パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

祖父のおじいさんは江戸時代の人(多分)

2021年01月31日 08時50分13秒 | 徒然なるままに

大好きだった祖母は明治38年生まれだった
祖父の生年月日を覚えていないのは情けないが
祖母よりは5歳ほど上だったように記憶している

とすると祖父は明治33年位の生まれ
祖父は長男ではなくて下の方だったから、祖父のおとうさんの誕生はそこから25年位は遡る
すると明治8年くらいが祖父のおとうさんの誕生の年
そこで今度は祖父のおじいさんの生まれた時を想像してみると、何と江戸時代になる

このように計算してみると江戸時代が昔の話だったというよりは
割合最近のことだったように思えてくる
その間の世の中の変化の激しいこと、、、

祖母は若い頃、珍しい電車を見るために自宅からわざわざ遠い駅まで歩いたものだ
と自分たちに話してくれた

変化が激しいといえば、自分らの子供の頃はまだガスで調理をすることはなかった
確か小学生の頃、急にプロパンガスの利用が広がって、火をつけるには
マッチを擦って、バルブを回して、こわごわと行ったものだった

洗濯機も今は笑えてしまうが、ローラーのようなものの間を通して脱水したものだった
冷蔵庫も出始めの頃は霜が出てしまうので、時々霜取りする機能のついたものが発売された

テレビはどの家庭にもあるわけではなくて、早めに手に入れた家にお邪魔して見させてもらったのだった
他人の家に当たり前のようにでかけて、そこの家族と同じように過ごす
今思うと信じられないが、その当時は案外当たり前の事のように受け入れられた(?)

テレビはこれも笑ってしまうが、見ないときには画面を覆うような幕を垂らして
ドンと構えて鎮座しているのだった
その頃の画面は小さかったので凸レンズのようなものを前面につけて
少しでも大きくして見ようとしたのだった

最近の変化も笑えてしまう
インターネットも初期は電話回線を使っていたので、利用すると電話料金がかかる
電話料金は距離が遠いと高くなるので、近くのアクセスポイントを利用するようにしたのだった
インターネットを使っていると電話がかけられないので、インターネット利用するときは
家族の了解を得なければならなかった

電話とインターネット両方を使うために出てきたのがADSL
これで同時に使えるようになったが、我が家で困ったのがケーブルの長いこと
パソコンのある部屋と電話機のある場所とは離れていたので、長いケーブルを
天井近くまで引っ張って、そのまま部屋の隅の上の部分を這わせて(固定して)
ケーブルを通すために部屋の扉の一部を削り取って、やっとパソコンに接続したのだった

それは今は、ケーブルなし
全部Wi-Fiでできる
インターネット接続にかかる料金も固定で、金額を気にしながら利用することもない
おまけにスピードも(画面が変わるまで待っていた昔を思い出すと)全く別世界だ

ただこうしてつらつらと思い出してみると、変化と進歩は必然性のある方向に進んでいくと思われる
問題解決という形で!

今は当たり前のように便利さを享受しているが、それでもフト思い出すのは
テレビを見せにもらいに行った時分の世の中ののんびりした様子とか
母が近くの川に洗濯に行って、そこに近所の人たちが集まって
洗濯しながら世間話を交わしていた光景で
この頃は不便だったし、みんな豊かではなかったが
それでも不幸ではなかったと思えること
(これは単に昔を懐かしがる気持ちの上だけのことなのか)

その頃は、昨日と同じ今日が当たり前のように来るものだとみんな思っていた
(ように思う)
仮に変化があったとしても、それはみんなが納得するスピードでの変化だったように思う

それが現在は、変化のスピードが異様に速い
特に最近は使い方はわかるが、理屈はわかからないというブラックボックス化した
技術が圧倒的に多くデジタル・ディバイドなる言葉で表現されるような格差も生まれている

