Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

安楽椅子派の聖地巡礼(11)

2023年11月05日 06時30分00秒 | Weblog
⑥ 杉田の乾船渠(乾ドック)

 終点の杉田で降りてから、少年たちが竜二を曳いて、どんどん山のはうの坂道へ向ふので、竜二は又面白さうにかう訊いた。
「おい、乾船渠が山にあるのか」
「さうさ。だつて東京ぢや、地下鉄が頭の上を走ってるもの」
「こいつは一本参つたな」
と竜二が参つてみせると、少年たちは図に乗つていつまでも笑つた。
 道は青砥の山ぞひに金沢区へ入つて行った。午後の冬空を煩瑣な碍子と電線の模様で区切る発電所の前をとほって、富岡隧道をくぐり抜けると、右方には山ぞひに京浜急行の線路が走り、左方には丘いつぱいに新しい明るい分譲地が展けてゐた。
「もうぢきだよ。その分譲地の間を上つてゆくの。ここはもと米軍用地だつたんだよ」
とわづかな間に、言葉までぞんざいになつたリーダア格の少年が、説明して先に立つた。」(p376) 

 小説の中で”処刑場”とされた「杉田の乾船渠」は、”リアル巡礼派”の方の調査によれば、現在の「富岡総合公園 北台展望台」(金沢区東富岡二丁目9番、地番では2172番14)ということである(自転車文学紀行 〜三島由紀夫『午後の曳航』の舞台をゆく)。
 またも私は、「安楽椅子」に座ったまま、分筆前の「2172番」の閉鎖用紙の謄本を手に取ってみた。
 すると、一番古い表題部の記載は「昭和九年九月拾七日 登記簿・・・ヨリ移ス」となっており、更に古い登記情報があったけれども現存していないようである。
 他方、「甲」区欄を見ると、壱番には「明治弐拾四年七月拾六日登記 O.K.(個人名につきイニシャル表記とした)ノ為・・・家督相続願書二因ル所有権取得ヲ登記ス」とあり、もとは私有地であったことが分かる。
 続く弐番以下は、昭和9年8月から昭和10年1月にかけての「海軍省」による所有権取得と「合併」(土地の合筆)の登記が続いており、最後は「所有権登記 所有者 海軍省 昭和参拾九年法律第十八号附則第四項により 昭和50年参月壱日登記」となっている。
 この「昭和参拾九年法律第十八号附則第四項」だが、不動産登記法の改正に伴い、合筆後も所有者が同一であった土地について、職権で受付年月日・受付番号のない「所有権登記」 を行うための根拠規定ということのようだ(昭和39年法律第18号附則第4項って何だ??)。
 以上の情報とWikipediaの情報をまとめると、もともと私有地であったのを海軍省が購入して横浜海軍航空隊の基地とした(なので、「乾船渠」があってもおかしくない。)。
 その後、敗戦で(登記情報には出てこないが)米軍が接収し「富岡倉庫地区」となっていたのが1971年(昭和46年)に返還され、横浜市が公園用地として取得する前提として、「海軍省」による所有権登記がなされたのではないかと思われる。
 ここで気になるのは、小説に出て来る、
 「「パニッシャブルつてなあに?」・・・
「罰せられる、つてことさ」
さう?もう今は、米軍用地ぢやないから、何をしたつていいんだね。あ!」(「全集9」p377~378)
という、”首領”と竜二とのやり取りである。
 どうやら、米軍による正式な返還より前(遅くとも昭和37年時点)に、既に米軍用地としては使用されておらず、一般人が立ち入っていたということのようである。
 このあたりは、権利関係についての三島の勘違いがありそうだが、とはいえ、「形式上は米軍の管理地だが、立ち入っても罰せられない領域」というのは、”処刑”が行われる場所としてはいかにもふさわしいように思う。


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