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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

距離感は今よりずっと遠いはずなのに

2011年11月30日 20時36分28秒 | Weblog

歴史絡みの本を読んでいて不思議に思うことがある
テレビも電話もインターネットも車もない時代
いったいどうやって情報を伝達したのだろう?と

正確に言えば、伝わる方法がわからないではない
問題は伝達の速度がどのくらいだったのか?
という点
そして中央集権の世の中になっていくとき
地方は何故それに従ったかという点の2つがよくわからない
(圧倒的な武力が恐ろしかったのか?)

今の時代に感覚では、中央集権に効率的な支配は
一見当たり前のように感じられるけれど
なにしろ生きるテンポがのんびりした時代
(その様子は万葉集のおおらかさにも見てとれるけれど)
どんな精神状態で中央に従う選択をしたのだろう
物理的な距離の影響は、今想像するよりもずっと大きいだろうに

教科書でいろいろ学んでも、実感に至るまではなかなか達しない
といって、知った所で何になるわけでもないけれど

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昼間の電話は

2011年11月29日 21時42分19秒 | Weblog

何しろ凄い
いろんなところから、いろんな種類の勧誘がある


化粧品・健康食品・布団・蟹の販売
インターネットの光ケーブルへの切り替え
金の買取、太陽光発電への勧誘
それからシロアリ・耐震についての対処法
株・投資など資金運用に関する事柄

チョット挙げただけでこれだけある
これにオレオレ詐欺が加わるから
電話にでることは面倒になってしまう

しかし、普段家にいるのは主婦か老人
前者はまだいいけれど、後者は前述の電話の内容が
理解できるのかフト疑問

電話を置いた後
ブツブツこぼす家人の気持ち
よく分かる

それにしても、ほんと多いな

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結果より、頑張っている姿が大事か?

2011年11月28日 21時07分03秒 | Weblog

少し前の話
ドイツに移籍した岡崎のある試合の批評に
「献身的に動いているが効率が悪い」
そしてその試合の評価は芳しいものではなかった

昨晩のオリンピック最終予選
得点力不足と言うか、決定力のなさは
まさに効率が悪い
これがイタリア、ドイツだったら
きっちりワンチャンスで得点と言ったシーンが見られただろうに

この効率の悪さは必ずしも献身的に動いたために
肝心な最後の時点でガソリン切れ!
とは言わないまでも多少の関連があるかもしれない

このように傾向はもしかしたら
日本人の見る側、応援する側の責任があるのかもしれない

つまり日本は結果よりも働いている姿を
過度に評価する傾向がある
多少出来が悪くても、一生懸命何かしている人物を
結果も出して出来るが性格が扱い人間よりは
暖かく迎える傾向があるということ
これはサッカーに限らず社会で見られる傾向
(しかし実際には、できる人間と思われる人物も
 半端じゃない工夫・努力ををしている、
 ただそれがわかりにくいだけのような気がするが)

これは農耕民族である日本人が、
地域の人達と協力して稲刈りに
取り組むなど団体行動を主に行動してきたDNAが
作用しているかもしれない
つまりみんな一緒が良いこと!
と刷り込まれているのかもしれない


ところで、できる人間、特別な才能を持った人間は
一般的に変わった人物と評されることが多い

そう思ってしまうことは
実はある意味、多様性を認めていない現れかもしれない
ただそうは言っても自分も
いくら才能が突出していたとしても
自軍が攻められているとき、
困難なとき自分の仕事とは違うと言って
平気でいられる人物には
抵抗感を感じてしまうのは事実

ならばできることなら、なるべくそういう人間に
過度の要求をする状況を作らないこと
スペシャリストはスペシャリストの立場を、才能を
しっかり発揮する状況をこそ
作り出すようにしなければいけない

チームワークという考え方としては
誰かの不足を皆で補うのではなくて
個々の能力をフルに出すことこそが
大事であって、その効率的な方法こそが
チームプレーと解釈すべきなのではないのか

さて今日一番いいたかった事は何か?