進歩のスピードは、ムーアの法則のように多分止められない(だろう)
ただその進歩が真に役立つものかどうかは、
広範囲な判断基準のなかから判断されないと、ちょいと不安になってしまう

それにしても、振り返るとすごい変化をしてることに改めて驚く

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Zoom

2021年01月30日 13時00分04秒 | 徒然なるままに

最近流行のZoom
現役から遠のいているので興味はあるもののタッチしないでいた
ところがコロナ感染症が広がって
ボランティアの外国をルーツに持つ子どもの勉強の手伝いも
リモートでせざるを得なくなった

そこで、いそいでこのアプリをダウンロードして使ってみようとする
アカウントとかパスワード等は、このブログでやっているので
流れとか理屈はわかるので問題はない

だた自分は良いが、ボランティア仲間は自分よりも年上の女性が多く
何かをするにも一つ一つ躓いてしまう
アカウントを作成し、サインインしてミーティングを開催できるのだが
このIDとパスワードという世界になれていない人は
あれなんだったかな?
とメモしたノートを必死に探す

ミーティングを開くのは(主催者は)サインインしないと駄目だが
参加するには必ずしもサインインしなくても良い
小学生の子どもに自らのアカウントを取らせてパスワードを設定させるのは
現実的でないのでサインインしない状態で会議に参加する方法を大人は覚えることにする
ところが肝心な自分のミーティングIDがわからない
ミーティングIDとパスワードの書かれた画面が出てきても
どこを触ったら出てくるのかわからない(忘れてしまう)
それでもなんとか自分のミーティングIDとパスワードはわかるようになる

そこで今度は試しに、主催者ではなく子供の立場の画面で参加しよう試みる
そのためにはホーム画面に自分の顔が出てこない(サインインしていない状態)
状態にするのだが、自分の顔が出てくる場合(サインインしてる状態)との違いが
イマイチわからないようだ

あまりわかっていない状態でも、とにかくミーティングを開いて、参加させるようにする
すると今度は顔が映らないとか声がでない、、、とのトラブルが発生する
困った彼女は電話をかけてきた
タブレットでやったときは顔も声も出たのに、、と不満を漏らす

ところが原因はなんてことはない、そのパソコンにはカメラもマイクも装備されていなかったのだ
古いタイプのノートパソコンだったのでカメラもマイクもついていなかっただけなのだ
結局彼女は外付けのカメラと購入するのではなく、新しいパソコンを購入することになって
やっといろんなことができる環境になった

今度は画面の共有、それからチャットを用いたファイルの転送も覚えるようにした
ところが前回はできたのに、新しくやろうとすると彼女は手こずって、できない
という状態が起きる

と言ったように、リモート授業をする前にZOOMの使い方の勉強をして
ことに臨むのだが、やはりわからないことは後から後から生まれてくる

仕方ない、習うより慣れろだ!
こうした一連の経過を見ると、子どもたちが日本語を覚えるもの
けっこう大変だろうな、、と実感する

でも、大人も少しづつ進歩してる
子どもたちの進歩の度合いには多分負けるが、、それでも
以前よりは賢くなってる感覚は、なかなか良いものだ

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音読

2021年01月29日 19時21分23秒 | 徒然なるままに

トロイア遺跡を発掘したシュリーマンは多くの言語が話せたらしい
彼の伝記を読んだのは半世紀以上も前のことだが
その中で印象に残っているのは、彼の言語の勉強の仕方で
彼はアルバイトを雇って覚えようとする言語の勉強をした

そのアルバイトというのがとても変わっていて、
アルバイトはシュリーマンが覚えようとする言語を音読しているのを
ひたすらおとなしく聞いているだけなのだ

シュリーマンは音読が言葉を覚えるコツと考えらたしいいが
自分一人ではサボってしまいそうなので、わざわざお金を使って
サボらないようにしたのだ

なるほどお金を無駄にするのはもったいないので
とりあえず日課としての音読は覚えるまで続けられたらしい

音読は意味を理解せずに読んでしまいそうなところがある
国会の答弁でもあまりわかっていなくて読んでいると感じることがあるが
精神を集中して黙読しないと頭に刻まれない気もする

