パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

カゼとの戦い

2009年11月29日 19時02分45秒 | サッカー
サッカーは冬の季語らしい
確かに動き回るスポーツなだけに
寒くてもキーパー以外はゲーム中はそれほど
しんどい事はない

それに比べ夏のキツい事、キツい事!
根性で片付けられる問題ではなく
熱中症等、心配事がいっぱいだ

ところが冬にも困る事は存在する
カゼの問題だ

カゼ、その一つは風邪(インフルエンザも含めて)
実際、今日も公式戦があったのだけれど
そのうちの2チームが風邪で出場できなかった

そしてもう一つは季節風の猛烈な風
いつだったかゴールキックが押し戻されて
ゴールラインを割ってしまった事があった
風上、風下、前後半あるから公平だとしても
およそゲームを楽しむレベルでない時は多々ある

ホント、これからの少年サッカーは
カゼとの戦いだ
「風邪と季節風」との
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政治屋と政治家

2009年11月26日 19時42分00秒 | Weblog
朝、ラジオでの一言
「政治屋は次の選挙を考える
 政治家は次世代を考える」

アメリカのなんとかいう人の言葉とか
なるほど!
言わんとする事は分かりすぎるほど分かる

どこかの国にもいましたね
「問題は次の選挙だ!」
と檄を飛ばしている人

多くの人が彼を政治屋と思っているにもかかわらず
何故なんでしょうね圧倒的な力を持っている様に見えるのは
本当に力がある?ただ恐れてるだけ?
いずれにしても、政治屋にこの国を任せっぱなしにしてはいけない

しかし、残念な事に政治に携わる人のキャラクターは
典型的な政治屋タイプの方が多いみたい
(政治家はなまじっか疎まれているかもしれない?)

そもそも政治屋と政治家という言葉があって
それを区別するような定義がある事自体
世の中は上手くいっていない事を現している
困ったもんだ

ところで話は変わって
この話題の1時間後、ラジオで今度は
アラブの人の日本人旅行者にかける言葉が話題に登っていた
「貧乏プライス!」
「ベリー安い!」
気の弱そうな日本人観光客に声をかけるのだそうだ
その中で出色だったのが
「義理の母用!」の一言
ちゃんと義理のお母さんにもお土産を買っていきましょう
と言っているわけだ

これは日本人が教えたのか?
それとも、かの国でも嫁と姑の問題は存在しているのか?
どっちなんでしょうね?


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アンリのハンド

2009年11月23日 13時53分58秒 | サッカー
ワールドカップ最終予選 プレーオフ
フランス対アイルランド
この延長戦でその事件は起きた

と言ってもそのシーンを見たわけではなく
後になって新聞やテレビ放送などで
そういう事があった(アンリにハンドが)と知っただけなのだが

フランス大統領がアイルランド首相に謝ったとか
再選をする様にFIFAに訴えたとか
国際紛争じみたものになる等と
おもしろおかしく伝えるメディアもあった

しかし、問題のそのシーン
ダイジェストを見ただけなのだけれど
成る程、確かにハンドだ

しかし、アンリが手を使ったしまった気持ち
意図的か不意にかは分からないけれど
その気持ちはよくわかる
あのシーン、あの時間、いい悪いは別として
大概のプレーヤーは手が出てしまうのでは?

審判が見逃したのが悪い
と言っても主審は見えない角度だったかもしれないし
副審がどんな旗を挙げていたのか
そのダイジェストでは分からない

ずっと以前、日本代表がイングランドと闘った時
井原がヘッドで先制点を取って
その後追いつかれて
終了間近にゴールを割りそうなボールを
柱谷がはっきりと手で押し戻してしまい
ハンドの反則で退場、そしてPKになった事があったが
反射的にこの状況を思い出してしまった

確かにルールの上では反則
スポーツマンらしくないかもしれない
しかし、実際に闘っている選手のメンタリティーからすると
このどちらのハンドも簡単に悪い事!
と言いきれない気持ちがするのも事実

