落語の世界も代替わりがあって、しばらく見ないうちに、当方がなじみの名跡もどんどん変わってしまいました。
桂文楽師匠。名人・先代の文楽師匠の落語は聴聞したことはありますが、当代(9代目)の師匠はかつて「ペヤング」のCMでなじみ深い、くらいの印象(申し訳ありませんが)。けっこう貫禄がついてきて、ビックリ。
先代と比較されてあれこれ批判もされたでしょうが、先代・「黒門町」をもう知る人も少なくなってきているので、安心して(堂々と)いきましょう。
《8代目桂文楽師匠の晩年》
高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた。
1971年(昭和46年)8月31日、国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった。
高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した8代目文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。
舞台袖で8代目文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った。明治の名人・3代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた。
以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。8代目文楽自身からの引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がることはなく、稽古すらしなくなった。ほどなく肝硬変で入院し同年12月12日逝去した。79歳没。
(この項「Wikipedia」より)
さらに、林家三平さん、林家木久蔵さんなど、本当に若くなって・・・、そのうち先代をしのぐ名落語家になっていく(ほしい)と。
昭和の爆笑王の息子としてのプレッシャーも大きいようですが。
9歳のときに、父の三平が死去したため、初代三平の弟子だった林屋こん平が惣領弟子となって初代三平一門を統率、こん平に直弟子として入門した。
林家木久扇師匠の息子さん。
柳家喬太郎さんの師匠、柳家さん喬師匠も登場です。
実家は都営地下鉄・本所吾妻橋駅を上がってすぐにあった洋食店「キッチンイナバ」(ハンバーグなどを食べに行ったことがありましたが、現在は、「東日本銀行」の大きな建物のため、廃店しました。)。
幼少のときから祖父や父に寄席や演芸場に連れていってもらうなど、落語に親しむ環境にあった。得意とする演目は『うどん屋』『井戸の茶碗』『笠碁』『猫の災難』『野ざらし』『片棒』『そば清』『百川』『棒鱈』『幾代餅』『天狗裁き』『柳田格之進』『芝浜』『締め込み』『初天神』『真田小僧』など。
つやのある声と柔らかな物腰で女性ファンも多く、江戸の四季を色あざやかに浮かび上がらせる情景描写や男女の心理描写に定評がある。(以上、「Wikipedia」より)
そして、春風亭一朝師匠。
五代目春風亭柳朝の総領弟子。師匠柳朝と同じく江戸前噺家である。またNHK大河ドラマ『龍馬伝』の江戸ことば指導も行なった。
柳朝の師匠八代目林家正蔵にとって最初の孫弟子である。実際に、最初に入門を願い出た先は彦六の門であり、面倒が見切れないということから、総領弟子柳朝に頼み、柳朝も快く引き受けたというエピソードがある。
総領弟子朝之助が六代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進する。2012年3月 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進する。
(この項「Wikipedia」より)
弟子の一之輔が人気者なので、師匠が霞んでしまうようですが、上記のように江戸前噺家らしい雰囲気を持ち、話しぶり、所作など通好みの落語家です。