パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

みんなと違うということ(本当に望んでいるか、覚悟はあるか)

2018年05月31日 08時42分18秒 | あれこれ考えること

「世界に一つだけの花」という歌がある
一般的には良く聞かれ名曲の評価がある
でも自分はへそ曲がりなので、素直に好きとは言えない
言わんとすることはわからないではないが、わざとらしくて

そこでフト最近のこの国の騒ぎを振り返ってみると
この歌にあるように、自分がオンリーワンであることを人びとは果たして望んでいるのだろうか
と考えてしまう

そう思ってしまうのは、少しばかり恥ずかしいメディアの人たちの対応(アメフトや政治関連の報道)
はっきり言って彼らには独自性がない
あるのは横並びで、他の人(局も)やってるから安心、、という姿勢だけ
それでいて批判するときは、まるで自分自身が特別な人間であるかのように、、
無責任に加担する

果たしてこの国は、自分の意見を持ち、それを表に出すということが
容易にできる国なのだろうか
むしろ「空気を読む」に代表される処世術に独自意見(発想)の
ブレーキが当たり前になっていないか

昔、嫌味なフレーズを考えた(その当時の女子高校生をイメージして)
「みんなと同じ、ダサーイ!みんなと違う、こわ~い」
建前は独自性をもった人間だと公言しても、いざそれを表現することによって浮いてしまうのは怖い
というのが本音ではないか、、と想像したことばだ

多分人と違っていい、というのはそんなに簡単なことではなくて、覚悟がいる
またそのよう考えに至るにはある程度の経験と時間が必要
オブラートに包まれたようなオンリーワンの言葉でイメージされるものではない

つまりは以前にも取り上げた「個の確立」が必要ということだが
これには時間がかかるし、確立するようになるには多分訓練がいる
訓練を自ら課す人もいれば、そうでない人もいて、多くは多分無意識に
ただ物理的な年齢を重ねることが多い

この個の確立ができていないとどういうことが起きるか
アメフトの選手のよく考えたら間違っていた行動
頭のいいはずの官僚さんたちのどう考えても無理筋な行動
そして、横並びに異を唱えないメディアの姿勢

日本社会は(?)多様な意見の存在を認めるという建前があるが
それには多少の辛抱とか、まずは何を言おうとしているか理解しようとする気持ちが必要
それが多数というグループに入ってしまうと、いきなりその場の空気に支配されて
自らの意見を言うことができなくなってしまう
それは生活がかかっていいるからできないというだけでなく、
自分の内側からの声に耳を傾けようとする癖ができていないからのような気がする

ということで、少しばかりイラつくメディア(テレビ)から思いついたことを愚痴ってみた
(それにしても、本当に、テレビ局は悲しいくらいみんな横並びだな、、
 だから途中で見ないようにしてるけど、、、)

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判断力(ゲーム・一般社会)

2018年05月30日 08時43分24秒 | あれこれ考えること

今回のアメフトについてあえて言えば、関心があるのは選手自身の判断について
およびテレビ報道のあり方であって、今騒がれているような監督の権力集中の弊害とか体質ではない

第一アメフトの選手が何人で、どんなルールで戦われるのか知らない
テレビ画面で見るとやたら大勢の人数が並んでいるので見かけるので
随分多くの人がグランドで戦うのだと思っていたら、ネットで調べると
グランドで戦っている人数は1チーム11人
選手交代ができるので予備も含めて大勢の選手が必要だとのこと

そして、この競技は作戦(戦術)がキーポイントで各人がそれぞれの立場
役割をきっちり果たすことで成り立っているとされている(よくわからないが一般的にはそうらしい)

そこで考えることは、どうしても自分が過去に経験したサッカーと比較になってしまう
サッカー(多くの国ではフットボールと言われている)は、日本では〇〇ジャパンとか
監督名チーム名みたいに、監督のコントロール(意向)のものに規律正しく連動して
活動すれば良い結果が得られて、試合に負けた場合は作戦が悪かったとされやすい

確かに試合中、弱いところをつかれて幾度となくピンチに陥ることとか
同じパターンで攻撃にさらされる、それは相手方の戦術がハマっていると考えることもできる
しかし、その場面に晒されている選手たちはそこでもなんとかしようと考える
パニックに陥ることもあれば、時間経過によって慣れてきて自然と対応できるようになることも珍しくない

これがハーフタイムになれば外から見ていた監督の指示で打開策を授けられ
より効率的に対応できることがあるので、監督の力は大きいとも理解される
でもこれはうまく行った時の場合
今度は対応してくるから相手チームがその先を読んで別のことをやってければ
作戦上の戦いは負けてしまうかもしれない
だが、これはかなり観念的な感じ

