パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「適切に」という言葉

2017年05月30日 08時19分49秒 | あれこれ考えること

「忖度」という聞きなれない言葉が一気に主役に躍り出た今年の前半
お役人さんに関する言葉で比較的よく使われるのが「粛々」という言葉
これは国会だけでなく、市議会でも聞くことがあった

同様に、市議会でも国会でもよく耳にするのは「適切に」という言葉
この言葉はとても使い勝手のよい言葉のようだ
きちんと手続きを踏んで行っている(粛々と)の様に使われるがイメージだが
さて肝心な「適切に」と判断しているのは誰か?となると
どうも身内の理屈っぽいところがあって、果たして本当に「適切」だったかは
かなり怪しいのではないかとさえ思える
(最近の例では森友学園の文書管理等)

「適切」が、誰でも納得するような判断基準があるわけではなく、
当事者たちが独自の判断で「適切に」としているだけにすぎないように見える
問題は「適切に行われた」ことがらが、本当に適切だったかを確かめることが出来ないことで
お役人が「適切に」行ったと言う行動を「適切でなかった」と批判しようとしても
「適切でない」根拠は「適切である」根拠と同じくらい客観性を欠いている可能性がある

このあたりは、性善説に基づいていて人は文字通り「適切に」(あれこれ難しい理屈は捏ねずに
普通一般に感じるような意味合いで)行動してくれるものとしている体系があるのかもしれない

最近残念なのは、この共通項的な「適切な」という使われ方をすべき言葉が
使い勝手のよい言葉として、好き勝手に使われ気味なことだ
そこには全人格的な人が存在せず、
単なる技術者(専門家)としての知識・技術が要求され、それ以上のことは
管理に面倒なことが起こるので要求されない傾向があるのではないか 

お役人さんも1人の生活者
家族もあれば、同僚も上司もいる、そんななかで「適切に」判断するのは
該当案件の法的な都合だけで終止するわけではない

今の官僚の人たち、大変だな、、
本当に当たり前に「適切に」判断し、行うことが出来れば
もう少し世の中はスッキリしそうな気がするが、、 

とまあ、よくまとまらない独断と偏見の独り言、、

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報道の方向性

2017年05月26日 14時30分33秒 | あれこれ考えること

昨日の夜から今日の朝にかけて、朝日新聞や民進党が手にした
「総理の意向」とか「官邸の最高レベルが言っている」
と書かれた 文書は存在するし、自分はこの目で見ていると答える
前文部省事務次官の前川氏のインタビューの様子が数多く流されている 

それが本当かどうかは、ここでは問題としない
そしてその意味が具体的にどういう意味かも考えない
ただメディア(テレビ局)がどのように映像を流したかに注目する

この日は暑い日だったのか、マスコミが多数集まったせいで人息で熱くなったのか、
それとも緊張のせいか前川氏の顔から汗が流れ落ちていた
それを映すのは問題ない
しかし、あるテレビ局は「出会い系バーに行ったことはありますか」と聞いた質問のあとで
顔の汗を拭う前川氏の映像を大きく扱った
それは見る人に、この質問で前川氏は顔から汗が出たと思わせるのに充分な映像だった

しかし、よく見ると前川氏だけでなく隣にいた弁護士も顔の汗を拭いているシーンがあり
単純にこの会場は蒸し暑かったのかもしれないのだ

テレビ報道は編集という作業があり、そのやり方次第で人にあるイメージを植え付けることができそうだ
そのことを扱った小説に「破線のマリス」というのがあったのを思い出した

今回の事件に関する報道は、かなり奇妙だ
怪文書とか存在しないと言いながら官邸はそれをリークしたのが誰かは早くから知っていた
そして、既に現役でないその人の下半身スキャンダルを思わせる記事を読売新聞は大きく扱った
それは官邸からのリークとの噂がある
また話は変わるが、憲法についての安倍さんの考え方は「読売新聞を読んでくれ」
と、ここでも読売新聞で少しばかり特定メディアに偏っている 

