パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「三角縁神獣鏡」と「STAP細胞」

2014年01月30日 19時41分40秒 | あれこれ考えること
今朝の新聞は、久々に気持ちの良い話題がトップを占めていた
「三角縁神獣鏡」と「STAP細胞」だ

「三角縁神獣鏡」は現在図書館から借りて読んでいる最中の
「日本書紀の謎」竹田昌暉著の冒頭にしっかり紹介されており
この本は考古学的な事実から日本書紀の本当の意味を推理しようというもの

そこで繰り広げられる大胆な仮説は興味深いが
今日取り上げるのはこの仮説のことではなく
社会を統率する方法について以前から思っていたことが
やっぱりというか、納得できる様に思えたこと

統治者と言われる人々は、どこか国のように武力による恐怖で
コントロールしていたのではなく、もっと別の例えば宗教のようなもので
コントロールしていたに違いなく、それには多くの人を納得させるような
奇跡を見せつける必要があった
そのためのツールとして魔鏡の機能がある「三角縁神獣鏡」が存在する
と考えるのはとても自然なことに思える

その魔鏡のシステムの科学的な説明がなされ得ない時代には
それを扱う人は組織のトップ、あるいはついて行くに値する存在
と考えてしまいそうになるのは無理もないこと

きっと「三角縁神獣鏡」はデモンストレーションのために使われた
に違いない(と素人は考えてしまう)
とすれば、使い道が今ひとつわからない銅鐸も何か奇跡と錯覚
させうる機能を持ったのかも知れない
神事に使われたというのが現時点での主流の考え方らしいが
どのように使われたかは分からないらしい

なんにせよ、人は武力で統治するよりは奇跡を伴う
ソフト(宗教)で統治したほうが効率的で、当時は
無駄な戦いを避ける良い口実となったのかもしれない

もう一つの話題「STAP細胞」について
世界はとても不思議に満ちていて、
なぜだか分からないが大人の状態から子どもの状態に
若返りをする「ベニクラゲ」と言う生き物がいる

あるテレビ番組で、ベニクラゲを生存するに厳しい条件下
のおいたところ、ベニクラゲは徐々に大人の体から
子供時代(赤ちゃんだったかな?)の体にかわって
また人生をやり直す様に変化すると紹介されていた

その不思議さが頭に残っていて
今朝の「STAP細胞」のニュースでは
酸の環境下で若干のストレスを与えると
目的とする細胞の製造が上手く行ったとあったが
まるでベニクラゲの実験と同じじゃないか!
と思った次第

もしかして、科学者はベニクラゲをもっと突っ込んで
研究したほうが画期的な発見が得られるのでは?
と外野は気楽に考えてしまう

それにしても、良い話題だった
新聞紙面には良いニュースを半分以上(もっと多かったかな?)
載せなければいけないと決めた国があったが
確かに言わんとする事には納得できる
良い話題を新聞だけじゃなく、テレビも取り上げるべき
人の暗部ばかりを興味本位に追いかけるのはもう止めよう
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20円ちょうだい!

2014年01月29日 20時11分30秒 | Weblog
と言われると変な気がするが
タバコ一本ちょうだいと言われても
タバコを吸う人は何の違和感もなく
ヒョイと渡してしまう

金額は同じなのにお金なら嫌な感じがして
タバコなら問題はない

何故なんだろう?

お金は何でも換算できる万能の機能を持つというが
どうも完全ではないようだ

何でも鑑定団と言う番組がある
茶碗一つ破格の価格が設定され
その金額に驚くことはあっても、興味のないものなら
その価格で買える別のものを考えて
その価格自体をバカバカしく思う

落語の「みかん」も最後のオチがこの手の話だったが

価値は人それぞれというが
どうも価格(金銭)というものに変更されたものには
どうも奇妙な違和感がついて回る気がしてならない

お金と言う物体は(紙幣は)特に美的に美しいものではなくても、
それに囲まれて恍惚としてしまうひとがいるとしたら
狂っているのは一体なんだろうか?


