パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

付箋

2016年03月31日 08時22分19秒 | 徒然なるままに

最近思うことがあって書店で見つけたこんな本を読んだ

西部邁氏は確かNHKの教育番組に社会学だったか
とにかくそんな分野の話をしていて、なかなか面白かったので
注目していたら、そのうち朝まで生テレビ!に出るようになって
その論点が興味深かった

全部が全部賛成できるわけではないが、この人、年下からこんなふうに言うと
叱られそうだが「可愛いいところ」があって、どこか憎めない
そういえば、この人をライバル視している(?)宮台真司氏も結構好きなタイプ

ところで、本の写真を紹介したが今日の話はその内容ではなく「付箋」について
一字一句丁寧に読むわけではなく、読み飛ばすことが多いほうだが
それでもあの部分はもう一度読みたいと思う部分に出くわすことは少なくない
最近ではアンダーラインを引いてある中古本も前の持ち主のキャラクターが
つかめて興味深いとされて注目されつつあるらしいが、なんとなく自分の本とはいえ
無闇矢鱈と本に線を入れるのは心苦しい

そこで、思いついたのが付箋
もともと付箋はこうした使い方をするのだが
自分の読んでいる本に使おうとは思いもしなかった

やってみるとこれがなかなか便利
しかし、今度は付箋を入れるか入れないかの基準があやふやになる
これは付箋をしたほうが良いか?
それが今までよりも甘くなるというか、付箋のことが気になって安易に
読むことができなくなっていく

しかし、それでもやっぱり便意なことこの上ない
この西部さんの本は前半部分に付箋がいっぱいあって面白かったが
後半部分は、正直わからなかった
しかし付箋のおかげでざっと読み返すには便利

ということで、先日読み終えた(最後のページまで行っただけ)
ハンナ・アーレント全体主義の起源.3も
ざっと付箋をつけるように大雑把に読み返してみようと思う次第
(もっと早く気づけば良かった) 

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シリア戦

2016年03月29日 22時05分24秒 | サッカー

ワールド・カップ一次予選の最終戦 対シリア戦
結果的には5-0で大差の勝利

アフガニスタン戦よりはチームの質が上質な感じ
(西川 長友 森重 吉田 酒井孝 長谷部 山口 本田 香川 宇佐美 岡崎)
いつもやっているメンバーということもあるかもしれないが
本田が入るとチーム力も上がるようだ

ところでハリルホリッジ監督の好みが何となく見えてきた
基本的には走力のある選手であること
戦える選手であること

ドリブルはシュートを打つために仕掛けるそれと
ボールを前に運ぶためにするものとあるが
本田も以前の中田英もボールを前に運ぶドリブルがたくましい 

香川は少し線が細いがそれでも運ぶことができる
そこに加わったのが金崎や宇佐美、原口
彼らもドリブルで運ぶことができる
縦に速いというのが流行りのようだが
パスだけでなくドリブルが加わるとスピード感は増す

ところで宇佐美の才能は稀有なのもでたくさんの選手を見てきた
ハリルホリッジ監督も認めているようだが
結果を出さないとダメでしょう
ドサクサでも出す人と惜しいと言われながらも出せない人
これは後々に大きな差となる
貪欲さ、諦めないこと、岡崎がしていることを宇佐美もしなくっちゃ
岡崎とかぶるといって気にしたり
シュートが止められたといって頭を抱えているよりは
まだこぼれ球を狙うようにしなければ、、 

チームとして気になった点はヘディングでのクリアとか競り合いの状態
このつなぎがうまくできない
これはもっと強いチームと戦うようになった時に感じる後ろの足元のつなぎにも言える
それと相変わらずのクロスの精度(長友は流石だったが)
酒井孝はもう少し繊細な神経を普段から試みないと、、、
それとあのどチャンスは決めなきゃ
 
ところで、辛口のセルジオ越後さん
テレビでは甘いけど文章を起こすと厳しい評価をする
今日のはなんて書くのかな? 