一体何だったんでしょうね?

 

 

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覚えているのは、妙なことばかり

2011年11月27日 08時16分21秒 | Weblog

日曜の時間経過は、なぜかまったりとしている
なんの計画も無しにボーっとしているだけでも
またあれこれ予定を考えるにしても
日曜は日曜の日常

ところで相変わらず変なことを思い出した
それは子供の頃の事
人生の最初の記憶とまでは行かないが
多分小学一年生の頃の事

「ねえ、家に衝立あったよね」
「あったよ、何で?」
「やっぱり、その衝立に噛み付いてグラグラしていた
 乳歯を無理やり抜いた覚えが有るんだ」
「ネズミの歯より早く生えよ!って上の歯は縁の下、
 下の歯は屋根に向かって投げたりしたよね」


実際のところ、覚えてることって何でこんな些細なコトばかりなんだろう?
他にも覚えていることといえば、
岐阜に家族で旅行に行った時、最初に通された部屋が間違っていて
部屋を交換されたこととか
白樺湖で馬に乗ったときには、馬の匂いが臭かったとか、
愛地球博に行ったときにはインドだったかネパールだったか
その地方辺りの人の顔が小さくてドキッとしたとか
およそ記憶しておいてほしいことではないことばかり
何故、人の記憶は選択的にこんな変なことを覚えておく必要があるのだろう?

ついでに小さい時の記憶
幼稚園のジャングル・ジムとつながった滑り台で
頭を下にして腹ばいになって滑って
スーパーマンの格好を真似たこととか
Oくんと石を投げてあって喧嘩したこととか
お昼寝の時間は音楽が流れていたな(多分トロイメライ)とか

どうも生きるのには必要な知識でもなさそうだし
個も確立して(?)自分自身で生きているつもりでも
記憶は結構人任せみたいなところもあるものだ

ホント不思議

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今年の京都

2011年11月26日 20時24分52秒 | Weblog

どれだけ人出が多くても
写真を撮ろうにも人の頭ばっかりになろうとも
京都の紅葉は、犠牲を払っても行くべき
と思ってから数年経つ

去年は真如堂・金戒光明寺・銀閣寺
その前は光明寺に東福寺

そして今年は嵐山を目指した
目的のお寺さんは宝厳院と祇王寺
知名度が低い分人出も少ないと思ったのだが

少し残念だったのは人での多さより
少しばかり早かったかもしれなかった事
いくら緑、黄、赤のグラデーションがいいと言っても
これだけ早いとガッカリする
それと太陽が出たり入ったりで
日に当たったコントラストの際立つ紅葉を
堪能できなかった事も残念だった
運は天任せ、仕方ないかな

写真は宝厳院
でも本当は紅葉より苔がきれいだな!
これがあるから赤が映えるに違いない等と思ったりした

上の2枚は二尊院の紅葉
初めは此所には行くつもりは無かったが
通過道なのでついでに寄ったが意外に良かった
お天道様も協力してくれたし

嵐山は個々の寺というより嵐山界隈で楽しめるからいい
そして歴史上も小倉百人一首の編さん地
西行の庵のあったところ
落柿舎が保存されているなどなど
この方面からも見所が多い

太陽が雲に隠れカラスが鳴くと不意に
「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」
西行の歌を思い出した
なるほど、この歌のような情景はここで経験したのかもしれぬ
と思ったりした

三夕のもう一つ、定家の
「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ 」
このカラフルな、そして急にモノトーンとなる世界は
自分は結構好きなのだけれど
この二人を比較して
西行はジョン・レノン 定家はポール・マッカートニーを彷彿とさせるな
などと何時もの空想癖が始まってゆったりとした時間の流れを感じることができた

この緩やかな時間の流れこそ休みの日の醍醐味
少々歩き疲れはしたが
気持ちはリフレッシュ

さて来年はどこにしようか
永観堂は大事にとっておこう?

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法律は、守ればそれでいいのか!