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僕たちが親より豊かになるのはもう不可能なのか

2014年01月29日 19時36分28秒 | あれこれ考えること
昨日あれこれ考えたり感じたことが
本になっていた

「僕たちが親より豊かになるのはもう不可能なのか」
リヴァ・フロイモビッチ著

解説には
アメリカ、イギリスから日本、スペイン、イタリア、
ギリシャ、アイルランド、中国、ブラジルまで、
50人以上の「Y世代(1976-2000年生まれ)」を徹底取材。

非正規雇用、低賃金、給付減、未婚、借金、親と同居……
これらは世界中の若者たちに共通する「絶望」だ。
大卒でもまともな職につけない彼らに、
果たして今後「希望」は生まれるのか?

世界各国の現状、労働市場の構造的問題、
政府が迫られる赤字削減か経済成長かの選択、
政府予算をどう使うべきかの提言、
そして自力でのし上がろうとするY世代へのメッセージ。

僕たちが自分の親より豊かな生活を手に入れるのは、
本当にもう不可能なのだろうか?

とある

若者に対する不公平な状況は
どうやらどこでも同じことらしい

解決すべき事柄
昔は東西問題
それから南北問題に移って
今は世代間の問題となっているのかもしれない

現実にあちこち見られそうな現象がある
長老たちは今まで頑張ってきた対価を求めようとする
(当然だが、その手にする量はどうか?)
そして自分自身の力が少し時代と合わなくなっていることを
認めたくなくて、今の若者と同じ土俵で戦おうとする
若者が優っているのは残された時間の多さと体力面と無鉄砲さ
金銭・コネクションは長老にはかなわない
結果、一部の例外をのぞいて若者の不戦敗になる


話は飛ぶが
長老が自分の存在感を見せつけたい
自分の一族を守りたい
そんな話は最近近くの国で耳にしたり目にした
若大将をもり立てるというより
自分らの権利の確保に目がいっているとしか見えない
近視眼的な考え・方針

外から見ると馬鹿馬鹿しいくらいに思えるが
いざ自分たちの社会の問題(会社の問題)となると
人は冷静に判断できるか?
あの国と同じ様なことが起きていないか?

本当に現在の問題は世代間闘争だとつくづく思う
上の世代は奪い取れと言う
しかし、奪おうとすると思い切り反抗勢力となる

速やかな若者への力(権力)の移行は難しいようだ

それにしても、恵まれない若者に対する関心と心情の把握を
もう少し想像力を持って政治家さんには取り組んでもらいたいものだ

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契約社員、アルバイト

2014年01月28日 20時14分06秒 | あれこれ考えること
マルハニチロの子会社
アクリフーズの毒物混入事件は
その容疑者が逮捕されてひとまずホッとしたところだが
容疑者のこの行動に至った理由がまだ解明されていない

もともと特異な性格の人間だったという噂もあるが
給与の面でも不満があったとも報じられている

そこで契約社員とアルバイトについて考えてみた
考えてみたと言うより、今の自分の状況をベースに
あれこれ感じたりすることを無責任に吐露するだけのことだが

現在自分は、自分から申し出て
正社員からアルバイト扱いにしてもらっている

還暦を過ぎて働くのが嫌になった
というのではない、ただいつまでも誰かに命令されて
束縛されて生活をするということが
少しばかり慣れっこになって
自分の人生それでいいのか?と考えた時
ノーの答えを出したというわけで
その為に収入減となるのだが、これは仕方ないと
納得の上のこと

さて、そうは言うものの時給での収入は
実感としては、なかなかたいへんだ
正直、これが現役の働き手の状況であったら
かなり苦痛を感じるに違いないと容易に想像できる

まずは正社員と同じ仕事をしていても
収入が少ない
有給休暇が無く例えば休んで働かない分は収入減につながる
契約をいつ終了されるか分からない
そして、こんなことがいつまでも続くかもしれないという
一種の絶望感

