パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

本能寺ホテル

2017年01月31日 19時52分31秒 | 徒然なるままに

最近京都に行っていないから!
と言い訳のような理由をつけて京都が舞台の映画
「本能寺ホテル」を見に行った
本当は隠れ(?)綾瀬はるかファンなのかもしれない
「八重の桜」はしっかり見てたし、大した話題にもならなかった(?)
「万能鑑定士Q 」も見に行っている
赤ん坊のような黒目が目立つ、どことなく屈託の無いところが
気に入っているのは、間違いない

映画の内容はビルドゥングスロマン(教養小説)みたいな
ある女性の成長の物語
少しばかり成長のテンポが早かったり、気づきがすんなり行き過ぎるのは
お愛嬌、、お楽しみの映画だからこんなものでいいでしょう

タイムマシンみたいな時空を行ったり来たりも
どうやって話を持っていくかと注目したが、難しい事を
言い出すのは楽しむのを妨げるだけ、楽しければそれでオーケー
なんでも許してしまうぞ

本能寺とされるところにタイムスリップしたが
この庭何処かで見た記憶があるぞ
あの石の庭、どこだったかな、、、気になる
しばらく考えた
そこで浮かんだのが、重森三玲の庭のある東福寺の反対側の庭
、、のような気がした
こうなると、映画が終わってからのロケ地のクレジットが気になって仕方ない
いつもは終わったら明るくなる前に動き出すが
今回はしっかり確認した
すると東福寺の文字はあった
(しかし、あんなに回廊があったかな、、、)

映画は基本的に悪人が出ないから後味が良い
そしてやっぱり京都 さり気なく映る光景が良い
なんでそんなに惹かれるのかわからないが
とにかく、京都に行く度にほっとすると言うか
故郷に帰ったような気がする

舞台となった本能寺も、以前それを目的にではなかったが
あちこち歩いているうちにフトその看板を見つけた

見終わると近いうちに京都に行こうと決めていた
最近はマニアックなへんてこなとこに行くことが多いけれど
定番の清水さんもそのうち改修で見られなくなりそうなので
訪れてみようか、、
それとも清水の舞台より大きな舞台の将軍塚青蓮院(青龍殿)も捨てがたい
錦市場の杵つき餅やでこの時期のお雑煮も、、

旅は行く前が一番楽しいのかもしれない
ということで、今回の映画主役は綾瀬はるかではなくて
自分にとっては京都 だった

もちろん、綾瀬はるかは良かったけど、、、
(ホント、おっさん趣味だな)

 
 

 

 

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やっぱりわからない、現場に行かない理由

2017年01月29日 18時10分58秒 | 産廃

いつまでも気になっていることがある
それは自分だけがわからないのか、それともみんながわからないのか
どっちなんだろうと思われる事柄だ
それは一度だけでなく、二度耳にした
しかし、自分はその内容が理解できなかった

気になるが自分が理解できない問題とは
新城市長が南部企業団地の産廃施設から悪臭の出ている現場に出かけない理由だ
市長は昨年9月議会で、現地に行かないのは自分なりの考えがあるが
その理由をお話する、、という答弁をしている 
そして、確かに何かを話した

ところが、それがどういう意味なのかわからなかった 
部分的に記憶に残っているフレーズはあるが、それが行かない理由と
どうつながっているかが自分にはわからなかった
気になって仕方ないから市議会の議事録がアップされてから
読み直して理解しようと思ったが、時間が過ぎてやっと今読み返すことができた

しかし、やっぱりわからない
少なくとも人に説明できるほどその内容を理解しているとは言い難い
これは自分が理解しようとする気がなくて、最初から批判的なモードに
なっているせいかもしれないと考えて、この議事録をコピーして
何人かの知り合いに見せて市長の言わんとする事は何か尋ねてみた

その議事録を以下に紹介すると(議事録は山口議員の質問から始まる)--------------------------------------------------------------------

◯山口洋一議員

 それぞれ事業主、それぞれのラインの中での臭気の問題等があるわけでありますが、特に八名の企業団地についての問題等につきましては、6月の定例会で議員から、市長は現地に行かれたのかという御質問をさせていただきました。まだ、市長、ちょっと行っていませんよという御答弁をいただいたとこでありますが、その後、市長、現地に赴かれ、現場を確認されたのかどうか、お伺いしたいと思います。

 

◯穂積亮次市長 

私は、もちろん個人的にあそこの場所を通るときがあったり、別業務で通るときがありますし、そのときには気をつけておりますが、6月議会でお尋ねがあったのは、住民の皆さんから苦情等があった場合に、市長としてそこに出向いてその皆さんと一緒に臭い等々を確認することがあるかというお尋ねだったと思います。

