パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

そんな機能は必要ない(自分的には)

2019年09月30日 19時24分41秒 | 徒然なるままに

昨日、車のリコールで整備中は代車に乗った
乗る前にいろいろ使い方を教えてもらった

ドアはキーを持っていれば、ドアノブにこうして触れるだけで開きます
エンジンはブレーキを踏んでボタンを押せば、、、
最近の車に乗ってるすれば人らすれば当たり前のようなことだが
自分のは4年前でハイグレードではないので、こうしたことがとても珍しい

実は珍しいというのんびりした感覚より、知らず知らずイライラしてきたが正直なところ
エンジンがボタンを押してスタートするのは、どうも実感がない(物足りない)
サイドブレーキも物理的にぐいっと引かないとかかってる気がしない
エアコンもいろんなボタンやらがあって直感的にどう調整するかわからない

徐々に便利になっているのだろうが、なんだかついていけない
基本的なところはアナログで結構
キーでエンジンをかけ、サイドブレーキはちゃんと引っ張る
ドアはやはりキーで開ける、、モーター依存のシステムよりシンプルな方が
緊急事態には良さそうな気が、、

そういえばパソコンのOSもだいぶ前のままだ
音楽も相変わらずレコードで聴いているし
古いものを愛好しているのではなく、それで充分だからだ
聴いてる音楽も古い(クラシック、ロックも今のものではない)

今更最新のモノを手にして、自分を表現する様な歳ではないので
気に入ったものを自分のペースで、自分は自分で結構

ということで、昨日は最近の車にケチをつけてしまった
(なれてしまえばどうってこと無いし、便利さを感じただろうが)

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アビイ・ロード 50周年記念LPが届いた

2019年09月28日 09時26分27秒 | 音楽

現在はイギリスの観光地の一つとなっていて、そこに行けばみんなが同じように
横断歩道を歩いているシーンを思い出として写真に撮りたがるのが「アビイ・ロード」
有名になったきっかけがビートルズの実質的に最後のアルバム{アビイ・ロード」だが
この有名な写真には別の写真がある(当然カメラマンは何枚も撮影しただろう)

普段とは違う写真をアルバムジャケットとしたレコードが昨日届いた
「アビーロード50周年記念 3LPデラックス・エディション」で、来るのが楽しみだった
この企画(50周年企画)は他にCDのものや、それにブルーレイがついたものやいろんな種類のものが
あったが、自分はブルーレイの装置は持っていないし、CDの音質は音に不満があるのでレコードの方をを選んだ

厚いボックス仕様になっていて、この中には二種類の写真による紙のジャケットがおさめられている

興味深いのが見慣れた写真ではない方


反対向きに歩いて、後ろの三人が少し詰まった感じがしてるから本番で使われなかったのは理解できる

この紙ジャケットには2枚のレコードがおさめられており、その内容は下の画像でセッションズと印刷されたもの

早速聴いたのはこちらの方
これがとても面白かった
普段聞いている音楽とは違って、未完成のトゲトゲしたところがあって、それゆえに生々しい
この音楽にいろいろ音をかぶせて完成形にもっていくのだが、少し驚いたのは音を追加している
ばかりでは無かったことで、完成形には採用されなかった音もあった

流石に販売されているバージョンのほうが完成度が高い
オー・ダーリンは圧倒的にしゃがれ声の歌唱の方がいい
だがカム・トゥゲザーはこのバージョンのほうが生々しくて良いような気がした
普段聞いているのと比べてこの音が足りない、、とか、このコーラスは要らないな、、とか
まるで自分が制作の場面に立ち会っているようで、自分ならこうするのに、、とか
勝手なことを思いながら幸せな時間を過ごした

音を追加して全く成功しているのは、キャリー・ザット・ウェイトをみんなで歌うところ
一人で歌うより大勢のほうが圧倒的に良い
そしてあのメドレーで「ユウ・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」のメロディが回帰するとことは
ブラスの高らかな演奏がある方が圧倒的に効果的

アビイ・ロードの魅力はB面のメドレーだが、ここに収められた「ザ・ロング・ワン」には少しばかり驚かされた
なんと完成形ではジ・エンドが終わったあと、数秒間の無音のあと「ハー・マジェスティ」がおまけのようについて
それがシンプルで短いが故に余韻のようなものを(ビートルズの才気も)感じるが
このザ・ロング・ワンは「ハー・マジェスティ」がなんと「ミーン・ミスター・マスタード」のあとに入っている
聞き慣れていないので変な感じで、完成形の方になったのは必然と思われたが、不意にこの真ん中に入るのは
ブルックナーの交響曲の突然の挿入句のような気がして、慣れればそれなりに楽しめるのかもしれないとも感じた