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ヴァイオリン聴き比べ(宗次ホール)

2016年03月27日 09時09分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最近お気に入りの宗次ホールに出かけた
昨日のプログラムは

3人の演奏者による3つのヴァイオリンの聴き比べができるというもの
(本当はそんな低次元でのプログラムの意図ではなかったかもしれないが)

昨日は3つどころか急に一人追加で、結局4つのヴァイオリンの聴き比べができた 
(急遽参加していただいたのはグァルネリ・デル・ジュス【1741製】で
 ラヴェルのツィガーヌを演奏したアンドレア・オビソ氏)

正月のテレビ番組で、何億というヴァイオリンと普通の価格帯のヴァイオリンの
演奏を続けて聞いて 、どちらが高い方のヴァイオリンか?を選んで耳の良さを
競うものがあったが、今回は正直なところこのくらいの軽い気持ちででかけた

で感想は?
ヴァイオリンの音の違いは、演奏者が違う、曲も違うし
素人の耳で正確にあれこれ批評することはできないが
最初に演奏された ツィガーヌを演奏したアンドレア・オビソは
馬力のある音と言った感じ
最初は比較できないので、まずはこの音を基本にして比較

予定通りのプログラムに戻ってイ・ユジンさんのG.F.プレッセンダ【1697年製】
これは先程の音と違って随分華やかな音 やんちゃな音
曲想がそう感じさせるのか楽器がそうなのか、素人には分からないが
とにかくそんな印象 
曲はバルトークなど、でもバルトークはどうも相性が悪い

2番めは松岡井菜さんのM.ベルゴンツィ【1764年製】で 
ストラヴィンスキーとサン=サーンス
これは先程の音より品が良い もっと上質の感じの音
でも一番印象に残ったのはこの演奏者の集中、音楽に没入しているところ
その表情やら演奏風景でこちらもついのせられてしまった感じ
バルトークよりストラヴィンスキーのほうがまだ自分には合いそう

最後のフランシスコ・ガルシア・フラナさん
楽器は(ついに出た)ストラディバリウス「レインヴィル」【1697年製】
偉そうに楽器の名前を上げているが知っているのは(耳にしたことがあるのは)
ストラディバリウスとかすかにグァルネリくらいなもの
こうした事前の情報量が聞く方にも影響したかどうかは定かではないが
このヴァイオリンは先程の音と比べて更に上品さが増した感じ
つい日本酒の比較を思い出した
純米・吟醸・大吟醸
良いお酒はべとつかずスッと品よく鼻に抜ける感じ
僅かな違いだが、この差は限りなく大きいと感じことがあるが
このヴァイオリンの比較もそんな感じ
音楽ではなく音自体を聴きたいなら3番めのストラディバリウスを聴きたいかな
この上品さは艶っぽい
曲はモーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのソナタ
モーツアルトはK301とかK304のほうが聴きたかったな
リヒャルト・シュトラウスの方はどうもすっきりしない
(この人の曲を聴くといつもそう思う)

ということで、とい経験をさせてもらった
ところで会場でパンフレットをもらったが
触手が動いたのはキム・ダミのヴァイオリンリサイタル
プログラムにヴィターリの「シャコンヌ」がある
それだけじゃなくプログラムの写真が美人ぽい

お顔が見えるわけじゃないが
5月のグリモーの演奏会といい、美人には弱い、、、 

 

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食べた気がしない

2016年03月26日 08時19分43秒 | 徒然なるままに

先日、左の下の奥歯に詰めていたものが取れてしまった
なんでも歯磨きと同時に糸ようじを使って
歯垢を取り除くのが良いとのことでトライしてみたら
歯医者で歯垢を取り除いた時と同じ感覚
急に歯の間から空気が通る感じで
スースーして気持よく調子に乗ってまじめにやってたら
大事な詰め物がポロリというわけだ

自分で詰めなおそうとしてもできず
結局歯医者さんに行くことになった

今は歯医者さんのあの怖い音はあまりしなくなったが
それでもできればあまりお世話になりたくない
50分ほど待って予約の人の間に入れてもらって
とりあえずの応急処置用に何か詰めてもらった
(正式なものが後日型ができた時に詰めることに)
その時、なるべく歯に負担のないように、、
との一言

