パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

2つのつづれおり(キャロル・キングとトリビュートと)

2017年07月29日 08時28分27秒 | 音楽

キャロル・キングの半生を描くミュージカル「ビューティフル」が
話題になっているそうだ
田舎にいるとそんな情報もリアリティがなく、気にも留めないが
どこか気になっていたと見えて、急に彼女のできの良いアルバム
「つづれおり」のレコードを引っ張り出して聴いてみた

このアルバムは名曲がずらりと揃っていて
とてもコストパフォーマンスが良い 
レコードで聴くと現代ほど洗練されていない、少しばかり生々しい、
レコード特有の熱っぽい音が聴こえて、改めてレコードの音の良さを感じる
このアルバムの中では「YOU'VE GOT A FRIEND」とか
「A NATURAL WOMAN」 「IT'S TOO LATE」「SO FAR AWAY」などが
カバーされてることが多い(と思う)

ところで、この有名なアルバムのトリビュート・アルバムとして、
まったく同じ曲を同じ順番で納めたものがある
 
これがなかなか楽しい
歌っているのはロッド・スチュワートとかリチャード・マークス、ビージーズ、セリーヌディオン
リズムが際立つ現代風の味付けで、彼らはまったく自分のものとして原曲の別の楽しさを表現している(当たり前か)
このなかでは、自分は「BEAUTIFUL」のリチャード・マークスが疾走感が気に入っている
(「YOU'VE GOT A FRIEND」はやり過ぎの気がして、、、)

本人のオリジナルアルバムでは自分はA面最後の「WAY OVER YONDER」が大好きだ
これはあまりカバーされないかもしれないけど、自分にとってはソウルフルで
バックコーラスもとても効果的で、、
ところでこの曲の歌詞、どこかのパチンコ屋の壁に書かれていたことがあった
意味もわからず英語として(記号として)書かれていたのか
それとも発注主がキャロル・キングが好きで依頼したのか、、、
 
それにしても、これは名盤だな
トリビュート・アルバムもいいけど、やっぱり本家のほうがいいかな

ところで、自分の好きな 「WAY OVER YONDER」の動画は下に
 

 

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夏休み用の本

2017年07月28日 08時44分05秒 | 徒然なるままに

今時、書店に出かけると文庫本が目立つところに陳列されている
学生・児童のための「夏休み用」の 本だ
昔もこのように「夏の100冊」みたいなものがあったが
最近は表紙がかわいいイラストを使われて、つい手に取ってしまいそう

これらの陳列を見ると少し羨ましい気がしてくる
まるで砂に水が染み込むかのような吸収力と素直な感受性の若い人たち
読むことによって知らない世界に飛び込み、そこで味わうことになる濃密な時間の体験
その体験の充実感、それは一度知ってしまったら抜け出せないものとなる
その体験を今まさにしようとすることに対して羨ましいと感じるのだ

最近夏の100冊は、自分の若い頃とは違ってきているだろうけど
古典と言われる定番も依然として陳列されている
読むべきだった本、いつか読むぞと思いつつそれきりになっている本
そこでフト思った
読んでない本のあること、あるいは聴いたことのない音楽があるということは
とても良いことだと、、

今のところ、幸いなことに知らないことに対してまだまだ好奇心は働く
この好奇心のあるうちに、お金の掛からない趣味を満喫するようにしなければ、、

しかし、目がだんだん追いつかなくなってきている
できるうちにしないとアカンということなんだろうな、、 

 

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マスコミ不信(どちらサイドからも)

2017年07月26日 05時44分14秒 | あれこれ考えること

前回の閉会中審査で、前愛媛県知事の加戸氏への青山氏の質問が
メディア(テレビ)のは少しも扱われず、加戸氏の発言で全てクリアとなった
としたい人々は、メディアに文句たらたらの体

一方、この人達と真っ向から対立する人たちも
NHKは前川さんのインタビューを一番最初に行ったにもかかわらず
流していないとか、国会が終了したら急に森友・加計学園の話題や
詩織さんレイプ事件をまったく伝えようとしないメディアに不満を持っている

つまりは、どちら側からも不公平な扱いと考えられている
メディアはそんなものだ!と言ってしまえば元も子もないが
まだ多くの人はメディアに対して批判的な視点を持っておらず
流れるものを容易に信じてしまう傾向のあるようなので少し心配