また森友学園騒動の籠池さんの証人喚問のとき、例の谷さんのFAXは
まだ誰も手にしていないはずの段階で、フジテレビに山口敬之氏が持参して(官邸から入手?)
その解説(0%回答との)を昼の時点で行っていた
この山口敬之氏のフェイスブックの写真は、この人がどういう立場とかが
無防備と思われるほどはっきり分かる(安倍さんの写真が大きく扱われており、まるで応援団のようだ)

つまりは客観的とか公平と思われているメディアもかなりそれぞれの色合いがあるということだ 

メディアリテラシーという言葉がある
ウィキペディアによると

メディア・リテラシーmedia literacy)とは、世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、そのを見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言え、カナダ・イギリスおよびオーストラリアでは、カリキュラムに取り入れるよう国の政府が指定している。アメリカ合衆国での扱いは、州によって異なる。アメリカ合衆国以外では、メディア・リテラシーが単に「メディア教育」と呼ばれることも多い。

「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もあるがこの項では主に、「情報を評価識別する能力」「情報をクリティカル(批判的)に読み取る」という意味でのメディア・リテラシーについて記述する。

メディア・リテラシーで取り扱われるメディアには、公的機関やマスメディア新聞テレビラジオ等)を始め、映画音楽書籍雑誌等の出版物インターネット広告等、様々なものがあり、口コミ(口頭やブログ等)や各種の芸術等も含まれることがある。


現代の日本はこの能力が必要になっている
もっとも多くの人は既に、読売新聞・日本テレビ・産経新聞・フジテレビと
朝日新聞・テレビ朝日・TBS・東京新聞(中日新聞)の方向性の違いを知っているかもしれないが

メディアの報道の仕方、方向性
それはしっかり見守らねば、、(そのうえでしっかり判断しなくては)
そして評論家や解説者の言葉を安易に自分の考えとしないようにしなくては、、 


 

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読書家と収集家

2017年05月25日 09時30分31秒 | 徒然なるままに

以前、本を膨大に所有している人を知った
特別に部屋を作って、そんじょそこらの地方の図書館には
負けないほどの量ということだった
ところがその人に聞いてはいけない質問があった
「その本は、読まれたのですか?」

当然のことながら、膨大な物理量では読めるはずがない
そのように聞くのは嫌味とか失礼に当たるが
当人にとっても少しばかり心苦しいところがあるのかもしれない

結局、世の中には読書家と収集家がいるということ
本が多いと言っても、そのスタートはかなり違う
本の中身を自分ものとしたい人、コレクションとしての充実を図りたい人
確かに集めだすといろんな連想が湧き上がって、ますます収集に拍車がかかる
と言うのは何となく分かる

同様なものに音楽のソフトがある
自分も本と音楽ソフトに囲まれた空間がとても心地良いと感じる一種のオタクかもしれない
でも、どちらかといえば、それらを体験して良いと思ったものに囲まれていたい
これらを読んだんだ、とか聴いたんだ、と自己満足に浸っていたいだけかもしれないが

しかし、最近困るのはその気になって購入した書籍や音楽ソフトが
収集家の様な扱いになっていること
気力・集中力・記憶力が続かず最後まで読めなかったり
つい気分が乗らず聞く気になれないままでいたり、、

もったいないな、、と思いつつ、これも悲しい現実
仕方ないか

毒にも薬にもならない話 

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「神仏習合」(全然覚えていないので本を購入、読んでみた)

2017年05月24日 09時03分37秒 | 

どこかの誰かさんが美しい国と言って
明治時代を手本に復古したいような雰囲気だが
その明治時代は、それほど正しいものとしてだけ評価されるものなのか
その再評価は必要かもしれない
(第二次世界大戦もその延長上にあるのだから) 

アフガニスタンではかつてタリバンがバーミヤン大仏を破壊した
人類の貴重な遺産として残すべきものを、偶像崇拝を認めない原理主義の
一部のイスラム教の人が 取り返しのつかないことをした

そのニュースを日本では、馬鹿なことを、、、
と他人事のように反応しただけかもしれないが
かつて日本も明治時代に廃仏毀釈というタリバンと似たようなことを起こしている
(あの井伊直虎絡みの龍潭寺も被害を受けている) 