食事はいつもなら自然と左側の歯を使って
噛んでいるのだが、これを意識的に右の歯を使うようにした
するとこれが全然いけない
実感として噛んでいる気がしない
味も何か感じない
そして確かにそれなりの量は食べているのに食べた気がしない 

これは思いのほか苦痛
たまに左の歯を使うと食べてる気がする
知らず知らず行っていて習慣になっていること
これがちょっと変わるだけでこんなにも違うものかと
改めて感じた次第
 

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補助金がなくても計画したか(新東名高速バス)

2016年03月22日 20時17分34秒 | あれこれ考えること

既に決まってしまったことだがどうも納得出来ないことがある
それは新東名の新城~名古屋往復バス を新城市が走らせるという計画

正確には新城市民病院から長久手まで数カ所のバス停を一日3往復させるというもので
その費用がバス購入費3800万円 バス会社に業務委託費約2300万円 
これは初年度の費用で、2年目以降は委託費のみ必要で
バスは市の持ち物ではなくて委託先の所有となるらしい 

一番の疑問点はこの計画自体が将来性があるのかが
とても疑問なこと
もちろんやってみなければ分からないのは事実だが
直感的に誰が利用するのかイメージ出来ない
そしてこのバスの利便性も経済的な他の交通機関との
競争力も優れているものではない 

これら否定的な見込みは実は市の方も承知しているようで
市議会では「先行投資」という言葉が使われた
しかし、こんなに見込みがないと思われる計画を何故実行しようとするのか
というと、市は「市のお金は使わなくて済む」という説明をする
このバス車両代と委託費(初年度分)は国の補助金が100%の事業で
市は今までに何回も内閣府と話し合いをして(申請書のブラッシュアップ)
補助金が降りる可能性が高いから市は経済的な心配はいらない
というのが、言い訳のような説明

しかし、仮に国から補助金の申請が通らなかったらこれらの費用は自前となる
それよりも、そもそもこの計画が補助金がなかったら計画したかというと
どうしてもやらなければならないという必然性があったかどうかはとても疑問だ 
どうしても必要なら補助金があろうがなかろうが計画をして
その計画の必要性も市民に説明するはずだ
しかし、市民にあまり説明もなく粛々と進められていく
(市庁舎の時と同じ) 

たとえ国の補助金があったとしても元をただせば国民の税金
それがこんなアバウトな計画で良いのかが頭に浮かぶ
バス車両代と委託費で6000万円強 
その費用ももっと別の使い方をすれば 思うのが普通の人の考え
でも、補助金というたぐいのお金は、予算を確保したら使いみちは
制限されていてあまり自由に使えない
使える範囲内で、いろんな無理な(?)計画をして、他の自治体との競争で
補助金を奪い合うというのが実情のようだ

とすると問題は市だけの問題ではなく、国もいい加減なお金の使い方を
するものだと腹を立てることになるが、市のほうは補助金があるから行う計画
と言うのは今の時代には合わないのではないかと感じる

結局のところ、どうも誰も責任をとらないで進められていくような計画にしか思えない
何度も繰り返すが、この計画が自分の財布から出すものとしたら
市はこの事業を計画したのだろうか
本当にまじめに検討したのだろうか 
どうしてもこの2つの疑問を消し去ることができない 

市の計画とは、いったい誰が決めるのか?
(少なくとも今は市民ではないことははっきりしている)

 

 

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前松坂市長の本

2016年03月21日 19時55分16秒 | 

3月5日、新城市文化会館で行われた前松坂市長の講演を
刺激を受けて聞いたにもかかわらず
そこで購入しなかった「巻き込み型リーダーの改革」

結局、知り合いの方から借りて読むことになった
ここ数日間難解な集中力と想像力を要する本を読んでいたものだから
ここの本は楽に読んでいけた
(既に講演で聞いていた話が書かれていたせいもあるが )