しかし黙読ばかりは駄目だな
考えた音(外国語)が思ったようには出てこない
実際に出てくる音は肉体的な作業を経るので、そこでの物理的なミスで
思いの外うまくいかない

そこで思うのは、現在ボランティアで面倒見てる外国をルーツにもつ子どもたち
シュリーマンを見習ってひたすら音読させたほうがいいのか?
シュリーマンは意味がわかるわからないは無視していい
としていたらしいが、そのところは、ちょいと不安になる

それにしても人が言葉を覚えていくということは
とても不思議なことだと感じる
ひらがな、カタカナ、漢字(それも1000字以上)

どうやって覚えたのか、ホント不思議
(それにしても今は情けないほどいろいろ覚えられない、、)

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子どもたちの進歩(停滞と指数関数的な伸びの繰り返し?)

2021年01月27日 08時41分51秒 | 子どもたちのこと

地元で子ども相手にボランティアしてる時の話
以下はあちらからのコピペ

我慢比べだな、、と思うことがある
火木の外国をルーツも持つ子どもたちの勉強の手伝いの時
子どもたちの進歩は残念ながらこちらが期待したようには伸びていない

例えばその日覚えたことを次の機会に聞いてみると
覚えていないとか身についていない、、
ということはよくあることだ
(もちろん個人差はある)

子どもたちの進歩は階段のように一歩一歩積み重なる
と思いたいが、現実にはそうはならない
これらのことは、以前サッカーのコーチをしていた時に
嫌というほど経験をした

前の週に練習したことを復習の意味でやらせてみると
これがまた一からスタートするような状態でしかない
(身についていない)ことが度々あった

こんな時、彼らは本当に進歩しているのか?
と不安になったものだが、よく考えてみると
練習をし始めてころよりは明らかに確実に進歩していることはわかる

進歩は何故か急激に目に見えるときがある
それこそなにかのスイッチが入ったように一気にうまくなる
これは本人も実感するので楽しくなる
ところがしばらくするとまた停滞のときがやってくる

結局のところ、進歩は停滞と急激に伸びる時の繰り返しのパターンが多い
(と自分は実感している)

今の子どもたちも、ある時堰を切ったようにいろんなことが
一気に頭の中が整理されて、進歩する、、、
そんな瞬間があるのではないか、、、と期待している

子どもたちの指数関数的な伸びは、何も勉強のことだけではない
全く驚いてしまったのは、昨年あんなに我儘でマイペースだった女の子が
今は少し騒がしくしてると
「うるさくて集中できない」
文句を言うまでになっている
あの子がそんなことを言えるようになるとは、、、、
こちらが驚いてしまったが、子どもにはこういうことはありうるのだ
とまたもや実感する

子どもと大人の時間の(感じ方の)違いは、大人はいろんなことが経験によって
フルに頭を回転させなくても処理できるのに対して、子どもは全てがはじめての
体験となるので想像以上に頭をフル回転させているので、その密度は濃くて
時間が長く感じるのだそうだ
(始めてのことは大人でも長く感じる、、例えば就業先の初日など)

ただ子どもがフル回転して取り組んでいる問題は
必ずしもその時に解決するわけでは無く
むしろ一旦休息(例えば睡眠)を挟んだあとに
突然頭が整理されて(自覚しているかどうかは不明だが)処理されるらしい

学者ではないのでいい加減な事は言えないが、
これはなんとなくそうかも知れない、、と思えてしまう

ということで、その時々の子どもたちの覚醒の時を待つしかないのかもしれない
それまでは我慢我慢(大人の方が、、、)

 