物部氏と蘇我氏が仏教の取り入れについて闘い
結果的には聖武天皇が奈良の大仏をつくるまでにいたり
また奈良・京都には門跡といわれる皇室の関連した寺院が数多くある
その仏教をいきなり否定する思考
それは確かに明治から始まったものではないかもしれないが(江戸時代から兆しはあった)
何故、そんなことになったのか、、、を考える前に
日本の仏教と神道の関係が、そもそもどんな関係だったのか興味が湧いて
こんな本をAmazonで購入した

「神仏習合」義江彰夫著 岩波新書

「神仏習合」は中学・高校の歴史の授業で聞いたはずの言葉だ
しかし例のごとく 悲しいくらい何も覚えていない
実はこの本とは別に同じタイトルの本を図書館から借りてきている
同じ内容の本を3冊読めば、理解できるようになる、、という言葉があるが
とりあえずの2冊というところ

そして、急ぎ足でざっと読んでみた(なにも慌てることはないのだが)
なるほど、この本は現実的な視点から「神仏習合」を捉えている
宗教的というよりは政治的な、もっと言えば税金を集める効果的なシステムとしての活用
が書かれていて、これは、現代人の自分にはとてもわかり易い、、、
人というやつは、いつの時代もしょうもない、、、と思いつつ
読後時間が経つと、この視点からだけ物事を捉えて良いものか、、とも気になった
背景にある世の中の気分、そうしたものの大きさを政治上の解釈だけで説明できるか
神仏習合を求めるメンタリティは、、本当は何処にあったのか、、、

もっともこの本でもそれは充分書かれている(かも知れない)
ただ最初の税金を集める手段としての解釈の印象が強すぎて、
他の考えになかなか方向転換できない

まだ図書館から借りてた方(逵 日出典著)は読み終えていない
こちらの方は政治的な視点からと言うよりは少しのんびりした視点
とりあえず、読み終えてわかった気分になろう

ところで先日読み終えた三島由紀夫の「奔馬」
この中には、仏教を嫌う国粋主義者の話が出ていた
自分にはよく理解・共感できないこの一本気な思考が
なんとなく現代にもあるような気がして、、、少し不安

日本人が試行錯誤で、曖昧な、しかし暮らしやすいシステムを
作り上げたかもしれない「神仏習合」
もう少しお勉強する価値はあるかもしれない

 

 



 

 

 

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ちょっとした違和感 議会改革検討会議

2017年05月23日 10時41分20秒 | 市政、市議会に関することなど

新城市の面白くないマニアックな話題
でもこの秋の選挙を控えて、もしかしたら大事な問題とも考えられるので
ちょっとしつこいが自分の別のブログからの手抜きのコピペ

以下コピペ部分

何回目になるのか忘れてしまった新城市の議会改革検討会議
昨日(5月22日)10時スタート時点では、(とりあえず)メンバー全員が出席
途中で村田市議が所要のため退席(30分ほど経過の後)
傍聴議員は山口議員と打桐議員の二人で
打桐議員は途中退出、山口議員は最後まで残った
依然として一度も傍聴に参加しない議員さんはもう一人のYイニシャルの議員だけ
最近よく顔を出している議長の下江市議の姿はこの日は見えず

少しばかり面倒な細かな話だが、新城市の議会基本条例の最後の方に
26条 議会は、この条例の目的が達成されているかについて、全員協議会で検討するものとする
2 議会は、前項による検討の結果に基づいて、この条例の改正を含む適切な措置を講じるものとする

今回の議会改革検討会議の設置の理由はこれだ(表向きには)
期間は設定されていないが、見直し作業は必要とされており
現実には今まで新城市議会は議会基本条例を一度も検討も見直しもされていなかった
そこで、じっくり見直そう、、、としたようだ、、、が
(ここで、全員協議会で検討する  とあって、それがされていないのではないか
との疑問が一時期ある議員から声が上がったが、それは自分は忘れてしまったが、
何かをその代わりと解釈することによってクリアしている、、、としたような、、、)

とにかく、一度も見直していないことを腰を据えて検討しようということになった(白井市議の希望?)
ところが、それは良いとしても問題があまりにも漠然としていて、
具体的にどのように話を進めていっていいかわからない