思わず手が出た!
やろうとして手を出した!
この判断は難しい
どっちも反則なのだけれど
前者は、一生懸命になればなるほどしてしまいそうなプレーで
一方的な批難対象にはなりにくい気がする

さてこの大事な試合での後味の悪い勝負の結末
結局再試合は行われずフランスが
ワールドカップの出場権を得る事になったが
今後このようなことが起きないためには
ビデオ判定を持ち込むべきとか
いわれているけれど
間違いをおこす人間が審判をして
ミスジャッジも、それを甘んじて受け入れるところも
実はサッカーらしくて、無責任かもしれないが
それもありなのでは!と思ってしまう

運の悪いアイスランドだったが
どこかで同じような事が今度は自分たちに
有利に働くような事があるかもしれない
(全然保証はないが)
長い時間をかければ、損得は公平に落ち着く
などと考えるのは、その時にしか意味のない人たちにとっては
耐えられない事かもしれないが
それでも、自分はこういう事があってもいいような気がする
何故だか分からないけれど!
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いつもと同じ光景(可能性は疑問)

2009年11月18日 22時01分32秒 | サッカー
アジアカップ予選 対香港戦
優先事項は勝ち点3を取ること
しかし、正直面白くないゲームだった
(結果は4-0で勝ちでも)

面白い面白くないで判断してはいけないかもしれないが
南アフリカ戦の疲れを差し引いても、大いに不満が残ったのは
紛れもない事実

一部の人からも声が上がっているが
岡田監督の能力にも不安を感じざるを得ない

まずもって大久保、内田 
この二人を起用し続ける理由が分からない

大久保は南アフリカ戦でもせっかくの
シュートチャンスを一歩遅くしたために逃してしまったし
惜しい!シーンはデジャブのよう
あるいはいつか見た光景のよう

内田は相変わらずディフェンスにぶつけるセンタリング、クロスばかり

中村俊輔はFKで得点した以外はそれほども出来でもない
なんだか若さがなくなって
ピークを過ぎた感じで少しばかり不安

まだ本田のほうがシンプルに前に正確なパスを送るので
今風に感じる
中村のほうがクラシックな10番的
その分展開が遅くなるのが全体のリズムを停滞させているような、、、

岡田監督はいつの間にかジーコ監督のようになってきた
実績主義、リアリスト
熟成によりチーム力のアップを図るだけの

熟成、響きはいいけれど緊張感がなくなる
監督の一番の仕事は選手選抜
その選手選抜がこの頃「大丈夫かな?」と思えてならない
選んでも使わなかったり
森本はプレースタイルが岡田さん好みではないのに
選んでみたり
(森本のほうが岡田さんのサッカーに
 合わないかもしれないと言っていたことがあった)
体調不良の松井をこの時期使ってみたり
センターバックのバックアップをどう考えているか
いまだに不明

なんだかな
伸びしろとか可能性とか若さ
そういったものが感じられない

ブラジルでは国民総代表監督と言われるくらい
一言持つ人が多いと言われる
それに習うわけではないが自分も一言
ついつい文句じみたことを言いたくなってしまう

本当に岡田さんで大丈夫?
もう時間ないから、心中するしかない?



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案外面白かった歌舞伎「忠臣蔵」(素人による)

2009年11月15日 21時23分27秒 | Weblog
なるほど日本人に人気があるのがわかる気がする
それが今日地元の文化会館ホールで行われた
新城歌舞伎での「忠臣蔵」の印象

