スイス、スペイン、ベルギー、イタリア、チェコ、デンマーク、ウクライナ、イングランド
この8カ国がサッカーのユーロ2020で勝ち残ったチーム
Youtubeでダイジェストを見て楽しんでいるが、サッカー大国ではない国の活躍が嬉しい
スイスはフランスにPK戦までもつれて勝ち(スイスの2点目のヘッドはすごかった)
チェコはオランダに勝ち、デンマークは試合途中に選手が心肺停止になったハプニング
を乗り越えてそこがきっかけとなって勝ち進んだ
比較的調子がよさそうなのはイタリアとイングランド
ランキング的にはベルギーが上でも、ベルギーは大きな大会で勝っていないから
経験不足で肝心なところでバカバタするかも
Youtubeを見て感じるのは、シュートゴールの上を通過するのが少ないこと
同時期に開催されているACLの試合と比較すると、
アジアのチームはシュートが下手だなと実感する
それはシュートのセンスが無いというからではなくて、シュート技術の問題のように思える
現在のJリーグのトップを走るフロンターレは吹かすシュートは少ないが
下位のチームはゴールの横よりは上を通過する
つまり強いチームは吹かさないということで、高校時代に試合前の相手チームのシュート練習を見て
吹かすチームは強くないと経験したが、それが上のクラスの段階でも言えそうだ
前からずっと言ってるが、サッカー協会の目標としてゴールの上を通過するシュートを減らす
というのを掲げて欲しい(せめて高校選手権大会ではこれを技術目標として欲しい)
Jリーグの最近のフィジカルコンタクトに対する審判のジャッジは
世界標準的になってきて選手のレベルアップに役だっていると思われるが
良い位置取りをするとか裏に抜ける魏術だけでなく、そもそものシュート技術のレベルアップが望ましい
今回のユーロは試合会場がヨーロッパ各国で、それはサッカーを通してヨーロッパは一つの文化圏だと実感する
ユーロを見るにはWOWOW契約をしないとダメだが、どこかの地上波で主だった試合は中継して欲しいものだ
(結果のわかった試合でいいから)
少しばかり時期尚早かもしれない地元の話題
(新城市以外の人は面白くも何ともないだろうし
新城市の人も大半の人は知らないと思われる案件
でも気になって仕方ないので備忘録として)
例外が多い場合は何か良からぬことがありそう
と思うのは、いろいろ経験してきた人の一種の知恵だ
そして会計とかお金に関することは、性悪説を前提に考えなくてはならない
とするのが、残念だが現実的な向き合い方と思われる
地元新城市では既に議決されて、そのお金の使い方も承認された形になっている
土地の購入に関する不思議な案件がある
その土地は養鶏場になっていて長いこと地元から悪臭被害が訴えられ
また蝿の異常発生にも関連しているようで、困った問題になっていた
その養鶏場は少し前に運営企業に変更があった
法人としての変更はないが実質的には経営者が変わり別の組織になっている
そのあたらしい経営者が新城市に土地を売りたいので購入して欲しいと申し出た
(平成最後の年の2月後半のこと)
これは今回の6月議会でも明らかになったが、最初は担当部署に伝えられたようで
その時は売却希望価格もそえて伝えられたようだ
市にとっては購入価格になるが、それが5億円を超すものになるので
一旦は庁内会議を開く事になった(3月のこと)
その時の庁内会議では、その土地の購入したとしても
その使いみちがはっきりしないので、疑問を呈する意見があったようだ
最終的には工業団用とされたようだが
当時は近くの工業団地がまだ2区画売れ残っているし、
景気低迷が見られるので新たに造成したとしても果たして売れるのか疑問だ、、
と言った声があったようでこれは会議録に残っている
だが、この購入については定例会ではなく、4月に急遽臨時議会が開かれ
債務負担行為の項目で補正予算が提出され議決される事になった
先方企業から提出された金額は余りにも漠然としたもので、価格の正当性には
疑問が残るので金額は不動産鑑定の後、、
という条件で(?)議会は債務負担行為を認めた
不動産鑑定はすぐさま行われた
早すぎるほど、スピード感をもって行われた(ここまでの段取りも異様に速い?)
