パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

戦時中の本、二冊

2016年08月31日 19時18分40秒 | 

現在が新たな戦前にならないことを願っている
その関心から、最近手にした本が
図書館から借りた

 

そして読み終わった今、Amazonから購入したのが

この「近代の超克」は 裏表紙にこんな解説文が書かれている

「真珠湾」の翌年、小林秀雄ら「文学会」同人が、開戦に「知的戦慄」を覚え、
音楽・歴史・科学・哲学などの知識人に呼びかけて、座談会「近代の超克」を行った

そう、知識人と言われる人々があの時代にどんな感じ方をして、どんな行動をしたか
それは新聞記事と異なるのか、それとも被るのか、、、

新たな戦前にならないために、過去をしっかり学ぶ、、
それはとても大事なこと
しかし、はたして我々は過去をしっかり学んでいるか、、、

 

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今日の中日新聞から「メディアは十分な検証を!」

2016年08月30日 08時50分54秒 | あれこれ考えること

先日、大衆が政治的なことを判断する場合、住民投票や
国民投票で正しい判断がなされるかどうか
疑問とか不安を覚える旨をサラッと書いたが
(正しい判断とは何か との細かな定義付けは少し横に置いておいて)
心配の大きな要素となるのは、多くの人の目にする情報のこと
その情報が十分なものかどうかとても不安だったからだ

情報を自ら進んで集めて考えていくタイプの人はいい
しかし、既存のメディアから垂れ流しの情報でなんとなく自分の
考えをつくっていくタイプの人は(多分こういう人のほうが多い)
後悔をしないだけの判断力を持ちうるか、、、
そんなことを思っていたら今朝の中日新聞にこんな記事が載っていた

イギリスのEU離脱の是非を問う国民投票の時のメディアの伝え方の調査だ
やはりと言うか、イギリスでもそうなのか、とも思われるような事が書かれている

以下気になる部分の抜粋引用 


●テレビは規制機関や独自のガイドラインが定める「公平性」にしばられる
しかし、表面的な公平性を重んじるあまり、残留、離脱説それぞれの主張が事実かどうか
検証する姿勢が弱かったと指摘されている

●放送局は両陣営の放送時間を「公平」にしたかもしれないが、独自の立場でもっと主張の検証や
反証が出来たはず

●主張が真実かどうかを遠慮なく追求するのがジャーナリストの役割だ

やはりメディアは発表報道ではなくて検証を基にした報道の立場でなければならないはず
と説いている

中日新聞はわざわざイギリスのことを書いているのではなく
当然のことながら、日本のことを想定している
果たして日本はどうか?
よく考えて欲しい、、と自ら媒体の使命として取り上げたのかもしれない

最近の日本の報道は、、、
時間の公平さが金科玉条のごとく公平さの評価としたいようだが
肝心な検証という点ではどうなのか

またアンケートを実施して客観的なニュアンスを演出していても
そのアンケートの文言を読み込んでいくと、明らかにどちらかの答えを
導くような質問になっていたりする

実際のところ(こんなふうにいってしまうと元も子もないが)人は
正確に公平な客観的な態度をとり得るかが大いに疑問だ
同じように話を聞いたとしても、大半は聞く前からどちらかの意見(話)に
共感を得ている
一応同様に話を聞いたことになっていたとしても、
それは自らを納得させるだけに過ぎないのではないか

「意識は傍観者である」という以前読んだ本の中に
こんなふうなことが書かれていたし、多分ややこしい認識論をめぐって考えていっても
完全に客観とか公平などはないということになりそう

最初からどちらかの考えを持つことは仕方ないとして
それを裏付けるキチンとした検証した情報、そしてそれに反する検証なされた
情報は公にされないと自らも納得出来ないのではないか

   

ところで、この中日新聞の記事の最後に、少しキツ目の話が載っている
●情報が不十分だったとの批判は誤りで
 残留または離脱で英国がどうなるかなどの事実を示したとしても
 人々は関心を払わなかっただろう
 有権者を引き寄せたのは離脱派が唱えた「(EUから)実権を取り戻す」
 といった政治的なスローガン

