M.ラヴェル
「マ・メール・ロワ」
「ダフニスとクロエ」より 第2組曲
「マ・メール・ロワ」
「ダフニスとクロエ」より 第2組曲
G.フォーレ
「レクイエム」op.48
「レクイエム」op.48
<アンコール曲>
G.フォーレ
「ラシーヌ讃歌」
フランスの指揮者:ミシェル・プラッソンは、御年90歳。
これが日本でのラスト・コンサートとなる。
選曲はラヴェルとフォーレというフランス音楽の巨匠二人。
ラスト・コンサートで「レクイエム」というと、何だか「生前葬コンサート」のようで、小椋佳を想起させる。
もっとも、プラッソン氏は、終始笑みを絶やさず、上機嫌であった。
第6曲:Libera Me(私を解き放ってください)
私を解き放ってください、主よ、永遠の死から。
(中略)
永遠の安息を、与えてください、彼らに、主よ、
そして絶えることのない光が、輝きますように、彼らに。 |
私を解き放ってください、主よ、永遠の死から。
私見では、フォーレの「レクイエム」で特徴的なのは、この第6曲 リベラ・メ<私を解放してください>である。
最初と最後は、
「私を解き放ってください、主よ、永遠の死から。」
となっているものの、中間部では、
「永遠の安息を、与えてください、彼らに、主よ、」
などと、「彼ら」(死者)に救済としての「永遠の安息」を求める歌詞となっている。
このくだりからは、「私」は、最終的に「私」が永遠の死から解放してもらうため、神に対し、「彼ら」のために祈りを捧げているように読めるのだが、ここにプロテスタントとの大きな違いを感じるのである。
というのも、カルヴァンの予定説によれば、神による救済は、
「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」
したがって、「彼ら」のために「私」が救済を求めるというのは、意味がないどころか、神をもおそれぬ行為ということになるはずだからである。
もっとも、私はクリスチャンではないので、プロテスタントの人が「レクイエム」をどう解釈しているのかは分からない。
それはともあれ、ミシェル・プラッソンさん、ありがとうございました。