「《土曜夜新国立「尺には尺を」を観た人から、堪りかねて通報。客席の元都知事が、傍若無人、足は投げ出す、お菓子の紙はチリチリポリポリが止まず、老婦人が制してやっとやめたとのこと。「おもてなし」とかチャンチャラおかしい縁なき衆生の醜態》」
この人物は、M氏が”アリバイ声明”を出したことから、消去法でI氏に確定したようだ。
さて、大物(元)政治家、有名人、同業者などが訪れた「尺には尺を」を、私は2回観た。
というのも、終盤の神憑り的なセリフの応酬やヴィンセンシオ役の木下浩之さんとイザベラ役のソニンさんの演技を、もう一度味わいたいと思ったからである。
2回観て、やはりシェイクスピア劇はセリフが命であり、命を与えるのは何よりも「声」であることを痛感した。
小田島先生の翻訳について言えば、私は以前からかなり不満を抱いており(翻訳劇と生きたセリフ)、「尺には尺を」でも、例えば、
・放らつ無頼の徒が正義を足蹴にし、(p27)
・慈悲もつねに温顔を見せておると慈悲ではなくなる(p51)
・国家の礎石たる法律の束縛から兄上を解き放つことが・・・(p75)
・あるのはその二つを夢見る午睡(ごすい)だけだ(p84)
などといった、日常会話ではまず登場しないであろう単語が鏤められている(今どきの若者は、「ゴスイ」などという音声を聴いて、セリフを理解してくれるのだろうか?)。
だが、役者さんたち(とりわけ木下さんとソニンさんと中嶋朋子さん)は、心のこもった「声」によって、セリフに命を吹きこんでいる。
なので、少し不自然な日本語もさほど不自然には聞えない(とはいえ、さすがに「ゴスイ」の発音のときは、木下さん自身も違和感を覚えているように感じた。ここは原文から離れても、絶対に「眠り」か「まどろみ」とすべきところだ。)。
ストーリーについて言えば、2回観てみると、印象が変わった。
アンジェロが”極悪人”には見えなくなる、つまり、弱さを併せ持つ普通の人間に近く見えてくるのと、”他者を操作しようとする”ヴィンセンシオの「腹黒さ」が際立ってくるのが面白い。
ヴィンセンシオは、人間不信の塊であり、周囲の人間に事態の真相を最後まで教えず、その反応を観察して、信用に値する人間かどうかを判断しているように見える(人に騙された経験が多くありそうだ。)。
こういう人物が日常生活で近くにいると、非常に厄介だろう。
さて、「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」には、「ベッド・トリック」(ベッドをともにする女性が別人に入れ替わる)という共通点があるわけだが、こんな風に交互上演されると、シェイクスピアがちょっと気の毒になる。
というのは、「終わりよければすべてよし」は出来があまりよろしくないこと(50点くらい?)と、これに対して「尺には尺を」は上出来であること(75点くらい?)が、ハッキリ分かってしまうからだ。
(実際、「終わりよければ・・・」の本筋は、ストーリーが不自然であるため、当初からあまり評判は良くなかったらしい。)
ちなみに、この点数は、「テンペスト」を100点として、私が独断と偏見で付けたものであるが、大きく間違ってはいないと思う。
天才シェイクスピアも、作品に出来不出来はあるのだ。