確かに情報は正確で検証されていたとしても、それを読みこなす、消化し切るのには
時間や知識、熱意が必要だとしたら、そんなのは面倒で人はわかりやすい話に流されていきそう
するとより適切なスローガンを掲げた(良いコピーを書いた)陣営が勝利を収めそう
というのはありそうな話だ

まともな判断をするための前提としての検証された情報の提示だけでなく
面倒でもそれを基に判断する人々をすこすづつでも増やしていく
こういう行動がないと、普通の人は正しい政治的な判断はできないのではないか
と思ったりする

それにしても、最低限メディアに願いたいことは
大本営発表をそのままの報道ではなく、検証の充分なされた調査報道を
してほしいものだ(国のことも市のことも) 

※話がうまくまとまらなかったな、仕方ないか

 





 

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ショパン弾きではないかもしれない(?)丸山凪乃

2016年08月27日 18時15分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

土曜日の午後、宗次ホールのスイーツタイムコンサート並の価格で
自宅近くの新城市文化会館で生のピアノ演奏を楽しめたのが
写真の丸山凪乃ピアノリサイタル

この会場でクラシック音楽を聴くのは多分2度目(もしかしたら3回目)
JCの方が頑張って実現できた第九を歌う会の演奏会
それとモーツァルトのK219のヴァイオリンと新世界のプログラム
(少し怪しいのはラフマニノフの2番のピアノ協奏曲があったような、、、)

とにかく久しぶりのことだ
プログラムは

前半はショパンの作品
後半はシューマンとリストのロマン派の作曲家に、最近の人ファジル・サイの音楽

このピアニストのことは知らない
だが解説によると史上最年少でショパンコンクールにでたらしい
それで前半は、そのコンクールで演奏した作品を並べたようだ

演奏は、若いな
深みやニュアンスの微妙なところはない
バリバリと感情移入はそれほどなく弾ききっていく
もっと大づかみの解釈というか捉え方が必要かな
と思ったりした
ということで、有名な曲が並んだ割には印象には残らない演奏

しかし後半は、なかなか面白かった
自分でも自分の好きな曲と話しただけあって
共感の度合いが全然違う
この人ショパン・コンクールに再度挑戦するらしいが
ショパン弾きではないのでは!というのが実感
ショパンよりはもっと濃厚な感情の作曲家のほうがあっていそうな気がした

後半の最後の大曲 リストのソナタも面白かったが
今の彼女のフィーリングにピッタリと思われたのがファジル・サイのパガニーニ・ジャズ
例の24の奇想曲のひとつをジャズ風にあしらったもの
クラシックではなく今の気分をより的確に反映しているようで楽しかった 

サイモン・ラトルが古典となった音楽ばかりではなく
今の時代の今の気持ちを表現して、今の人しか共感を得られないような現代音楽を
無視してはいけないようなメッセージを発しているが
大げさなことを言わなくても、確かに今の音楽はもう少し門戸を
広げるべきかもしれない

そういえば数カ月前にいったエレーヌ・グリモーのリサイタルでも
現代曲はそれなりに面白かった 

帰り際、アンケートの回収があって、もっとこの手のコンサートの開催を希望したが
さて、、、、 

 

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住民投票と市民の声を聞く力の低下

2016年08月27日 09時20分33秒 | あれこれ考えること

新幹線の乗り継ぎでひどい目にあった先日の大阪行き
出張(?)の目的は
記念シンポジウム「住民投票の20年 〜これまでとこれから〜」
の出席のため

昨年の新城市の住民投票がきっかけで、交流する機会を得た
「住民投票/国民投票」情報室(今井一代表)が主催するシンポジウムだ

パネリストとして新城市で行われた住民投票について
「新城市政を考える会」の事務局長の大田恒久さんが経緯・結果等を発表した 
同席したパネリストは他に東京の小平市の「小平都市計画道路に住民の意志を反映させる会」
の代表水口和恵さんがいた

この小平市の話を聞いているうちに、最近何かで読んだ記憶があるぞ!という思いが
頭をよぎったが、その答えは先日このブログでも取り上げた「民主主義を実感するために」だった
著者の國分功一郎氏がこの運動に参加していて、取り上げていた