50年前のアルバム、、しかもその時のビートルズのメンバーの年齢(28歳から30歳くらい)を考えると、
その年令で到達した美意識とか判断力というものが、凄まじいもので1つの奇跡のような気がしている

これでアビイ・ロードのレコードは3枚所有することになった
一枚は普通のレコードショップで購入したもの
二枚目はマニアには有名な名古屋の小池レコードで求めたもの
そして今回のものだ

それにしても、このアルバムはすごいな
初めて聴いた時の興奮を今でも覚えている
ある正月にビートルズをあまり知らない甥っ子にこのB面を通して聞かせたことがあったが
そのとき彼から出てきた言葉は「すごい!」だった

しばらくは別セッションの音楽を楽しむことにしよう




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ボランティア頼みでは済まされない

2019年09月27日 08時45分02秒 | あれこれ考えること

東京オリンピックにはボランティアが不可欠なようだが
ボランティア依存が高すぎるのではないかとか
いくらなんでもボランティアの方々への対応が
関係者の厚遇に比べてひどいのではないのかとの声があがっている
これは我が市とは遠く離れた東京の出来事で
申し訳ないが切実感をもって感じるまでは至っていない

ところがいくらなんでもボランティア依存で済まされることではないだろう
と思われることが、我市でも存在する
一年ほど前から知人に誘われて、外国出身の小学生の勉強の面倒を見ている
火曜日は1.2年生、木曜日は3.4.5.6年で新城小の入り口の小さな建物の中で行っている
(子どもたちの勉強を見るのは数人のボランティア)
日本の全体的な傾向通り、子どもたちの構成はブラジル人が多い
ネパールからの子もいるが現在のところほとんどが南米系の子たちだ

手伝いをして驚きを覚えるのが、そしてふつふつと怒りを覚えるのは
子どもたちの現在の日本語能力に関する未熟さと、それに対する大人たち(行政)の無関心さだ

残念ながら子どもたちの日本語能力は全体的に高くない
確かに個人差はあるが、よくデキる子のほうが例外で大半の子どもは
漢字も熟語も助数詞も発音(小さな「つ」の文字が入る場合とか)も
すんなりできてはいない
特に低学年の子の中には普段の会話にも手こずりそうな子がいる
彼は今年の七夕の短冊に「もと にほんごが じょうずにになりたい」と書いた
彼は会うたびに「今日、僕教えて」と声をかけてくる
その表情はに、弱いものを守らねば、、との気にさせられる
自分は一緒に書いた七夕の短冊には「ちびさんが おりこうさんに なりますように」と書いた
でもそれが子どもというものだろうが、本番の勉強の時間になるとは集中できず隣のこと無駄話をしてしまう

全体的に落ち着きのない勉強風景となるが、その原因は彼らの性格にあるのか?
と考えると、少し違うのではないかとの考えが浮かぶ
彼らは「よくわからないことを、わからないまま、強いられている」のではないのか
そんな気がしている
しっかり勉強しなければいけないと言われても、自分たちが何をしているのかわからない
そんな状態で無理やり勉強をしているのではないのか、、と
もしそうだったら、、、辛いだろうな、、と思う

彼らが宿題と称して漢字の書き取りをすることがある
マス目には漢字、熟語が書かれており、埋まったページは赤い丸の評価がなされている
その丸のページと同じものを次のページに書くのだが、これが驚く
2字熟語を書く場合、右に読み仮名を入れるのだが、子どもはまず一文字書いて読み仮名を書いて
また一文字書いて、読み仮名を書く(熟語として認識していない、、ただの文字の羅列としかみていないようだ)
もっとひどい場合は、文字を縦に書くのではなく、右から左へ文字を埋めていったこともあった
時々、書かれている熟語の意味わかる?と聞いてみると、返ってくるのは「わからない」のことば
丸の評価はされていても彼らは何もわかっていない
自分たちは機械的にページを埋めたり計算しているだけ、、、
それを楽しいと思えることは、絶対にないと思われる

このように勉強を手伝ってみると、この子たちの将来がとても心配になる
と同時に彼らを取り巻く環境が如何に非人間的なものとなっているのかと怒りを覚える
そして現在ボランティアで賄っているこの勉強の手伝いが、無いよりはましというものの
果たして間に合うのだろうか、、と、とても不安になる

ボランティアの方々は、手伝いをすればするほど同じ様な考えに至る
それは先生方は、もう少し彼らのことをよく見て欲しい、、ということだ
彼らを一人の人間としてとらえて、ルーティンワークで済まさないで欲しい
先生方が仮に忙しすぎて目が届かないのなら、それに代わる別の人を用意するべきではないのか
一応、市はそのような対策をとっているようだ
しかしその人は一人、しかも週に数回?
正直なところこれじゃ絶対足りない

このような手伝いのできる人(資格を持った)を用意するのにはお金がかかる
でも、それはかけるべきだと思う
それが市の将来のビジョンであったり、市の品格というものだ
少なくとも利用者が一便あたり7人で推移している新東名経由の高速バスに毎年3600万円を費やすなら
そんなものはすぐさま止めて、この子たちの未来に費やすべきだと思う

社会にひずみは弱いところに現れる
政治家や行政はいろいろ理屈を述べて対策を先延ばしにしていく(現状把握も充分にせずに)
でも先延ばしにされている間に子どもたちは大きくなっていく
果たして間に合うか、、、
彼らはこの国で、この町で暮らして「幸せ」と言えるか、、とても不安になる

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4年に1度で充分だろうか?