そこで最初にこの検討会議の進め方を決めた
それは、先進事例という評価の高い、いずれ新城市にも必要になるであろう項目を
何回かに分けて勉強して、メンバーの共通認識とし、その上で具体的な案
(これも漠然としていているので勉強頭の白井市議がたたき台を作って)
条文の訂正や追加を検討しよう、、という進め方で先日の第4章のあたりまで来た

普通なら、このまま続いて5章(議会と市長等執行機関の関係)と行くところなのだが
この日は何故か、すぐにはそうとはならなかった
それは先回の4時間半も時間を要した会議への反省といえば聞こえは良いが
どうもそうではなくて、いきなり、話を検討会議の進め方をどうするか、、、となってしまった

時間ばかりかかってしようがない
そもそも、そんなことまで書き込む必要はあるのか、、
何故、議会改革が必要で敢えて書き込むことによって市民にも
また新しく議員となった人にもその精神を円滑に伝えることができると理解すべき
いやいや、それは基本条例の追加訂正ではなくて、細部の関連する条例を書き換えることでカバーできる
しかし、そんなに拘束力のない細部の規則で物事を進めてしまって良いのか(法の解釈でなんとでもなることで良いのか)、
それに、今まで共通認識としてきた勉強とか、今後あるべき姿の認識は、、
ならば今までここで何をしてきたのか、、、

この日は1章からやり直そう  という中西委員長の突然の提案があったものだから
以上のような終わりのない(?)議論が約一時間弱続いて、またもや長時間の会議か
と懸念されたところだ
しかし、このやり取りは見ようによってはなかなか面白いものだった
何故、突然こんな話が出てきたか、、、(委員長と副委員長は進め方の打ち合わせが出来ていなかったらしい)
それをあれこれ想像する事ができたからだ

それは早々と退席した村田議員の言い残した発言にヒントがあるかもしれない
「自分は議会改革は政治倫理審査会の改正と先例集の改正をするものだと認識していた
 あとは変える必要なし」

この発言は昨年の千郷地区の議会報告会で下江議長の発した言葉につながる
その時の発言は政治倫理審査会の設置を制限するようなニュアンスで、
問題は条例にあるのではなくて議員のモラルとか資質にあるのであって
議員一人ひとりがしっかりすればいいだけのことなのに、何故直そうとするのか
と違和感をもったものだ

その記憶が蘇った
そして、実はこれこそが自分が一種の危機感をもって、
面倒なこの検討会議をチェックしている理由なのだ

議会改革検討会議の目的は、額面通りの正面突破の真面目な取り組みではなく
もっと別の意図があるかもしれない、、という不安
今まで表向きに反対できない正論で進められてきたことに対するどこか妙な突然の
方向転換の様な話
(この議会改革検討会議を開くように指示し、仕切っているのは本当は誰たちなのか)

これは独断と偏見、あるいは思い込みの一言で片付けれれるかもしれない
しかし、何故かそれはそんなに間違っていない、、という気がする
とにかく、違和感のある、どこかひっかかるものがある会議だった

バタバタしたものの今までの進行を踏まえることにして、
結局5章(議会と市長等執行機関の関係)に入ることとなった
この部分は素人にはイメージしにくい
かなり技術的な問題で、議員さんの経験によるイメージと素人の言葉の解釈は
かなり違うだけでなく、そこに関連する条例に関する知識量も違う

ということで、ここの部分はいつものように白井市議のブログで解説してもらうことにして
いきなりパス(それにやっぱり議員さんと同様な印刷物は手元にないので余計わかりにくい)

それにしても、現時点における進み具合や確認事項が
メンバーの間でもかなりの差があることに驚く
メンバーの中ですらこうなのだから、他の議員さんに変更の意図とか精神は
伝わるのだろうか、大いに疑問
そしてやはりこんな難しいことを市民に聞かれたって(パブリックコメント)、、、、
それが段取りとなっているということなのだが、よくあるように段取りの瑕疵はないが
内容についての瑕疵はわからない、、、みたいなことになりそうだ