住民投票は間接民主主義を補完するシステムとはいうものの
イギリスのEU離脱の国民投票以来、その判断の良否が疑問視される面がある
正直なところ自分の中にも、果たして大衆は正しい判断を下せるのか
と疑問を覚えているのも事実だ
しかし、今まで日本で行われた住民投票を見る限り、住民投票の結果が政策に
反映されているところが大半で、結果的に間接民主主義を補完する結果となっているようだ

住民投票が一気に多くなった時期があった(シンポジウムの発表資料による)
それは市町村合併が国の方針で進められたときで、当事者である市や村が当事者の声を聞く
ために行われた(これは気持ちとしてよく分かる、当事者は自分たちで自分たちの行末を決めたいだろう)
住民投票の大半(92%)はこの案件で行われているが、
最近増えつつあるのは公共施設(図書館など)・庁舎関連などの身近な話題ということだ
新城市もその中に入る

住民投票は大げさなものではなく、身近なものになったと考えられないこともないが
フト考えてしまうのは、この身近な問題をわざわざ市民の意見を聞かなければ
ならくなったのは何故かという点だ
仕事や生活に追われる市民は面倒な難しい問題をイチイチ自分で考えるのは面倒で
代理とか分業の業務をする人物として首長や市議を選んでいる
その人達が適切に市民の声を反映していければ問題はないのだが、、

ところが、どうもここのところが全国的にうまくいっていないようだ
二元代表制システム云々と言葉を並べて、市民の声を聞くことになっているが
現実は、「彼らは市民の声を聞いていない」判断されることになっているようだ
これは最近見られる傾向なのか、
それとも昔からそうでただ問題視されなかっただけなのか、、

市議や首長は庶民が知らない法律・手続き・システム・会計の情報やら
知識が必要な専門職で、現実的・効率的に社会が回っていくためにに
市民は彼らに自分たちの判断の方向性を委ねる
ところが、市民の声を反映していないとしか思えないような
判断があちこちで見られる
そしてその説明は、市民にはわかりにくい用語とか法律用語を用いて
自分たちの判断の正統性を訴える
法律的な土俵では市民は絶対というほど行政や政治家には勝てない
持っている情報量や知識の絶対量が違う
しかし皮膚感覚の感情や実生活に根ざす経験からの思いは
いくら法律的に問題なしとしても、違和感を感じる

この違和感の発露の方法として住民投票が行われるようになったのだとすれば
住民投票の増加は、市議会や首長が市民の声を聞くというレベルが
下がっているのことの反映なのかもしれない

確かに新城市では、その傾向は見られる
あのとんでもなくわかりにくい住民投票の選択肢を選択した議会や
それを問題視しない首長は残念ながらレベルが高いとはいえない

ところで、新城市はわかりにくい選択肢のせいで面白おかしく
メディアに取り上げられ、その結果市民の間にも関心が高まったが
こうして時間を経過した現在は、住民投票の悪しき選択肢の筆頭として
記録されることになるなるらしい

新城市の不名誉となる住民投票の選択肢、それは下記のうちどちらかを選べというもの

選択肢1 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し

これで、さあ選べ!と言われても困るのは市民
市外の人から見ると、何が住民投票で問われているのかわからないのでは、、
だからこそ、この選択肢の変更を求めていろいろ活動したのだが、、
そこから先は長い話、、、 


 

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冒頭の文章

2016年08月24日 08時17分28秒 | 

「秋が好きだ、物悲しいこの季節には思い出がよく似合う。
木々が葉を失い、まだ赤みを残した夕暮れの空が枯れ草を黄金色に染めるとき、
自分のなかで少し前まで燃えていた火が全て消えていくのを見れば、
ひとは穏やかな気持になる。」

先日時間つぶしに入った書店で、何気なく手にした本の冒頭部分
作品は「十一月」 フローベール の短編だ
翻訳の文章だがとても気に入った(翻訳は笠間直穂子さん)
人には無条件に共感できる文章とかリズムとか文体があるもので
それは翻訳であっても、不思議とすっとその世界に入っていける