代表レベルでは頭がチンチンになってはいずに一試合をトータルで見て
そのように(作戦上のこと)感じることができるかもしれないが、昔プレイを経験した身としては
やりにくい相手だな、、と感じたのは、まずは基本プレーの正確さが自分たちよりも
遥かに上回っている場合とか身体能力が大きく違った場合
特に基本プレーの差で負けたな、、と感じるのは多かった
今の代表の試合でも、トラップの際のボールの位置、パスの正確さ(タイミング・右足左足・スペースへの選択の正しさ)
相手からボールを取られない体の使い方、相手の裏を取るフェイント、自分からボールを前に運べるドリブル
最終目的であるシュートの際のキックの正確さでFIFAランクングの上の国と差が見られて
そこが最後は決め手になっていると感じることが多い

相手のほうが上手いとか速いとか強いと前提の上でどのように対応するか
というのが、戦術・監督の腕の見せどころとなるのだろうが
さて戦いの現場のほうはどうか

結局のところ相手側も工夫をして試合に臨んでいる
だからどんなにいい作戦を立てたと思っところで、評価は相対的なものとなる
戦いの現場とはそういうもので、突き詰めるところ
「事件は現場で起きている」のと同じで「現場で選手各人が」対応するしか無い
しかも適切に瞬時に

サッカーにはハーフタイム以外に監督の指示を聞く機会はない
選手交代時にわずかにその選手が監督のメッセージを伝えることができたり
プレーでその意図を表すことができるかもしれないが、基本的には
試合が始まったら選手個人が判断するしかない
判断などと大げさな言葉は使わないとしても、普段のプレイというのは選択の連続だ
この選択を自分自身が行う(当たり前だが)のがサッカーというゲームで
ヨーロッパとか南米、その他多くの国は、多分自分の選択の自由さ(自由な発想によるプレイができる〉
故に楽しいと感じることができると思われる

昔少年サッカーのコーチをしていた時、運動神経の良い子で野球とかソフトボールでも
子供会とかで引っ張りだこになった子が、野球・ソフトは自由に判断できないからおもしろくない
サッカーならポジションを崩しても(怒られるかもしれないが)相手のキーマンをしつこくマークする
といったプレイも選択できるから、なにかやったという感じになれる、、それがいい、、とこぼしたことがあった

つまりは自己の選択、オートマチックに今まで訓練したことをチーム全体で行うか
それとも選手個人の一瞬のひらめきで個の力で何かするのか、、は常に個人に任される
というか、任せるしか手はない(野球のようにタイムは取れないので)

この個人の判断という行為自体を重要視するのが、西欧的な(アメリカ的ではなく)思考方法ではないか
(と感じてしまう、、)というのが、今回の一番のテーマ(思っていること)
アメリカ発祥のスポーツは、タイムというシステムでゲームが途切れ、
その都度作戦なり戦術の変更を他人から指示される
しかしサッカーとかラグビーは始まってしまったら、もう現場の人間が腹をくくってやるしか無い
教えられた通りのこと、訓練してきたこと、頭には入っているはずのこと、、それをするしか無い
でも想定外の状況になった時、、、そのときは耐えるとか自ら考える(考えると言うより感じる)しかない
この残酷なタイムのない時間をどうにか耐えるという経験は、ゲームの流れというのが存在して
いつかこちらの流れになるはずだという確信を持つようになる
こうした経験はとても大きく、大の大人が真剣に気合を入れて行えばジャイアントキリングといったことも
可能だとの思いを持つことができる

話はそれたが、そこで個人の判断の問題
これはアメフト・サッカーにとどまらず普段の生活の中でも、特に公務員の立場での判断にも通じる
極論を言えばあのアイヒマンも「自分で考えればどうようなことになるかはわかっていたはず」
「いくら断りきれない状況、自分がしなくても誰かがやった」としても、結果として判断したことは
間違いと裁定されざるを得ないのが人間社会、、
これは例の日大の選手の記者会見の言葉とつながる

官僚システムは無謬性というより責任の所在がはっきりしない、判断を誰がしたのかわからないシステム(のように思える)
そしてこのような考え方が広く日本の社会に広まっていないだろうか、、
もしそうだとしたらそれで良いのか、、考え直してほしいと思う

しかし日本人は本質的に命令されて動くことを好む傾向があるのかもしれない
いや、そう教育されているのかもしれない
野球の思考システム(監督の命令に従い個人の判断はない思考システム)が
広く社会に蔓延し過ぎているかもしれないと思ったりして、、、

少しばかり独断の、、、思いつき、、、しかもまとまっていない、、
でも、ま、いいか!

