突然、弥六の前に、生前辰巳芸者であったゆうれいの染次が現れる。
染次は、ある男から請出しの約束を取り付けて正妻の座に収まるはずであったが、男の裏切りに遭い、捨てられてしまう。
男は、御家人の家に婿養子に入り、染次との約束を反故にしたのである。
このあたりも山本周五郎の風刺が効いている。
江戸時代の社会は、実は、完全に「絶望の社会」というわけではなく、大家の平作のように、チャンスを掴めば「不労所得」で生きていけるし、染次を裏切った男のように、「婿養子」の地位を得ればイエの当主になることも可能な世の中だったのである。
染次は、どうやら恨みの余り死んでしまったようであり、自分を捨てた男も、その男の妻になった女も、さらには男の家族も、みな憑り殺してしまったという。
もう憑り殺す相手はいなくなったのだが、身内の人間が供養してくれないので、成仏出来ないのである(というわけで、染次は恨みの余り命を失ってしまったので、この時点でポトラッチ・ポイントは5点)。
染次は、弥六がケンカの仲裁をする様子を見て惚れてしまい、「女房にしてくれ」と申し出る。
半信半疑の弥六は、染次の機嫌をとるために般若心経を唱えようとするが、なぜか唱えることが出来ない。
染次いわく、坊主がお経を読んでも効果はないが、
「身内の人間に読経されると成仏してしまう」
ため、染次が弥六を妨害していたのである。
私見だが、このセリフを絶対に見落としてはならないと思う。
古今東西、「血食」は"血を分けた子孫"、つまりゲノムの承継者が行なうものとされ、日本においても、
「血を分けた子孫によって祀られない霊は成仏出来ない」
という迷信が流布していた。
ところが、どうやら江戸時代のある時点までに、ゲノムの承継者でなくとも、同じイエの(つまり苗字が同じ)人間であれば、祭祀承継を行う資格が認められるようになったようだ(というか、これは、宗教の一種である『イエ』の確立とほぼ同義である)。
そのため、上に挙げた染次のセリフが出て来るのである。
配偶者はゲノムを共にしてはいないけれども、同じイエのメンバーだからである。
さて、染次の発案で、弥六はゆうれいたちを貸して賃料をとる商売を始めた。
またしても「不労所得」である。
この商売はかなり繁盛するが、ある時、仕事で失敗したゆうれいの又蔵が、
「浮世も金、あの世も金だが、生きていればこそ。もう沢山だ」
と呟くのを聞いて、弥六はようやく改心する。
弥六は、大家の平作に、「これからは一所懸命に働くので、自分と一緒に般若心経を唱えてくれ」と頼み、戻って来た妻にもこれまでのことを詫びる。
平作に一緒に般若心経を読んでもらって染次を成仏させ、お兼とやり直すことを誓ったところで幕となる。