書店に行くと誰もそうだと思うが、パラパラと冒頭部分を読む
そこで自分に合う文章を見つけると、まるで宝物を見つけたような気分になる

北杜夫の「幽霊」も書店でパラパラと冒頭部分を読んで
直ぐ様購入した一冊だ

「人はなぜ追憶を語るのだろうか。どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。 だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻をしつづけているものらしい。そんな所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持がするのだろうか。」

この部分でいきなりノックアウトされた
そして読み進めていくうちに、色彩のない静かな物語に心を奪われると同時に
ひどくこの素晴らしい文章に嫉妬した

そういえば、翻訳ものだがヘッセの「郷愁」の冒頭も好きだ

「はじめに神話があった、偉大な神は、インド人やギリシア人やゲルマン人の魂の中で創作し
表現を求めたように、どの子どもの魂の中でも、日ごとに創作をくりかえしている。
私は、自分の故郷の湖や山や谷川がなんと呼ばれているかも、まだ知らなかった。、、、」
(翻訳は高橋健二)

こうして並べてみると自分の好みの傾向は少し明らかになってくるが
とにかく、冒頭というのはそれから先に行かせるか、行かせないかを決めるだけの力を持つ

冒頭の掴みが大事なのは音楽でも同じ
ベートーヴェンの5番
モーツァルトの40番
ビートルズのア・ハード・デイズ・ナイト 
これらは最初で勝負あり!といった音楽だ
(他にもショスタコーヴィッチの5番、リヒャルト・シュトラウスのツァラトゥストラはこう語った 

 マーラーの大地の歌 も印象的な冒頭)

話は本に戻って、フローベールについて
名前と「ボヴァリー夫人」という作品は知っていた
しかし、トライしてみようとは思わなかった
特に最近は馬力のある、詳細を極めた表現をしがちな外国の小説の描写が
少しばかり淡白な傾向になりつつある(?)自分にはしんどいように
思われたからだ
しかし、この冒頭部分で考え直した
この人の作品、面白いかもしれない 
今の自分のタイミングなら読み終えられるかもしれない
ということで「十一月」の入った文庫本をAmazonで 購入した

と言っても、本は先日届いたのだが購入したらそれで満足
ではないのだが、暑さのせいで(?)積ん読状態に、、
いかんいかん 、読書の秋はそこまで来ている
気張って読まなければもったいない

しかし、冒頭って大事だな 

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「のぞみ」と「こだま」の接続は、、、

2016年08月22日 11時06分05秒 | 徒然なるままに

昨日ある事情で大阪に行った
新城から大阪へといえば飯田線から
豊橋経由の新幹線利用となる
行きはネットで時間を調べた

豊橋から新幹線「こだま」に乗り換え
この「こだま」は名古屋が終点だったので
そこで少しだけ待って「のぞみ」に乗り換えた 

「のぞみ」をうまく使えば不便な豊橋も
それなりに便利かもしれない、と頭にそんな思いが残った

帰りは一応ネットで調べておいたが、時間が不明だったので
(結局予定より早く帰ることになった)
その場で臨機応変に対応しようとした
そこで浮かんだのが行きに利用した「のぞみ」と「こだま」の併用
新大阪駅で適当に「のぞみ」に乗って、名古屋で少し待てば
こだまがうまい具合に接続するだろう、、、と思ったりした

ところが、これが予想を大幅にうわまる大失敗
「のぞみ」で名古屋についたのは良いが
豊橋に停まる電車が全然来ない
名古屋に着く列車は「のぞみ」「ひかり」いずれも豊橋には止まらない
豊橋でも「ひかり」が停まることはあるが、それは限られた時間だけ
この時間(夜9時台)は待てども待てども豊橋停車の列車は来ない

結局、蒸し暑い名古屋のホームで何をすることなく
待つこと約50分
こんなことなら大阪で涼しい場所で時間つぶしをして「こだま」に
乗ればよかった  と思っても後の祭り
いやいや、久しぶりにひどい経験をした

