(引き続きネタバレご注意!)
「これからも俺は、こんな風にお前の幽霊を見ることになるのだろうか?」
と語りかけるウィレムに対し、パウリはギターを奏でながら、ある歌をうたい始める。
マーク・アイツェル氏が作った”GO WHERE THE LOVE IS”(愛のあるところへ行け)という曲である(YouTubeで検索すると出て来る)。
アイツェル氏はこう語る。
「「Go Where the Love Is」のコーラスはくだけた話言葉。いわゆるありがちな決まり文句。・・・その音楽が、自分にとって何か意味があるのかもしれないということを、彼が不本意ながらも理解する、それが「彼方からのうた」であり、亡くなった弟からの最後の贈り物です。」(公演パンフレットより)
パウリが歌い終わると、今度はウィレムがこの曲の一節をつぶやくようにうたったところで、芝居の幕が下りる。
ところで、スティーブンス氏は、
「それにしても、絶対に読まないとわかっている相手に手紙を書くというのは不思議な行為だと思いませんか。」(公演パンフレットより)
と問いかける。
いかにも英国流の韜晦のようであるが、これがこの芝居の最大のポイントであることは疑いがない(余談だが、公演パンフレットを読むと、意外にもスティーブンス氏はマルチエンヌ(?)のセリフに肯定的な意味を持たせており、慎重に解釈すべき劇作家であると言う印象を受けた。)。
ウィレムは、「話がしたい」としきりに言っていた。
原文は見ていないが、この動詞はおそらく"talk"だろう。
”talk”という行為は、発せられるや否や直ちに減衰してしまう「音声」によって、その場にいる相手に特定のメッセージを伝える行為である。
「愛」の必要条件は、主体間の双方向的(インタラクティブ)な行為であることだが、相手が死んでいる場合、インタラクティブな"talk"は不可能である。
それでは、一体どうすればよいのだろうか?
その場に相手がいないのであれば、「書く」(write)こともやはり無効ではないか?
・・・いや、そうではない。
私見では、ここにスティーブンス氏&アイツェル氏の仕掛けたトリックがあると思う。
この芝居における「手紙」は、パウリに宛てられたという体裁をとっているものの、実際は観客に向けて朗読されるものであり、やはり”talk”の対象である。
ということは、作者は、この芝居において、作者またはその分身であるウィレム(ないし俳優さんたち)と観客との間のインタラクティブな営為を想定していると考えられるのである。
なので、先のスティーブン氏の問いかけは、
「この手紙(あるいは芝居)は、皆さんに対する私たちのメッセージなのですよ。皆さんはこれにどう答えますか?」
という風に理解することが出来る。
そして、大雑把に言うと、私たちが日常的に行っている"talk"または"write"という行為こそが、実は「愛」の中核を成しているというのが、そのメッセージだと考えられるのである。
実際、ウィレムは、「手紙」を書き続けることによってパウリの幽霊(ゴースト)を出現させ、「愛」の実現に成功した。
要するに、「愛」のハードルは、限りなく低かったのである。
のみならず、ウィレムは、「愛」を超えて「「歌」をうたう」境地にまで到達した。
では、この「歌」とは一体何だろうか?
思うに、これはかなり難しい。
アイツェル氏の言葉とパウリのセリフをヒントにすれば、「歌」をうたうということは、”talk”や”write”とは異なった、レフェランとの一義的な対応関係をもたない(したがって必ずしも特定のメッセージの伝達を目的としない)シニフィアンによる「自己目的的な営為」であるということになるだろうか?(もちろん、この種の問題に正解などあるわけがないのだが・・・)。
むむむ、「自己目的的な営為」と言えば、「歌」以外にも、「ダンス」というものが存在するではないか!
なので、私は、スティーブンス氏&アイツェル氏には、次は「彼方でのダンス」という芝居を作って欲しいと思うのである。