2011年11月25日 21時48分40秒 | Weblog

世の中にはいろんな法律がある
今まで知らなかったが、今日耳にしたのが障害者雇用に関する法律

これは民間企業に於いては従業員の1.8%は(国・地方公共団体は2.0%)
障害者の雇用の義務があると言うもの

これを守らなかった事業所には罰則があるかと言えば
不足分一人当たり月額50000円の納付金が必要となる

逆に雇用した事業所には一人当たり27000円の雇用調整金が支払われると言う

さてこれが守られている確率はどうかと言えば
残念ながら月額50000円を支払って済ませてしまう事業所の方が多いらしい

確かにそれで法律は守っているし、なんら批難されるものでもないが
どことなく割り切れない気持ちが残るのもまた事実

障害者の雇用に真剣に取り組んでいる人からすれば
障害者が自立、自分は必要な人間なんだと自覚したと感じられる
瞬間を見たりすれば、単純に喜ばしい事だと思うし
その瞬間は人のために働く自分自身の生き甲斐にさえなる

しかし、法律のみを守る人、経済的のどちらが効率的かを考える人は
そこのメンタルな面を少しも考えないのではないか

それはCO2の排出量を自分のところは基準値まで
下げる事ができないので、地方、あるいは発展途上国の
排出権を購入して数字のつじつまを合わせているのに似ている

法律は守っていればそれでいいか?

小沢さんだって、法律的には、裁判をやってみないと分からないが
ちゃんとしているかもしれない
でも、法律を守っているからと言って、それで人の心が納得するかと言えば
必ずしもそうではない

確かに目に見えるところのつじつま合わせ
法律遵守は必要
だがもっと大事なのは、思いの中にあるようだ

そう言えばザンデルの本にもこのような事が書いてあったかな
カントだったか?

話は変わって、世の中には本当にいい人が存在する
どうしようもなくいい人
人間だから多少の欠点はあるにしても
人は信ずるに足るとか、人生は生きる価値がある
と感じさせるような人が!


その筆頭がマザー・テレサで
彼女ほどでなくても
なんでそこまで一生懸命になれるのかと
頭が下がる思いをさせる人がいる

現代の大きな間違いは
何でも交換可能な貨幣に換算すると言う
考え方なのかもしれない

それに変わる適切な考え方がある訳ではないが
換算しなくても、そのもの自体に価値があるという事も
想像力を働かせれば理解できない事は無い

想像力・共感力
そうした貨幣に換算できないものがもう少し
世界の共通項になればいいのに

現代の世界共通の言語は
お金(資本)・暴力(武力)・セックス
最後を除いて、もう少し理想社会に近づけないものか

想像力・共感力のある事が、
人をして他の生物と区別する最大なものなのに
今のままでは単に弱肉強食の動物の世界を
真似ているだけじゃないのか

今日は真面目に考えてみた
と言いつつ、
いつもの様にまとまりは無いけれど

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サッカー・プロ野球・クラシックコンサート

2011年11月22日 20時13分42秒 | Weblog

観客の年齢層が随分違う
帰りの電車で一緒になる事の多いサッカーとプロ野球は
第一感、10歳位違いそうな感じ
サッカーのサポーターの方が若い
そして女性も多い、子供を連れたお母さんも、、

野球も子供は見かけるけれど
なんとなくおじさんたちのイメージが強い

だがもっと年齢がいくのは
昨日出かけたクラシックコンサートの類い
これは半端じゃない
ほとんどおじさんというよりおじいさん
と言っていいような人たちばかり

歳をとると演歌が好きになると言われる事があるけれど
果たして歳をとるとクラシック音楽が好きになるか?
と言えばおおいに疑問が残る

この分だとクラシック音楽の未来は明るいものじゃない

それで今日試しに何故クラシック音楽会に行かないか?
と職場の女性に聞いて見ると
「値段が高いから!」
との答え
なるほど確かに安くはない、最低でも映画館以上
しかし、Jポップのコンサートには行くのじゃないのかな
値段はそんなに変わらないだろうし?