2019年09月26日 09時42分10秒 | あれこれ考えること

どちらの政策の方が豊川市民にとってベターなのか?
といった興味ではなくて、全く別の関心があって出かけたのが
昨晩フロイデンホールで行われた「市長立候補予定者による公開討論会」

多くの例があるようにこれは青年会議所が中心となって行われた
2017年の新城市の同様な公開討論会は、青年会議所ではなく
全く別の実行委員会によって行われた

500人乗収容を誇る会場に集まったのは半分弱の感じ
予想通り年配の方が多い

討論会の進め方は、リンカーン・フォーラム形式によるもの(多分)
新城市のは全くオリジナルの形式だった

自分の関心事は聴衆が、この公開討論会が選択の参考になりうるかという点
まずはテーマにあげられた点を、聴衆は候補者が饒舌に述べる内容を理解できているのかという点
この点は具体的な話題(市民プール・イオンモール等)であったために
それぞれの支持者は共感点を見つけやすかったものと思われる

立候補者二人が気にしていたのは最近の選挙の投票率の低さ
今回が無投票に終わってしまうと、この低投票率の流れに拍車をかけることなるので
市政に関心を持ってもらうためにも、実質的対抗馬の女性は立候補したのだそうだ

しかし、市政に関心を持ってもらうための行動が4年に1回の選挙時の単発的なそれで充分なのか?
というのは、現在進行中の新城市の「市長立候補者公開討論会の条例化」に関しても、同様な疑問を覚える

単発でその時だけ各陣営の言い分を聞く機会を設ける、、
それが、本当に投票率をあげたり市政に興味を持ってもらうことになるのか、、
これは実感としてかなり難しいと思えてならない

この会場の入口には「あなたが市長だったら何をしますか(だったかな)」
といった市民アンケートの答えが貼られていた
でもこのアンケート結果は少しショックだった
あまりにも幼い答え、どこかを真似したような答え、自分のことしか考えていないような答え
アンケートは豊川駅で若い人しかいないような時間帯にササッと行ったのでこのような結果となったらしい

だが、このアンケート結果のような意識を若い人だけでなく普通の大人も十歩百歩で
持っていないだろううか、、、と想像できてしまえそうなところがある
(これは豊川市だけでなく、他の自治体も)

自分が市政に無関心だった実績があるので、どうしてもそうした自分の過去を正当化しようとする
気持ちが働き、無理やり市政に関心をもつべきだ、、という論旨はうざったく感じるのは理解できる


実際のところ、無関心から少しでも市政なり政治に興味を持ってもらうのは
どうしたらいいのだろうか、、と思う
(おっさんになった現時点では政治に無関心は相当やばい、、と実感しているので)

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具体的と抽象的(新東名高速バスについての討論)

2019年09月25日 08時15分49秒 | 市政、市議会に関することなど

自分の住む新城市の少しばかり気がかりな話題

市議会の傍聴もテレビで中継も見たことのない人は
市議会ではどんなことが話され、決まっていくのかわからなと思われるので
おせっかいながらわかりやすいわかりやすい例を紹介

17人もいれば物事の判断はみんな一緒と言うわけにはいかない
意見が分かれるのは正常なことと思われる
議会は一般質問、各委員会、などを経て最終日には議決というステップを踏む
議会に上程される議案は大半は法律の変更に伴うもので、誰もが反対のしようがないもので
議決行為はお墨付けをする儀式のようなものだが、時に賛成反対の意見が分かれることがある

新城市の9月定例会の最終日に議決が割れる案件があった
それは「決算」の認定についてだ
3月議会で承認された予算の執行について、半年経過した時点での判断として
良しとするか、問題ありとするかを議決する議案で、2つに分かれたために採決が行われた

議会の段取りとしては採決の前に「討論」というものが行われる
議員さんが壇上に立って、かくかくしかじかの理由でこの議案には賛成とか反対と述べるのだ
「決算認定」については3人の議員(山田・澤田・浅尾)が反対討論を
2人の議員(山崎・長田)が賛成討論を行った