最近は契約社員もアルバイトも少しづつ待遇改善の方向に
進んでいるようだが?、これを雇用主の立場で考えると
契約社員とかアルバイトは固定費の軽減にもってこいのシステムだ

雇用の安定とか確保を目指す社会のスローガン・目標を挙げても
いざ自分のところに当てはめて計算をすると、この使いやすい
システムから逃れるのはなかなか難しい

経営者は株主の利益追求の要望に応えなければならないし
また自分自身でも余分な経費は払いたくないと考える

このシステムの一番の被害者は若者かも知れない
置き換え可能の人間的でない仕事
例えば正社員で採用されても優しい心を持った人間は
我慢できないのではなく、なにか漠然とした違和感に襲われて
仕事を離れる

そうすると、ここからが特別なスキルを持たない人には
かなり難しいことになる
いざ仕事を探す段となると目の前に有るのは
契約社員・アルバイトのような仕事ばかり

仕事をやめた彼や彼女は我慢が足りなかったのか?
本人の心を知らない人はそんな風に口にするかもしれない
しかし、不安定な気持ちなんて若い人間の特徴
その一時の勢いからの行動ということも有る

問題はこうした人間を受け入れる社会ではないということ
雇用の面でも、精神的な受け入れ方でも

日本の社会は本当にトーナメント社会なのだろうか
官僚も一回の失敗も許されない
社会に適応するには立派な会社に就職する(一般的には)
そのためにはいい大学に入らなければ
またそのためには良い高校、、、

しかし、どうやっても一部上場のような会社に就職できる
人数は限られ、多くの人々は諦めとは分相応の行き方を
考えるようになる

分相応な考え方はそれでいいのだが、この分相応が
日本では我慢が不可欠な要素となっている
悪い待遇・職場環境でも悪いのは離職した人間

我慢が足りない人間は欠陥がありそうだから
契約社員・アルバイトの扱いで充分
口に出さないが社会のこんな気持が想像できる

自分らは我慢してきた
歳とった人たちはそう言って若者を批判する
しかし明らかに時代が違う
上り調子のモノが不足していた時代
所有することが幸せと思えてどんどん消費に向かっていった時代
モノもそれに合わせるように自己発展してきたとさえ思える

しかし今は成熟社会
ものは巷にあふれている
しかし更に経済を活性化するには欲望を無理矢理にも
喚起しなければならない
仕事もコンピュータの出現によって中間的な
ある種の技術を必要とした仕事が無くなって
誰でも出来る仕事に標準化される
すると誰でもいいのなら安い方法をと考えるのは必然
人は人間性というよりは労力としてだけ評価される

話がどんどんずれていくが(いつものことだが)
言いたいことは、契約社員・アルバイトのシステムでは
多分、人は幸せになって行くことができないということ
(老人は別として)
若者は現在とても不幸な状況下に有るということ
一回の失敗も許されない社会で、リベンジする機会が極めて少なそうなこと

なんだかな~
政治家さんは実感を持ってこういう問題に当たって欲しい
弱者にたいする想像力をもつこと
それがたとえ不遜であったとしても
強者ばかりの理屈に追従するよりは
少しは住みやすくなりそう
と思うのはロマンチックすぎるのだろうか



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本田、カリャリ戦

2014年01月27日 19時38分42秒 | サッカー
せっかくスカパーで契約しているのだから録画ではなく
ライブでセリエA、本田の出場するミラン2-1カリャリ戦をみた

最初のチャンス、バロッテリからのパス決めたかったな
得意ではない右足だったけど少し当たる位置が変だったようだ
一番最初のボールタッチがイマイチだったので
引きずることの多いサッカーというゲームでは多少心配だったが
結果的にキック関係があまりフィットしていなかったみたい
(決勝点をアシストしたが、あれはパッツィーニのスーパープレイのおかげだった)