それにしても、豊橋からの新幹線利用は
東京方面も大阪方面も帰りがとても使いにくい
昔はこんなに使いにくいことはなかったのに、、、

「こだま」から「のぞみ」の接続はよくても
「のぞみ」から「こだま」は、、、、、駄目だな
(つくづく豊橋は重要視されていない駅だなとも感じた)
 

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金メダルはブラジルだが、ドイツは強かった(男子サッカー)

2016年08月21日 08時32分08秒 | サッカー

ドイツは強い
決勝戦だろうが、完全アウエイだろうが、先行されていようが
そんなことお構いなし
いつものように、コツコツとやっていくだけ
昔から続いているこのドイツの戦い方は今回も見られた

ひらめき、アイデアのブラジル
組織というより現実的なドイツ
テクニックという面ではその方向性が違う
ブラジルは足技、ドイツはでかい体の使い方とシュート技術
ドイツはシュートコースに入ってブロックしている場面も多かった


ブラジルがカウンターしてもすぐに何人もが帰ってきている 
正直なところもう一度この試合を行ったらドイツのほうが強いのでは
普段の現実的な厳しいサッカー環境はヨーロッパのドイツのほうが
身にしみた知恵がある

ブラジルの失点はやはり後ろからのクリアだったかつなぎの失敗から
これはイタリア、スペイン、イングランドあたりではあまり見られない光景
ブラジルは国内選手ばかりだと今のサッカーに遅れそうな雰囲気 

しかし、絶対ありえない話だがブラジル監督にドイツ人がなったりすると
進歩しそうな気がする
(プライドと言うより、メンタリティーで 無理かな)

 

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記憶がなくなる集中力

2016年08月20日 07時43分37秒 | 徒然なるままに

今回のオリンピックで興味を持ったもの
それは卓球とバドミントン
結果が伴ったからでからではなくて、競技自体に惹かれた

卓球はあの小さなテーブルにどんなスマッシュをしても
返って来るシーンは幾度と無く見られたが
それは魔法のようだった (なんで返せるんだろう)
しかも、そのピンポン球は様々な回転がかけられている
それをいとも簡単に返していく
訓練の凄さというか人間の能力の凄さというか
そして実にいろんな競技を作り出す人間の能力に少し呆れてしまう

バドミントンも初速はすごいが急激に空気抵抗を受けて失速する
(と言っても上位ランクの人のスマッシュは速いが)
その為に防御が可能となり長いラリーとなっていく
そこでラリーを続けるうちに穴を探す、態勢を崩させたり
打ち返しにくいところをついたり
返す方は返す方で柔軟な体をフルに使って返していく
これはなかなかおもしろい

ところで、そのバドミントンで女子のダブルスで高橋・松友ペアが
逆転で金メダルを手にしたが、その試合後のインタビューが興味深かった
それは高橋さんがこぼした「最後の何点かは記憶が無い」ということば
多分極限まで集中していたのだと想像される

この極限まで集中した世界というのは残念ながら一般人にはめったに
経験できるものではないが、それでも今でも覚えているのは
極限までの集中とは少し違うかもしれないが高校時代のサッカーの試合でのこと
相性が悪くて戦うと勝てない相手とその日は接戦だった
後半の中頃、そんなに得点能力のある方ではない選手がシュートした
そのシュートが自分の頭(目の中)では本当にゆっくりとゴールに吸い込まれていった
よくテレビドラマで映像化されるような、スローモーションのような光景だった
キーパーも必死で飛びついて防ごうとしているが無常にもすり抜けていく
そのシーンには音がなかった(色もなかったかも知れない  音の方は確かになかった)

この様なシーンのことが高橋・松友ペアの中で行われているのだろうと
勝手に想像した
集中した中ではシャトルはゆっくり目に入る、そして体は勝手に動く
意識するより正確に動作する
それは実施には日頃の訓練の賜物だろうが、このような体験をした人は
真に良い体験をしたこととなるだろう
精神的にこのモードになれた時はいいプレーができると
学習したから今度は意図的にそのモードに持っていく工夫をする