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不思議な支持率と陽性者数の報道

2021年01月26日 08時30分35秒 | あれこれ考えること

ケチをつけるつもりはないが不思議だなと思うことがある
直近の内閣支持率が朝日新聞によれば
支持は33% 不支持は45%で不支持のほうが多い
ところが、産経新聞とフジネットワークの調査によると
支持が52.3% 不支持が45%で支持のほうが多い
2つの調査の不支持率は45%で同じだが、支持率のこの違いはなんだろう

前々から内閣支持率は朝日新聞は低めに、産経グループ・読売系・日経は
高めに出るとの声があり実際そのとおりだった
同じ調査をしても、メディアが望む(?)数字を出すというのは
なにか仕掛けがあるのではないか、、と、つい思えてしまう

それは母集団の選び方とか、質問の仕方とか、そうしたものが
本当はどういったものなのかが気になるところだが

産経新聞とフジネットワークの報道にはおまけがついていた
それは若者(20代)の支持率が62.7% 不支持率が31.7%で大きく差が出ていて
それは携帯電話料金値下げ等の施策が評価されたのだろうとの一文で
細かな報道ではあるが、果たして今それが必要な報道かと考えると
どこかしら報道のある種の意図を感じざるを得ない
(なんとかして政権にとって良いネタを探そうとするような)

この思い込みが独断と偏見に過ぎないとしても
それぞれが媒体にとってふさわしい数字が出ている現実は笑い事ではない
世の中に影響を与えるこうした調査が信頼できるものかどうかは
人は一旦立ち止まって考えたほうが良いかもしれない
(みんなと同じは適切な判断とならないと思う)

東京のコロナ陽性者は昨日(1/25)は久しぶりに700人を割って618人だった
ここでも少し不思議な気がしてしまう
緊急事態宣言の効果が出てきたとのと考えられるようだが
テレビでは相変わらず街の人出は望むような減少はなされていないと報道されている
にもかかわらず、劇的に減っている
どうも不自然だな、、と思うのは意地悪な性格のせいばかりではない(と思う)

すると内部告発のような形のツイッター投稿が目に入った
都から市区町村をまたぐ濃厚接触者の調査はしない、
 勤務先の濃厚接触者の調査もしないとの連絡が保健所にきてます」
「現在検査数が維持されてるのは保健所主導ではなく
 自分自身でクリニックや民間のPCRセンターで検査を受ける人が増えているからです」
つまりはそもそもの検査数が少なくなっている、、ということらしい

どうも客観的な判断を下すための科学的な数字が
いろんなところで都合良いように使われているのではないかと思えてきた
そしてそれは、「政治的な意図」(オリンピック、G
o To、解除)が反映されているようで
仮に「政治的な意図がない情報はありえない」としても
のんびりした批判精神のない一般人は、つい目の前に出た数字を盲信してしまう

情報収集にはプッシュ型とプル型があるそうで
マス媒体のようにあちらから勝手に(一見親切に)やってくるのがプッシュ型
ネットや雑誌等で気になる情報を自ら探して手に入れるのがプル型
プル型の欠点は自分好みの情報ばかりを集めやすいことだが
プッシュ型も知らず知らずコントロールされた情報に接していることになってしまう

結局のところメディアリテラシー能力が必要とされるのだが
これが(日本で、我が市で)できているのかというと
少しばかり不安を覚えてしまう

ところで、以前東京までわざわざデモにでかけたことがあったが(安保関連法案)
それはデモの趣旨に賛同してというよりは
デモの参加者数があまりにもメディア間とか警察発表のそれと違っていたからで
一体どちらが本当なんだろうと確かめたかったからだった

人数は微妙なところだが参加者の実態は、一部の団体に動員かけられたというよりは
そこいらのおじさん、おばさんが多くいた感じで、あるメディアはそのところを
正確に報道していないな、、と思ったものだった

