬枯れの、乾燥した草に火を放てば、あっという間に燃え広がる。下手すれば、山焼きならぬ、山火事になって被害を生みます。時々話題になりますが、きっと若草山でも火付けから火の始末まで、担当する地元の消防団(?)には大変な苦労があると思います。
ここで、豆知識(ちょっと「ガイドブック」から)
若草山は古くから葛尾(つづらお)山、九折山(つづらやま)と呼ばれており、三重目の頂上は前方後円の巨大な鶯塚古墳である。江戸末期まで、この鶯塚古墳はウシ墓と呼ばれ、ここから出る幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの草山を翌1月頃までに焼かなければ、翌年に何か不祥事件が起きるといったことで、通行する人が放火し東大寺境内の方に火が迫る事件が再三起こった。
元文三年(1738)12月に、奈良奉行所は九折山に放火停止の立札を、山の枯れ草が青芝になる正月から三月まで立てた。
しかし、その後も放火事件が起こり、結局その犯人は検挙されぬまま、誰が焼くともなく焼かれるようになった。それは山上古墳の鶯陵に葬る霊魂を鎮めるそまびとの祭礼ともいうべきもので、供養の為でもあった。
なお俗説として春日・興福寺と東大寺の領地争いがもとだと伝わっている。
明治以降をみると、明治11年2月23日に行われ、現在のように夜間行事となったのは同33年2月17日です。(春日日記)戦前は、2月11日に行われ、昭和25年からは、成人の日であった1月15日に行われている。さらに、平成12年からは、「成人の日(1月の第二月曜日)」の前日の日曜日に行われている。
奈良時代の頃の若草山は、現在の春日山と同じような樹林であったが、鎌倉時代の建長7年(1255年)には農民が若草がよく生えるように新春に野焼きを行った記述があり、既に樹林はなく今の状態に近い草山だったと考えられる。
昭和20年頃の若草山は、誰でも自由に山の出入りができた。今みたいにすすきがほとんどなく、全面芝生に近い山で、ほんとうに若草山であった。それでも、山焼きの時は芝生のたけが10cmほどあったのでがよく燃えたそうだ。今みたいにススキほどの火の勢いはないが、徐々に燃え広がっていく光景は見事だったらしい。
〔鶯塚(うぐいすづか)古墳〕
若草山の山頂には5世紀頃築造された鶯塚古墳がある。全国的にも山の山頂に作られた古墳はめずらしい。南向きの前方後円墳で全長103m、前方部幅50m、後方部径約61m、の2段築成で、墳丘前方部の各所と後円部西側に円筒埴輪列が確認されている。又後方部の頂上に亨保十八年(1733年)に建てた「鶯陵」の碑がある。
奈良では、3月に入ると、二月堂のお水取り。久々に奈良に出かけてみようかとも思います。そうそう、吉野山の千本桜も見に行く予定です。