本田は体も強くキープ力もあるがセリエA の詰めの速さには
もう少し慣れる必要があるかもしれない
セリエA の守備はスペースを作らせないだけでなく
トラップした瞬間を狙ってボール奪取にくることが他の国のリーグより多い
つまり攻撃的な守備
だから数回彼には珍しくボールを取られるシーンがあった

ミスで失点したが相性が良いとはいえ
前半の攻撃はイマイチ
後ろからの不正確なフィードで上にいけてないのがわかる試合運び

カカはなるほどいい選手だ
派手さはないけど現実的なプレーをする
ミスも少ないし、、

バロッテリは多分凄い才能の持ち主なんだろうと思う
スピードもあるしトリッキーなプレーも本能的に行う
そしてあのフリーキック
イブラヒモヴィッチのまだ未完成形みたいな感じ

ロビーニョがイマイチ
自分の好みに合わないだけかもしれないけど
確かにいい所までは行くのだけれど最後に惜しかった
と言うパターンの選手
後半代わったのは納得

前の試合では目立ったデ・ヨンクもこの試合は目立たず
これも交代やむを得ない

本田のヘッドはキーパー正面に行きすぎか
ロビーニョからのパスをふかしたのはらしくない
もう少しドンと打てばよかったのに

本田はスピードが有る方じゃないから
右サイドのプレーより真ん中のほうが
日本人的にはよく見えるけど
カカと代わるにはもう少しチーム内の信頼関係が必要か
カカはスピードがあるからサイドでもできそう
問題はロビーニョとの関係
カカよりは本能的にしっくり来ていない
感じに思えるのは錯覚か

モントリーヴォは結構好きなタイプの選手
この試合はミスが多かったけど
ひたむきな感じ

でもこの試合はやっぱり日本人としては
本田中心に見てしまう
その出来は、残念ながらイマイチの印象は拭えない

まずは、慣れるしか無い
出場している間勝利が続けばメンバーは変え難いから
とにかく結果を出すことが一番
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膨大な契約料の危険性

2014年01月26日 20時11分49秒 | あれこれ考えること
田中将大がニューヨーク・ヤンキースと
破格の条件で契約をしたが
この事実は凄いけれど、
それが彼にとって良いことかどうかはなかなか難しい

「これからの正義の話しをしよう」という本の中に
マイケル・ジョーダンの年収はアメリカ大統領の何十倍だが
これは正当かどうかを議論する章があった

ジョーダンの経済に及ぼす効果を考えると
経済学的には不思議じゃないとしても
余計なお世話だが、その莫大なお金が人に及ぼす影響を
考えると、小市民の自分はちょっと考えてしまう

つまりマー君も普通の感覚から離れてしまう可能性が
ありすぎて、そのことの危険性が半端じゃない気がする

スポーツも今牛耳っているのはお金のお世界だが
どうも金額が大きくなりすぎて人間性を破壊するような
事にならなければいいのだが、、、


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運(自分を信じる心)

2014年01月26日 19時37分26秒 | あれこれ考えること
綱とりから一転
稀勢の里は負け越し、おまけに負傷
勝因は不明なことが多いが、負けるには理由がある
なるほど、わからないこともない

稀勢の里は表情からして初めから余裕がなかった
精神状態が表情に現れてあれでは相手につけ込まれてしまう
(のが素人目にもわかる)

他人ごとだから無責任に言ってしまえば
彼は自分を信じることができなかった
としか思えない

横綱になるには多分強さだけでなく勢いが必要、運も必要
その勢いとか運を「今だ!」
と自分に信じこませることができないのは
根拠の無い自信を信用出来ないと言う性格によるものか
それとも自分はやることはやった
後は野となれ山となれと開き直ることができない性格なのか
あるいは、そこまでやりきっていないのか

優勝する人は結果的に限られている
滅多にないチャンスを手にする人
こぼしてしまう人

運は本当は何が何でも勝ち取らなきゃ
特にプロの世界は!