それにしても分断は現実に起きていて、その原因の一つがこうした情報の曖昧さ
あるような気がしている
困ったものだ

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ピアノによるブルックナーの交響曲演奏

2021年01月24日 09時05分58秒 | 音楽

ベートーヴェンの生誕から54年後に生まれた遅咲きの作曲家アントン・ブルックナー
彼は交響曲の作曲家になりたいと(でありたい)と願っていたようだ
その作風はベートーヴェンの影響か最後は勝利感に満ちた予定調和に至るが
それは艱難辛苦の末というよりは、宗教上の法悦感にあるような気がしている
聴いていて、ああまたやってるな、、と思うような、全肯定的な響きが
思いっきり大音量で開放されると、なかなか気分が良い
大音量の快感だけでなく、時折感じられる自然の中にいるような沈潜したフレーズは
田舎の人間である自分にとっては、いつか経験した思い出のように響く

彼が望んだように、彼の本領が発揮されるのは様々な音響の交差する交響曲
彼の足跡を追っかけて、オルガニストを務めた聖フローリアン修道院に訪れたり
最後の家であるウィーンのヴェルデベーレ宮殿にもでかけたし
CD・レコードもいろんな指揮者による演奏比較もできるくらい揃っている
つまりは彼のオタクなのだが、最近オタクアイテムに珍しいものを追加した


4手のピアノによる交響曲の演奏のCDだ(演奏はディーノ・セクィー&ゲルハルト・ホッファー)
ブルックナーのピアノ曲では「思い出」とか「秋の夕べの静かな思い」「幻想曲」などの
ソロの曲が思いのほかショパン並に情緒的だが、今回のこれは思いっきり真正面からの
交響曲のピアノ縮小版
どちらかといえばゲテモノっぽいが、どのように響くかの興味は抑えきれず
アマゾンでポチッとしてしまった

最初に聴いたのは一般的には人気がないが、自分が大好きな「第2番」
特にこの第2楽章(初版では第3楽章)のアダージョは、何度聴いても
草原の中に静かに風が過ぎていく様を連想させて、とても気持ちがいい
第一楽章も気負いがなく始まって、癖がなく聴きやすい

そうか、こう来るのか、なるほど!
例のトレモロによるブルックナー開始はまずまず納得
だが直ぐに違和感を感じてしまった
それはピアノという楽器ゆえの欠点が気になってしまったのだ
ピアノは弾いてから音は減衰する
この当たり前のことがブルックナーの交響曲の演奏には
なじまないのではないかと思えてしまった
音を出しっぱなしにするブルックナーの交響曲は
オルガンは良いかもしれないがピアノは駄目かな、、、と

だがブルックナーはピアノを身近において作曲しているのだから
悪いと決めつけるのは間違いかもしれない!と思い直して聴き続ける

もしかしてピアノの音色が自分は気にいる方ではないのかもしれない
今度はそれが気になった
ピアノは芯の強い音で全体的にブレンドされた音というより
ある旋律線が目立つ
こういう音ではなくてクラウディオ・アラウのような深々とした音なら
違和感は少しは減ったに違いないとも思ったりした

だが演奏は後半になって熱気を帯びたものになって、演奏者の意気込みとか
集中度も感じられて、こういう演奏形態も一回は聴く価値がある
と思い直すことにした

まだ大好きな8番や9番は聴いていないが
聴くのが怖いような(がっかりしそうで)気がしているのも事実
でも彼のオタクとしては、聴き遂げねば、、かな

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おじいさん

2021年01月23日 08時33分21秒 | 徒然なるままに

年齢を四捨五入して、その結果にため息混じり声がでたのは、だいぶ前のこと
今は各施設の割引を利用できるのが、得したような気がするものの
素直に喜べないのも正直な気持ち

