プロコフィエフ:交響的協奏曲 ホ短調 作品125
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」から“ゴパック” “剣の舞” “アイシャの踊り”“バラの乙女の踊り” “子守歌” “レズギンカ”
ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」から“ゴパック” “剣の舞” “アイシャの踊り”“バラの乙女の踊り” “子守歌” “レズギンカ”
ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)
「セルバンテス著「ドン・キホーテ」のエピソードを原作にした、楽しさと活気にあふれた古典バレエ。床屋のバジルと町娘キトリの恋物語が、様々なエピソードと踊りに彩られて、陽気に賑わうバルセロナの町に繰り広げられます。」
オペラ、映画やテレビドラマなどでもそうだが、「音楽は素晴らしいのに、ストーリーがダメ」という作品が結構ある。
バレエ音楽の場合、これにコリオも加わるので、「音楽とコリオは素晴らしいのに、ストーリーがダメ」というのが出て来る。
いずれにせよ、ストーリーがダメなら、芸術作品としての全体的な価値は損なわれることになる。
私は、この2作品の全部を観た/聴いたわけではない。
だが、まず前者については、ウィキペディアの以下の説明を見ただけで、今日では再演不可の作品であることが分かる。
「コルホーズの会長であるオヴァネスの娘である主人公ガイーヌは、地質学的な秘密を発見しようとしてソビエト軍の領地に密かに侵入しようとする不審者を捕らえる手伝いをしている。そんな中、情愛あるガイーヌは友人である若きアルメンの手伝いにやってくる。アルメンのライバルであるギコは心ならずも敵の手伝いに人生を費やす。しかし最後にはすべてが丸く収まり、バレエのフィナーレは人々の友情と、ソビエト連邦の国々を祝福して終わる。」
次に、後者(但し、バレエ=リュス版)についても、ウィキペディアの以下の説明を見る限り、ストーリーが単純すぎる、というか「オデュッセイア」のキュクロプスのくだりのパクリであり、大人の鑑賞には堪えないだろう。
「イワン王子は、火の鳥を追っているうちに夜になり、カスチェイの魔法の庭に迷いこむ。黄金のリンゴの木のところに火の鳥がいるのを王子は見つけて捕らえる。火の鳥が懇願するので解放するが、そのときに火の鳥の魔法の羽を手に入れる。次に王子は13人の乙女にあい、そのひとりと恋に落ちるが、彼女はカスチェイの魔法によって囚われの身となっていた王女(ツァレヴナ)だった。夜が明けるとともにカスチェイたちが戻ってきて、イワン王子はカスチェイの手下に捕らえられ、魔法で石に変えられようとする。絶体絶命の王子が魔法の羽を振ると、火の鳥が再び現れて、カスチェイの命が卵の中にあることを王子につげる。王子が卵を破壊したためにカスチェイは滅び、石にされた人々は元に戻り、王子と王女は結ばれる。」
カスチェイの「卵」=キュクロプスの「眼」というのが種明かしである。
とはいえ、「ガイーヌ」(特に有名な「剣の舞」)も「火の鳥」(特に「終曲」)も、音楽自体は申し分なく素晴らしい。
以上の2作品に対し、同じロシアン・バレエの「ドン・キホーテ」は、レオン・ミンクスの音楽と、コミカルにアレンジされたストーリーとがうまくマッチしている、というか”ちょうどよい”と感じる。
音楽と内容の軽さ・明るさが、ほぼ均等なのである。
これが仮に、音楽をリヒャルト・シュトラウスが担当したとすれば、こういう軽やかな幸福感溢れる作品にはならないだろう。