これは相撲だけじゃない
サッカーにしても同じこと
優勝・得点王・ワールドカップ代表に選ばれること
これらも運を掴み取った人と取れなかった人の差は大きい

最終的には自分を信じられるか(無理矢理にでも)
の問題となるかもしれない
本田はミランの10番に「自信がある」と口にした
そうやって自己を高めていくのが彼のやり方
そして今までそうやって登ってきた

柿谷は彼のせいではないだろうが年末年始
テレビに出ずっぱり
そのために軽い感じを受けないでもないが
ある面今ノッていると信じ込んでいるのかもしれない
また、たとえ自分より上手い人間がいても
やせ我慢でも自分のほうが上手いと思い込もうとする
みたいなことを言ってたが
プロはこういう性格のほうがいいのだろう
もっともだからといってこれから先
うまくいくかどうかは分からないが

練習はなぜするか
技術の更なる向上・精度のアップのため
というより自分を信じるためなのかもしれない
と思ったりしたが、やっぱり訳の分からない
「運」ってあるのだろうか

そしてその運は一生続くものではないところが
とても怖い
結局、万事塞翁が馬ということ
(最終的な運の良さなんて誰もわからない)
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古代はどうやって遠方まで統治したのか(統治できたのか)

2014年01月23日 19時52分52秒 | あれこれ考えること
同じ内容の本を3冊以上読むと理解できるようになる
と以前何かで耳にしたが、確かにそうかもしれない
まるっきり別の人が同じことを説明するのだが
どこかで読んだ記憶が残っていて
それが呼び起こされる感じがする

今、書籍上のマイブームは古代史
といっても邪馬台国ではない
古事記・物部氏・秦氏  そのあたりのところ

最近は本屋で購入するよりまずは図書館に行っている
そこで気になる本を見つけて、
次に読んで気になったところが載っている本を探す
それを繰り返すとある程度大枠はわかってくる

ところがこの古代史の困るのは名前が覚えられない
漢字が読めない、当て字だったり、同じ人に幾つもの名前があったり
受験勉強のように書いて覚えようとしていないから
簡単に誰かと誰かを混同している

それでも何となく勢いでわかった気になれるので
今のところは多少いい加減な読み方で楽しんでいる

歴史は英語でヒストリー
his story(彼の話)
ここで言う彼とはは神の子イエスのことらしいが
それでなくても歴史上の勝者の作り上げた記録が大半

この歴史上の勝者は
どうやって自分たちの都合の良い
物語につじつま合わせをしたのかが
古代史の興味のポイント

記紀はまるっきりの想像ではなく
元には何かが有る
そんなふうに考えたほうが無責任な立場の自分には
楽しいので、今はスキャンダラスな視点からのものを
読んでいるが、そのうちもう少し真面目な本に移るかもしれない

だが、あの時代を考える時いつも不思議に思うのは
恐怖政治で(武力だけで)はたして国を運営できたのか
という点
今みたいに通信も交通機関も武器も発達していない状況で
果たして遠く離れた地方をコントロール出来たのか

恐怖政治より現実的な方法は、
宗教・奇跡がらみの呪術なのかもしれない
などと思ってみたりする

人間は道具として宗教を作り出すのかもしれない
心の安定よりももっと現実的な機能としての宗教
これは多分どの国もどの地区も一緒

我が国も例外にもれずその方法をとっただろうが
具体的にどのように利用したかは興味深い

もう一つ気になることは
あの時代でも想像以上に海外との交流が盛んだったという事実
江戸時代の鎖国のせいで海外との交流が盛んになったのは
明治以降みたいな印象があるが
どうしてどうしてずっと昔も交流は盛んだった
正倉院御物にはシルクロードの西の果ての品物があるようだし
交流の言葉はどうやっていたんだろうか
文字は?交換するのもの評価は?
まだまだわからないことが山ほど、、