まず反対の方の考え方としては山田議員は、
新東名高速バスが利用者が少ない(一便あたり7人)現状にも
かかわらず大きな金額を使っているのは、お金の使い方として間違っているのではないか
むしろ子ども食堂などの地に足の着いたお金の使い方をすべきではないか
この問題があるために決算の安易な認定はできない

続いて澤田議員は
やはり新東名高速バスを問題としている
決算の全てに反対なわけではない
しかし、実証実験運転を開始する時に当時の総務部長が述べた目標数字(年間45000人)に
遠く及ばず、同様に掲げたKPIの数字にも達していないし、実証実験を行うにあたって実行する言われていた
PDCAも行われていない
この様ないい加減なままで決算を認定すれば、実証実験が終了した来年度も新東名高速バスを
運行する予算案が出てくる可能性がある
圧倒的な経済不採算性のために、この新東名高速バスは中止すべきとの考えから、
その継続の可能性を匂わす決算の認定には反対する

浅尾議員の反対の理由は、新東名バスの他にもう一つある
前にあげた二人と同様に、立ち直る見込みのなさそうな新東名高速バスに疑問を呈していて
お金の使い方としては、学校施設の修理とか補修に使うべきではないかとの視点と
現在裁判沙汰になっているにもかかわらず、政務活動費を含む決算に安易に認定して良いものだとは思えないというもの

一方、賛成意見として山崎議員は
そもそも予算案事態が優れたもので、認定は全体をみて判断すべし
反対の方々は終始一貫して「反対」の立場を取り続ける傾向がある
それは専門的な優秀な監査委員にも文句をつけているかのよう
高速バスについては、すでに予算執行と議決されているのだから
反対反対と言わずに、どうすれば利用者が増えるかを考えるべき
トータルで考えれば問題なく執行されているので反対する理由がない

残る長田議員は高速バスには触れず、決算の任意すべき事項をトータルで
考えるならば概ね問題はないので賛成との意見

こうして並べてみると、反対派の議員は「具体的」な指摘をしているが
賛成派の議員さんは話が「抽象的」なものとなっている
(この抽象的な物言いは行政の一般質問時にもあったがこれは少し後で紹介)

こうして採決に至ったが、反対は討論をした三人と山口議員の四人
あとの議長を除く議員さんは賛成で、決算の認定となった

ここで、問題を絞って「新東名バス」について少し細かく考えていくと
9月の佐宗市議の一般質問にこの問題はあげられた
その中で記憶に残っている行政側の答弁が2.3ある
「実証実験の検証は誰が行うのか、、、庁内かそれとも外部か
 外部があるとすれば、それはどんなものか?」
この質問に対する答弁には思わず呆れてしまったが
「検証は庁内で行います、外部はバス会社とか旅行会社とか、、」

検証が庁内、外部が関係者たち、、、
それで果たして正しい検証が本当にできると考えているのか

少し腹が立ってきたのでいろいろ思い出してきたが
行政はバスの利用者の少ないこと(少なすぎること)は認識している
だが必ずこう言い付け加える
「乗車数だけで判断できない効果の存在も考えねばならない」
これは名古屋からの少しづつ利用者が増えてきている
長久手(名古屋)でいろんなイベントを行い知名度アップにも貢献しているというものだ
そして中日新聞の広告を出して湯谷温泉の客も増えた、、、と

この最後の中日新聞の広告というのは、夕刊だったと記憶しているが
(確か金曜日)新東名高速バスを利用して新城(三河東郷駅下車)に来た方々には
湯谷温泉の旅館からお迎えが来て、料金的にもサービスもお得になるという内容を告知したものだ
行政は効果が有ったとしているが、この新聞広告の掲載された時期のバス利用者を
市から提出されたエクセルデータでチェックしたことがある
すると、掲載された日の名古屋の利用者は目立った変化は無かった
その一週間後も二週間後も、とても効果があったとは言えない利用者数だった
(これはデータだけからの判断なので、いつか湯谷温泉の方に本当に効果があったのか聞きに行くつもり)

行政の言う「乗車数だけで判断できない効果の存在も考えねばならない」が有ったとしても
それだけの金額を使ってまで、その効果を評価すべきかは大いに疑問だ

ところで、この新東名高速バスというのは2016年にスタートした実証実験の行事で
定住人口の確保、 名古屋からの観光客等による交流人口の増加 を目的に実施され
実証実験は三年半で今年度が最後の年となる
要した費用については、初年度は7月から3月までで約6000万円
バスの購入と業者委託料が含まれており、現在バスの所有者は委託業者となっている
この費用は100%国の交付金で、このときはまだ良かった

ところが2年目以降は、全額市が負担する羽目になった
これは行政の手違いというか、国の方針の見誤りで、計画していて運行費用の半額がもらえなくなった
三年半続けるということで、二年目はまちづくり基金と市税から半々で約3600万円を負担
(実際は利用者不足により委託業者から不足料金を請求され、最終的には4000万円以上となっている)