 それに対し、私は自分なりの考えがあってそういう行動はとっておりませんと申し上げました。今現在もそれは変わっておりません。

 それを申し述べてもよろしいでしょうか。

   〔「市長、よろしければ」と呼ぶ者あり〕

◯穂積亮次市長 

はい。私は、自分が市長といたしまして、自分がどういう行動をとるか、また行動をとらないか。それによって、市の政治的意思を表明する、伝える局面があると思っております。

 端的に申し上げて、当該企業の南部企業団地への進出並びに操業について、私は市長としてまだ政治的に認めておりません。既に、平成24年5月に当該企業より南部企業団地への進出の打診があった際に、市長名において当該団地は製造業並びに物流業の集積拠点として考えている関係上、当該産業廃棄物関係は望ましくないので同意しかねるという回答を差し上げております。

 以来、市の基本的な立脚点というのはそこから変わっておりませんが、その後当該企業が競売によって土地を入手され、県に申請をされるという動きを始められました。そのときに、私どもは市の条例をつくらせていただきました。その市の条例の適用には残念ながらならなかったわけでありますが、当該企業の社長さんには、この市の条例の精神を順守してほしいということを申し入れ、当該企業の社長さんもそれを承諾をされまして、以後の交渉が続いてまいりました。

 条例の基本的な精神というのはどういうことかと申し上げると、法の照らす要件とは別途に新城市並びに関係地域との信頼関係を築く必要があるということ、そのために住民説明をしていただく必要があること、そして、合意に達した場合には、環境保全協定等を締結すること、また合意に至らない場合には、市があっせんをしたり、あっせんに関する考え方を表明したりすることがあるということ、こういうことが条例にうたわれております。

 今回の場合には、この条例の適用外ですので、当該企業は愛知県の許可を得れば法的には操業できるわけですし、関係地域の説明も、また市の同意も義務としては入っておりませんが、事柄の性質に照らして、私どもはこの条例に沿った行動をしていただくように求めてまいりましたが、その後、残念ながらそうした住民説明が行われることなく、また環境保全協定等も結ばれることなく、今日に至っております。

 そして、県の許可が出ましたので、いわゆる合法的、法的に、あるいは実態としては当該企業は操業されておられますし、それを市としては環境基準に照らして、今部長が申し上げたような対応をしております。

 私は、この問題で細谷でやられているときも、何度かいろんな方から問われたんですが、私自身は、当該企業はいい企業か悪い企業かとか、その臭いが許容できるかできないかということの判断でしているのではなくて、南部企業団地はあくまでも製造業、物流業の集積として市として考えていた以上、その立場からこれは受け入れられないという立場は一貫しているということを申し上げてきたわけであります。

 そして、それは今も、今も政治的には変わっておりません。もしも、これについて今後、例えばどうしても許容できない、あるいは県に何らかの市としての働きかけをしなければならないような状況になった場合、あるいは関係地域の住民の皆さんと当該企業との間に新しい何らかの信頼関係ができて、何らかの協定等々に至るような場合、いろんな局面があろうと思いますけれども、その実態面で、条例の精神に即したような方向、あるいはそれに重大な瑕疵があるので、それについて愛知県等に市として申し上げなければならないような事態が、当然あり得るだろうと思います、両面において、可能性として。

 ですので、現在のところ、私としては、市としては平成24年の5月の立場以来、基本的には変わっておらず、市の条例の精神の履行を求めてきたけれども、まだ残念ながらそこまでは至っていない。そういう立場から、市長としてどうこうということは、当該企業の存在を認めるという状況ではないということであります。

 しかしながら、実態としては操業しておりますので、それについて環境関係の職員、あるいは地域の職員が積極的に地域の住民の皆さんの苦情を聞いたり、あるいはそれに沿って関係企業に改善を求めたりすることはこれからも全力でやっていきたいと考えておりますし、そのように指示するつもりでございます。

 そういう観点から、私としては現在のところ、先ほどの答え以上のところ、出ておりません。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 

この議事録を読まされたかわいそうな知り合いは、部分部分は当たり前といえば当たり前だが
いろんな解釈をして自分に言葉を返した
だが、彼らが感じた全体を通しての印象は驚くほど共通していた 
それは「逃げている」「自分には関係のないこと」として発言しているということだ

ある人は安倍さんののらりくらりの発言のよう、論点を暈して、、、と言い
別のある人は県が決めたことだから自分には責任は無い、、、と言ってるようだと口にした
自分がわざわざ面倒なことに今更首を突っ込みたくない、、、と解釈した人もいた 

でも肝心な「行かない理由は何か?」といえば
ある人は、そのことには答えていないと言い
ある人は 、聞いた人が独自に判断するように言っているのでは、、、と
どうもバラバラだ
また「現地に行くことは認めること」で、
一旦認めると何かを市長はしなければいけなくなる、
それをしたくないから避けて行かないようにしているのでは
と想像した人もいた

この様に文字に起こして時間をかけて読んでも、その理解の仕方は
千差万別なのだから、この答弁がなされた議場では即時に
言わんとすることが理解できた人がどれだけいたのか疑問に
思わざるをえない

だから意地悪な自分は、この市長の答弁を
例えば総務部長とか環境課の担当者に
具体的にはどういうことか誰にでも分かるように
説明して欲しいと思ったものだ
(それを行ったとしても、果たして彼らも充分な説明ができただろうか?) 