あまり成長していないな、、とか
この年齢になって感じたり考えたりすることは、この程度のことか!
と少しばかり情けなく思うが、仕方ない

先日、あるところで同世代の方から話しかけられた
「この間、道で小学生くらいの子から声をかけられたのだけど
  それが『おじいさん、ここに行くのはこの道でいい?』だって!
 おじさんじゃなくて、おじいさん、ショックだったな」

その方は髪は沢山あるし白髪もないし顔の色艶も良い
自分から見ればとてもおじいさんには見えない
でも、子どもから見れば、、、、

自分は自分との付き合いで、どんな成長のない人間かはわかっているが
子どもからすれば、姿かたちから(自分らが子供の時、感じたように)
「おじいさん」と見えているのだろうか

新聞に掲載された大学入試のテストをトライしてみようとするが
字が小さすぎて読めないし、読もうとする気力もない
それに大半のことは忘れてしまっている

自分の一番頭の良かった(?)時期は、とっくに過ぎてしまった
とつくづく実感するが、それでも負け惜しみのように
肝心なのは知識量ではなくて、もっと別のもの
何かに興味を持つとか、感じるとか、経験によって直感的に本質にたどり着けるとか
人に共感するとか、意見が異なるとしても一旦は受け入れることができるとか
つまり総合的なものは負けちゃいない、、と思いこもうとしている

でも、子供らに見えているのは、おじさんじゃなく、おじいさんか、、
仕方ないが、それでも、、、

 

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行ってほしい調査

2021年01月22日 08時20分59秒 | あれこれ考えること

思考実験ではなく実際に行ってほしい実験とか調査がある
少しばかり生々しいが選挙に関することで
心理学か社会学かどちら分野が行うべきかはわからないが
大学のいずれかの研究室で行ったならば面白そうと思う

その内容は、首長の選挙に立候補した人の写真(肖像写真)を
選挙区とは全く無関係の人たち(例えば遠方の地域の人)に見せて
誰が首長にふさわしいと思うか?を判定してもらうというものだ

選挙区外の人は個人的な経歴等の情報を全く知らない
そこで単に印象だけから判断してもらうのだが
これが選挙結果とどのくらいの割合で一致するのか
はとても興味がある
(印象は信用できる判断基準か?などの)

同時に、この人たちはそれぞれどんな性格の人と思われるか?
を自由に書かせて調査してみると、更に興味深いと思われる

次に外見の印象から判断するのとは全く反対方向からのアプローチで
テキスト(書かれたもの)のみから判断する方法も調べたならどうだろう
立場、経歴などを全く伏せた状態で立候補者の主張を並べて
この中の誰の政策(主張)に共感できるか?を聞いてみるのだ

予想するにこれは思いのほか難しいと思われる
こういう場合、それぞれが良いことばかりを主張するのが常で
そうした中で優劣を決めるのは、一般人の間では
そんなに差が出ないのではないか?と想像してしまうからだ

テキストだけで判断するのは、それぞれの主張の意図・意味が理解できる(意識高い系)の
人たちでないと、判断ができないと思われる
つまり、納税者・主権者・生活者である市民のうち、選挙権を有する主権者の意識が
ある人でないと主張の差異と優劣とか実現性を判断できないように思えてしまう

最後に写真とテキストを同時に見せて、どの写真の人物がどの主張をしているか
を当てさせてみる
つまり外見のイメージと訴える主張との一致がどのくらいの確率でなされるのか
それでわかる(政策の優劣ではなくて、人柄と政策の一致がわかりそうということ)

もしかしたら、知っているがゆえに人は正しい選択ができない
ことがあるかもしれない!と思ってしまう
選挙においては立候補する人(議員でなく首長の場合)の情報は
選挙区民に全く知られていないことはありえない
選挙区外の人なら全くニュートラルに受け取ることができる情報も
選挙区民にはいい情報悪い情報と判断されたかたちで受け止める
それは当事者ゆえの切実さかもしれないが、一歩間違うと
冷静に行われるべき選択が自己の都合で行われてしまうことになる