この状態、まちづくり基金で半額、市税で半額は今年度の予算組まで続いている
「空気を運んでいる」と声が上がり、実証実験すらストップしたほうがいいのではないか
と議会報告会などで市民から声が出ることもあった
さて、法的に実証実験の途中でやめることはできるか?
と気になるところだが、委託業者との契約書には賠償金無しで途中でやめることはできるとある
(確か議会が継続の議決がない場合)

このように反対側の視点から見ていくと問題が多すぎる新東名高速バス事業だが
市は実はバス会社・旅行業者、バス利用者たちではない、純然たる外部の人々による
「市民モニター・アンケート」を行っている
継続的に同じ質問が繰り返されその変化を見ることができるが、少し前にもココであげたが
このようなグラフがある

このグラフの右から二番目は「どんなに便利になっても利用することはない」との項目だが
アンケート回答者は年々その数字を増加させている
先日市役所に行った時に、一年目と二年目の回答者は同じ人物で、三年目は入れ替わっていると
教えてもらったが、それなら尚更問題がありそうと思えてくる

市の予算案を提案する部署が、庁内で自分たちの都合の良い抽象的な解釈をおこない
こうした具体的な数字を軽視してしまいそうな雰囲気を、自分らはつい感じてしまうが
これから一体どうなるのだろう

議員さんは行政のチェック機関と言われるが、どうも新城市議会の現在は無条件に行政の言い分を聞く
追認機関となっているような印象を持ってしまう

この問題については、今後より具体的な市民活動の計画を考えねば、、、

 



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ベルリン・フィル、初めて実演で聴くことに、、、

2019年09月23日 08時38分53秒 | 音楽

どうせいつかはバレたり明らかになるのだけれど、今のところ家人に内緒のことがある
それは前々から迷っていたことで、9月21日に販売が始まったベルリン・フィルの
名古屋公演のチケットのこと

ベルリン・フィルは今まで一度も聴いたことが無かった
名古屋には滅多にこないしおまけにチケット代がべらぼうに高い
カラヤンが値段を高くして、高いということでブランド価値をあげたとの話もある

レコードで聴いていた高校時代は、並び称されるウィーンフィルよりも真面目そうな
ベルリン・フィルのほうがイメージ的に好きだった
ところが、ウィーン国立歌劇場の立ち見席で彼らの音を聴いたときから、
その評価は全く変わってしまった
磨き抜かれた音の美しいこと、そして興がのってきたときの熱狂とかのりの良さ
それは音楽がいつも身近にある生活を想像させる

ブランドだから高評価ではなく、一回一回が勝負で肥えた耳の聴衆がチェックしている
環境下のウィーンフィルは、主となる会場の音響の良さも相まって自らの音色を
ずっと保っていて、それは独自の響きだ

レコードで聴くフルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンやブラームスの音楽は
ウィーンとベルリンのオーケストラの違いがよく分かる
ウィーンフィルのほうが輝きのある音、ベルリン・フィルは少し重心の重いズシンとした音
このズシンとした音は、他のどこでも出せないような音のように感じて、これはこれでとても魅力的だ

あまりにも高額なチケット代のためにいつもはパスしていたベルリン・フィルの公演だが
今年の11月13日のプログラムが大好きなブルックナーの8番
今回ついにネットでポチッとしてしまった理由は、大好きな曲が演奏されるというだけでない
なんとベルリン・フィルの演奏会の約1週間前の11月7日に、全く同じプログラムで
ウィーンフィルの演奏会があるのだ
しかもその指揮者が評価の高いティーレマン
こちらの方は指揮者・プログラムが何が有っても聴くに値すると思い速攻でチケットは購入した
そして家人にも伝えてある

ところがベルリン・フィル(メータ指揮)の方は大いに迷った
何しろ高い
ウィーンとベルリンを2つ聴くとバカにならない金額が出ていく
でもプログラムがブルックナーの八番で、それも短い間に聴き比べができるなどという機会などは
今後ほとんど無いだろうから、、、と自分に言い聞かせて、ついに購入してしまった
でも自分には言い聞かせても家人には、、、、

ブルックナーの8番は、多分交響曲というジャンルの中で一番聴いた音楽
レコード・CDでも何種類か持っているし、実演でもメータ指揮のイスラエル・フィル
ヴァント指揮の北ドイツ放送交響楽団、朝比奈隆の大阪フィルを聴いた
それぞれハッと気づく瞬間があって今でも記憶の残っている

迷う時間が過ぎて決断してしまえば、あとはときが来るのが楽しみ
できるだけ予習はしないでおこう
体調を崩さないようにしなければ

 