上に立つ人は、わかりやすいことばで、わかりやすく言うのが
本来すべき行動なのだが、何故か新城市ではそれが行われていない
分かりやすく言えないのはキャラクターのせいなのか
それとも別の理由があってのことなのか、、、さて
 


 

 

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ずれる判断

2017年01月28日 08時08分56秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

俳句などでは平凡よりは独創的な発想や
独自の視点からの題材の捉え方が評価され重んじられる

しかし、視点や捉え方があまり個性的であっては困る分野もある
現状認識や、そこから生まれる感覚が個性的すぎて世間と異なる
というのは市民が生活をしていく上での感覚的な誤差は
埋めきれなくなって共感も得にくくなっていく

分かりやすく言えば、市政を仕事とする人々は少なくとも
感覚の上では一般的・常識的な判断力を求められる
(共通の現状認識をもった上での突飛なアイデアは問題はないが)

ところが自分の住む新城市では、かなり独自の判断をするお方が
それなりのポジションについている
そのひとつが、12月の本会議最終日に行われた柴田市議の
政治倫理審査会の報告に対する反対討論への評価
(政治倫理審査会の報告とは、市議会議員である打桐議員が
 議員に当選してから急に市が発注する水道工事の受注が増加したのを
 政治倫理条例に則り政治倫理審査会のメンバーが一定の措置をもとめたもの)

この最終日の柴田市議の反対討論は、凄まじいもので議事録の削除検討箇所のオンパレード
しかもそれだけに収まらず、政治倫理審査会の委員に対する侮辱とも
思える言葉が続いた
不穏当な発言があまりにも多すぎて、審議を一旦休んでその対処を講じたという出来事だが 
この誰もが不穏当、やり過ぎ、(実は条例の不理解が問題ではないか)と思われる発言が
(実際の現場でも議院間・傍聴席でも一時騒然となった)
その人の判断によれば「問題なし」なのだそうだ
これは白井市議のブログに以下のように書かれている (12月19日の投稿)

穂積市長が議会棟に出向くなど、議会対応に関与したかのような動きを感じる。「穂積市長と竹下総務部長が柴田議員の発言について話していた。穂積市長は、問題発言とは考えていないと言っていた」「穂積市長は、柴田議員の発言より、白井・加藤の発言の方がひどい」などの発言があったことを複数の議員から聞いた。

「普通の人が変だ!」と感じることが「ある人の目からすれば問題なし」
ということなのか

このお方の独自の判断は以前にもあった
それは、新庁舎建設の見直しに対する住民投票の選択肢に関すること
選択肢1.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し 

この選択肢は、市外の人だけでなく市内の人間でも何を言っているのか
分からない
庁舎の見直しが問われているのに、何故道路の話が出てくるのか、、
東新町桜淵線とはどこの道路のことなのか、、
普通の人は「問うている意味が分からない」あるいは「わかりづらい」
と判断する
しかし、そのお方は「私は分かる」と発言した

ところが、このお方は住民投票を行う際に3つの条件を要望していた
●わかりやすい選択肢とすること
●市民まちづくり集会を開催すること
●投票を18歳以上の人間とすること 

一番最初に「わかりやすい選択肢とすること」
としているのに出てきたのがわかりにくい選択肢で、それを問題視していない 

おかしな判断、その3
今も乗車数が伸びず空気を運んでいるとも噂される
新東名を利用しての名古屋直行バス
普通に考えると市場性や競争力の面でとても勝ち目がなさそうで
結局は市が借金の穴埋めをせざるを得なくなる
と判断されるこの計画が自慢げに計画された
(初年度の費用は国の補助金で賄うとしているが、予定数に達しない
 赤字部分はバス会社から不足分の請求が来て、多分補正予算に計上ということになる) 

おかしな判断、その4
新城市の南部企業団地では製造業でもなく物流業でもない
本来ならば許されるはずのない産廃業者が操業を行っており
地域では懸念された悪臭被害が出ている
トップ自らが現地に赴きその実情の把握に努め
その上で対策を講じる  というのが普通のあり方だが
その人はよくわからない理由で現地に赴く
という判断をしていない 

人の考えることはいろいろで、みんなが同じということは不可能だ
しかし、行政を進める立場にある人が一般庶民の共有する感覚を
「素人の考え」としてあまりにも問題にしないのは
いちばん大事な資質が欠けているのではないのか

意地悪くあら捜しをすればまだまだ出てくる
しかし、どんな立派な人もあら捜しをすれば
同じように問題点は出てくるから
人間というやつは理屈どおりには行かない
ということになるのだろうが 、それでもいろんな判断の元となる
現状認識についてこんなに判断が一般とずれるのは困る 