メディアリテラシー教育と言うものが本当に必要なものだと思われる
さて自分のメディアに対する不満は、冒頭の例では後者の方
加戸氏の扱いがなかったのは、本質と関係のない論旨であったため
(ピント外れ)流す価値はなかったと考える

岩盤規制に穴を開ける歴史をとうとうと語っても、そこのそもそも論が
今問題になっているのではなく、その岩盤規制の穴の開け方に不公平や
えこひいきがなかったかというのが問題点なので、苦労して愛媛県に獣医学科を
引っ張ることができる過程をもって、全てクリアになるとは到底思われない

ところで、昨日の参議院の閉会中審査でもこの加戸氏が再登場し
前回と同じ様な立ち位置だったが、少し考えると官邸側(安倍さん側)は
作戦ミスをしていないか

参議院での安倍さん側の答弁は国家特区を申請するのは自治体で
事業主体の加計学園のことは知らなかったと行きたかったようだが、
青山さんのおちょこちょいの質問で今治と言えば加計学園というのが
一般の常識的認識ということがハッキリしてしまった 

岩盤規制の弊害をあれこれ言いたかったんだろうが、ちょっと考えると
安倍さんの後の発言とは矛盾点が出てきてしまう
まあ、もともと1月20日まで知らなかったというのは、常識的に考えて
誰もが信じられないことで、なぜそんな見え透いた嘘をいうのかと呆れた人や、
政治家とはこの様に恥ずかしげもなく信じられないことを言うのかと
改めて感じた人が多かっただろう 

ところで加戸さん、世界と肩を並べるような研究を漠然とイメージしたようだが
その世界にひけを取らない研究が、(いろんな聞き取りで)できそうにない可能性を
文科省が感じ取ったから、それで進めていって良いものか、と感じたわけで
それは岩盤規制の云々とは異なる問題

どうも人は様々な意見を聞いて客観的に判断することは難しいことのようだ
最初から自分の好み、身内の意見をまったく正しいと思いたがる
あんなことを無条件になぜ信じてしまうのか? 
支持する政党(グループ)の見解だからそれが正しい
そこで思考停止している人たちが多すぎないか
もっとも、自分みたいなへそ曲がりばかりでは
世の中は面倒臭くてたまらないかな、、、 


 

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ピッチャーで4番を使うということ

2017年07月23日 08時50分53秒 | あれこれ考えること

昨日、豊川市の勤労福祉会館で行われた講演会に行ってきた
「穂の国 まちづくり塾 講演会」と題され、講師は
ローマ法王に地元の米を食べさせたとかTBSテレビドラマ
「ナポレオンの村」の主人公モデルとされる高野誠鮮(たかのじょうせん)氏

自分がもっと若くて物事を素直に吸収する時期だったら
大いに刺激を受けることになったと思われるが、少しばかり年令を重ねて
ひねくれた性格になってしまっているので興味の視点は少しばかり
本筋とは違うところに向かった

高野氏は公務員で、自作の農産物を自分で価格をつけ販売する
システムを作り上げたが、(その過程、宣伝方法としてローマ法にお米を)
このスーパー公務員といって良いかもしれない高野氏とは別の人の話を数ヶ月前聞いた 

それは元ナンパ師と自称する長野県塩尻市のスーパー公務員 山田崇氏
地元新城市で行われた講演で、情けないことに、いつもの面白かったな
くらいの記憶しかないが、今回の話を聞いてフト感じたことがあった

それは「やりきってしまう性格」について
ふたりとも(どうやらお互い知り合いのようだが)とてもパワフルだ
思い込みが激しく、失敗なんて当たり前、回りをひっかきまわす
(よそ者、わか者、ばか者が思い浮かぶ)
彼ら二人は最初から地元に住んでいてい地元のことを考えていたわけでない
偶然か必然か、彼らは他所の土地でそれなりの社会的に厳しい戦いを経験してきた
(しかも生き馬の目を抜くといわれる東京で)
その闘いの中では負けたり、挫折するのは当たり前の状態 、つまりはお役所の
無難に、、などという発想は最初から存在しない

決済の問題をふたりとも口にした
山田氏はいちいち決済をもらうのは面倒で、決済を受ける必要のない時間外の活動を
主力に(?)行った
高橋氏も60万円の抽象的な使用目的の予算を確保し、即断即決のシステムを彼なりに使った
つまり、お役所の合議制による責任の所在がハッキリしないような
テンポの遅いシステムにNOの判断をした