そもそも選挙における選択は、全体最適が実現されるようなものではなく
ある人たちにとって好ましいと思われる状態の確保が目指される
それは金銭的な利益だけでなく、自分たちが選んだ人が選ばれたという自負心も満足させる

結局のところ、人が人を選ぶという行為は、何に頼ることが一番良いのだろうか
と考えてしまう

トランプさんは、あの風貌の方だが、彼の行いは(個人的な印象だが)
風貌通りの行動をしているように見える
風貌だけであの敵味方と区別して物事を推し進めるやり方も想像できてしまうが
これはアメリカの話ではなく、地元に限っても同じようなことは言えないか

ただ地元においては、選択の基準は印象よりは知名度の要素が大きいようで
この知名度の問題については、いろいろ文句を垂れたいことがあるが
それは頭を整理して機会があれば、、、

地元新城市では「市長立候補予定者による公開討論会条例」なるものが
できたので、ちょいといろいろ考えてみた




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身近なところに噂を信じている人がいた

2021年01月21日 08時48分10秒 | あれこれ考えること

第46代アメリカ大統領の就任式が何事もなく終了して
ホッとした思いをしたのは、どの国でもそうだろう

10年ほど前からあるメールマガジンを購読しているが
理性的で何でも知っていると思われた筆者が、ここ最近はとても奇妙な投稿が続いていた
それはディープステートに関することだったり、あの選挙に不正があったと訴えるものだった
それまでの彼の発する情報が役に立ったり参考になることが多かったので
一旦は彼の指摘とか情報は正しいのかもしれない、、と不安になった

それでもあまりにも荒唐無稽なものに思えたので、今度は自分で彼の説の根拠とする
情報源を確認したり、そこで使われた大統領命令13848を検索したりしてみた
するとリンク先のページもいまいち信用できない感じがしたし
紹介された動画に登場する人物も直感的に違和感を感じる方だった
また大統領令13838は今年出されたものではなく、2018年に既に出されていて
その内容もロシアの関与を追求するものだったが、それは親トランプさんが言うような
トランプさんに有利に働くものでもなかった
その他にも下院議長のペロシさんのパソコンが乱入時に盗まれて、大事な秘密がバラされて
逮捕者が出てくるといった話も、パソコンが盗まれた事件の後の報道を見てみると
これまた全然ちがう内容で世界には報道されていた
つまりは自分の価値観の判断からすれば、かなり偏った情報と思われた

信者はこの表に出ているニュース自体がフェイクと言い、自分たちこそが正しいと
訴えるわけだが、常識的には信じがたいこうした内容をあの賢い人が
真面目に信じていることに驚きを覚えた
この信じがたい説を信じている人の中には、自分がアマゾンで購入した本の著者もいた
分断は想像以上に深いところで進んでいいるのかもしれない

アメリカの選挙に不正があったとしてデモを日本で行った人たちがいた
またあの選挙に不正があったと公言するメディア人とか作家もいた
その人達は、少しばかりおっちょこちょいとか、過激な発言でウケ狙いしている
ように思えて、またいつものあれか、、と思っていたが
現実の世界で自分が親しんでいた真面目な情報の提供者がその中にいるのは
驚くだけでは済まない

なんでこんなことになっているのか?
想像以上に根っこは深いのかもしれない
(オウム真理教の信者にインテリ層が多かったのを思い出してしまった)

経済力の分断だけでなく知の分断
知を上位におく人たちが、単純化された言論を信じようとする人たち
(知の弱者)に接する態度は上から目線で、それが分断に拍車をかけている
との指摘もある
大まかに言って、知の分断は経済的な背景につながるようで
それは先月の100分de名著 ブルデューの「ディスタンクシオン」でも
社会学的な分析として語られていた

この分断はマスコミ的な扱いではなく、社会学的に研究されるべき問題と思われるが
日本はアメリカのこととして研究対象にならないかもしれない
(安倍信者とそれ以外の人との分断は似たようなものだと思うのだが)

