日本文学史序説 (上) 加藤 周一 著
「文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文学の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞い上がることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しく違う。」(p12)
日本文学史序説 (下) 加藤 周一 著
「本来此岸的で、超越的価値を含まず、集団への個人の高度の組込まれをを特徴とし、空間的には全体よりも部分を、時間的には過去・未来の完結性よりも現在を重視する日本の土着世界観は、・・・われわれが『日本文学史序説』においてみてきたように、また美学的領域や日常生活における行動様式の全体にもあらわれる。日本の文学史もまた、このような土着世界観の外部からの超越的世界観の挑戦、後者の内在化と同時にその世俗化・非超越化、その過程での多層的な表現の歴史として、叙述することができるのである。」(p510~511)
加藤氏流の「愛情なき辛口」が苦手で、自分の愛する作家が全否定されるのが耐えられないという人は、差し当たり、上巻の「日本文学の特徴について」(p9~46)と、下巻の「終章 戦後の状況」の「高度成長管理社会について」の前まで(p503~523)を読むといいのではないかと思う。
これで、加藤氏の言いたいことがほぼ分かると思うからである。
(余談だが、私見では、難解な法律書なども、目次と序章・終章を読むという、いわゆる「キセル読み」をすればある程度概要を掴むことが出来るように思う。)
それにしても、加藤氏が現在のマインドフルネスの考え方を知ったならば、どう評していただろうか?
「超越的世界への飛翔や過去・未来の完結性を拒絶・否定し、ひたすら『いま・ここ』に没入(只管打坐)すること(実質的には「思考停止」)を是としてきた日本ないし東洋の『土着的世界観』(「禅の精神」などと呼ばれることもある)が、あろうことか、資本主義の行き詰まりとプロテスタント的な世界観の動揺に苦しむ現在のアメリカにおいて、外来の「新商品」としてもてはやされているのである。」
などという言葉が出ていたのではないかと、私などはひそかに想像する。
「文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文学の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞い上がることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しく違う。」(p12)
日本文学史序説 (下) 加藤 周一 著
「本来此岸的で、超越的価値を含まず、集団への個人の高度の組込まれをを特徴とし、空間的には全体よりも部分を、時間的には過去・未来の完結性よりも現在を重視する日本の土着世界観は、・・・われわれが『日本文学史序説』においてみてきたように、また美学的領域や日常生活における行動様式の全体にもあらわれる。日本の文学史もまた、このような土着世界観の外部からの超越的世界観の挑戦、後者の内在化と同時にその世俗化・非超越化、その過程での多層的な表現の歴史として、叙述することができるのである。」(p510~511)
加藤氏流の「愛情なき辛口」が苦手で、自分の愛する作家が全否定されるのが耐えられないという人は、差し当たり、上巻の「日本文学の特徴について」(p9~46)と、下巻の「終章 戦後の状況」の「高度成長管理社会について」の前まで(p503~523)を読むといいのではないかと思う。
これで、加藤氏の言いたいことがほぼ分かると思うからである。
(余談だが、私見では、難解な法律書なども、目次と序章・終章を読むという、いわゆる「キセル読み」をすればある程度概要を掴むことが出来るように思う。)
それにしても、加藤氏が現在のマインドフルネスの考え方を知ったならば、どう評していただろうか?
「超越的世界への飛翔や過去・未来の完結性を拒絶・否定し、ひたすら『いま・ここ』に没入(只管打坐)すること(実質的には「思考停止」)を是としてきた日本ないし東洋の『土着的世界観』(「禅の精神」などと呼ばれることもある)が、あろうことか、資本主義の行き詰まりとプロテスタント的な世界観の動揺に苦しむ現在のアメリカにおいて、外来の「新商品」としてもてはやされているのである。」
などという言葉が出ていたのではないかと、私などはひそかに想像する。