パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

フルトヴェングラーのこと

2025年04月04日 09時45分37秒 | あれこれ考えること

芸術至上主義だったベルリン・フィルの指揮者フルトヴェングラー
(カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者)
戦時中もヒトラーの前で演奏をするなど、常識的な判断力を持つ人からすれば
政治音痴としか見えない
そのために彼は戦争犯罪人の疑いで指揮活動を制限されたが
ユダヤ人の演奏家の証言等で無罪が確定し演奏活動が可能になった

つい連想してしまうのが現在ゲルギエフがプーチンを擁護しているために
世界中の音楽シーンから外されていること
ただし、ゲルギエフの様子とか考え方は現時点で一向にわからない
彼もフルトヴェングラーのように芸術至上主義だったとするならば
時代のめぐり合わせが悪いというか運がないとも言える

ゲルギエフの指揮は名古屋で生演奏を聴いたことがある
ショスタコーヴィチの5番の交響曲で、これは本当に良かった
爪楊枝みたいな指揮棒を持ってオーケストラ全体をまとめたそれは
とても魅力的な音色だった

ところでYoutubeでこんな動画を見つけた

フルトヴェングラーの肖像

世の中の分断はここでもあった
トスカニーニ、トーマス・マン等の芸術家からの批判、ユダヤ人からの批判
フルトヴェングラーだけでなく、ヒトラーが好んだヴァーグナーに対しても
その作品を演奏することはユダヤ人の中に意見が分かれていた

実はこの動画で一番興味深かったのはフルトヴェングラーのことではなく
フルトヴェングラーに才能を認められ若くして演奏活動を行った
ユダヤ人系の指揮者バレンボイムのエピソードだ
彼はイスラエルの地での演奏会を一通り終えたあと
最後にヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を演奏しようと思うが
演奏するしないは観客で決めてくれと提案したのだった

ユダヤ人にとってはヴァーグナーは憎むべき音楽との評価があった
だが同時に音楽自体は無関係だとする人たちもいて
この演奏すべきか否かについては会場で30分以上も討論が続いた
結局は演奏反対の人が会場から出て、聴きたい人たちの前で
ヴァーグナーの音楽は戦後始めて演奏されたようだ

そして新聞の片隅にあったこのニュースは、自分はよく覚えていた
それは、バレンボイムはよくやった!という評価で

ところで演奏は演奏家の心情を表すものと実感したことがある
それはフルトヴェングラーの戦時中の「コリオラン序曲」の演奏で
冒頭の音の悲劇的というか苦悩のこもった音は聴いている方が辛くなるものだった
だから、この演奏は何度も聴く気にはなれないでいる(あまりにも辛すぎて)
ドイツ人のため、芸術至上主義というものの生身のフルトヴェングラーは
とんでもなく悩んでいたと感じることができる気がする

現代の世の中はフルトヴェングラーが求めた
目には見えないが確かに存在する価値ある何かを求める行為というのは
経済性とか市場性とか効率の一言で無視されそうな気がしているが
それではなんかつまらないし、それで良いのかとも思えてならない


12年前にハイデルベルクのフルトヴェングラーのお墓参りに行ったが
彼は鳥の声による音楽に包まれていた

コメント
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