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変化球の「記憶にございません」と直球の「新聞記者」

2019年09月18日 08時33分01秒 | あれこれ考えること

世の中にはいろんな捉え方がある
三谷幸喜さんが安倍さんと並んで映ってる写真が首相官邸のツイッターにアップされていて
彼もまたお抱え芸能人の類になってしまったのか、、と一部のファンから不満の声があがっている
だが一方、同じくらいの数で、これは三谷幸喜さんのとても高度な皮肉・おちょくりと
評価する声もあがっている

ツーショットの写真は映画「記憶にございません」の上映の表敬訪問(?)で
撮影されたものらしい

この映画を公開二日目で見た自分とすれば、ツーショットの写真の評価は
後者の高度な嫌味、ユーモアの解釈に同意する

映画は支持率最低の総理大臣が投げられた石が頭にあたって、そのせいで記憶喪失に
なってしまった設定で話は進んでいく
三谷幸喜氏はこれを作るためにいろんなエピソードを書き留めておいたらしいが
それらは随所に形を変えてバカバカしいとか笑える形で登場する

石田ゆり子の演ずる首相夫人がバカバカしいPR番組を定期的に放送しているときに
さり気なく出てきたセリフが「首相夫人はなんでもできてしまう」
これは想像力の働く人なら森友学園のことに関連付けるだろう
また首相夫人の不倫は、実社会の自由奔放な例の女性の酒の上の席での
あるロック音楽との週刊誌記事を思いださせる

その他にもゴルフ外交のシーンがあるが、ゴルフばかりしているあの人の
印象的な情けないシーンを思い出す(ツイッターにあがっていた)
トランプさんとゴルフをしていたある時、その人はバンカーからグリーンに登ろうとしが
体のバランスを崩してコケてしまった
トランプさんはそれを知ってか知らずか、スタスタと歩いて行ってしまった

貿易交渉のシーンは、さくらんぼの輸入を迫るアメリカに対して、記憶を失って
政治家前の記憶や生き方に優先している首相は「日本を守るために」と強く拒絶する
そしてこの強い態度は、木村佳乃演ずるアメリカの心をうち(このあたりは若干お気楽だが)
二国間はお互いに同等の立場でものを言い合えるようになるのがいい、、との言葉を引っ張り出す
これは結局アメリカの言いなりじゃないか、、、と常々思わせれている我々は拍手喝采したいところ

その他、自分の立場から見ると皮肉はいたるところに溢れているように思われた
少し前の政治を扱った映画「新聞記者」は、思いっきり直球で問題提起したが、こちらは変化球で表現したものだ
このように解釈できる作品を、あの人は映画を見たか見なかった知らないが
安易にツーショット写真をとってお気楽にアップしてしまった感性の鈍さは、、、、う~~ん

ところで、映画「新聞記者」では、内調の仕事場を思わせる薄暗い部屋で多くの人が
コンピュータ画面に向かって(デマの)SNS発信をしているシーンがあったが
これはまるっきり想像上のものではないことを示す事実がある

それはある人物が、ネトウヨとされる人々の投稿の時間帯等を徹底的に調べたところ
それらは一般社会の勤務時間に投稿され、自分たちに都合の悪い投稿にはすぐさま反応していた
ことが明らかになった
そしてとても興味深い例の1つに次のようなものがある
国会で野党議員から「安倍さんは、数年前の◯月◯日、▲▲さんと会っていたのではないか」
との質問が、(確か)夜の時間に発せられた
この質問に対するある人たちの反応がすごかった
次の日の朝早くの時間に、朝日、毎日、読売、あと1紙で、問題となった日付の「首相動静」の
記事の写真がツイッターにアップされていたのだ(▲▲さんとは会っていない、、と)
昨日今日のことではない、何年か前のことで、それらの新聞を探すだけでも大変なのに、、
何年も新聞を保存しておくなんてことは一般家庭では考えられないし、
仮に図書館で探したとしても通常の図書館は閉まっている時間帯で集めるのは不可能
すると考えられるのは、これらの新聞記事は国会図書館で集めたのではないか、、という疑い
そしてそれができるのは、、、
この類推から薄暗い部屋でコンピューター画面に向かって、なにかしている人たちのシーンとなるわけだ

物事にはいろんな捉え方があるが、その前提となる情報をいろいろ知ってると、いろんな解釈ができるということ
(あまり細かな見方を紹介すると、あの人たちが気づいてしまうかもしれないから
 内緒にしておかなければいけないのかも)

 

 

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1対1、1対多

2019年09月15日 07時58分29秒 | あれこれ考えること

今月の新城市議会はいつものように傍聴には出かけなかった
傍聴より優先したいことがあったためだが、傍聴しないことで気づくことがあった

それは、一般的な(傍聴していない)市民は
市議会は何をしているかわからない
知らないところで知らないことが決められていく、、
と思うだろうと想像できたことだ
議場の傍聴でなくて、テレビやインターネット中継を見ている方々がいるとしても
その数はさほど多いとは思われず、視聴している人でも自分の関心事や
直接関係していること以外の話題であったなら集中して見られず、
まして普通の生活の上では聞いたことのないような法律の何条などと
聞かされるハメになると嫌気を覚えるのではないだろうか