 

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同時進行(読書)

2017年01月26日 20時54分25秒 | 徒然なるままに

吉田秀和氏の「ベートーヴェンを求めて」という本は
ベートーヴェンが生涯を通じてあるテーマを利用・工夫していることを
述べている
同時に幾つかの作品を作曲していたことも取り上げている

作曲家という人々は同時に幾つかの曲を作り上げることが出来るようだ
いや作曲家に限らず小説等の作家も同時に幾つかの作品を書き上げるそうだ
松本清張などはピーク時には新聞・雑誌・書き下しなどものすごい
創作量だったらしい

しかし平凡な小市民で、味わうだけの自分は、なかなか同時に幾つかの
作品を読むことが出来ないでいる
癖もあるが、今まではひとつを終えないと次に行けなかった 
しかし、それではいつまでたっても次に行けないし、そのうちに
読みたい気分も失せてしまいそうで、最近はいくつかの本を同時に
読みかけにすることが多くなった

そして今、同時に気分次第であれこれ読んでいる本は
「それでも日本人は戦争を選んだ」加藤陽子著
「月の裏側 」(日本文化への視角)クロード・レヴィ=ストロース
図説「ウィーンの歴史」ふくろうの本
日本人の知りたい「ドイツ人の当たり前 」ドイツ語リーディング
幸い今のところ上記の本はすべて面白いというか興味深い
(心配なのは途中から読み直すのはいいが、
 前の記憶が確かかどうかということだが
 開き直って気にしないようにしている) 

いやいやこれだけではなかった、読んではいないが次の候補に上がるのが
「失われた時を求めて」プルーストの長い小説のコンパクトにまとめたもの
それに
「フルトヴェングラーかカラヤンか」テーリヒェン 

結局のところ、自分の部屋に乱雑に本が散らかることになっている
そんな様子はきれい好きの同居人はご機嫌斜めで、いつも何か言いたそう
(本で埋まっているというのが幸せな気分なのだが、、
 仕方ない、程々にしよう、、、そのうちに)
 

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長期休暇

2017年01月24日 09時38分07秒 | あれこれ考えること

ドイツ人と日本人はよく似ていると言われていた
真面目で忍耐強く紀律をよく守るなど、、
(最近はそれほどでもないかもしれないが)

しかし明らかに全く違うことがある
それは休暇について
ドイツではUrlaub(ウアラウプ)という長期休暇がある
大概は夏休みとして取られるようだが、国中が同時にとってしまうと
観光地や交通が混雑するので州をずらして休みをとるようにしているらしい

たまたま、ドイツに関する本を読んでいたらこんな文章に出くわした
「正規雇用されている人は、1年の間に3週間の連続した休みを取らなければなりません」

日本人なら「すごいな」と思うが、これが当たり前のように実施されている
暑い夏にリュックサックを担いでローマを歩いているのはドイツ人、
カナリア諸島で聞こえる言語はドイツ語ばかり
といったエピソードはドイツ人のこの休暇の過ごし方を表している

それにしても単純にすごいな!と感じざるを得ない
それで世の中が(ドイツの社会が)回っているという事実に!
日本だったらこんなに休むときっと不安が心に浮かぶ
それは休む本人も、雇用主としての経営者もそうで 
居心地の悪さすら感じることになってしまうだろう

と言っても実は日本人でも出来ることならこのドイツ人と同じように
長期休暇を取りたいと思っているに違いない
それができないでいるのは、システム上の問題もあるが
有給休暇の消化率が低いのと同じ理由とも重なる
つまり、休むことに気が引ける、、という感情

日本はキリスト教の国ではないから仕事についての考え方は
「労苦」の認識はない
それどころか「道(どう)」に通じる 精神修養にも繋がる
一生かけて追求するものとしての認識が大手を振っている
しかし、流石にすべての仕事にこの考えを当てはめることは
無理で、そのように考えるべき仕事もあれば、
稼ぐためだけの労働契約に基づく仕事もあるということで
一括りに仕事とは!と決められなくなっている

ドイツは、このきまりを守って何故、経済的にやって行けているのだろう
働かない3週間の仕事量の損失(?)はどうやってカバーしているのだろう
そう言えばドイツでは店舗の閉店時間も早いし、日曜日には開いていない店も多い
サラリーマンの労働時間もそんなに多くないようだ
それでやって行けているという事実、なんでできているのか
(日本人の働き方は効率が悪いのか?)
これが不思議で仕方ない

みんながそうやっているから、抜け駆けは出来ないし、しない
(個別の競争は公平に保たれる)
意外とこういう点が大きいのかもしれない
話は飛ぶが、日本の元旦からの店舗の営業
これなどは確かに便利な面もあるが、働く人の事を考えると
別に開いていなくても前もって購入しておけばいいだけのことで
働く人の負担をかけてまで開いていてほしいとは自分は思わない