本の前半はパワフルな、新城市が少し羨ましい活動の紹介
それと市の活動だけでなく東日本大震災の復興についての松阪市を
はじめとする自治体を巻き込んでの協力の仕方、システムの構築などが
書かれている

だが、意外と面白かったのは4章以降
山中氏の心の秘密というかその成長(?)の様子
「自殺志願者」から「偽善者」へ と題された章は
カミュの「シーシュポスの神話」の一節を思い浮かべることになった
カミュは冒頭の部分(だったかな)にこんな一文を書いている

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。

ヨーロッパ人の中ではこの手の話をしても
多分それほど違和感を持たれないだろうが
日本人の中でこういう話をするということは少し変わった人間として
捉えられやすく、とっつきにくい人間と評価されそう

日本ではもう少し実践的なノウハウ・ハウツウもの、あるいは
現代社会の解釈等が書店の本棚を占めていて
この手の本が平積みされることは絶対無い

でもどういうわけか、何人かはどうしようもなくこういうテーマに心惹かれる
コリン・ウィルソン流に言えば「アウトサイダー」ということになるのだろう

で、自分も多分少しばかり変人ぽいところがありそうなので
この4章以降の話はとても共感できた
というか、これがなかったらこの本は普通のマニュアル本の一つにしか
過ぎなかったかもしれない

松阪市が一番ラッキーだったのは、このようなメンタリティの人が
(自分では偽善者として振る舞うことで、自分を自覚する様なところもあるようだが
  結果的にそれで世の中がうまく回っているのだからそれで良いのでは)
市長という現実的な作業をする人物として選ばれたことだ
(いや選ばれたのではなく、松坂市民が選んだのだったか)

ところで、山中氏、今は講演で忙しいらしい
でもきっと、彼を必要とする 時代が来るような気がするが、、



 


 

 

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報道ステーション特集と全体主義の起源

2016年03月19日 19時25分54秒 | あれこれ考えること

報道ステーション 03-18 ワイマール特集
見過ごしたので録画(動画)で見た

http://www.dailymotion.com/video/x3ym0kc_

自分が無意識に行っている「全体主義の起源」の読書は
この番組を作ろうとした何かと合い通じるものがあるかもしれない 

何故起こってはならないことが起きてしまったのか
人間がどのくらいのことをしでかしてしまうのか
「法に則って」個人の判断を要しないことを実行してしまうのか

「全体主義の起源」ナチスは独裁ではなく全体主義との認識で
その支配のシステム、メンタリティを事細かく説いていく
それを今の日本に置き換えると、気づかないうちに少しづつ侵食されているようで
とても恐怖を感じる

とりあえず「全体主義の起源」3は読み終えた
これは全体主義の歴史(なりたち)の本ではない
そうならないための、そうしないための本だ

人は過去(歴史)から学ばなければならないというのに
今起きつつあることは、人間はやはり痛い目をしないかぎり
自分の体験とすることができないのか!という思い

いや、もう少し人は賢いはずだ(と信じたいが)
 

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終わりまであと少し!「全体主義の起源」3

2016年03月17日 19時39分07秒 | 

シンドラーのリストという映画があった
収容所で全く偶然の選択で銃殺される人物、されない人物が分けられ
無機質に銃が撃たれるシーンはショックを受けた
ひとが人をまるで何事もないかのように命を奪っていく
それはとても気持ち悪く吐き気がしたが、人はそこまでやってしまうことが
空恐ろしいと思ったものだ 

それが何度も繰り返されると不思議に思ったことがある
収容所に入れられた人びとは何故、みんなで一緒になって蜂起して
抵抗しなかったんだろうか
たとえ無駄かもしれないが少しでも可能性があるのなら
何もしないで死を待つよりはましなのではないか
一人でも道連れにしたほうが自分の感情にも折り合いがつくのではないのか
そんなことをずっと思い続けながら見ていた

ところがこの疑問というか話題が、最近読んでいる「全体主義の起源」3
ハンナ・アーレントの本の中にも実例として書かれていた
抵抗しないどころか、連合国軍が勝利して収容所が開放された時に
普通の感情なら今までの仕返しとしてSSの連中に暴行を起こしそうなものだが
それが何もしなかったというのだ