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パンとスキャンダル

2018年05月29日 08時48分11秒 | あれこれ考えること

今日は短く、、

例のアメフト関連、テレビメディアは美味しいネタと見えて
いつまで経っても追いかけている
記者クラブでの怪我させた選手の会見の時に
将来のある若者故に、本人の顔のアップ等は遠慮願いたいと
司会者が依頼していたのだがそれが現実はどうかといえば

ひどいもんだ
顔の大写しするは、実名は平気で連呼するは、、
気を配る気持ちなど全然感じられない
またあのタックルシーンを延々と繰り返している
そして、まるでテレビ画面に出ている人が、なにか
判断を下す特別な権利を持っているかのように話す

分別くさく言うつもりはないが、テレビで取り上げる重要な問題は
それじゃないだろう、、とツッコミを入れたくなる

テレビ局は横並びで、こんな話題を流しておけばみんな喜んでくれるだろうし
視聴率も稼げる、、と判断してるかのよう
その判断自体が世間ずれしていて、その傾向が色んなところで見られるから
テレビは見られなくなってると思うのだが、当人たちの耳には業界人の声しか耳に入らない

ローマ時代に、人びとには「パンとサーカス」さえ与えておけば統治はうまくいくと
公言した人物がいたが、現在は「パンとスキャンダル」さえ与えておけば問題なし
と考えているかのよう(それは結果的に誰かさんたちの得になる)

一億総白痴化、、という言葉が昔登場したことがあった
偉ぶるつもりはないが、ほんと現在がそんな状態ではないか、、と心配してしまう
そして、よくわからない理屈と数の力で個人攻撃を繰り返すネトウヨさんの
理不尽な世界が幅を利かせる様になっていそうで、、
ほんと、大丈夫か、、この国は、、

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何故か好きな演奏(エドウィン・フィッシャー&フルトヴェングラー)

2018年05月27日 08時59分35秒 | 音楽

何故かよくわからないが好きな演奏がある
どうして好きかを突き詰めて考えることは生産的かもしれないが
ただ楽しむだけの立場なので、そこまでは考えない
(でもどうしても気になるが)

その演奏というのが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番
「皇帝」の名がある名曲とされるもので
演奏家はピアノがエドウィン・フィッシャー 指揮がフルトヴェングラー
オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団

この曲「皇帝」は高校時代の一時期は、特に落ち込んだときなどは勇気づけられて
結構聴いていたが、ある時期から「運命」に通じるような「押しつけがましさ」が
鼻について聴くのが嫌になった
実演で聴いたときも、日本人のピアニスト、ドイツのオーケストラだったが
息が(感性が)合っていないようで、イライラしながら聴いていた記憶が残っている

ところが、フルトヴェングラーのセット物のレコード(中古)を数年前購入して
聴かなくちゃもったいない、、ということで聴いたのだが、
これが何故か全然押し付けがましいイメージがない
それどころかむしろとても新鮮な、自然な流れ、そしてピアノの音も中間部のフレーズでは
32番のピアノ・ソナタの第2楽章を彷彿とさせるところがあって、時々棚から引っ張り出して聴きたくなる

よくイメージされるフルトヴェングラーの演奏の頻繁なスピードの変化は
この演奏を聴いているとそんなに気にならない
というより、それが有ったとしてもそれはとても必然に感じてしまう
そしてオーケストラのズシンと重いがしかし柔らかな音色は、オーケストラが手兵のベルリン・フィルだったら
どんなだったろうか、、と想像が羽ばたく

しかし、なんでいつも新鮮に感じるのだろうか、、が不思議
フルトヴェングラーの魔術なのだろうか
エドウィン・フィッシャーも、先日モーツァルトの幻想曲ハ短調をYoutubeで聴いて
「これ好きかもしれない」と思った
そこでアマゾンでエドウィン・フィッシャーと検索するとモーツアルトとバッハの演奏のCDが出てきた
当然ほしいものリストに入れたが、、今のところ自制心が働いてポチッは無い状態

それにしても最近新譜のCDは購入していないし、おまけに情報に疎いから昔の人ばっかりのを聴いている
そういえば、自分も昔の人か、、、

フルトヴェングラーとエドウィン・フィッシャーの「皇帝」の動画があったBeethoven Piano Concerto No.5 'Emperor' - Furtwangler, Fischer 1951 (I. Allegro)

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風刺がきいたジョーク

2018年05月26日 09時39分07秒 | 徒然なるままに

インターネット上にはいろんな情報が乱れ飛ぶ
その中に面白いジョークが紹介されていた
(知らなかったが有名なものらしい)

続けて取り上げるのは、ケネディが好んだと言われるジョーク

あるロシア人がクレムリンの中を、「フルシチョフはバカだ」と叫んで周り、ただちに逮捕され、23年の刑に処せられました。
 党の書記長を侮辱した罪で3年、国家機密をもらした罪で20年。