特別手当をもらうよりは、ゆっくりと家庭で家族の顔を見ながら
のんびりして正月を過ごしたいと思う人もいるだろうし
むしろその方が人間的で良いのではとさえ思う
(仕事によっては休めない仕事もあるが)

みんなでやれば怖くない
みんなで同じように休む
そうすれば、それに合うように社会は勝手に工夫する
その結果、心配した休まない社会との経済的な差は
生まれなくなるのでは、、と夢想家は考えてしまう

確かに、非現実的な理想かもしれないが
ドイツがウアラウプをとって、それで経済・社会が回っていくのを
研究してそれを日本に取り入れる努力をする研究者・実務家が
出てくれば良いのだが、、

※と思いつつ、現在の非正規社員の割合の多さや賃金格差
女性の労働条件(収入)の問題などもっと優先的に
手を講じる必要なもののほうが多いけれど

 





 

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ジャケ買い

2017年01月22日 08時45分15秒 | あれこれ考えること

男はダメだな
美人とか少しばかりきれいな女性に弱い
テレビカメラマンもワールドカップの観客席にどんな魅力的な
人物がいるか、試合の前にチェックする事があるらしいし
高校サッカーや甲子園でもチアガール、ちょっと目立つ子をしっかり写している
先日の高校女子サッカーでも、優勝校の8番の女の子を
カメラはしっかり追っかけていた

音楽ソフトを選ぶとき、ついジャケ買いをすることがある
CD購入の際その誘惑に負けたということはないが、
そのお顔を見たくて結局コンサートに出かけたのがエレーヌ・グリモー 
(知性を感じさせる雰囲気がたまらない)
幸いプログラムも演奏も興味深いものだった

本を選ぶときもやっぱり同じ
最近購入したのが

帯に顔写真が 写っている三浦瑠麗さんの本

この人は「朝まで生テレビ」に出ていた(いつもいつも見る訳ではないが
たまたま見た時に出ていた)
現実を踏まえた、そしてかなり思い切りの良い発言で興味をもったが
Amazonでこの人の本を見つけたから、どんなものかとも思いで
とりあえず購入することにした
(帯の写真はありがたいサービス  いや商業的な効果を狙って)

肝心な内容はどうかといえば、それなりに面白い
先日読んだ宮台真司氏の本と比べると、深くはないが その分現実的で
何箇所かは付箋をつけて再読しようと思われる部分がある 

と言ってもまだ半ば
思い切り集中を要することもなさそうだから
近いうちに読み終えることができそうだ 

こうした本の選び方は邪道だろうけど、
どうも理屈だけでは人は行動するもんではないようだ
ホント、男ってやつは   しょうもない、、 

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議会運営委員会の傍聴 その2

2017年01月21日 11時00分55秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

昨日、新城市議会の傍聴に行ってきた
3月の市議会前のこの時期に傍聴できたのは議会運営委員会
3月議会の進め方等を話しあう場所だ
普段ならスルーするこの委員会
今回は昨年の本会議最終日、午後9時過ぎまで費やしたドタバタ騒動の
ひとまずの収拾・結論を出す機会であり、その成り行きを確認するために出かけた

ところで、本会議最終日のドタバタとは
具体的には、本会議において打桐議員に対して政治倫理審査会の下したの報告について
採決をとる前に、その賛成反対の討論を行われたのだが
柴田議員の20分ほど要した反対意見が議員さんだけでなく傍聴者、
いやおそらくそれを聞いた人なら誰でもが問題となると感じたに違いない発言が
行われ、議場が一瞬異様な空気に包まれ、
流石にこれを問題と考えた議会も一旦本会議の休憩をとり、その後の対応に
時間を費やしたという事件だ

この下りは、自分たちが選んだ議員さんの行っていることと
認めること自体が恥ずかしくて、また世間に対しても公表すること自体が
自虐的になる思いがして投稿できなかったことだ

問題となる発言とは一体何だったのか
その問題となる発言は結果的に削除されることになるのだが(全部ではないが)
「政治倫理審査会の怠慢」「責任転嫁」「勝手に決められると、、、」
「捻じ曲げております」「施設裁判」などの言葉を用いて、政治倫理審査会のあり方
進め方の関して苦言を呈しているものだ
それは自分たち議員で条例を作り、進めていく段取り(政治倫理審査会)を否定するものであり
ひいては議会を否定するものまでとなっていた

この記憶に残っている発言以外にも、まだまだ暴言は続いたが
昨日の議会運営委員会では、これらの暴言の一つ一つの削除等について
討論がなされた
(実際のところ言葉の削除で済むような軽微な問題ではなかったのだが)

ところで、以前この議会の状況をテレビ放映があったなら、
(現在の市議会の状況を示すものとして)どんなにか良かっただろうとしたが
それに替わるものとして議事録の閲覧がある
議会事務局に尋ねると、この柴田市議の訂正削除等が施された議事録は
市議会のホームページからは見られないが、一通りの段取りを踏んだのちプリントされたものが
市議会議員に渡され、そこから見ることが出来るほか図書館でも見られるということだ