ハンナ・アーレントはここに大きな問題点を感じている
自発性の欠如、個体性の破壊ということは、自発性のー
つまり環境や事件に対する反応では説明され得ないある新しいものを
自らすすんで創始する能力のー抹殺に他ならないのである
その後に残るのは、生身の人間の顔を与えられているが故にかえって不気味な
例外なしに死に至るまで唯々諾々と反応をー反応のみをーつづけるパブロフの犬と
同様に振る舞うあの操り人形なのだ

つまり収容所では人は自発性という人間のもつ能力を
反抗とか仕返しとかいった感情さえ持つことができないくらいに 
破壊されてしまったということ
そしてこの機械的なシステムこそが全体主義のシステムというわけだ

正直、この「全体主義の起源」は恐ろしく難解だ
ページ数はやっと終わりに近づいてきているが、その内容を理解しているとは
とても言いがたい
この本のハンナ・アーレントの文章は一つがとても長い
そしてやたらと挿入文が多いので(途中で関心がそれて)全体としてわかりづらくなる
それにこの手の本の思考方法に慣れていないしボルシェビキ等の歴史も知らない
だからとてもしんどい

しかし確実に感じることがある
それは、これはとても大事なというか需要なことが記されているという実感
理解できようができまいが、これは読み終えなければいけないという思い
しかも全神経を集中して
確かに地方都市の何の力もないおっさんが読んだところで
世の中が変わるわけでもない
でも、何故かこれはそうしなければならないと感じる

この本を読まなければいけないと思うのは
今の日本が危ない方向に進みつつあると心の奥底で感じているから
なのだろうか?
 

 

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若者の衝動

2016年03月16日 10時48分00秒 | あれこれ考えること

田舎、地方都市に若者がいなくなって
大都市(東京)ばかりに人口が集中する
それは地元に雇用が無いせいだとか
自らの町の魅力を自覚していないからだと説明されることが多い

でも、少し感じるのは「若者の衝動」
若い人は生命力に溢れているだけに、何かをしたいとか
大げさに言えば社会に自分がどのように関与しているか実感したいとか
(都会、東京にいればそれを実感できるような気がすると思ってしまう?)
珍しい経験をしたいとか、または仮想の的(ライバル)に負けたくないとか
こうした感情が入り混じっていて、それは若い時期を既に終えてしまった人間が
若者の気持ちを判断するのとは、リアリティーの面で大きな差がありそう

この気持の上のことは意外に大きな要素で、
若者の都市集中傾向はある程度しかたないのかもしれないと思ったりする

でもそれでは地方都市は衰退するばかり
だったらどうするか?
う~~ん、どうすればいいのだろう 

 

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市議会議員さんについて

2016年03月15日 09時17分51秒 | あれこれ考えること

今日は少し手に負えない面白くない問題

政治的に無関心であってはいけないという思いと
たまたま時間があったので地元の市議会に傍聴に出かけた
ここ最近の新城市は住民投票やら市長リコールやら
はたまた少しばかり疑念を感じさせるような市議が関与する
市発注の水道工事の問題やら なにかと騒がしい

まずは市議会の実態を知るべくでかけたのだが
一般質問、委員会、予算決算委員会(だったかな?)
傍聴席で聞いていると、部分的には、そうなのかと
感じる場面がないわけではないが、全体的に通しては
必ずしも聞いて面白いものとはいえない
(面白い面白くないで判断はいけないかもしれないが)
それだけに多くの人が傍聴に来たり関心をもつのは難しそう 

自分のように以前は全くの関心のなかった人間にとって
市議会自体のシステムが分からない
段取り、順番、議会の進め方、話し合っている内容
それらは現場にいって聞いて頭のなかで今何が討論されて
いるかを想像するだけ
しかも、議会では法律用語のオンパレード
地方自治法の何条何項の何々が、、、
それだけではなく、問題となっている話に関連する独自の
法律的な制限やらが当たり前のように続く