お役所と話をする時の違和感は民間の発想とは違う点だ
民間は、今までしたことのないこと(事業)をリスクを覚悟して
それ故に上手く行けば実りも大きいこととして、勇気を持って取り組む
責任は全て自分にかかってくるからできるだけ失敗しないように考える
途中少しでも怪しい状況が出てくると、必死に考え、行動を起こし
それこそ試行錯誤の繰り返しで、結局は知恵となるノウハウを身につける

一方お役所は、前例主義、危険回避主義
そのための勉強会はしっかりするが実行が伴わない ことが多い
一方的に民間の方法が良くてお役所仕事が悪いけではないがこうした傾向があるのは事実

現在、スーパー公務員とか地域を変えた人物として各地で講師役を依頼される
この二人がどこか似通った性格であるのは、多分必然なんだろうと思われる

まちづくりのことを考えると(真面目にというよりぼんやりと考えると)
いつも思うのは、「それを誰がやるか」という問題
行政主導でシステムをつくってもどうもうまくいくイメージが浮かばない
行政主導はやらされ感が強く、責任も曖昧で、達成感もないようで、時間だけが過ぎていくようで

どの地区にも、この二人のような性格の境遇の人物がいるとする
この二人は「ピッチャーで4番」のような人だ
いい意味で目立ちがりや、人からあれこれ指図を受けるのが好きじゃない
自分で考えたことをしたい、、、といって首長になるよりは現場でリアルに
反応を感じたい、、

そこで少し考えてしまうのは、もしこの地区(新城市)に彼らのような人物がいたとしたら
自分は(その立場でも何でもないが)彼らの資質を見抜いて責任ある立場と
権限を与えたかどうか、、という点
「ピッチャーで4番」のような面倒くさい人を素直に認めることが出来たか、、
というと、少しばかり自信がないかもしれない
でも、若干わかったことは世の中を変えるのは「ピッチャーで4番」
みたいな人なのかもしれないということ、、

高野氏は上司に恵まれたのかもしれない
「犯罪以外は俺が責任を持つ」といって信頼して任せてくれた人の存在
山田氏もあれだけ自由に活動出来ているのは(彼自身の実績のせいもあるが)
彼を手のひらの上で動かしている(?)かも知れない人が存在しているかもしれない

それから二人に共通するもの、それはセンス
広報に対する「言葉」と「手段」に対するセンス
これはどうも勉強してどうなるのもじゃないところもある
センスがあって、馬力があって、逆境に負けないで、私心のない人
そんな実務に長けた人、、新城市に出てこないかな、、 
(出てきたら見抜けるだろうか、、、肝心な人々は、、、)

ところで、昨日の講演会の若い人の感想を見ると(SNSなどで)
心揺さぶられているようでその素直さや柔らかさが、、、ちょっとうらやましい
それから彼らに時間がたっぷりあるということにも、、

おっさんにできることは、ちょっとの失敗には目をつぶってあげることかな
「大化けする可能性のある人物」を認めてあげるみたいな、、

ないものねだり、、かな 

 

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年齢を重ねると違って聞こえるのかも

2017年07月22日 08時13分32秒 | 音楽

夏に聴く曲にバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタを取り上げたので
ヨーゼフ・シゲティのCDを聴いてみた

かなり有名なアルバムで、うろ覚えの評判は、精神性は高いが音が美しくない
と言ったようなものだった記憶がある
精神性?何かよくわからない抽象的な言葉だ
しかし、襟を正して聴くというか、真面目に聞くことを要求するような感じは何となく分かる

何年ぶりに聴くと、音はそんなに悪くない
いやむしろ、旋律線が思いの外浮き立って、すべての音を弾き切るような演奏よりは
ずっと聞きやすい
でもシャコンヌまでは聞かずに別のアルバムを引っ張り出した


ケンプのバッハとヘンデル等の小品集だ
昔、勢いで購入したものだろうと思うが全然記憶にない
封は開けてあるから聴いたはずなのに、、
ま、いいか、こんな感じで聴き始めたのだが、、 

びっくりした
これがとてつもなくよく聞こえる
まずはピアノの音色
神経質な解釈優先の音じゃない
もっと豊かなただただ美しい音色
少し前に宗次ホールで聴いたイエルク・デームスのピアノの音を思い出した
品があって艶があって、、
このケンプの音もそんな感じ