この地元の素人の歌舞伎公演
第22回とチラシには載っているのだから
ずっと続いているのだろうけれど
見たのは今回が初めて

今日は少年サッカーの練習もなく
ポッカリ時間ができたので
暇つぶしに出かけたという訳だが、、、

初めてづくしなので
話、内容に関心がいくのか
それとも素人の一生懸命さに目がいくのか
と思ったが、素人でもなかなかの熱演だったおかげもあり
話自体に集中できた

見たのは
忠臣蔵三段目「松の廊下刃傷の場」
忠臣蔵七段目「祇園一力茶屋の場」
元禄忠臣蔵「南部坂雪の別れ」

それほど期待していった訳でもなく
つまらなかったら途中で抜け出したり
寝てしまってもいいや
くらいの感じだったが
最初の有名なシーン「松の廊下」
ここでの若い人たちの初々しさが、
なんともかわいらしく
ついつい真面目に見てしまった

次の三段目は見所いっぱいの演目のようで
時々耳にする事はあるけれど
今日、一番楽しめたのはこれ

演じる時間も1時間くらい
名前だけは聞いた事のある「お軽」を中心にした物語
蔵之介(由良介)も当然の様に登場するが
ここでのお軽とその兄の物語、やり取り、感情の行き来
そうしたものは思わずジワッと来そうだった

父の様子を訪ねるお軽に、
丈夫にしていると答える兄
しかし、それは見ている人には嘘だと分かる
勘平の事についても同じ事
正直に話せない辛さ

そして仇討ちの計画の手紙を読んでしまった為に
お軽を抹殺しなければならなくなったが
どうしてもできない
ならばお軽が自分で、、、

そうなかなかドラマティックで
忠臣蔵が江戸時代から庶民の間で
どんなに愛されてきたか

それは仇討ちという本懐を遂げたからではなく
こうした普通の人たちの感情が
いつの時代も、どのような立場の人にも
同じ様に感じられるからだ

実際の赤穂事件は
自分は浅野内匠頭が一番評価できない人物で
仇討ち自体も47人もの犠牲者を出した現実は
それほど好きではない

しかし、物語としての
いや歌舞伎としての忠臣蔵は、やはり傑作に違いない
こんな風に素人が演じても面白かった

だが一番おもしろがっていたのは
演じていた連中かも?

「南部坂雪の別れ」は見ているこちらのスタミナ切れ
やはり一気にたくさん見るのはしんどい

だが機会があったら本当の歌舞伎も見てみようか
という気になったのも事実
という訳で、今日は「文化の秋」の一日だった
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オーバーティーチング(少年サッカー)

2009年11月14日 19時46分20秒 | サッカー
自分はゴルフをやらないが、聞くところによると
「教え魔」という存在があるらしい
しっかりした教え方を持っていなくても
あれこれと素人にアドバイスしたがる人のこと

人に教えることで自分自身の問題点も再確認できて
本人にもいい影響がある!
このくらいのことならいいけれど
単におせっかいだったり、自分が自慢したいだけだったら
教えられるほうは困ってしまうだろう
それが何人もいて、それぞれ違う事を言ってたりしたら
混乱するばっかりだ

それと同じとは言わないが
サッカーでも練習についても(少年サッカー)
教えすぎることもありはしないか?
と思う事がある

例えば攻撃の際、
一見パスの出しどころがない状況では
サポートをする、数的優位をつくる、第三の動きをする
こんな事を大人たちは子供たちに教えようとする

つまり大人たちは効果的な打開策を知っているので
それを教え込む訳だ

ところが打開策の中で挙げられなかったこともある
自分で仕掛けていってゴールに向かう
ということ

1対1で日本人が勝てないのは
普段そういった練習をしていないからではないのか

ブラジルでもオランダでも若いうちは
どんどん仕掛けていく(ディフェンスの連中でさえも)と聞く

ところが子供たちの試合でも漏れ聞こえてくる
コーチ陣の不満は「一人でやりすぎる」

つまりみんなで揃って攻撃したり守ったりしようということ
それが真のチームワークと思っている節がある

ところが現実的には
得点が入るシーンは個の力に頼る事が多い
(厳しい試合の時は特にそう)

サッカーはより多くの点を取った方が勝ち!
ならば、より効率的な点を取る方法が正しいのであって
みんなでボールを前に運んで
ゴールに向かおうというのは
必ずしも正解ではないのではないか?