一般市民は自分の生活が忙しいし、考えなければならないこともたくさんあって
いちいち、市のお金の使い方なんぞにかまっていられない
そのために自分たちの代わりに適切な判断をする人物としての議員さんを送り出している
そんな認識だろうと思われる

ところが、多分我市だけではないことだろうが、議員さんたちは必ずしも期待に
応えるような人たちばかりではない
議員さんを過度に期待したりするのは現実的ではないが、それでも肝心なところの
判断や議決権の行使が安易すぎるのではないか、、と思うのは、傍聴した経験からの印象

この現実を知ってしまうと、選挙のときだけ議員さんに関心を持つのは良くないことだとわかる
そして議員さんたちが議決した内容も、本当にそれで良かったのかと疑問を覚えることになる

こうして一種のオンブズマン的な関心を持つようになると、人は一種の事情通になる
ここで問題となるのは、この事情通の判断は正しいかという点と、その事情の他者への伝達のこと

いつも実感するのは1対1で伝える場合は、物事の経緯や問題点などをじっくりと相手の理解度を測りながら
話すことができるが、これをある程度の人数を相手にするとこの話し方は通じないというか、現実的でなくなってしまう
1対多の場合は、人々は細かなことは面倒で理屈を追って考えることができにくい
理屈を話すよりもむしろ断言のほうが効果的で、それでわかったような気になれる
そして、一種の上澄みのようなこのシンプルな断言が、その根拠も理解していない人の中にも自らの考えとして定着する

市民運動を活性化するためには人数を必要とする
だが1対多のような、断言の方法で伝えることは正しいのだろうか
断言に至るのは「カクカクシカジカ」の理由で、、と理解しないで、勢いとか雰囲気で数を増やして(増えるとしたら?)
いいものだろうか

本当は一人ひとりが事情通になって、議員さんも議決の良し悪しも判断できるようになるといいと思うが
これは夢物語なのかもしれないと自分の中のリアリストの面が囁く
それでも何かを知るということは、知らないことよりは確実に良いことなので
面倒でも1対1での伝達を試みるようにしなければいけないかもしれない

 

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月刊誌の部数と、雑誌の中の広告について

2019年09月14日 19時28分41秒 | あれこれ考えること

小学館の「週刊ポスト」の特集記事が「嫌韓」を煽るようなもので
今まで小学館に協力していた作家さんたちも怒りを覚えて
小学館から手を引くと宣言するようなことが起きた

週刊誌だけでなくテレビ局も異様に「嫌韓」を煽っている
背景に韓国を叩く番組を作ると視聴率が上がる(らしい)現実もあるようだ

先日、週刊ポストのその後の事情を知っているにもかかわらず
同じようなトーンの週刊誌「Hanada」の広告が新聞に掲載された
この月刊誌の広告は毎度、見るも者の気分を悪くさせるようなコピーが並ぶ
(一部の人たちは喜んでいるのだろうが)

そこでフト疑問に思ったことがあった
この「Hanada」は毎日新聞、中日新聞に全5段の広告を出せるほどの
発行部数で儲かっているのだろうか(新聞広告費はどのくらいなんだろう)
雑誌は購買と広告から成り立っているが、「Hanada」には雑誌の中に
どのようなスポンサーが載っているのだろうか

そこで今日映画を見に行ったついでに、豊橋の比較的大きな書店の雑誌コーナーを覗いてみた
「Hanada」の売れ行きと雑誌の中の広告内容を見るためだ
雑誌は文藝春秋や中央公論などの隣にあった
特に売れてるとか売れていないとかの実感は感じられなかった
手元にとって広告を探してみたが、パラパラ見たところでは見つからなかった
月刊誌の広告は一般的にそんなにないものかな、、、と念の為、
隣りにあった文藝春秋を見ると、こちらの雑誌にはホテルの広告とかお酒とか、、いくつかあった
一冊だけの比較は信用出来ないので他の雑誌も覗いてみると、やはりカラーの1ページやら
記事の片方のページに広告は見られた

「Hanada」は飛鳥新社が発行していて、飛鳥新社はこれだけでなく別の雑誌も発行しているようだ
会社としてトータルで儲かっていれば良いかもしれないが、「Hanada」はそれほど広告費をかけるべき
雑誌とは思えない
しかし、新聞広告のみならず東京の電車の吊り広告もあったとか、、
どうも違和感を覚える
このお金の使いかた、少し変じゃないのか、、、と