その年は元号が代わる年でGWは10連休があったが、不動産鑑定はそれでも
発注後一月もしないうちに成果物として提出された
(このあたりは議会でも違和感をもった議員が追及した)
その後の定例会で債務負担行為から、仮契約の段階に移ることになったが
明らかになったのは、不動産鑑定を出すための参考とした土地が
地元新城市ではなく豊川市であったことだ
(最近の情報開示で4箇所あるうちの3箇所が豊川市だったことがわかった)
不動産鑑定は当初先方から伝えられた金額には達しないが、それでも4億を超える大きな金額で
議会は行政の言い分を(工業団地にする可能性がある、今までの悪臭被害をクリアする機会)
そのまま信じて、一部に反対に意見があったが契約することになった
何か違和感を感じたままモヤモヤしていると、最近、購入地のすぐ隣の土地を
国が別の目的で使う事になって、その不動産鑑定を行うことになった
するとその平米あたりの価格は、養鶏場の購入価格の8分の1ほどだった
(情報開示で明らかになった)
そして、それは前々から常識的にはそのくらいの金額だろうと不動産関係の
人からの口からも出た金額だった
そもそもの不動産鑑定が正当なものだったのか、、が疑問に思えるのは当然のことで
不動産鑑定委託企業が随意契約になった経緯、理由を今回の議会で行政に質した議員がいた
普通は大きな金額の場合は競争入札で委託企業を決めるのが決まりになっている
何故今回は競争入札ではなくて随意契約だったのか、、、と聞いたわけだが
行政はこれは「競争入札に適さない例」と答弁をした
(どうやら不動産鑑定は誰がやっても同じ金額になるので、、ということらしい?)
だが、それ以前に市が行ってきた不動産鑑定委託業務は、競争入札になっていた
(情報開示からわかった)
今まではそうあるべきであるように競争入札であったが、今回は随意契約だったのだ
何も好き好んで性悪説をもとに追求しようとするのではない
ただ、何かがおかしい、、と一連の流れから思えて仕方ないのだ
選挙になると議員は「地元のために、、、」との発言をする
だが地元のためにお金を使える権限は議員にはない
予算提案権は首長にあって、議員はその案を議決できるに過ぎない
(議員提案という方法やら、議会委員会要求?があるらしい)
議員は一般人が見ることのできない細かな情報が与えられて
それをもとに適切な判断(議決)をするように求められる
ところが、今回のことでわかったことは議員は本当に細かな情報を読み込んでいるのか
また求めようとしているのか?という点への疑問だ
不動産鑑定が豊川市の土地を基準に行われた、、という事実を知って
違和感を感じた数名の議員以外は、何とも感じなかったのだろうか
と不平不満をこぼしても仕方ない
現実問題として、議員の仕事はどの程度真面目に行われているかが
おそらくどこの自治体でも問題なのだろうと思われる
(真面目な)議員だからといって、何から何までわかるわけじゃない
得意とする分野やら気にかけている分野は、何とかこなしていけるが
それ以外の分野はもしかしたら素人と変わりないかもしれない
その上で、議決という行為を要求される時、人は何を根拠に自分の判断を行うか
多数派の雰囲気に流されるか、、自己の生活体験に基づく判断に任せるか
だがこれも観念的すぎる捉え方のような気もする
現実は、もう少しいい加減なところで回っているような気もする
多数決はある前提のもとでは、より正しい結論を導くとされている
(「多数決を疑う」の本のなかにあった)
この前提の確保が難しいので、多数決自体が暴走になっているというのは
昨今の国会等でも見られる様になっている
ただそうは言っても、現実的に自分らができることは、選挙は自分たちのために
よく考えて投票しないとマズイと思うこと
そしてよく考えるということは、自分の支持する政策が誰に近いかだけでなく
その選択によって彼が行使する議決権がどのうよな結果をもたらすかということ
自分の選択が多数決の暴走に繋がりそうならば、意図的にブレーキ役を選ぶというのも
人としての知恵となると思うが、これは観念的すぎるか、、
それにしても、ほとんどの市民が知らないこの案件は、、、なんか不思議だな
この楽譜はモーツアルトの交響曲40番(K550)の冒頭部分だ
(フルスコアではないけれど)
この楽譜を見た時はそれほどではなかったが、ある時オーディオショップで
この曲のモーツァルトの自筆のコピーが額装されたのを見た時の衝撃は
尋常ではなくて今でも覚えている
それはこの楽譜でも見られるが伴奏部分の刻みの音が
あの有名な旋律よりも先に、柔らかくリアリティをもって頭に響いたことだ
一秒にも満たない僅かの時間、でもそのほんの僅かな音が絶対に欠くことのできない音
として心に刻まれた
それはモーツァルトの頭の中で鳴っている音を感じたかのような気さえした
その額装された自筆楽譜のコピーは、何分の何と数字が書かれていて
限定的にコピーされたもののうちの一枚だと思われた
これ欲しい!
すぐさまそう思ったが、金額が30万円くらいだったと思うが、流石に手は出なかった
音楽家(演奏家)はきれいに印刷された楽譜だけでなく、作曲家の自筆楽譜を見て研究するらしいが
その気持はこの例からもわかる
確かに本物には何かを刺激する、インスパイアする何かがある
だがそれは感じる人しか感じられない
また同じ人でもなんにも感じない時があれば、すっと心に入ってくることがある
今の自分はあのときと同じ感覚を覚えるか?