それらを知ってどうなるというわけでもないが
少なくとも自己満足はできる
社会に還元できないのは少し情けないかもしれないが


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最近の製品のほうが良い音とは限らない

2014年01月22日 19時55分56秒 | オーディオ
とうとう真空管アンプをメンテナンスに出した
じっくり音楽を聴けないのは寂しい限りだが
いつかはしなくてはならないことなので
踏ん切りをつけて

オーディオショップの人の話によれば、
真空管アンプを検査・修理する人が
どんどん少なくなっていくとのこと

今のところはいいけれど
その先一体どうするんだろう?
専門家ですらそんな疑問が出てくるようだ

真空管アンプについては更に悲観的な話が、、、
つまり真空管そのものがなくなっていく
アンプはいろんなメーカーごとに
いろんな真空管を使っている場合が多く
中にはもう手にすることのできない真空管もある
メジャーなものについては今のところは大丈夫だけど
300Bあたりだとオークションでも結構な値段がする

それだけ需要があるのなら生産を増やせばいいのに
と思うのは素人の考えで
真空管の需要の絶対量なんてしれたもの
とても商売にはならないらしい

こんなことだったら5年前にアンプを購入した時に
バック・アップの意味も込めてウエスタン・エレクトリックの300Bの
セットを購入しておけばよかった
あの時はネットで調べると2本で8万くらいだった
いつでも手に入る
そんなふうに思ったのが間違いの元だったが後の祭り

今は300Bも中国製・ロシア製がメインみたい
この間購入したFull Musicも中国のメーカーの製品
仕方ない、無いよりましか

300Bはまだましな方で、人気があるから生産は続く見込みらしい
他の真空管、一体どうするんだろう、、、

それにしても音に関して言えば、新しいということは
必ずしもいい音になるということとイコールではない
便利さは明らかに新しいものが優れているが
音自体は昔の物のほうがいい場合がある

石のアンプを聴いていた耳が
球のアンプを聴いた時の衝撃は忘れられない
クラリネットの木管の空気がこすれるような感じ
それは電気できれいに整形した音色とはずいぶん違って
生々しかった

最近のいい音と言うのは
立ち上がりのキレとか計測上の歪のない音が
そうらしいが、現実的にはそれらの音は実験室の中の音
純粋な空間のなかで削ぎ落とされた人工の音
魅了がないとは言わないが自分はパス

ということはCDの音もこれに近いので
どちらかと言えば便利ということ以外に
CDには魅力を感じない

なんだかなぁ~
最近の音楽に関する環境はやばそう
音自体、いや音楽自体がますます消費財のようになっていく
じっくり聴くというよりはながら聴取
それを悪いとは言わないがそればっかりでは困る

ところで、アンプが家に戻ってくるのはいつになるのだろう
まるでスマホを何処かに置き忘れて手もとにないみたいな
不安な妙な感じ
費用も安いに越したことはないが、
何よりも早く返ってきてほしいものだ
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ハインリッヒ・シュッツと同時代(?)の音楽の比較

2014年01月21日 21時00分38秒 | 音楽
最近シュッツの音楽がとても美しく思えているが
果たしてそれがシュッツの音楽のせいか、
それともその時代の音楽のせいかイマイチ不確かなので
あれこれ引っ張りだして聴いてみた
古い順に
パレストリーナ   1525~1594
ウイリアム・バード 1543~1623
モンテヴェルディ  1567~1643

この人たちの合唱音楽を聴いてみたのだが、、

どうやらこの時代の音楽が好ましいのではなく
自分はシュッツの音楽が好きなのだと再確認した
ちなみにシュッツは  1585~1672
ちょうどバッハの100年前の誕生

深々とした大らかな懐の深い音楽
聴くという行為よりも
響きの中に身を任せられる感じ

この人の音楽をそんなに知っているわけではないが
器楽曲というのもあるのだろうか
あるとしたら一体どんな音楽なのか
興味津々というところ

アマゾンかHMVで調べてみるか
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