また削除という作業が行われると文章の前後関係が辻褄が合わなくなるが
削除といってもその文字がなくなって、いきなり次の文章に繋がるというのではなく
削除する言葉は◯◯に置き換えられるということらしい
もっとも、それでも◯◯では意味が通じなくなることには変わりないと思うが

会議では丸山議長が論点整理として、
(1)政治倫理審査会(政治倫理条例)の不理解
(2)無礼な発言
と分けて対処すべきとの言葉が出たが、特に話されたのは(2)の無礼な発言について

しかし、ここでまたもや現在の市議会の実力を示すような発言がある議員からでた
柴田市議の発言は、そもそも反対討論であるから、その意図を効果的にあわわすために
また文脈の勢いで(今回のような暴言が)出ることはあっても良いのではないか
発言の自由という観点からもそう考る、、と
その意見の賛同者もいた

確かに反対討論ならば多少きつい言葉がでる可能性はあるだろう
しかしそれには常識的な限度がある
その節度を守った上での発言となるべきだ

ここで、浅尾市議の懲罰委員会について話が飛ぶが、浅尾市議が懲罰委員会に
かけられたのは地方自治法132条(品位の保持)新城市議会規則144条(品位の尊重)に
違反したからとなっている
地方自治法132条は紀律のくくりの中のひとつで
●普通地方公共団体の議会の会議又は委員会においては、議員は、無礼の言葉を使用し、又は他人の私生活にわたる言論をしてはならない。

ここで無礼の言葉とは、大半のひとがそう感じるであろうことば
(と説明を聞いた気がするがもしかしたら確かではないかもしれない)
いずれにしても常識的な範囲内で討論べきとなっている

新城市の会議規則144条(品位の尊重)は
●議員は、議会の品位を重んじなければならない。

やはりここでも同様なニュアンスは感じられる
そこには反対意見だから何を言っても良いという品のないことは否定されている

この2つの法律に違反するとして浅尾市議は懲罰委員会にかけられたのだが
そこでは単に浅尾市議個人の問題としてではなく、議員全体として
今後議会での発言は気を配るようにとの共通認識が図られたはずだった
しかし、翌日出てきた柴田市議の言葉は、懲罰委員会で共通認識をもったはずの
言葉ではなく、品のないものだった
そして、更に問題なのは「反対意見だから何でもあり」とまで言い切ってしまう人が
議員の中に存在するということだ

果たしてこの人達は、打桐議員の政治倫理審査会の報告書にある以下の文章を理解しているのだろうか

議員は、住民の選挙によって選ばれ、住民全体の代表者 として、多様な市民意思を市政に反映するニ元代表制 の一翼としての議会を構成する立場にあり、市民からは 議会の内外を問わず、常にその動向が注視されている。 議員は「選良」とも言い表されるように、常に住民に 対して高い識見と倫理観が求められることは言を待たない。

どうもある人物は議員さんになってしまうと、選ばれたという事実をもとに
一段高いところにいて、自分の考えが市民の考えと解釈し
市民の声を気にする素振りはなさそうだ
(実際のところこのニュアンスの発言は一昨年の住民投票の際に発せられた)

ところで、丸山議長が取り上げた柴田市議の(1)政治倫理審査会(政治倫理条例)の不理解は
丸山議長の個人的な意見ではなく、幾人かの市議からもでた言葉で、傍聴者でも柴田市議は
これらの条例を理解していないのではと感じるところだ
この日の傍聴席にいた柴田市議は彼なりの条例の理解の仕方をしていて何かブツブツと文句を言っていたが、
仮に柴田市議にこれらの条例に関するテストを行ったならば
「不合格」と判定がなされるのではないか
それは法の解釈は個人によって違うといったレベルを超えて、理解していないと
(素人でも)思わざるをえない

今回の問題は、問題児の引き起こした特別なレアなケースと言うよりは
収拾の仕方も含めて「新城市議会」の問題ではないか
無礼な発言に対するダブルスタンダードの対応など
一昨年からの議会への信頼の喪失(議会・議長はこれを認めている)を
どのように回復していくか、それは議会の自助努力によるしか無いのだが
それが現在なされているか、、といえば、
どうも議員さんは今年秋の選挙のことで頭がいっぱいのようだ
不用意な発言はしないようにしている(と思われる)議員さんもいる

これらの出来事は知らない人には
市政も議会もごく普通の日常が繰り返されているとの思いしか無いだろう
しかし、客観的に見れば
この1.2年の間に新城市では住民投票が行われ、
市長リコールの運動が起き上がり
他市ではめったに起きない政治倫理審査会が続けて4つも開かれて
何年も行われることのなかった住民監査請求が昨年の秋行われ、
その結果を受けて行政裁判にまでいたり、
市議会ではこれまた他市では見られない懲罰委員会が開かれ(しかも唐突に)
そして新城市南部工業団地では悪臭による被害者の会まで設立されたなど
起きなくていい事件がありすぎだ
この様に後から後からいろんなことが起こることはやっぱり普通じゃない
今起きていることは偶然ではなく、何らかの必然ではないのか
とつい考えてしまうのも無理はない