これを傍聴席で聞いていても、そもそもの基本となる知識がないので
なんとなく何が話されているかわかるとしても
それについての良し悪しの判断がわからない
これを粛々と理解して進めていく議員さんの知識量は(まじめにやっているとしたら)
大変なものだと思うし、実感から言えば
市民はこんな専門的なことは自分の代わりに専門職として分業の意味で
議員さんにお任せするほうが現実的だ

市民は実生活で忙しい
働いている人は自分の仕事のことで
子供がある家庭は毎日何かが起こることに振り回されて
またお年寄りの家庭は病院や買い物などで、、、

市民生活が結局はまわりまわって政治に結びつくといっても
現実の世界ではなかなかそこまで想像は働かない
気づくのはいつもその問題の当事者になった時
気づかないほうが悪いと言ってしまうとそれでお終いになってしまいそうだが
大半がこんなだから、考え方のベースはこの様な人たちを
前提にしなければならない

ということで、分業として自分たちの代わりに専門的な知識や技術をそなえる
人を選んで議員さんとして送り出すということになる
(そんなことは当たり前のことじゃないかと言われそうだが
  改めて実感したということ)

それで、問題はこの議員さんが市民の代わりなのだが
市民の声を聞いているか?という問題
これに対して最近は疑問の声が多くなっているので
住民投票という(間接民主主義を補完する)直接民主主義に近い
方法が使われることも多くなった
そしてそれにともなって市民の政治参加、関心、市民自治等の
考えが育ってきたと思われているが、、、、 

しかし、単純に市民の声が100%良きものかと考えると
ここでまた問題が起きてしまいそう
ウィキペディアで調べると直接民主主義と間接民主主義の
長所短所があって、それは自分でも想像がついたり納得するのだが
どうも何をやっても完全なものはない
ドイツではナチスの台頭の反省もあって直接民主主義の要素は
取り入れていない政治形態らしい

人間様の行うことは失敗や経験を踏まえて
いろんなことを考えだしてきているが
「知性の限界」「理性の限界」「感情の限界」
という高橋昌一郎氏の本で面白く紹介されているが
自分たちが当たり前と思っていることは案外いい加減な認識の上で
成り立っていると実感する

しかし、現実の世界に戻すと
多くの庶民が政治に関心をもつことはいいことだ
庶民が自分たちの思いを政策に反映させるようにしなければならない
(ここで多くの庶民の声がいつも正しいかの問題が起こる )
そのためには庶民は情報・知識・方法を考え出して責任を取らねばならない
実はこの部分が現実にはとても難しいのではないかと実感する
まずは第一に関心をもつことが良いとしてもその数は結局は
どうやっても多くはならないのではないかという気持ち
(それでいいというのではなく、ある割合にしか結局は収まらないのではないかということ)
そして情報・知識・方法を考え出すにはその手段と時間(つまりはお金が)かかる
仕事をしている庶民に仕事の他に関心をもってなにかやってもらう
というのは言葉の上ではいいかも知れないが、これは高すぎるハードルになる
そして責任も負わされるとなると

やっぱり現実的な方法は、ちゃんとした議員さんに自分たちの代わりに
専門職としての仕事を行ってもらうというのが効率的なようだ
ただし、この議員さんは市民の声を聞いているとか
市民が声を聞いていないと思ったらそれについて説明責任を
果たすとかしてもらわなければ困る

議員さんはそれができているか庶民が判断するのが
選挙ということになるのだろうが、ここでまた現実の世界が、、、
地区の代表としての議員さんとして応援される

正直なところ、完璧な世界なんて存在しないだろうし
そんなに完璧だったら、生きにくいというか暮らしにくそう
自分は横着な人間だから、もう少し大概大概のところで
回っていくのがいいかなと思ったりするが
それにしても、この大概大概の基準が最近緩々になっているのは
少しばかり困るというところか

それでも、少しづつだが結局は当事者として考えざるを得なくなったせいかもしれないが
こうした面倒なことに関心を持つ人が増えてきたように感じる
(最初からいたのに自分が気づかなかっただけ?)

本当は堯のような事が行われているのが理想かな



 

 

 

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