年齢を重ねると音楽は違ったように感じることを実感した
若い頃は何も感じなかったのに、今は、愛しいとさえ感じる
積み重ねた経験、それから導き出される価値観や好み

あたり前のことだが、人って変化するものだ 
このケンプの演奏が気に入ったので、たしか持ってるはずのベートーヴェンの
晩年のピアノソナタを聴いてみようと決めた
さてどんな風に自分が感じるか、、、
ちょっと楽しみ 

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風鈴

2017年07月21日 08時20分19秒 | 徒然なるままに

涼しい朝のうちのお気楽な投稿

風鈴の音を涼しいと感じるのは、実はとても豊かなことだろう
難しい小理屈をこねなくても、多くの日本人は無条件にそのように感じる
音だけでなく、見た目で涼しさを感じることもあるので
和菓子や食器などは夏には夏にふさわしいものが準備される

この時期、我が家には風鈴が登場する

十年くらい前に購入した南部鉄の風鈴だ
形は良くないが、その音に惚れた
チリリーン、チリリーン
まさにそれは涼しさを感じさせる音だ
音は比較するとその特徴がよく分かる
ガラス製の見た目が涼しい風鈴をいろんなところで見かける
でも、これは音が好みじゃない
チリチリ、と言った感じでよく響かないというか余韻がない
見た目は確かに、圧倒的にガラス製の方が涼しさを感じるけど

そう言えば除夜の鐘のゴーンといつまでも響く音
闇に吸い込まれていくような、煩悩を絡め取っていくような音
なにかしら自然と心落ち着くような音 
これも無条件に日本人に共通した思いを連想させるのではないか
ヨーロッパの教会の音、カランカランと賑やかに時を告げる様な
雄弁なものとは明らかに違う
やはり、自分がウエットな空気(自然)のなかで育った日本人だと実感する

ところで、昔、セミと風鈴について幼い物語をつくった
テーマは、風鈴は誰にも賞賛される心地良い音を出すことができるが
自分からは出せない(風がないと音はしない)
一方、セミは人間にとって、ただただ暑苦しい鳴き声を出すだけだが
自分から音を出すことができる
自ら行うことと何かの力を借りて行うこと
自ら行うことの評価は、結局他人ではなくて自分が行うもの
でも、気づく人は気づくかもしれない、、、といったようなお話 

とても拙いお話だったが、これを書き終えた時は何かしら満足感を覚えた
それは一種の快感だったかもしれない
(これは何かを所有する喜びよりも、もっと深い満足感を覚えるものだった)
ならば、その快感をもう一度、、となるのだが
テーマはいくつか頭にあるのだが、筆力が追いつかない 

ということで、暑い夏の日
涼し気な風鈴の音を楽しむことにしよう
今、セミが忘れちゃ困る、と言いたげにまた鳴き始めた
はいはい、君たちも  えらいね、、

暑い部屋から逃げ出す前の独り言

 

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夏に聴く曲は、、、

2017年07月20日 19時53分32秒 | 音楽

秋になるとブラームスを聴きたくなるのは、
自分だけではなくて割合多くの人が経験することのようだ
クラリネット五重奏曲や4番の交響曲などは本当に秋の気分にしっくりくる

ところで夏はどんな曲を聴きたくなるか
(クラシック分野の曲で)
北欧の曲が良いかもしれない
シベリウスやグリークの寒々とした音楽はこの暑さにはぴったりかもしれない

夏の日のある場面を覚えている
そのレコードは友達から借りたものだった
一度も聴いたことがなくて、初めてなのだが、気合を入れてというより
のんびりとトウモロコシを食べながら聴き始めた
ホルンの堂々たる冒頭、それから経過句の印象的なトランペット
それは「夏の交響曲」とも言われる?マーラーの3番だ
この経験のせいでこの曲を聴く時はいつもトウモロコシの香りが頭に浮かぶ
(プルーストの失われた時を求めてのマドレーヌみたい) 

同じようにあるシーンを自動的に思い出してしまう曲がある
バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番だ
ヘンリク・シェリングのレコードを引っ張り出して聴いたのは
ある夏の夜(隣の部屋では家族がテレビを見ていたのに、、)
夜の闇の中を、音が複雑に深く刻んでいく、たったヴァイオリン一つのため
音色が豊富でない分、音は静寂のなかに吸い込まれていくようだった

この2つは、思い出のシーンによるもの
でも、客観的に考えるとシエラザードなんかが夏には良いかもしれない
千夜一夜物語の舞台は暑そうなところ、というだけでなく
シエラザードのテーマはやっぱり夏っぽい

