歌舞伎座・3月大歌舞伎の第二部(夜の部)は、「伊勢音頭恋寝刃」の全3幕の通しと、舞踊「喜撰」であるが、法学的・社会学的観点から分析となるのは前者である。
思わぬ縁切り
「貢とお鹿に問い詰められても、そこは百戦錬磨の古だぬきで、万野はのらりくらりと嘘をならべ、逆に貢に恥をかかせる。しかも奥から現れたお紺までが、お鹿を呼んだ不実をなじり、満座の中で貢と縁を切ると言い出す。思いもよらぬお紺の愛想づかし。お鹿と万野にさんざんに追い詰められた貢は逆上する。重なる恥辱を必死にこらえて、貢は喜助から預けた刀を受け取り、油屋を出てゆく。」
実際にあった事件を基にして作られた演目。
ネットでは、「2月の『籠釣瓶』に続く”愛想尽かしと妖刀シリーズ”」という評が出ていたが、なるほど、「籠釣瓶」(2月のポトラッチ・カウント(3))とストーリーが良く似ている。
ちょっとややこしいが、
・「籠釣瓶」 事件発生:享保年間(1716~1735)、初演:1888
・「伊勢音頭」 事件発生・初演とも1796
ということで、「籠釣瓶」の方がだいぶ先に起きた事件で、「伊勢音頭」の作者も当然これを参考にしているだろう。
だが、気の毒なことに、「籠釣瓶」の完成度の高さとは比較にならないほどインパクトが弱いのは、実話を大きく改変してしまったことによるものではないだろうか?
やはり、実話に近い筋立ての「籠釣瓶」の方が、インパクトが強いのである。
「伊勢音頭」のストーリーを弱くしたのは、実話には出て来ないであろう「青江下坂(妖刀)と折紙(鑑定書)」のすり替え・だまし取りの筋書きである。
刀の真贋を「折紙」(おりかみ)という紙切れ一枚で判定してしまうという思考は、おそらく西欧・北米の文化では理解不能だろう(こうしたところに「クリティックの欠如」を見てしまうのはちょっと飛躍かもしれないが・・・)。
私見では、西欧・北米の人たちからは、「どうして真贋を『フォルム』で判定しないのだ?」というお叱りが飛んでくるはずであり、実際、私の前列に坐っていた外国人の方たちは、2幕が終わった時点で一斉に帰ってしまった。
さて、「万座で恥をかかされる」主人公の貢は、まず彼に恥をかかせた仲居の万野を、次いで首謀者である岩次と北六を「青江下坂」で叩き斬る。
このエンディングは、「十人斬り」と呼ばれているらしいが、私が見た限り、殺されたのはこの3人のほか、お鹿と男3人の計7人だった。
お鹿と男3人は巻き添えになったという印象である。
なので、純粋に「万座の恥」の代償として命を奪われたのは、万野、岩次と北六の3人だけと認定する。
以上を総合すると、「伊勢音頭恋寝刃」のポトラッチ・カウントは、15.0(★★★★★★★★★★★★★★★ )となる。
というわけで、3月のポトラッチ・カウント(と言っても、国立劇場の文楽、「メディア/イアソン」と歌舞伎座の演目について)は、45.0という数字となった。
さて、4月はどうなりますことやら?
・・・と思いきや、今日は歌舞伎座・4月大歌舞伎の初日なのだった。