この普通じゃないという状態、だからなんとかしなくてはならないことを
どうすれば多くの人に周知できるのか、、
おせっかいに大上段からお知らせしても、
あまり面白そうなことではないし、細かな話すぎて面倒だし、、、自分には関係ない
と思われそうだし、、

でも住民投票の実施を選んだ、新城市民は最終的には目覚めるに違いない
「痛い思いをしないうちに」想像力をもって危険を察知し
その対策を講じるということに

オバマさんは去ったが、自分に向けてもあえて使ってみようかな
Yes,we can.

 

 

 

 

 

 

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嘔吐

2017年01月18日 19時41分35秒 | 産廃

「嘔吐」と言ってもサルトルの暗い、重たい実存主義の小説の話ではなく
現実の世界で身体的な反応としてよく見られる事柄のこと

新城市南部企業団地の産廃業者のタナカ興業に一昨年操業許可が降りて以来
しばしば心配されていた悪臭による被害が市役所に届けられるようになった

この悪臭は、被害届を出している人も認めているが
被害を電話連絡したときは我慢できないほどたまらなかったが
しばらくすると感じなくなるここともあるようだ 

これは彼らが嘘を言っているということではなくて
臭いとは元々そういうものだということ
ある物理量は風に乗って気ままに飛んでしまったり
ある場所に留まったりする
その時々で臭気指数は変化する
(何故か市が計測すると臭気指数以内と言うが) 

しかし最近、この臭いで「嘔吐」する人が何人かいたらしい
同じ場所にいても「嘔吐」をしなかった人もいたから
再現性やそれが原因だとは言えないとの考えもあるが
実は自分はこの臭いを嗅いで「嘔吐」しそうになったことがある

それは田原市の和地でのこと
そこは豊橋東細谷のタナカ興業の工場から運ばれてきた
肥料と称するものが積まれていたところ(悪臭の噂もあった)


疑り深い自分は、自分で評判の悪い悪臭を感じるまでは
産廃反対の人たちの言うことをそのまま信じたわけではなかったから
教えてもらったこの場所に来て確認するつもりでいた

最初は何も感じなかったし臭わなかった
大げさに騒いでいるだけなのか、、、と思いながら
その場所をぐるりと一周しようとした
ところが半周くらいして風下になった時、急に表現が難しいが
変な臭いというか違和感を感じた
とその時、身体は吐き気をもよおし戻しそうになった
そしてそれは一回では済まなかった
臭いを感じるとその身体的な反応は止むことはなく
何度も繰り返し、最後には涙目になった
戻さないためには息を止めて風下から抜け出るしか無い
鼻と口を塞いで早く風上に、、
そうしてやっと開放されたわけだが
この時の印象は鮮烈で「これはエラいことになる」
と思わざるを得なかった

この経験があるから今「嘔吐」する人がいた
という話は素直に認めることが出来る
そして南部工業団地のタナカ興業の近くを通るとき
フトあの戻しそうになった臭いを感じることがある
それは怯えとか恐怖になっているみたいとも思える

感じない人がいる、でも明らかに身体に変調を起こして
今までの生活を送れない人がいる

これは、数字がある時に規制値以内に
収まっているとかいないとかの問題では無いのではないか

まずは困っている人がいるという事実を
素直に現実を認めて、法的にとか測定値がどうのと言う前に
まずはその人達に寄り添う気持ちが必要なのではないか

この一番肝心な事実の確認をしないで
困っている人の思いを聞かない人が、自分の地区の
お偉いさんになっているという事実
(何度聞いても現地に行かない理由は分からない)
これは対外的に彼がどのように評価されようが
当事者としての地区に住む者としてはとてもつらいことだ

人に思いを馳せる
難しいことを望んでいるのではなく、単純に困っている人の
声を聞いてほしいだけなのに
どうしてこれが出来ないのだろう  あの人は

 

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聖地巡礼

2017年01月16日 20時11分56秒 | 徒然なるままに

最近アニメ絡みで流行りの聖地巡礼などは、馬鹿げた勢いにのった行動
などと斜めに構えていたが、思い起こしてみると
何ことはない自分も似たようなことをしていた

大好きなアントン・ブルックナーとベートーヴェン絡みの聖地
そこを目的としてわざわざ出かけていた(2013年と2015年)
ブルックナーはオーストリアのリンツにある聖フローリアン修道院とその周辺の風景
ベートーヴェンはウィーンのハイリゲンシュタットのまちなみと小川