不眠症の人のために作られたというバッハのゴールドベルク変奏曲
も良いかもしれない
ヴィヴァルディの四季からの「夏」もいいかもしれない

でも今の気分としては、
バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタかパルティータかな
最近聴いていないけど、、 

 

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2017年07月20日 08時41分56秒 | 徒然なるままに

やっと近くでセミが鳴いた
数年前、近くの大きな金木犀が伐採されてから、めっきりセミの声を聞くことが少なくなった
それでも少し歩けば賑やかな声は聞こえる

夏といえばセミだな、、、
子供の頃、さっさと宿題を片付けて小学校まで遊びに行って
熱中症なんて気にしないで遊び呆けていた時、見守るようにセミの声が聞こえていた
時にはセミを捉えようとしたが
おしっこをかけられたと笑う真っ黒な友達がいた

めっきり夏が苦手になってしまったが、それでも朝は、朝だけは心地よい
ひんやりとした空気が遠慮気味に室内に入って、ついタオルケットを被る
ウトウトしている頭に小鳥たちの元気な声が聞こえる
どんな会話をしていることやら、、食べ物の話?子供の話?敵の話?
鳥たちの会話を理解できないが、何かしら楽しそうと思えるのは
朝はまだ心が疲れていないからなんだろうか

起きて庭の木に水遣りをする
先日読んだ「樹木たちの知られざる生活」の印象が強くて
つい君たちも大変なんだね、、、と思いながら水をかけることになるが
蜘蛛もしっかり縄張りを確保しているので、つい顔に蜘蛛の巣がついてしまう
せっかく作ったのだから、(自分の気分がいい時は)なるべく壊さないようにと思うが
大半は邪魔なものとして処分してしまう
でも蜘蛛はたくましくて次の日にも巣を作っている

それにしても、夏
まいったな、まだ始まったばかり
先を思うとゾッとする 
なかなか気力が出ないぞ!
 

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読書について

2017年07月19日 08時20分01秒 | 徒然なるままに

読書家を名乗るほど本は読んでいない
読んだ本も、面白かったか、興味深かったかは覚えていても
残念なことに詳しく覚えているわけでもない
とすると、本は時間つぶしに役立っているだけか
といえば、そうばかりではなさそうな気がしている 

読んだ本の印象は、自分のなかに確かに刻まれている
ある時は心震える記憶として、体験として、
そしてある時は純粋に知的な好奇心を満たすものとして
そして確かに楽しんだ時間の経過として

これらは、いつか急に顔を出す
いや気づかないうちに性格を支配さえしているような気さえする

時々政治家さんが自分の書斎でインタビューに答えるシーンが
放送で流されることがあるが、あまり無邪気に自分の書斎を見せると
その人の思索の深さを推し量られそうで、気をつけたほうが良いですよ
とアドバイスしたくなってしまう 

最近は本を読まない人が多くなっているらしい
役に立つか立たないか、すぐにはわからない効率の悪い読書
しかし、読んでない人は、読んでいる人と明らかに何かが違う
その違いが重要なものかどうか、、、
多分読んでいない人は大したことではないとするのだろう

何かを得るためにだけ本を読むのはちょいとばかり辛い
やはり自分のなかに自発的に湧き上がった興味に沿って
バトンリレーをしながら読んでいくのが、退屈せずに
結果的に楽しんでいけることになる 

しかし最近は困るな
何よりも目がしょぼい、目が霞む
夜になると今までは得意だった寝転がっての読書ができにくくなっている
何事もできるうちにしておかないと、、、
と実感する年令になってきた
(それにしても記憶力、あまり低下していないと嬉しいのだけれど、、実態は、、、) 

今年、読んで記憶に残った本は
「戦争まで」加藤陽子
「まちづくりの哲学」宮台真司
「南京事件を調査せよ」清水潔
「サピエンズ全史」(上・下)ユヴァル・ノア・ハラリ
「保守主義とは何か」宇野重郎
「天皇機関説」事件  山崎雅弘
「樹木たちの知られざる生活」ペーター・ヴォールレーベン 

こうしてみると、昔の好みとは随分変化してきている
これも興味のバトンリレーのなせる技
この流れにもう少し乗ってみるのも悪くないだろう、、きっと
 

 

 

 

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あれこれ考える事(相変わらずまとまりのない)