なるほど、思わずニンマリするジョークだ
多分、ニンマリする人は今の日本の状況に当てはめているだろう

勇気については官僚さんや日大のアメフト関係の人のこと
そしてフルシチョフは日本の誰かさんになぞらえて、、

でも肝心な本人たちは自覚していない、、、だろうな

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公務員は個人の判断はできないのだろうか

2018年05月25日 08時48分53秒 | あれこれ考えること

新城市に関する具体的な話、あるいは観念的な話

時々思うことがある
市の職員とか国の官僚さんは、その時々の判断に一般常識とか普通の人ならそのように感じたり
考えたりするだろうな、、といった要素を取り入れることはしないのだろうか
いや、それをやってはいけない、、ことなのだろうか、、と

新城市では残念ながら数日に渡って新聞紙上に、市の税金を用いる地域活動交付金が
不正領収書によって不当に支払われた記事が掲載されている
この活動交付金の事業を現実的に仕切ったのが現役の市議会議員
そこで市が関係者にあたり調査を行った結果、手続きに不正があったことを確認し
一旦支払った交付金の返還と罰則金(みたいなもの)の支払いを命じ
つい最近その求めに応じて金額が返還された(交付金93万6000円、罰則金36万5000円)

ただこれは3年間行われた事業の最初の2年の分だけで、最終年は現在調査中で市としての
対応も決まっていないようだ

最初の二年については一旦、お金が市に戻ったということで一段落のような様相を見せるが
この事業の不正を追求していた市民グループは、その独自の調査(当事者に当たっての)によれば
事業自体が実際に行われたのか疑問で(業者の日報・報告なし)またお金の流れで不自然・不明なところがあるので
お金を返せば問題終了としてはいけないのではないか
こうした事件の再発を真に防ぐ意味でこの事件の詳細な調査を行うべきではないか、、
との思いをもった

それに対するのが冒頭の市職員の反応(それは全員の考えでないかもしれないが)
この件の2年分については既に市からの結論は出ていて、お金も返還されており
扱いとしては終了している事案で、これについて更に調査したり別の判断を下すことはないだろう

でも市が下した判断のもとになる事実が、市民グループが調べたものと異なる場合
まして現場を見れば、大半の人が事業はなされていないと感じるものに対して
書類上だけの調査で済ませていいのか、、、

終了した事案について更に調査するというと、そこには担当する人と時間を要する
市民の税金をそのように使うということは、税金の使い方としてはふさわしくないとも考えられる

しかし、あなた達も見たように現場は、かなり疑われても仕方ない状況
多くの人がそのように感じることを、市民感情として持つ思いを横に置いて、一件終了としてよいのか
責任には説明責任と道義的責任があるが、自然に湧き上がってくる事業への不信をないがしろにしてよいのか
市民のそうした声があるということを、職員自身も一市民として常識的な思いをもって、ことに当たるということはないのか

そうした声がある時は、税金の使い方に通じるので最終的にはもっと上の判断(市長の判断)を仰ぐことになる

つまり、この件についてはとても明らかになっていない面が多いが、一旦結論を出し市としては終了した案件なので
更に人を使って調査することはない
そして、それに対して職員は「更に調査すべきとか、すべきでない」との声を上げる立場にはなく、最終的な判断は
市長判断任せとなる

こう言う説明を聞くと、そんなものかな、、と思わないでもないが、人間のやること、人間社会はそう簡単ではない
この問題となっている市議会議員は、いわゆる市長派の人物で2年ほど前に起きた市長リコール騒動の時に
反リコール運動の中心となった人物で、しかもその前の住民投票時でも市長の進める案の方を強力に推し進めた過去がある

だからこそ、職員の更に調べるか調べないかは「最終的には市長判断による」と聞いた時には
なんだこの件はこれでお終いとするのか、、、との思いをもった

それにしても職員も一市民としても存在のはず、職員と言う立場を離れて物事を見ればかなり不透明と感じる事柄を
その常識的な判断力を活かすことなく、ただ流れに沿って物事を進めるというのは一体適切なのだろうか
(公務員はそもそもそういう行動をすべきとされているのか、、個人の判断を挟む要素はないのか)
これは最近の「常識的な判断力をもっているはずの大人が、思考停止で命令に従ってしまった」日大アメフトの選手や
佐川さん、柳瀬さんの判断のへの一般人の疑問に通じる