しかしこれは単に自分の中で、そこに行ったという満足感だけでは終わらないでいる
というより、彼らの作品の理解が深まったような気さえする
ブルックナーの2番のアダージョや6番のアダージョを聴くと
聖フローリアン修道院のあたりの風景が頭に浮かぶ(何故か雨が降った光景)
9番のアダージョは教会の天井の絵(上へ上へと昇る構図の絵)を思い起こさせて
それらの楽曲は生まれるべして生まれるような気がする

ベートーヴェンも似たようなもので
ピアノ協奏曲皇帝の第二楽章やヴァイオリン協奏曲の第二楽章を聴くときは
ハイリゲンシュタットのエロイカガッセのまちなみの(なんてこと無い普通の道に過ぎないが)
映像が頭に浮かぶ

その場所に行って、そこの風景を見て、そこの空気を吸って
そこで話されている会話を聞いて、そこで食べているものを食べて
故人と同じ経験をしてみる、、
たったそれだけのことが、体験として深く刻まれ故人の心情への
理解に繋がる(思い込みであるにせよ) 

人が自分の身体の感覚を用いて生身に感じること
それを求めて多くの人が聖地巡礼をする
その気持ち、、なんとなくわかる、、、
(流行りだなんて馬鹿にしちゃいけない) 

 

 

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とても興味深い「まちづくりの哲学」(蓑原 敬・宮台真司)

2017年01月15日 17時14分12秒 | 

まだ途中、半ばくらいだが、この本はとても面白い(興味深い)

自分にとっては久しぶりの宮台さんの本だ
「まちづくり」と「哲学」の2つに分けると、この本は後者の方に重心がある(と思う)
「まちづくり」と言ってもどこかのまちの成功例を取り上げて、実行したスタッフの
苦労話を紹介するといった類の本とは全く異なって、そもそも良いまちとはなにかから
話はスタートする 

冴えない状況が続く自分の住むまちの打開策の参考にでもなれば
と読みはじめたが、これが自分にとってはとてつもなく面白い

読書の楽しみのひとつは新しい知識や情報を与えてくれること
ついで自分の中で整理できていない考えをスッキリとまとめてくれること
そして単純にその本を読む時間を楽しむこと(ミステリーとか歴史小説)
ということになりそうだが、この本は2番めの要素と最初の要素が
良いバランスで納められている
だから、「やっぱり!」とか「自分で思っていたことは特別なことではなく
既に当たり前のことなのか」と再確認するような場面にちょくちょく出くわす

新城市の議会報告会でも視察報告の際に告げられたまちづくりの話
「あまりにも土木的発想に囚われすぎていないか、、、」
と言った言葉、つまり駅前の再開発は結局は道路工事とかで
すべてがうまくいくと思わせるような発想がダメだということが
当たり前のように展開されていく
よいまちとは何か?
機能的でありさえすれば果たしてそれで良いのか
ひところの一気に増加した団地のような単機能なまちづくりは
果たして人間の生きるリズム・感情にフィットしているか
そんな話からいろんな方面に展開していく

ここで話されている事柄、進め方は「朝まで生テレビ」みたいな
色合いがある
だが、あれほどあっちこちに話が飛ぶわけでもなく、基本的には
大きな流れから逸れることはない

最近本を読む時に利用するようになった付箋
もう何箇所もつけてある
それらは実感として納得できるものとか
既に確定していることでありながら単に自分が知らないだけのことやら
絶対に頭のなかに入れておかなければならないこととか、、
いろいろだ
そして、いろいろありずぎて、一言では済ますことが出来ない 

良い本は読むことが楽しい
ウキウキして本に向かう
そして早く前に進みたいと思う反面、いつまでもこの時間のなかに
留まっていたいとも感じる

先日「戦争まで」加藤陽子著の本が多くの人に読まれると
世の中がやんわりと変わるのではないかと感じたが
この本もまちづくりの現場に携わっている人たち(特に現実的な作業を行う公務員)に
読まれると、まちづくりも土木的発想だけから抜け出させそうな気がするが、、

しかし、忙しくてすぐさま結果がほしいという現代人や
根気が続かなかったり、一見何の利用価値もなさそうなことに
想像力を駆使して読もうとするひとは、やっぱり多くはないのかもしれない

この本、最近読んだ本の中ではヒット作でもう今年の三冊の中に入りそうな雰囲気
とりあえず早く最後まで行きたい欲求を抑えることが出来ないので
少しばかり雑な読み方になっているが
あとで、付箋の部分を中心に再読することにしよう

全体の感想は、読み終えて機会があれば、、いつか

それにしても、頭のいい人は世の中にいるものだ
考え方は違うとしても宮台さんの博識ぶり・感情を伴う実感からの話の進め方、
世にある様々な考え方に関する理解力とそれを説明する能力
ホントすごい

先日、我々のグループの勉強会に講師として候補にあがっていたが
金銭の問題は分からないが、個人的には生で聞いてみたい人の一人だ


 


 

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