ところで一度も検討会議の傍聴に来ていないY議員(厚生文教委員長)
市の組織変更に伴い、産廃問題を管轄する環境部が経済建設委員会から
厚生文教委員会の所轄に変更になったのだけれど、
担当部署(行政)から充分に聞いているから経済建設委員会からの引き継ぎは(レクチャーは)
必要なしとの判断で、経済建設委員の方からの話は聞かなかったらしい
このようにかなり独特な判断をする議員さんだが、これで大丈夫かな?
ゼロベースで産廃問題は考えると言っていたが、ゼロベースとは、、なんだろう

 

 

 

 

 

 

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小さな木のトンネルの季節

2017年05月22日 08時41分57秒 | 徒然なるままに

例年より少しだけ遅かった庭の新緑だが
今は葉っぱの色は薄緑から濃い緑に変わりつつある 
色の変化だけでなく、葉っぱも勢い良く伸びて
ちょっとした道に木陰ができるほど生い茂っている

わざわざ写真に撮るくらいだからお気に入りの状態なのだけれど
どうも同居人には御気に召していただけない
「伸びすぎるのは嫌だ!」「なにかうるさい感じ」「早く切りたい、、」、、

困るな、自分は日差しから避けて、木漏れ日の中の涼しい感覚を味わうのが好きなのに

今、ものすごく元気なのはシラカシの木、赤っぽい新芽が後から後から伸びてくる
ついでハシバミも生存競争に打ち勝つような枝の伸ばし方
エゴノキもようやく本気を出してきたようだし、
いつも元気のないカクレミノも今だけ復活しているみたい、、
木々全体が生命力みたいな勢いが感じられて、その中に佇むのは心地よい

でも、きれい好きのスッキリしたのが好きな同居人は、、、

以前、知らない間に庭師さんに頼んで、バッサバッサと刈り込まれれてしまったことがあった
その時は、本当にショックだった
せっかくここまで生きてきたのに、、伸びてきたのに、、、
そのスッキリすぎるくらい刈り込まれた姿を見るたびに落ち込んだ、、

それで、あまり刈り込みすぎないようにするため
昔からある日本庭園用の庭師さんとは別の庭師さんにこの雑木林の剪定は依頼している

成長期の今は剪定しても直ぐに伸びてしまって無駄になりそうなので
その依頼は、もう少し後になる

鬱蒼としたのが好きだと言いつつも、バランスよく剪定された後の姿を見ると
床屋さんに行った後みたいで気持ちよく感じるのも事実
何事もバランス次第!ってことかな
 

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美女には弱いのは仕方ない

2017年05月21日 16時37分57秒 | 徒然なるままに

自分はゴルフはしない
でも韓国の美人の選手は知っている
イ・ボミ 、アン・シネ、それからキム・ハヌル
もっとも誰が誰かは見分けがつかないかもしれないけど

ゴルフはしなくてもテレビ画面をついつい見てしまうのは
男の身とすれば、仕方ない、、

ガソリンスタンドのオープンにミニスカートの女性が旗を振ってると
ついフラフラと入ってしまいそうになるのとよく似ているが
このオープンイベントは男の心理をよく掴んだ戦術で、上手く載せられてしまう

しかし、整形をしているかどうかは知らないが韓国の人は
美男美女が多いな
女優さんだから美人は当たり前としてもチェ・ジウとかキム・テヒとか
単純にきれいだと思うし
男優もペ・ヨンジュン、イ・ボンヒョン とか、サッカー選手だってアン・ジョンファンは
きれいな顔立ちだった

こうした美男美女は国を問わず人気が出る
軽薄と言われようが、理由もなく憧れたり親近感を持つ
そこには面倒な隣国同士の政治的なやり取りはない
ただ単純にカッコイイとか、その人を知りたいと思う

それがもう少し進むと、その国のことやその人の故郷のことも知りたくなる
平和って、現実的にはそういうところから始まるのではないのかな、、
ビジネスとして日本で活躍する人も、いざ懐に入ってその地の人柄等を知れば
自分たちと違わない感情を持つ人達だと気づくだろう
同様にこの国も人も、同じだ、、と感じるようになる

ということで、いちいち美人のゴルファーのテレビを見る理由づけしてるが
男ってやつは、、、仕方ないか
 

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しっかり働いてくれ!(選挙のことばかり気にしないで)