市職員の自発的な判断ができそうもないもうひとつの件がある
新城市では新東名高速道路経由で名古屋直行バスを運行している
地域活性化のために実証実験とされるこの事業は、残念ながら予想通り(誰でも想像できた)の利用者数しか確保できていない
それに要する市の負担金が、無視できないほどきわめて大きい
初年度は国の加速化交付金でバス一台の料金と、9ヶ月分のバス会社への委託料合わせて6000万円強は国から支払われた
ところが2年目以降からの国の応援が心もとなくなっている
二年目は地方活性推進交付金という名で委託料金の半額(約1800万円)が確保されたが、バスの利用者数が少ないために
委託業者から更に約700万円の請求を受けている
これが三年目の今年になると、地方活性推進交付金はほとんどなし、委託料金のほとんど全額が市の負担となった

問題は、予算案が通ってしまった今年のことではなくて来年度予算はどうなるのだろうかという点
正直なところ、バス利用者の劇的な改善はとても難しく感じられる
市は国からの交付金をもらうために目標値等を設定しており、KPIは9ヶ月経過した時点で35000人としているが
1年9ヶ月経過した現在でも、利用数は年間15000人程度で、目標の半分にも達していない
これがあと少しで目標に達するという範囲ならどのように頑張ろうか、、と考える余地はある間もしれない
しかし、圧倒的に目標値に達しない「実証事件」は、そもそも来年度必要とされる4500万円(不足分を含めて)をかけて
継続する必要はあるのだろうか、、との思いが浮かぶ

そこで話は職員に戻って、この現実を踏まえた上で、担当職員はこのバスの実証実験継続の予算をあげるのだろうか
と疑問を感じてしまった
日々明らかにされている数字を見れば、挽回の可能性はきわめて低い
お金は効果的に使われていないかもしれない、、、
職員ではなく一市民としてはそのように感じることもないとはいえない
しかしだからと言って来年度の予算案にこの項目を入れない、、という選択肢は職員にはどうもないようだ
その根拠は、実証実験は約4年行うとなっているので、それを途中で止めることは自分たちの立場から言い出すことは出来ない
明らかに非効率的なお金の使い方でも、決められているから、やめる判断はできない
しかし調べてみると委託業者との契約は、途中でもやめることが出来て、それに関しては罰則等の費用は発生しないことになっている
だから常識的な判断力さえあれば、自発的に「この事業は現時点で無理筋だった」との結論になり、これ以上の税金の投入はやめたほうが良い
と職員も考えて欲しい、、というのが、バス運行に反対する人の意見

そこで予算の提案の仕方を聞いてみると、まず各部署に来年度の予算の概要をあげてもらう
それを市長のところにもっていき、市長・副市長・総務部長等の会議でチェックし訂正等の作業を行い
訂正したものを議会に予算案と提出し、議会が議決するという段取りとのこと
職員の立場では継続をストップという判断はできない
そして市長・副市長・総務部長等の会議でも、この事業の言い出しっぺだからストップの判断はしない(と思われる)
そうなると今度は議会がこの事業についての客観的な評価をどう下すか、、が問題となるのだが、、
議会は行政のチェック機関と言われるが残念ながら(多分新城市だけではないと思われるが)
行政の追認機関となっていると思われても仕方のない行動を繰り返している

となると、一旦決めてしまえばどんなに理不尽だろうが突っ走るしか無いような雰囲気だ
それだからこそ、議会には慎重にいろんな可能性(不測の事態)を踏まえて、慎重に判断・議決してもらいたいが
そこまで覚悟をもった議員さんがいるかと言えば、、、

ところで、市長の立場の力というものを改めて感じてしまう
先の活動公費金のさらなる調査をするかしないかは市長の判断
バス事業の継続をするかしないかの予算の判断を下すのも市長(最終的には議会議決を経るというものの現実的にはフリーパス)
また、各種メディアに対しても都合のようタイミングで、都合の良い表現で行うもの市長
更には、どうも市長しか知り得ない情報がふんだんにあるようだ

しかし、それにしても職員・官僚が一個人となった時、判断というのは、一体何が優先されるのだろう
優先順位は個性によるかもしれないが、その個性はどこから生まれるか、、、

法的存在の前に、一人の人としての常識的判断、、
そんなのを望むのは非現実的なのかな、、国も市も、、、




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「言ったもん勝ち」にはさせない人たちの存在

2018年05月24日 08時49分48秒 | あれこれ考えること

知恵は何処にあるか、、、
それはコミュニティの中に存在する、、とする「無知の科学」の著述
を実証するような例が見られている
それはツイッター上でのネトウヨと呼ばれる人たちと、それに反対する人たちのやり取り

いろんな考えを持つのは自由だが、正直なところ贔屓目に見てもネトウヨさんの話はよくわからない
まず彼らはいろいろ不祥事を起こし、状況証拠からすればアウトとされても仕方ない安倍さんを無条件に信頼し庇う
その中に安倍さんにはまずい話が最近出た
それは愛媛県が国会に提出した資料のなかに
「2015年2月25日に加計理事長が獣医学部考えている」と安倍さんに伝えたら「いいね」と答えたとの記述がある資料だ

