「「乾船渠ってどこだい?」
「ここだよ」
山頂の低い崖のかげの、小体な洞穴の前に立つてリーダア格の少年が、微笑しながら洞穴を指さしてゐた。・・・
「ここが僕たちの乾ドック。山の上の乾ドック。ここでイカれた船を直したり、一度バラバラにして造り直したりするんだ」」(「全集9」p380)
「船」と言えば、「潮騒」(昭和29年)の終盤のくだりを思い出す人がいるかもしれない。
「潮騒」においても、「船」は象徴的な意味を帯びており、柴田勝二先生によれば「<日本人>とその精神の謂」であった(「三島由紀夫ー魅せられる精神」p153)。
こうした観点からすれば、上で引用した”首領”(くどいようだが三島の分身である)の言葉も、なかなか含蓄深いものに思えてくる。
つまり、殺害・解体されるのは、「大義」を忘れて経済成長に浮かれる当時の”<日本人>とその精神”だったのかもしれない。
さて、まだ観て/聴いていないオペラ版「午後の曳航」だが、私は、オペラ鑑賞が大好きだったニーチェ先生に観て/聴いてもらいたいと思う。
但し、私が予想するニーチェ先生の感想は、次のようなものである。
「このヘンツェというドイツの作曲家は、ワーグナーのエピゴーネンか?『カマリナ沼』をかき回しておるぞ!
それに、このミシマとかいう日本人の作家は、ディオニュソス信仰をまるで誤解しておるではないか!
こんなもののために”予習”をやるなんぞ、とんでもない!」