2017年07月17日 06時12分41秒 | あれこれ考えること

先日購入した「樹木たちの知られざる生活」(ペーター・ヴォールレーベン 長谷川 圭訳)
がとても興味深く読めたので、途中まででストップしていた生物学関係の新書をまた読み始めた
「入門!進化生物学」ダーウィンからDNAが拓く新世界へ 小原嘉明著 中公新書

「樹木たちの知られざる生活」では樹木たちだけでなく、他の生きているものの
生きようとする意志の不思議さとか健気さが、著者の優しい眼差しとわかりやすい文体で紹介されていたが
生きものの、自分のDNAを残そうとする旺盛な意欲は、今読書中の 「入門!進化生物学」でも
ページを割いて紹介されている
子孫を残す生殖の様々な方法だけでなく、人間世界に置き換えると(妻に)浮気をさせないような工夫など
呆れるくらいの多様性だ
その自分の子孫を残すという行為の純粋性は「良いこと悪いこと」の判断の規準を超えているかのようだ

この本のなかに出てくる概念が「利己的」と「利他的 」
そのほとんどが利己的という方向性で進められているような生物の生活
しかしなかには、利他的と言うしか無いような方法も選択されている
結局は確率の問題で、利他的のように見えても最終的には利己的な利益に結びつく
ところなんだろうが、この利己的・利他的の話は奥が深い

むかし「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス著)という本を購入した
タイトルに惹かれて安くはないし、読みでがありすぎなくらい厚い本だったが
購入したはいいが、最後まで読んだか、、悲しいくらい全然記憶にない 
(途中までで投げ出したか、読み終えても何も心のなかに残っていないのか、、、)
ただ遺伝子は利己的なんだ、様々な可能性を残しておいておくほうが生き延びる可能性が高い
みたいな印象は残っているような気がするが、これが本当かどうかは、、、自信がない 

話は変わって、今年図書館で借りて読んだ本に「サピエンス全史」がある
このなかに生き物ならば、子孫を残すことが優先順位の高いものとするなら
普通には行われ無いことが書かれていて、なるほど、人とは不思議な生き物なのかもしれない
と改めて認識することがあった
それは宗教家と言われる牧師、修道尼という人々のこと
その人たちのなかには「独身」を自ら選択している人がいる
そしてそれは、人が生物の中の一つとすれば、するはずのない選択
すすんで子孫を残さない選択をしているのだから、とても奇妙なことだ 

そんな選択をすることが、人が人として他の生物との差を生み出したものに繋がっている
それは抽象的な思考・概念・希望・夢のような頭のなかにだけに存在するものを
多くの人が共通の理解をしているということ
何かをするためには、それぞれ各人があるパートを受け持って、ある共通の目的のために
何かを犠牲にしながら協働する
例えば工業製品の場合は簡単にこの考え方は想像できる
ただこれを社会に適用しようとすると、あっさり切り捨てたものが、、文句を言い出す

社会生活は人が試行錯誤の上で手に入れた知恵で、何かの行動を制限することになった
しかし、生物としての人間には、たくましく生き抜く遺伝子をもった人が
(彼には常識的な善悪の判断が欠如している)存在する
それは、みんながお行儀よく生きていくほうがゲームの理論のように調和点を
見つけ出せるかもしれないが、それでも生物がまさかの時の場合に備えて
ただただ生命力に満ちた存在を確保しておこうとする
何かの力が働いているかのように思えてしまう

社会に良いこと、悪いことの判定は、便宜上の判断(約束事)にすぎないのではないか
こんな風に考える人が出てきても不思議ではない 
もしかしたらニーチェもこんな風に考えたのかもしれないと勝手に思ってしまう

だがこの様に話を突き詰めてしまうと、どうしてもややこしい状態に陥ってしまいそうだ
そこで信頼するのは、やっぱり「集合知」みたいなもの
詳しく辿っていくとよくわからないが、なんとなくその方が良いと思っていること
それを選択する、人たちの知恵  
結局のところ自分は、その曖昧模糊としたものを信用しようとしている 
そして、その信用していいと確信する根拠は、  理屈ではなく
それが美しいか、スッキリしているか、、などという感覚的なもの

どうも何が言いたいかわからなくなってきたぞ!
最近読んだ本の内容が頭のなかで整理されずに戦っているという感じかも知れない
少し時間が経って落ち着いたら、もう一度考えてみよう(どうでもいいことだけど) 



 

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