2017年05月21日 08時41分53秒 | あれこれ考えること

 東京都議選だけでなく自分の住む新城市でも10月に行われる選挙モードになりつつある
市長候補・市議会議員候補 それらの名前は一部の公式な発表を含めて
密やかに、いやおおっぴらに噂になっている

よく言われることがらに「悪い議員も市長も選んだのは自分たち」
という自虐的な言葉がある
次にはしっかりと慎重に選ぼう
と、とりあえず反省するのは良いとしても4年間の任期がある

はじめのうちはアラは見つからないかもしれない
しかし、やっていくうちに何か自分たち(投票した人)の思いと違って
期待した通りに働いていてくれていない
選択が失敗したと感じることが多くなってくることがある

そしてその人たちの判断ミスが、耐えられなくなるほど多くなり
(みんながみんなそのように判断するわけではないが)
次には彼らを選択しない、、との判断をしようとしても
次の選択(選挙)までには、あまりにも多くの時間の経過が必要だとしたら
その時、人は何をしたら良いのか、、、

相変わらず、次は間違えないようにしよう
だけでいいのか、それとも他になにか手段はあるのだろうか

残念ながら現在の新城市の首長さんも市議会議員さんも
当事者の立場から見ると(外からの評価ではなく、実際に生活に直結する身の判断としては)
誇れるものではない状況だ
それはここ数年のドタバタ(住民投票・市長リコール問題・住民監査請求・市長相手の行政裁判・懲罰委員会設置・政治倫理審査会の頻繁な設置・南部企業団地の産廃業者からの悪臭被害)でハッキリしていて、
特に独断と偏見で辛口の評価をしているということではなくて
どちらかと言えば騒動自体が普通なら起きるべきものでは無いにもかかわらず
(他市ではそんな騒動は一向に起きていない)
頻繁に起きているという客観的な事実から、今の市政は普通じゃないということになりそうだ
(春香クリスティーンは新城市はピンチなのですか?と聞いた) 

そこで、今年の秋の選挙での判断ということになるのだけれど
10月末までの、この期間、人は「次の選択のための材料集め」
だけに終止して良いのだろうか
ほかに何かすることは無いのだろうか

議会は行政の監視・チェック機関と言われる
一応市民の代わりにそうした業務をしてもらうことになっているが
さて今度はその議員さんたちの監視・チェックはどうなっているか
といえば、それが4年に一度の選挙と言うかたちでしか表現できないとしたら
それは一種の機能不全ではないのか

選挙の時だけ市民が議員さんや首長さんを評価するのではなく
任期期間がしっかりある時に、人は何をしたら良いか

その答えのひとつは馬鹿みたいに「彼らにしっかり働いてもらうように言い続ける」
のではないか
特に選挙直前のこの時期、こうした市民の意向を聞かないとか無視するとなると、
マイナスの要因になりそうなので、いつもよりは聞いてもらえる可能性が高い、、、
と思われるが、それでも今は失敗したくない、、と思う気持ちのほうが強くて
聞かないふりをする可能性もあるかもしれない

ごちゃごちゃ言ってるが、とにかく任期中はできるだけ誠実にその仕事をしてほしいだけ
そうしないと、ひどい目に合うことになると思うのだけれど
(口先だけとか言葉だけでは、もう通用しない判断力と知恵を一部の市民は持つことになってしまった
それが幸せかどうかは、、、わからない) 

日曜の朝、ちょっと愚痴じみた独り言

 

 



  

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上司の命令に従う義務(何が何でも従わなければならないか?)