とにかく言いたいことは
特に子供のうちは先走って答えを教え過ぎない事が
大事なのではないかということ
(子供たちが自分なりの解決方法を見つけるまで我慢したり
 アドバイスしたり)
たとえ教える事があったとしても
子供たちに気づかせるような教え方をすべきだという事
(頭ごなしに教えるのではなくて)

サッカーは判断のゲームと言われる
その判断が人に言われるままであったとしたら
それはつまらない!
自分で自由に判断できるから楽しい
(一歩間違えると勝手にもありうるが、それでも)

大人たちが知っている答えは
必ずしも正解ではなくて
単に答えの中の一つに過ぎない

その答えを教えすぎるのは
子供たちの可能性をつぶす事にもなりそう

だから子供たちに教えるとしたら
考える癖、感じる癖、自分の特徴の活かし方
そういったものを教えていきたい

しかし、なかなか主流にはなれない考え方のようだ
残念!
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避難場所(あるいは避難方法)

2009年11月12日 22時07分05秒 | Weblog
100年に1度の大不況
会う人会う人、特に中小零細企業の経営者や
社員の人の顔つきは、どうも沈んでいる

だからといって
根拠のない楽観論や希望は、
物事が分かりすぎる年齢になった人にはチト辛い

今一番必要な事柄は
「いかにして平静さを保つか!」
と言う1点に尽きるのではないか

理性的になって分析的になればなるほど
袋小路にはまり込んで
にっちもさっちも行かなくなってしまう

といって無責任に現実の直視を避けたとしても
忘れるのは一瞬だけ
どうしても抜けきれない厳しい今がある

こんな時、どうたって耐え切るか
お酒に助けを求める?
それも一つの方法 要は気持ちの持ち方と
開き直るきっかけになるかもしれない

あるいは理知的に考えに考え
何らかの解決法を探し出す
(しかし、みんなに見つけ出せるか問題だ)

もう一つはこの状況に慣れっこになって
不感症になってしまうこと
いい意味での開き直りを決め込むこと

まだまだ他にもいろいろ方法があるかもしれないが
いずれにしても、人それぞれの避難場所や
避難方法を見つけ出しておかないと
この現実は厳しすぎる
(流石に自分も例外ではない
 例外の人がどれだけいることだろう)
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話の内容と話す人、判断の参考にするのはどちら?

2009年11月10日 22時12分01秒 | Weblog
「あなた方に言われたくない」
と、つい本音を漏らしてしまったのが、鳩山さん
それが総理大臣として適切であったかどうかは別として
世の中には
「お前に言われたくない!」
といった例は数多くある

それらは言葉にすると一見正しい事
例えば
「挨拶をしっかりしよう」とか
「礼儀正しくしよう」とか
つまり誰も反論できない事柄を口にされたとき
表立って反論できないが為に
つい「お前に言われたくない!」と口走ってしまう
(あるいは陰に隠れて)

問題なのは、このように
残された言葉だけで人の判断はできないこと
いくら正しそうな事を言っていたとしても
その本人が、自分に甘く人に厳しいタイプの人物であったなら
他の人には、発せられた言葉も説得力を持たない

話は変わるけれど(いつもの事だけれど)
歴史上でも公式文書に残された言葉だけで
正しい判断ができるかは
先の例の様に、おおいに疑問の残るところ

つまりは裁判ではないけれど
反対の評価をする人の意見、見方も加味して
総合的に判断していかないと
人の業績の客観的な判断はできないのではないか?

もっとも歴史等は上のものが都合いい様に
書き換えてしまう
だからこそ正しい判断をする為には
敢えてアンチの立場の意見、資料を集める様にしなくては
いけないのではないか

それにしても残された言葉
しかも紙に残された言葉(内容)だけで
判断する事の恐ろしさはどうだろう


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報われない努力は、本当の努力じゃない?

