船岩さんの演出でみごとだと思ったのは、各作品の冒頭シーンの設定である。
・「オイディプス王」・・・揺りかごの中の赤ん坊(オイディプス)とそれをあやす母親(イオカステ)
・「コロノスのオイディプス」・・・車いすに乗った父ないし兄(オイディプス)とそれを介護する娘ないし妹(アンティゴネ)
・「アンティゴネ」・・・二人の兄(エテオクレスとポリュネイケス)の遺骸と、それを見つめる妹(アンティゴネ)
という風に、いきなり静止状態にある「身体」、あるいは「死体」を観客に見せつけるのである。
これは、「アイアース」、「アンティゴネ」、「コロノスのオイディプス」などにおいて、ソフォクレスが繰り返し取り上げてきた「「埋葬」の意義」というテーマを浮き彫りにするものではないかと感じた。
ソポクレスには、「身体(corpus)」(の一義性)こそが、人間の自由を保障する切り札だと考えていたフシがみられるのである。
さて、そうは言っても、船岩さんの脚本が完璧かと言えば、私見では、必ずしもそうではないと思う。
「アンティゴネ」については、以下の2つを問題点として挙げてみる。
① 「いえ、けして、私は、憎しみを頒けるのではなく、愛を頒けると生れついたもの。」(「ギリシア悲劇2 ソポクレス」ソポクレス著、松平千秋訳p176)
これは、「愛」こそがアンティゴネを駆動していることを完璧に表現したものであり、劇中最重要のセリフである。
このセリフが無ければ、この劇は成り立たないと言ってよい。
ところが、私の記憶が正しいとすれば、今回の演出ではこのセリフは出て来なかったと思う(万一違っていたら、ゴメンナサイ!)。
もしそうだとしたら、これはちょっと考えられないことである。
例えて言うならば、「葵上」を歌舞伎化した際、「車争い」のビジュアル表現をオミットしてしまった歌舞伎座(10月のポトラッチ・カウント(6))のようなものではなかろうか?
② 「夫ならば、よしんば死んでしまったにしろ、また代りも見つけられます。また子供にしろ、その人の子をなくしたって、他の人から生みもできましょう。ところが両親ともに、二人ながらあの世へ去ってしまったうえは、もう兄弟というものは、一人だっても生まれるはずがありませんもの。」(前掲p196)
このセリフも、ひとりひとりの人間の「交換不可能性」を指摘する重要なセリフであるが、今回の演出では、
「(ポリュネイケスは)かけがえのない家族だから・・・」(記憶に基づく再現なので、不正確かもしれない)
というフレーズになっており、アンティゴネの主張が不鮮明になってしまっている。
・・・というわけで、「アンティゴネ」においては、クレオンの誤った政治的決定のために、息子(ハイモン)と妻(エウリュディケー)の2人が自殺したので、この2人のポトラッチ・ポイントは10.0(=5.0×2人)。
これに対し、アンティゴネは、ポリュネイケスとの(生死を超えた)連帯を築くこと、つまり「愛」を実現するために自らの命を捧げたが、これによってあらゆるポトラッチ及びその根底にあるレシプロシテ原理を完膚なきまでにブチ壊した。
したがって、彼女のポトラッチ・ポイントはマイナス(▲)100.0!と認定する。
以上を合計すると、「アンティゴネ」のポトラッチ・ポイントは、マイナス(▲)90.0。