チャイコフスキー/幻想曲『テンペスト』
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲*
チャイコフスキー/幻想序曲『ハムレット』
チャイコフスキー/幻想序曲『ロメオとジュリエット』
(チャイコフスキー没後130年)
チャイコフスキー/ロココの主題による変奏曲*
チャイコフスキー/幻想序曲『ハムレット』
チャイコフスキー/幻想序曲『ロメオとジュリエット』
(チャイコフスキー没後130年)
オール・チャイコフスキーのプログラムで、「ロココの主題による変奏曲」(これはチャイコフスキーらしからぬ爽やかな後味の曲)を除けば、シェイクスピアの戯曲が基になっている。
「テンペスト」は原作がハッピー・エンドなので陰鬱にはならず、「ロメオとジュリエット」はある意味では結ばれるので、音楽も救済を感じさせるエンディングとなっていて、少しほっとする。
だが、「ハムレット」には、救いが全くない。
(おなじみ)ロバート・マーコウさんの解説も、
”Tchaikovsky's Hamlet, like Shakespear's, closes with a grim funeral march for the dead prince”
(チャイコフスキーの「ハムレット」も、シェイクスピアのそれと同じく、死せる王子の為の陰鬱な葬送行進曲で幕を閉じる。)
となっている。
確かに、「ハムレット」は、シェイクスピア悲劇の中では最も絶望的な筋書きであり、「悲劇中の悲劇」と呼ぶにふさわしい。
「マクベス」は完全に自業自得であり、「オセロー」も本人に一定の落ち度があるのだが、ハムレットには全く落ち度がないにもかかわらず、最初から地獄のような状況に置かれてしまう。
一番のポイントは、ハムレットの母が、叔父を夫として受け入れてしまうところであり、夫を「交換可能な存在」と見なしているところだろう。
アンティゴネー「夫ならば、たとえ死んでも別の夫が得られよう。
子にしても、よし失ったとて、別の男から授かれよう。
しかし、母も父も冥界にお隠れになった今となっては、
また生まれ来る兄弟などありえぬのです。」(p85)
このセリフの重点はもちろん後段にあるのだが、前段の第一文
「夫ならば、たとえ死んでも別の夫が得られよう。」
を、ハムレットの母は実践したわけである。
次に来るのは、
「子にしても、よし失ったとて、別の男から授かれよう。」
であり、ハムレット自身が「交換可能な存在」にされかけている。
こうした状況では、普通の人間なら、状況を受け容れて発狂してしまうか(実際ハムレットは「発狂したフリ」をしたわけだが)、死ぬ覚悟で状況を破壊するか、しかないと思う。
”To be or not to be, that is the question”
というセリフが、自然に出て来るわけである。