2009年11月08日 19時29分30秒 | Weblog
結構安易にこの言葉は使われる

勝間和代氏も何かの本に書いていたような気がするし
一見文句の言いどころがなく、正しそうに響くけれど
本当かな?

でも報われない努力なんて、実はどこにでもある
例えば戊辰戦争での土方歳三の努力は
最終的な勝ちにつながらなかったからといって
本当の努力ではなかったと言えるか?

報われない努力もあるかもしれない
しかし、それでも努力する
(自分でできる事をする)
そして報われない時も、甘んじてその結果を受け入れる
この覚悟こそが人にとって大事なのでは?

報われる、報われないは他人が判断する事ではなくて
本当は深く自分の中で結論を下す種類の事かもしれない
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フルトヴェングラー トリスタン「愛の2重唱」

2009年11月07日 23時04分18秒 | 音楽
いわゆる名盤とういうものを繰り返し聴く事は
自分はあまり多くない
なぜならそのディスク(レコード)を聴いたときの圧倒的な感動が
改めて聴く事によって薄れてしまいはしないだろうか?
との恐怖心が働く為だ

フルトヴェングラー指揮のトリスタン全曲
フラグスタートとズートハウス フィルハーモニア管弦楽団のレコードも
そうしたものの一つ

特に第2幕の「愛の2重唱」のところ
猛烈にロマンティックで響きが尋常ではない

トリスタンは自分が最初に経験したオペラ(楽劇)
しかもバイロイトで

なんの予備知識もなく聴いた(見た)けれど
第1幕の媚薬を飲むシーンの緊張感
第2幕の「愛の2重唱」とブランゲーネの警告のところ
第3幕の前奏曲と「愛の死」などは無条件に印象に残った

それでいろいろトリスタンを手に入れた
最初がフルトヴェングラーのもの 次いで
カルロス・クライバー指揮 ドレスデン・シュターツカペレのもの
バーンスタイン指揮 バイエルン交響楽団のもの
ベーム指揮 バイロイト祝祭管弦楽団のもの
カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニーのもの

流石になかなか全曲を聴くわけにはいかないので
さわりの第2幕「愛の2重唱」を比較して聴くのだけれど
どうもこれが不思議
フルトヴェングラーのモノが一番録音状況はよくないのだけれど
肝心な音は一番よく聞こえるような気がしてならない

どのディスクも聴きながら解説書の歌詞と訳を目で追うのだけれど
フルトヴェングラー以外の演奏は横に流れてしまうだけで
どうも心に入って来ない

ところがフルトヴェングラーのディスクは
フラグスタートとズートハウスの歌唱がいいのか
ひとつひとつの言葉がしっかり心にしみ込んでくる
そして歌唱だけでなくオーケストラがまとわりつく様に饒舌に
あるときは歌唱以上の表現力をもって訴える

トーマスマンが「トリスタン」で書き記したシーンもこの「愛の2重唱」で、
ヴァイオリンの印象的なパッセージやフレーズ等は演奏家にとって
一番の腕の見せ所と思うのだけれど
どうも他の演奏は平凡としか言いようがない

物理的にどのディスクも同じくらいの時間が流れている
ということが信じられない
間違いなくフルトヴェングラーのものだけ
濃い時間の経過をしている

こわごわと、久しぶりに今日、
このフルトヴェングラーのディスク(レコード)を
引っ張りだして聴いたけれど
よかった!(ホッとした)
やっぱり以前の印象は消え去る事はなかった
それどころか、改めてフルトヴェングラーの偉大さ、魔術にはまってしまった

それにしても、今は新解釈万能主義で
このように全人格的に
物事を表現する人がいなくなってしまった
残念な事だ

この傾向はますます増加するだろうから自分としては
古いものを集めておくしか手はないのかもしれない
(リヒター、アラウ、など)

それにしてもフルトヴェングラーは凄い!


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