逆に何故自分はクラシックコンサートに行くのか?
これは簡単に答える事ができる
楽しいからだ


何が楽しいかと言えば、演奏者の気持ち、作曲家の気持ち
それらが伝わって来る気持ちよさ
それはサッカーの実戦を見ているときでも
しばしば感じる事のできる感覚
もっと言ってしまえばプロレス観戦でも
感情の動き等は見て取れる時があるけれど
大胆に言えばそれらとあまり違いがある訳ではない

ただ何事もそうなのだけれど、慣れるまでに時間を要する
この慣れるまでの時間のかかりようが
ちょっと違ってしまうのではなかろうか

特にクラシック音楽についてはもう一言
この音楽について、一般的な評価は
高尚な趣味とか芸術だとか、とにかく神棚にあげて扱いたがる
しかし、そんな事は無い
別に低俗だとは思わないが、人間の行うパフォーマンスの一種で
メッシのスーパープレーとポリーニの超絶技巧は同じようなものだ

このような状況の中で一般の人に気楽にクラシック音楽を!
というラ・フォル・ジュルネの試みは
素晴らしいものだと思う
ただあまり人気になり過ぎてチケットが
取りにくくなって困るが!

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アリーナ・イブラギモヴァ バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ

2011年11月21日 22時46分24秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

Twitter上で知り得た情報
ツイートした人の言葉があまりに魅力的で
ついチケットを確かめて、購入して出かけたのが今日の
アリーナ・イブラギモヴァ 
バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータの演奏会
会場は名古屋 宗次ホール

今年はラ・フォル・ジュルネにも行かなかったし
このところコンサートにはとんと縁がないので
耳が慣れていないから演奏会の印象がまとまらない

それで演奏会中に思いついたことあれこれを羅列してみると

あらら、案外高い音はキンキンするかな
このホールが壁がコンクリートでなく
バイロイトみたいに木が多く使われていたらどんな音がするんだろう?

第一番のパルティータ
舞曲を名乗っているが無伴奏でこれだけの音楽を作り出すのだから
かなり抽象的な音楽
ふと音楽の捧げもの作曲した人の音楽と思う
演奏自体は勢いに乗って突っ走る感じ

第2番
この曲の方が弾き込んでいる感じ
一番よりも感情表現が伴っているような、、
しかし、曲の始めはニュアンスがそれなりに感じられても
途中から若さの勢いに任せての演奏に

シャコンヌは冒頭の気合いの入った音 フォルテに少し驚く
この人、この曲が好きなんだろうな!
そんな気がして聞き込む
途中、音がヴァイオリンから出ているのではなく
体全体から、いやどこから出ているのだろうと
不思議な感覚に陥る
ただもう少し起伏に富んだ演奏はやろうと思えばできる気がする
やっぱり若い人の演奏の印象が強い

ヴァイオリニストでは今までのところ曲は違うけど
デュメイが一番良かったかな
キョンファのフランクも良かった

さて3番
これはほとんどおまけの感じで聴く
まだシャコンヌの印象が残っている所為か
ブゾーニのピアノ編曲をキース・ジャレットが弾いたら
どんな風なんだろう?
と思ったりする

結局、それほど集中できていなかったという事か!
それも久しぶりだったから仕方ないかな?

それにしても毎度の事ながら
コンサート会場で配られるチラシには気がそそられる
それはそれで困ったものだ
行きたいけど、時間がかかりすぎる
(行き帰りの時間が)
でも、今度は何にしよう?

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right to be wrong(失敗する権利)

2011年11月19日 23時05分39秒 | Weblog

朝のNHKFM ピーター・バラカンの音楽番組で
フト耳にした言葉
right to be wrong(失敗する権利)

その歌がどんなメッセイージなのかは知らない
だが、非常に印象に残る言葉だ

そう、多分誰にでも失敗する権利はあるはず
特に若い人には!

