山田詠美「『二十四五』。・・・(中略)・・・私には、この作者の描く女たちの会話が、不思議ちゃんのやり取りとしか感じられなくて困惑するばかりなのである。比喩や擬人化も大仰で妙だ。<巻いたバスタオルが取り逃がしていた髪から水滴が落ちて、開いていたアプリを横並びの一覧にして見せた>とか、<人肌に温もったパイル地に裸の肩を湿っぽくはたかれて>とか。意味解んない。こういう表現をぜーんぶ取っぱらってみたら?うーん、ただのハートウォーミングになるかも。でも、シンプルなハートウォーミングほど、文学的に難しいチャレンジはない。」
平野啓一郎「名詞における記号と指示対象との紐帯の揺らぎから言語全体の崩壊が生じるホフマンスタールの短篇とは逆に、『字滑り』では、その紐帯を触覚や味覚によってフェティッシュに再確認することで、言語全体の回復が企図されているが、一点の腐食からビルが倒壊することはあっても、その一点を修繕することで倒壊したビルが元通りになることがないように、成り立たない話ではないかと疑問に感じた。」
存命中の日本の作家の小説について、私は、基本的に筒井康隆氏と池澤夏樹氏の作品しか読まない。
ただ、これが度を越してしまい、「食わず嫌い」で損をしていることもある。
例えば、吉本ばなな氏の「キッチン」などがそうで、後になって読んで傑作であることを痛感し、後悔することもある(台所からキッチンへ(16))。
やはり、「若い人々」の言動には注目すべきであり(若い人々と抑圧スパイラル)、たまには最新の芥川候補作品を読んでみる必要がありそうだ。
なお、受賞作品が必ずしも自分にフィットするとは限らないし、後述するように審査委員が”作品を潰す”こともあり得るので、候補作品も対象に入れるべきだろう。
とはいえ、じっくり読む時間は乏しいので、とりあえず「選評」を読んでみたのだが、これが実に面白い。
上で引用した「二十四五」についての山田詠美氏の選評には圧倒的な説得力があり、これだけで選に漏れた理由がだいたい分かる。
他方、「字滑り」に関する平野啓一郎氏の選評は、相当に疑わしい。
まず、「名詞における記号と指示対象との紐帯の揺らぎから言語全体の崩壊が生じるホフマンスタールの短篇」とあるが、ここからして既に怪しい。
しかも、この短篇は「名詞」に限定して「指示対象」との紐帯の揺らぎを述べたものではないから、これも疑問である。
次に、「一点の腐食からビルが倒壊することはあっても、その一点を修繕することで倒壊したビルが元通りになることがない」という主張はおかしい。
未読なのにこう言うのは気が引けるが、「字滑り」のテーマは、あくまで「言葉」とそれに基づく世界のレジリエンスであり、要するに人間の頭の中の出来事を問題としているのではないかと思われる。
だとすれば、平野氏が、牽強付会的に「名詞」(=「一点」)を腐食の出発点と設定した上で、「ビル」の譬えを持ち出したのは不適切であり、読む者に誤解を与える行為と言うべきだろう。
なぜなら、人間の頭の中であれば、壊れた「ビル」であろうが何であろうが、再構築することは可能だからである。