そこでみんなの関心はこの2月25日の安倍さんの行動はどうだったのか、、が問題となるのだが
これに対するネトウヨさんの反応が異様に速かった
この報道が流れたのが夜だった
しかし朝の速いうちに、朝日・読売・東京・産経新聞等の2015年2月25日の首相の動向の記事が
画像入りでツイッター上にアップされた
彼らに言わすれば、新聞の報道に安倍さんは加計理事長とあっていない、と出てるのではないか
だからあの記述は間違い、、と言いたいのだろうが
それに反対する反応もこれまた速かったし、なかなか鋭い
それは、そもそも首相動向の記事は、会っている人全部を取り上げているのでないことを
首相動向の記事を書くためのシステムを紹介した上で、
実際に記事に載せられずとも会ったことのある人の話により説明しており
合わせて、それを国会で安倍さん自身が口にしている動画(新聞記事には載っていないが会っている人がいるということ)
また笑っていいともで安倍さんがタモリさんに対しても、やはり同じようなことを言っているとツイートしている

双方ともこれらの情報や動画を探し、直ぐ様アップするというのは、「今はそういう時代」なんだなと実感する
そして冒頭にあるように、知恵はコミュニティのなかに存在すると実感する

ところで話はこれで終わらずに、朝早く新聞各紙の画像をアップできた人物が一体どういう人なのかとの推理へ向かう
まだ朝早い時点で数年前の新聞を何部も揃えて撮影(スキャン)できるのは普通の人じゃない
過去の新聞を揃えるだけで大変なのに、これがあっという間にできている
それができるのは(過去の新聞記事が容易に見られる環境の人物は)国会図書館(だったかな)のような
施設を使える人に違いない、、との想像
そしてこの人物のツイートの一日の時間別の頻度を調査して、、このひとの勤務状態を把握する
どの時間に多いか、どのような言葉に反応しているか、、、
それで導かれる結果は、、、、

いやはや凄いもんだ
ツイートの頻度を細かく調べてる人がいて、そこから対象人物の立場まで想像する
それはとても自然な推察で説得力を持つ

ところでなんでも朝日新聞を批判したい人たちはウエブ上の朝日新聞の2015年2月25日の首相動向が
意図的に削除されたと批判ツイートしているが、これに対しても直ぐ様
もともと新聞社のシステム上、ある時間が経過すれば削除され、しかもその旨は言葉として明らかにされている
と反応しツイートしている


しかし、あの人たち(のツイート)は人格攻撃が多いな、、
それだけで、少しひいてしまう

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個人の判断(アメフトの記者会見から連想したこと)

2018年05月23日 09時30分58秒 | あれこれ考えること

昨日、日本大学のアメフトの選手の記者会見が記者クラブであった
悪質なタックルで関西学院大学の選手に怪我を負わせてしまうことになったが
その選手・家族・チームに謝罪する意味で、顔を見せない謝罪はないとの思いで会見に臨んだのだそうだ
その覚悟は評価に値する

世間の関心は、監督・コーチの具体的な指示があったか、どうか、、
そして、選手の会見と日大側からの発表が、まるで最近の国会答弁を連想させるものだから
そうした比較も混じえて議論されている

だが自分の関心は、若干の人も取り上げているが「選手個人の判断」のこと
選手個人も「命令・指示されたが、よく考えればよくないと分かることをしてしまった自分が悪い」と述べている
そうせざるを得ない環境にあった、断る選択肢はなかった、、状況下で、人は自分の判断の良し悪しを決められるのだろうか、、
あとになっていろいろ言うのは簡単だ

例えば先の大戦、戦争は良くない、、と、どれだけの人がこのことを言えただろう
そんな雰囲気ではなかった、言えば仲間はずれになり、まして犯罪者扱いになる、、
これが経験者の声だ

思うに極限状態になってしまうと人は正常な判断はできなくなる
これは受け入れがたくても何となく分かる
(理解はできるかもしれないが許されないことはある、、アイヒマンの例のように)

人が生きているということは、判断の連続だ、、というのが
昨年読んだ心理学関係の本だが、わざわざ読んで確認しなくても、そんなことは分かる
肝心なのはその時々の判断を間違えないようにするのはどうしたら良いか、、という点だろう
と言っても人間のすること、間違えた選択をする可能性はないとはいえない

小さな選択ミスは、大きな選択ミスをしないための反省材料として冷静に振り返る癖が
人にできていれば、人としての被害は少なくなるだろう
しかしいつもそんなことを考えて生きているわけでない
大半の場合は、直面する事態に「さあどうするか?」をいきなり問われる
この判断を「自分で行い、自分の責任と覚悟する」態度とか行動様式に
人は(特に日本人は)慣れているのだろうか、、というのが一番の関心事