ところで、いきなり話は変わって、就任式、国歌はレディガガが歌ったが
よく声が出てるな!が第一印象
ショービジネスの方だが、ヴォイス・トレーニングとかが
しっかりなされているようで、そこがちょいと驚いた

またカマラ・ハリスさんの就任宣誓では
決まった文章を読み上げる事になっているのかどうかは知らないが
(少しだけ目にしたので正確ではないが)
その中に「逃げずに、役目を果たしていく」みたいなことがあった
これなんかは日本の政治家の人たちが一人ひとり宣誓してもらいたい
(逃げずにというところが)
公務員は就職する時に宣誓書を提出するが、制度として議員さんも
宣誓書を提出してもらいたい気分(国も市も)

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しっかりしてくれないと困る!

2021年01月20日 08時52分26秒 | あれこれ考えること

いろんな書物を読んだり情報に触れると、どうやら「トリクルダウン」というのは
今までどの地区でもどの時代でも実現されなかったらしい
企業の収益が増えれば、下の方(労働者)までそのおこぼれが伝わっていく
というのが、トリクルダウンだが、深く考えずにいると感覚的には
一見まともな考え方に見えてしまう

しかし、手に入ったお金は手放したくないとか、もっと儲けるために使いたい
と考える自然発生的な人間の癖(あるいは資本主義の傾向)故に
それら実現された試しはないとされている

このトリクルダウンが想像上の可能性に過ぎないことを知ってしまったメディアの人間が
トリクルダウンを旗印に経済を進めようとする人物に、
「その理屈は既に無効だと明らかになっていますが、、、」
と記者会見か何かで言ったならば、会見を受けている人物は何と答えるかを想像してみる
すると「ここはあなたの意見を聞く場所ではありません」
くらいが出てきそう(実際に似たような例はあった)

メディアはもう世間では通用しない理屈を平然と口にすることに対して
このように言われたからといって、口を閉ざしてしまって良いものだろうか
メディア自身の(ファクト)チェックを経ずに、発表されたことをそのまま
伝えてしまうことは、言われたことを伝える役割は果たしているとしても
もっと肝心なことは伝えられていないのではないか

要はメディアの人間は伝える技術だけでなく、
発表された内容を吟味・批判できるだけの知識とか判断力が必要ではないか

先日菅さんの記者会見、最後のフリーの記者さんが、かなり専門的に突っ込んだ質問をされて
菅さんは実は質問の意図や意味がわかっていなかったのではないのか
とツイッター上に書き込まれる事が起きた
国民皆保険制度の話が突然出てきたあの会見のことだ

残念ながら一般人は法的なことや制度を詳しく知っているわけではない
また知っていたとしても広範囲な視点に立って判断できるわけではない
どうしても自分の代わりのよく知ってる人に内容を解説してもらったり
またはお金の使い方を決定してもらうしかない

そこで問題となるのは、特殊な立場の人(メディア・議員)が
その職責を果たすためにどのくらい力を費やしているか、、という点
(他社に負けない努力とかではなく、物事の本質的な理解のために)

最近の一番の不満とか不安は、こうした立場の人がちゃんと自分たちの責任を
果たしていてくれるだろうかという点
議員さんの行動についてはある程度文句は言いやすいし
最終的には選挙という形で評価されるが
問題はメディアの方で、メディアを批判することはなかなかできていない

あの一部に問題視されている官邸の記者会見
いろんな都合とか立場があるとしても、結果的に機能しているとは思えない
不思議なのは、あの状態がずっと続いていることだ
この状況は、メディアだけの問題ではなく、お上に弱い日本人の傾向を表しているかもしれない

とまあ、文句たらたらとなってしまうのはいつものことだが
それにしてもメディアがもう少ししっかりしてくれないと困る、、
というよりヤバいかも


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