ほとんど確信に近いが、人は多かれ少なかれ
必ず失敗をする
したくないと思っても落とし穴はどこにでもある

問題はそこからどうするかであって
失敗をしない様にする事ではないはず

それを今の世の中は不気味なくらい
失敗を恐れる社会になってはいないか
それも特に若い世代に!
そして官僚に!

right to be wrong(失敗する権利)
この言葉を歌詞にした人のセンスは凄いかもしれない
(まだ聴いた事が無いが)

失敗したっていいじゃん!
終わりよければ全てよし!

みんな頑張ろう

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果たしてそれは理論的か?

2011年11月18日 20時06分31秒 | サッカー

サッカーの一試合は90分
そのうちボールにタッチしている時間は一人当たり数分
あとはほとんど歩いているか走っている
だからその長い時間を有効活用すれば
無駄が無く、有利に働くはず
そのように考えるのが理論的とか理屈に合っていると
考えやすいし、事実そうあるべきだと日本は何の疑いも無く
戦術論に時間を費やしてきた様に思う

しかし、そこには大いなる前提がある

それはたった数10回のプレーチャンスに正確な
最善のプレーができなかったら
何にもならないという事
どんなに有効的な動きをしても
出てくるパスがタイミングが悪かったりコースが悪かったり
シュートがまずかったりすれば意味をなさない

さてここで問題はどちらに練習の時間をさくかと言う点
つまり、大半の時間であるボールがない時の動きか
それとも保持したボールに関する正しい判断をするための訓練か

それは試合を迎える状況、年代で変わってくるに違いないけれど
総じて言えそうな事は、先にもあげた様に日本人が言いたそうな事は
前者を優先とした考え方

野球では3ボール0ストライクの場合
1球見送るのがセオリー等という言葉がまかり通っている
それは確率的に塁を一歩進めるには4ボールの可能性が
あるかもしれないので無理に打にいく必要は無いというもので
へたに打ちにいって結果が悪ければ
散々な批判を浴びる

またバント攻撃を失敗した時も
セオリーを云々と言う言葉も出てきそう
しかし、考えてみれば守備側はピッチャーも含めて
バントを含む攻撃を失敗させようとしている
その結果の上での失敗であるから
単純に攻撃側と守備側の闘いであって
そこには理論も理屈も無いはず

ここで言いたい事はテレビ等で解説者が
セオリーとか言われるものは
実はあまり当てにならないのではないか!
という事

どうも日本の考え方は対戦する相手の存在を考えていない事が多い
自分のベストなプレーをすれば結果は自ずとついて来る、みたいな
宮本武蔵、塚原卜伝、それから昔あった柔道のテレビ番組も全て
その調子で、何か絶対的な先生とか信条があって
それとの闘いが自分との闘いみたいに扱われている

勿論結果としての自分との闘いは分からないでも無い
しかし、目の前にあるのは
自分に対して優位なポジションを取ろうとする
そしてそのために必死の努力を続けてきた
尊敬すべき対戦相手


ならばまずは相手にすべきは目前の対戦相手で
勝つべき自分とは、練習をサボりたくなる弱い自分とか
妥協しがちな自分とか、そう言った分野に限られるのではないか

最近特に思うのはバルセロナのサッカーは
パス主体の的確な距離感を持って、
パスコースが幾つもあるポジショニングが素晴らしく
日本も手本にすべきとあるが
自分が思うに、でもそれだけでは欠けているものがある
それは相手の裏を取るというか、逆を取るというか
またかわすと言うか
つまり相手に応じて最適のプレーをする技術と感覚
ここがポジション取り、距離感だけでは追いつかない

話は最初に戻って、プロという人たちは
たった数回のプレーチャンスに
どんな時にも正確なプレーができる様に
つまり職人の様に働くべきじゃないのか

最近、日本代表でもJリーグでもまた高校選手権でも
センタリング(クロス)の精度が悪くても問題視されないで
戦術論ばかりが語られるので、
ちょっと一言チャチャを入れたくなった次第!



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