生きていることは判断の連続というもの、人は自らの責任を負うような判断の現場から逃げ出したくなる
どう選ぼうとお前の自由だ、、と言われても、そう言われた方は途方にくれてしまう
誰かが自信有りげにすべきことを指し示してくれたら、それに従うほうが楽で自分自身にも言い訳がつく気持ちになる
これらの細かな考察はエーリッヒ・フロムの「自由から逃走」ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の章にある
人はそもそもそれほどの自由は望んでいない、自由は重荷になってしまう、、
さあお前は自由だ、なんでもできるぞ、、そのかわり全部お前が責任を負うのだ、、よりは
奇跡だろがなんだろうが従うことによって簡単に食物が手に入ったり病気が直ったり
またあの世の幸せを約束(?)してくれるのだとしたら、人はその方が楽で良い

でもそれで良いのか、、と考える人も存在する
どうしようもなく自分の中から湧き出てくる感情とか思い
そうするほうが楽なのだが、果たしてそれで良いのか、、という声
この声との対話・対決を常々経験しているかどうかが最終的な判断を間違えないためのポイントになるのではないか

これを簡単な言葉で言ってしまえば「個の確立」
個とは多に対する概念ではなく、西欧的な概念からすれば「神と向かい合った時の自分の立場」
誰彼がどうのというより絶対者との関係において、自分の拠り所となるもの

話は飛んでこの日大の選手の追い込まれた状況での判断
彼は「自分の内にある声に背いた心苦しさをずっと負い続けるのは嫌だ」と判断した
比較するのは佐川さん・柳瀬さん・福田さんたち官僚の内面はどうかということ
職務上の上司の命令には逆らえない、、という法的なものも有るかもしれないが
果たして彼らのなかに自分の内側から湧き上がってきた感情があって、
それを無視するという選択を覚悟を持ってしたのだろうか、、
彼らには業務上のミスをしないスキルはあるかもしれないが、
全人格的な間違いのない判断をするスキル(敢えてスキルとする)があるのだろうか

全人格的な、間違いのない判断をするために、その立場の人には昔中国では四書五経
古代ギリシア・ローマではリベラルアーツに通じる学問の知識が必要とされた
そんなもの役に立つか、、と短絡的には思えるかもしれない
しかし、これらの教養がある人と、ない人を比較した場合、、
その人から感じられる安心感や信頼感は、どことなく違う

ところで、この判断を間違えないための何か
それがこの国の大事なポジションにいる人に有るか、どうか、、
さて

アメフトの話から随分それてしまったが、とにかくあの日大の彼の放った
「個人の判断」の言葉が気になったので、
思いつくままダラダラと、、まとまりもなく、、、




 

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ボヤキ、あるいは愚痴

2018年05月20日 09時12分21秒 | あれこれ考えること

本棚にこんな本があった

少し付箋があるが情けないことに読んだ記憶が全然ない
当然内容は理解していない
それどころかいつ購入したのか、本当に自分で購入したのかさえ怪しい
(認知症やばい、、かも?)

だが、目に入って気になるので読み始めると(超国家主義の論理と心理)これがまた独特の言葉遣いで手こずる
その方面に慣れていないのでなかなか文章の意図が把握できない
もっともこれ若干抽象的に書かれていると本人も自覚している

やはり気になるのは、多分多くの人が指摘するところで
「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した」という部分
西欧の(個人の中の)神との葛藤とか筋道(理論)に対する信頼とか、その覚悟に従った行為ではなく
まるでその場の空気の従ったような日本の歴史を、ここでも説いている(空気の研究を思い出す)

そしてそういう空気を醸し出す立場は、お偉いさんから(あの人)との距離感によって左右される
一番偉いのは現場の人間と言いながら、責任は取らず立場がなせる技という手で追求を逃れる

この本にリアリティを感じるのは、最近のこの国の有様がそのままではないかと感じられる点
西欧のように突き詰めて物事を考える訳でもなく、個の確立がなくともなんとなく大人の世界を生きているこの国
これはたまたま昨日(家族と見た)のイギリス王室の結婚式との比較でも感じたことで
一言で言ってしまえば、イギリスは個の確立した大人の判断と覚悟による儀式
これらは多分日本ではとても難しいだろうと思われること

日本人は果たして本当に西欧人が前提とする考え方を身に着けたのか
これは福沢諭吉も他の知識人もそれぞれ違う言葉で似たような言葉を発しているし
実際自分もそのように思うことは少なくない
もちろん日本は日本で独自の考え方はあってもいいが、そこには突き抜けるほどの徹底さがあって欲しい
(道元さんはその世界に達してる?)