2017年05月19日 08時34分40秒 | あれこれ考えること

今年の流行語大賞にノミネートされそうな言葉「忖度」
この言葉と同等に関心が湧くのが官僚という人々の仕事ぶり
国会の質疑の応対も、なるほど「ああ言えば、こう言う」で
とりあえずの言葉の上での勝負はなかなか土俵を割らない賢さ
頭の良さを実感する
(それが本当に頭が良いのか、人間的にどうなのかは別問題で、実はそれこそが
 官僚システムらしいが) 

この官僚の仕事ぶりにに関して、以前地方公務員である新城市の
職員の仕事ぶりを法的に調べごとをしていた時に、公務員の宣誓書
というものを知った

公務員という方々は、公務員となった時点で宣誓書に署名することになっている
例えば国家公務員は

 宣誓書
   私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。
     年月日
                     氏名

という形式で提出される事になっている

ちなみに、地方公務員である新城市の宣誓書は

宣誓

 わたくしは、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、かつ、擁護することを誓います。

 わたくしは、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に職務を執行することを誓います。

 年  月  日        氏名 印

 

一見当たり前の様な、心構えの確認みたいなところがあるが、国家公務員の方には地方公務員のそれとは違って
途中に「 上司の職務上の命令に従い」の言葉が入っている

この一文は多分、国家公務員法の以下の項目に書き込まれている事が元となっている

法令及び上司の命令に従う義務並びに争議行為等の禁止)
第九十八条  職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
 
長々と前書きをしたが、実はこれが官僚という方々の、国会での苦しい答弁をする理由となっているのではないだろうか

職務上、上司が命令したこと(それがどのようであろうとも?)に忠実に従わなければならない
だから、知恵を絞って誰もが(普通の感情をもった人が)おかしいというようなことも
専門的知見では適切に(これも官僚用語のようだが)行っていると、平気で心の痛みなく答弁する
 
いや心の痛みはあるかもしれない
しかし、法的には逸脱して行為ではないと自分で自分を納得させている
それは一般人の感情的な評価とは別の高次な判断の下で行っていると思い込もうとしている(かも知れない)
 
しかし、よく考えてみると実はそんなに大げさなことではなくて
「忖度」にせよ「上司の命令に従う」にせよ、結局は自分自身のために
自分自身の利益のために行っているにすぎないのかもしれない
いや究極のところそうだろう
 
どんな理屈をつけても人は「利己的」となりやすい
利己的でないと証明するためにあれこれ法的なことを持ち出すが
そもそもそうした法律を作らねばならないところに
どうしようもなくコントロールしきれない現実がある
 
それにしても、人の感情、およそ誰もが持つであろう感情を排して
上司の命令に従い続ける、、、と言うのは、ストレスが溜まりそうだ
(これは公務員だけでなくどこでもそうかもしれないが)
 
ところで、地方公務員の新城市職員の宣誓書には「上司の職務上の命令に従い」
の言葉は入っていない
ところが、地方公務員法の中には
(法令等及び上司の職務上の命令に従う義務)
第三十二条  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。
 
となっており、国家公務員のように上司の職務上の命令に従わなければならないことになっている

でも宣誓書にはその言葉が、抜けている
何故なんだろう
法律には書き込まれているのに、敢えて除いているのだろうか
そこには何か特別な理由があるのだろうか、、
 
とまあ、どうでもいいことをダラダラと書いてきたが
ここのところがスカッと理解できていない分だけ
以前からもやもやした気分から抜けきれない
ほんと、どうでもいいことだけど、、
 
 
 

 

 

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「奔馬」やっぱりよくわからない三島由紀夫

2017年05月18日 20時05分15秒 | 

「奔馬」を読み終えた
学生時代からの二度目だ
「春の雪」を読んで時間が経っていないので 
前作で仕込んだエピソードは思い出す事ができたし
次に繋がるだろうエピソードもなんとなく予想がついた

しかし、よくわからない
というのが読後の正直な印象
まず前提となる「純粋な美しさ」なるものがよくわからない
そして「切腹」につながる死へのあこがれみたいなもの
それらがほとんど理解できない

神風連のエピソードの後半は、切腹シーンの連続で嫌になるくらい
これは森鴎外のなんとかいう小説にもあったが、時代背景とか時代の空気というのか
今の自分にはとても理解できない

確かにイメージを喚起する文章はしばしば存在する
でも、相性が良くないから全然心に響かない

ついで「暁の寺」に行こうと思ったが、どうやら気持ちは離れている 
「暁の寺」よりは今は現代語訳で「源氏物語」でも挑戦してみようか
という気分の方が強い
いやマンガの「あさきゆめみし」の方がいいかな(図書館にあればの話だが) 

いつもの、どうでもいい話!

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