「それでは、この授業全体のポイントになる、法の話をしたいと思います。法は、必ず主体を概念します。なにか、ものを持つにしても何にしても、一つの主体というものがあるわけね。われわれは一人ひとりが主体である。この主体が自転車を持つ。自転車は客体だ。
しかし中でもこの主体[黒板を指す]は、複合的な構造を持っている。アントニオ、ブルーノ、そして自転車、という形をしている。そうすると主体とそれに属する物の関係はとってもやさしくなる。なぜかというと、主体の側が、アントニオとブルーノというようにそれ自体複合的になっていて、ブルーノはアントニオにとってとても大事だ。そしてアントニオはそのブルーノを通じて自転車と関係を持っている。ということは、例えば、面白くないことがあって自転車に八つ当たりしてぶっ壊す、なんてことはできないよね。ブルーノが傷つく。だかこそ当のそのブルーノをぶつなんぞは最低だ。そういう心理になるとどうしても自転車をとったりとられたり、粗末にし始める。」
「ある人がある物と関わっている、そこにどういう質があるか、ということに非常に意を用います。二人の人がある物に関わろうと争っているとき、ほかにどんな事情があろうとも高い質があるほうが勝ち、というプラスマイナスの価値づけをしていきます。しかも1対0の白黒をはっきりさせる。プラスのほう、1のほう、その人に占有がある、という言い方をします。現在という一瞬で切って、前後の事情を捨象して、ある人がある物をとってもいい状態で保持している、これが占有です。」(p119~121)
映画「自転車泥棒」についての解説の中で、「占有」の概念が平易な言葉で説明されている。
「客体」は、自転車に限らず、テリトリーであることもある。
例えば、ウクライナの領土内に「緩衝地帯」をつくるという思考(ロシア ウクライナ領土内に緩衝地帯つくる考えを一方的に示唆)を例にとると分かりやすいが、これでロシアに「占有」が認められるはずがない。
当該地域の住民は、そこを「緩衝地帯」などではなく、「住む場所」として「とってもいい状態で保持している」からである。
ところで、「客体」(animusを持たないもの)との関係が「とってもいい状態」と言うのを超えて、異常なレベルに達しているケースもある。
すぐ思いつくのは、「コッペリア」に出て来るコッペリウス博士である。
彼は、フランツに眠り薬を混ぜたワインを飲ませ、酔っ払った彼から命を抜いて自信作の人形、コッペリアに吹き込もうとする。
つまり、コッペリアという「客体」に animus を吹き込んで、「主体」化をもくろむ。
こうなると、通常の「占有」とは次元の違う話になってしまう。
私見では、プーチンもコッペリウス博士と似たような思考の持ち主で、ウクライナの領土に「永遠に無垢な・・・『ロシアの魂』」を見出してしまっているのではないかと疑われる。
この思考のために、ウクライナの住民がフランツのような目に遭っているのではないだろうか?
改めて、戦争で亡くなった方たちに合掌。