「Hanada」は一応読んどかねばとの思いもあって手にとったが、
どうにも読む気になれなくて、更にこのような本の売上に協力するのがいやで結局は購入しなかった
この本、自分が書店にいる間に購入した人はいなかった

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わかりやすいのは「市長が別の人だったら!」と考えること

2019年09月13日 08時16分17秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

「お金を返したからといって、良いってもんじゃない」
これは我市でも議員さんが政務活動費や疑惑絡みの活動交付金の返却したにも
かかわらず、巷で囁かれた言葉
この声は思いのほかいつまでも消えず、ある議員さんは相当な心理的ダメージを
負ったようだ(どこ吹く風といった態度の議員さんもいたが)

「お金を返したからといって、良いもんじゃない」という思いは
多分多くの人に自然に湧いてくるものだろうし、それを声に出すことは
当然で当たり前のことのように思える

これに似た感情を韓国の人たちが日本の姿勢に対して持っていると想像できないだろうか
つまり、歴史認識をちゃんとせずに解決ステップだけを問題にしてるとしたら、
どこかごまかされているようで不満を覚えるのは無理からぬようにも思えてしまう

「お金を返したからすべてお終い!」
とされたくない問題が新城市にもある(活動交付金と政務活動費以外に)

新城市議会定例会で、爆弾男の山田辰也議員が前回に続いて追求している問題がそれだ
ただ問題は前もっていろんな知識が無いと、彼の意図がかわかりにくいという点がある
そこで、大雑把な解説をしてみると

新城市は新庁舎建設用地以外の物件の移転補償について市民から行政裁判を起こされた
普通ならば支払われることのない用地外にも支払われたのは税金の不当支出で
市民は損を被っているので、その額の返却を最高決定者であった市長に求めたものだ
この裁判は2年以上に渡ったが、集結判決によらない解決を裁判所から提案され
原告・被告の両者とも受け入れた

この終結判決によらない解決の合意の主な内容は

1. 本件移転補償に際し、損失補償基準要綱の要件を満たすか否かに関する調査に必ずしも十分とは言えない点があり、
支出に疑義が生じる不適切な事態が生じたことを重く受け止め、遺憾の意を表する

2.補助参加人(穂積市長)は市に125万円の解決金を支払う

3.被告(新城市)は原告らの裁判費用の一部として25万円を支払う

4.被告(新城市)は今後損失補償の事務等に関し、関係法令等への適合性に疑念を持たれないよう、適正に処理すべく一層努めるものとする

4月の臨時会の議決を経て裁判の補助参加人である市長は市に対し125万円を支払うことになった
問題は、これで一件落着か!という点

これが冒頭の「お金を返したからといって、良いもんじゃない」につながる
ここで少しややこしいのは、移転補償費が支払われた物件は2つに分かれており
その移転補償費の市からの支払いは別々に行われた
その別々の支払のうち、より金額の多い物件は時効を過ぎていた
だがもう片方は期限内であり、裁判はその分の損害部分を支払うように求めたものだ(と解釈)

ところが、時効は市民が行う場合と行政が行う場合とその期間が違う
今回は市民が訴えたのでその時効は1年(支払いが行われた1年以内に住民監査請求の手続きをとるべし)だった
ところが、行政がその件を追求する場合は時効は5年となる
上記の合意文1に支出に疑義が生じる不適切な事態、、の言葉があるが、この支出に疑義が生じるのは何だったのか
それを行政が調べるべきではないのか、、時効は5年で間に合うのだから、、というのが山田議員の考え

これは、仮に現在の市長が今の市長ではない別の人として考えるとわかりやすいかもしれない
現在の市長が、以前の市長が行った移転補償の契約、および支払いが納得できないものと考えて
その疑義の残る件について精査し、何が損をする状態になったのか、損を生じることになった原因のひとに
損害を支払いように請求する、、そういう精査なり検証をすべきではないのか、、というのが山田議員の言わんとする事

これは韓国やアメリカの政権が、前政権のあら捜しをするのをイメージすればいい
だが現実は市長は4期の真っ只中で、自分が中心に行った契約等についての再検証などは現実的には取り組むはずがないから
議会が山田議員の意図を読んで同意すれば検証と精査はできるはずだが、残念ながら議員さん無関心
「お金を払ったから、もういいじゃん」の声も出るようだ

現実的には前に進まないこのような問題だが、山田議員がテレビ・インターネット中継が行われる一般質問で
この件を扱ったことは大きい
何を質問しているかさっぱりわからない、、と思うひともいれば、
直感的になにか変なことがあったかもしれないと感じる人もいるだろう

ということで、相変わらず問題の多いピンチの新城市の話題
つくづく、議員さんにお任せばっかりじゃアカンな、、と思うことしきり

※行政訴訟については、備忘録として2019年5月22日のブログで取り上げているので
時間のある方は覗いてみてください


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