と勝手な想像をしてみたが
錦織でもマッチポイントを握られても正確に自分を信じて返していったのは
負けたくないといった感情よりはあの集中モードに入れたからではないのか
バドミントンもテニスも対戦相手の表情は少し勝者に比べて余裕がなかった

でも、やっぱり4年に一度の神様のさじ加減とか気まぐれは、、、深い
吉田さん、愛ちゃん、ちょっと残念だったね
でもよく頑張った 君たちがいなかったら今はなかったのだから


 

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そういう運命

2016年08月19日 06時23分09秒 | 徒然なるままに

女子レスリング 吉田沙保里4連覇ならず
残念でした

勝った相手の人はエラい
でもこうした今まで一生懸命頑張ってきた人が
最後の最後で神様のさじ加減でポロッとチャンスを逃してしまう
ということは、よくあることだ

サッカーではチームを引っ張ってきた選手が
どういうわけか決定的なミスをしてしまったり
(日韓ワールド・カップの3位決定戦の時のホン・ミョンボのミス
 イタリア大会でのアルゼンチンと戦いゲーム中はスーパーなプレイの
 連発だったストイコヴィッチのPK失敗)

時間は取り戻せない
それはとても残酷だ
しかし、耐えるしかない
そのような運命になってしまった人
自分で自分をどのように納得させるか、、
金メダルよりも、そちらの心の動きの方が気になる 

 

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敗者の映像

2016年08月18日 08時37分23秒 | 徒然なるままに

最後まで諦めないこと、
それが実証されたような女子レスリングの金メダル
(登坂・伊調・土性 3人共逆転勝ち) 

でも、へそ曲がりな自分はそのことを取り上げるのではなく
勝負が決した時の敗者の姿が気になった
登坂選手と戦ったアゼルバイジャンの選手の負けを実感せざるを得ない時の
魂の抜けたような、そして後悔がいつまでも残りそうな
頭のなかを何かがフラッシュバックしているに違いないような表情

人の表情に気力とか熱意とか思慮、思いやりが現れるものだが
それらが一時的とはいえ、消え去ったような瞬間
これも時のいたずらに身を委ねる人というものの宿命なのだろうが
人はそれほど強いものではないということの現れだ

敗者の写真で今も鮮明に覚えているのが2002年の日韓ワールド・カップの
ドイツ対ブラジルのゲームが終わった後の、
ドイツのGK オリバー・カーンのゴールポストを背に
放心したような虚ろな姿
一気に歳をとったような、それまでチームを支えてきた自分が
何故よりによって肝心な試合にミスをしてしまったか
自問自答しても答えが出ないような
いつまでも自分の十字架のようにフラッシュバックするであろう
ミスしたあのシーン

個人的には頑張って評価を上げている歴史上の人物より
何故か巡り合わせが悪くて少しばかり運の悪い人たちの方に
関心があるが(大津皇子、小栗忠順、土方歳三、村山タカなど)
オリンピックでもワクワクするような勝者だけでなく
何故か運悪く神様に微笑んでもらえなかった選手が気になる
それは日本だけでなく、どの国においても

その意味では、日本選手の喜んでいる映像だけでなく
放心している選手の姿も見たかった
(決して残酷な意味ではなく、彼ら彼女たちはどのように運命を受け入れるのか
と言った興味として)

ハリウッド映画のように失敗や敗戦が、次に挽回されるなどということは
簡単なことではない
時間の経過は若い人には実力のアップを、それなりの年齢の人には
体力低下をもたらす
勝負の神様のさじ加減は人智を超えている
その理不尽な結果にどうやって向かい合っていくか
挽回できる人はいい、でも挽回できないかもしれない多くの人たち
その人達にとって、挽回とは勝負の上のことではなく
最後の最後で人生を肯定的に考えられるかどうか
ではないか(少しロマンティックすぎるか?)

勝者だけにスポットを当てるのではなく
勝者を支え続けた人の行いを報道するだけでなく
勝負には必ず敗者がいて、
その人達がいなければそもそも勝負が成り立たないのだから
彼らにもリスペクトの気持ちを選手同士だけでなくメディアも
持たなければいけないんじゃないのかな

 

 

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