この付近では、「荒川」沿いを国道140号線と並行して走ります。
長瀞駅に向かって進む。
時折、眼下に荒川の流れ。
対岸に「日本イスエード(株)」。
長瀞駅ではたくさん下車。その先の「荒川橋梁」で荒川の清流を眼下に。歩きでは河原から見上げました。秩父鉄道はここから荒川右岸沿いの河岸台地を終点の三峰口駅まで進んで行きます。
鉄橋からの荒川の流れ。
下の写真は、歩いたときの写真。ちょうど石灰岩を載せた貨物列車が通過中でした。
車内のポスターより。
橋梁の下から眺め、今回は上から眺め、と貴重な体験をしました。
瞬間的でしたが、孫達は長瀞の渓谷を見下ろしてビックリしていました。
荒川右岸の河岸台地。
「大野原」駅の手前、右手に大きな工場が。
大きなセメント工場。
秩父太平洋セメント 本社・工場。
石灰石の大鉱床として知られる武甲山のふもとの地に、秩父セメントが創業したのは1923年で元々の工場は秩父市の市街地に近いところにあったが、朝鮮戦争による特需を受け、生産力を増強するため、別の敷地に新しい工場を建てる計画が持ち上がる。
秩父セメント第2工場、現在の秩父太平洋セメント秩父工場の基本設計を会社が依頼したのは、当時、東工大教授だった谷口吉郎で、谷口はそれまでにも東京工業大学水力実験室(1932年)や慶應義塾の校舎(1949年)などの作品を手がけていたが、大学の卒業設計では「製鉄工場」を題材にしていた。それだけに本格的な工場設計の機会を得て、大いに意気込むが生産性の高さのほか安全と衛生の面からも優れ、しかも美しさを兼ね備えた、理想の工場を実現しようとしたという。実施設計には日建設計工務(現日建設計)が当たり、1956年に竣工した。
秩父セメントは1990年代に進んだセメント業界の再編により小野田セメント、日本セメントと次々と合併を果たし、太平洋セメントとなってさらに2000年に太平洋セメントの子会社として秩父太平洋セメントが設立され、この時ほぼ同時期に秩父セメントの第1工場が操業を停止。その結果、秩父セメント第2工場は現在、秩父太平洋セメント秩父工場と名前を変えている。
この工場施設は美しく分割された壁面、中央を貫く幅の広い通路、その両側に、圧倒的なボリュームで建築群が建ち並んでおり、第1期工事の建物に限ってみても、建築面積で1万坪(約3万3000m2) を超えて、巨大な建築だが絶妙なボリューム配分と、リズミカルに連続するボールト屋根の効果で、単調さを全く感じなくさせている。このほか特筆されるのが立面の美しさで、谷口作品に共通する縦に長い四角形のパターンで構成される端正なプロポーションによる壁面分割は、スチールサッシ、スレート、レンガ、コンクリート打ち放しなど、様々な素材を用いながら、外壁を覆い尽くしている。これだけ大規模な建築でありながら、このデザインの密度が隅から隅まで保たれているという。
(この項、「Wikipedia」参照)
圧倒的な存在感があります。