本当に最近の政治を見ていると失望の方が大きい
現実に即して結果を求めて行うのが政治というものの、その進め方の品格のないこと
そしてそれに違和感を感じず個人の判断は存在せず、ただその場の空気に追従する様(官僚や与党議員)
これらは実は最近だけのことではなく、以前からそうだったと自覚するのは少しばかり辛い
実際にところ、気がついたところから試行錯誤で良いと思われることを進めるだけのことなのに
なんとこれの難しいことか、、

いつもようにまとまらないが、つい愚痴ってみたくなった、、

 

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文体と相性

2018年05月19日 08時23分55秒 | 徒然なるままに

図書館で借りて再読した柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」

昭和史に刻まれるこの特異な事件に身内のものが関わっているのではないか、、
との疑惑から、身内の人の記憶と様々な資料をあたって、この事件を追求する

下山事件とは1949年7月5日 銀座三越から忽然と消えた初代国鉄総裁下山定則が
その一日後、彼は轢死体として発見される
事件発生時点から他殺説、自殺説が乱れ飛び警察の中でも、捜査一課は自殺説
捜査二課は他殺説と分かれ、生態轢断か死後轢断かとの評価は東大と慶應義塾大で異なる
事件を調査するうちに、線路上に何メートルもの血液反応が発見されたり
衣服に奇妙な油がしみ込んでいたりの不思議な現象が見られた
一方、失踪後の下山定則と思われる人物を見たという人物がところどころ現れる
しかし、調査結果として公にされたものが必ずしも聞き取り内容そのものではなかった疑いが見られた
その他にも下山氏の死を暗示するような不自然な出来事が、例えば、下山家の家族への電話とか
落書きとか、、幾つものことが、、起こっている

このミステリアスな事件は想像力を刺激すると見えて、多くの人がその真相を暴くべく取り組んでいて
松本清張の「日本の黒い霧」矢田喜美夫「謀殺 下山事件」諸永裕二「葬られた夏 追跡下山事件」
森達也「シモヤマケース」などがある
これらは他殺説だが、その決定版となりそうなのが冒頭の柴田哲孝氏の著作

再読したこの本はとても面白かった
身内の記憶を辿り、身内に残された写真とそこに写る多様な人物と風景や車
それらは一気にリアルな世界を想像させる
しかし残念なことに本の後半部分は登場する人物が多すぎて雑な読み方では何がなんだかわからなくなった
矢板玄人、白洲次郎、吉田茂、佐藤栄作、児玉誉士夫、その他戦後を代表する歴史上の人物と
GHQ やキャノン機関やCIAがごちゃ混ぜのように絡み合って、それである方向に進んでいく、、

確かに面白かったが、一方向からばかりではまずいということでアマゾンで購入して読書中が

これは自殺説を支持する著作で、それのみならず上記の柴田哲孝氏の「下山事件 最後の証言」を徹底的に批判する書物だ
柴田氏が他殺と判断する根拠を、一つ一つ取り上げて、それを否定する証拠と解釈を紹介していく
この過程は、客観的に物事を見るということとはこういうことだ、、と感心する
しかし、とても残念なのは、この人(佐藤一)の一言多い文体が、少しばかり読んでいる人間を不快にさせる
単に事実の羅列を行い、多用な解釈が存在しうることだけを述べれば良いのだが、そこに柴田氏への批評が入る
その表現はまるで麻生財務大臣の負けず嫌いな性格がついやってしまう、言わずもがな、、の類
せっかくの真面目な本が、少し損してる印象

この本を読んで一番感じたのが内容ではなくて、このようなことというのは少しばかり情けないが
人が文章を読むというのは結構相性が肝心だ

いきなり話題は下山事件から文体(文章)の相性に変わるが、自分は名文との一般的に評価の高い太宰治が苦手だ
読んでいて、どこかわざとらしい仕掛けとか意地悪さみたいなものを感じて嫌な気分になってしまう
三島由紀夫もどうにも合わない
表現の多用さは認めるとしても、どこか人工的な作り物のような、、そして女に対してのどこかいじけたような人物設定
何度も挑戦しようとしてもこの二人は、途中で投げ出してしまう
ノーベル賞が届かない村上春樹氏も、、ハマるまではいかない
確かに気の利いているセンテンスがある、でもそれだけだ、、
やっぱり相性が良くないということ

結局のところ、人は自分が無条件に受け入れそうなイメージの考え(文章・作品群)を
まず最初の段階で選んでいるのだろう
この直感に近いモノが果たして何に依存するか、、はわからないが、
とにかくこういうことは存在するということ

相変わらずの毒にも薬にもならない話、、



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