と考えると、きっと何も感じないだろうな、、と思う
しかしあのときは確かに何かを感じたことは間違いない
ゴッホのひまわりを初めてみたときも、ミロの版画を初めてみたときも
広隆寺の弥勒菩薩を初めて見たときも、その時感じたことは今でも覚えている
でも本当に残念だが、少しづついろんなことを感じなくなってきているようだ
全てが過去の記憶の何かとの比較になるようで、、
仕方ない、それが年齢を重ねるということなのだろう
年齢を重ねたならばそれなりの楽しみかたをするしかない
ベートーヴェンの32番のピアノソナタは、今でこそ身にしみて別世界の音楽の様に思われるが
若い時はすごいと思いつつも切実感は覚えなかった様に思う
でも、それでもできることならば新鮮な驚きは感じられるようでいたい
人口が5万人にみたない田舎のわが町に、今まであった洋菓子屋さんが無くなった
探せばどこかあるらしいが(鳳来の方に)パッと思いつくところはない
一方、和菓子屋さんは結構ある
働きすぎが嵩じて店を継続できなくなった(作りての病死で)
彼岸や節句には駐車場が満杯になる和菓子屋さんが無くなったのは残念だが
それに代わる店はどこかしこに存在する
お菓子は結構好きで、自分でも驚くのは初めて海外に旅行した時の
金銭出納帳にケーキを食べた記録が毎日の様に載っていたことだ
今でも甘党か左党かと問われると、前者の方に該当しそう
京都に出かけたときも楽しみにしているルーティンは「虎屋菓寮」でのひとときで
ちょいと高めだが、いつも何か新しい発見があるので、高くても「ま、いいか」
と思うことにしている
日本は洋風化されているが、和菓子はどっこい逞しく生き延びている
スーパーでも饅頭や柏餅、おはぎなどは目立つところに並べられて
洋菓子よりも存在感はある
そして最近購入するお菓子は、断然和菓子の方が頻度が高い
結局、生クリームより餡この方がしっくり来ると感じられるようになったのだろうか
それとも季節ごとにふさわしいお菓子を何の気無しに求めるようになっているのだろうか
(彼岸におはぎ、5月の柏餅、9月以降の栗蒸し羊羹)
そういえば、ひところ「かりんとう饅頭」に凝ったことがあった
あそこのが美味しいと聞けば、車で他市まで出かけて求めたものだった
その少し前は栗蒸し羊羹で、同じような事をした
京都では決まった日にしか販売されない笹屋伊織の「どらやき」を
そのために出かけたこともあったような、、、
また鶴屋吉信ではカンター席でお菓子を作ってもらったりしたこともあった
食は保守的と言われるが、確かにそうかも知れないと思う
市議会は行政のチェック期間
行政にとって耳の痛いことを指摘されることがある
でもそれは議員が行政をいじめたり、バカにしているからではなくて
議員はそういう役割ということだ
しかし、理屈ではわかっていても人はそう簡単にそのような行動が取れるわけではない
昨日、真面目な議員と話す機会があった
その議員は、いろいろ調べるために行政に資料要求や聞き取りをする
そうすると知らずしらず担当者の人間性とか立場とかを感じ取れるようになって
厳しい追求ができなくなってしまう、、とこぼした
だから行政のスタッフと親密にならないのも一つの方法かもしれない
とつい考えるようになってしまったというのだ
その気持ちは想像できる
議員の仕事はそんなものではないと簡単に割り切れる人よりは
こうした些細なことに悩む人間性は、人として信じられる
でもその議員は、最終的には自分の信じる正義感・倫理観に沿って判断を行っている
それは議員のいつもの行動を見ればよく分かる(一般質問とか)
同じ釜の飯を食う
チェックする側とされる側がこのような状況を設けて和気あいあい
とするのは、制度的に好ましくないことかもしれない
どこかの議会では一般質問(議会)が終了した時に職員と宴会を開いて
交流をしている(した)との話も耳にする
イギリスではメディアと政治家が同じ釜の飯を食うなどということはないそうだ
コーヒー一杯を奢られることさえジャーナリストとしてすべきことではない
とされているようだ(現実的にそれが実行されているかどうかはわからないが)
ところが日本はどうか
政権のおエライさんとメディアのお偉いさんは、同じ釜の飯を食っている
メディア側はおえらいさんでなくて現場の人間でも、内緒の話を聞くために
(業界を出し抜くために)政治家個人と仲良くなろうとする
だが、それは政治家に利用される可能性があるということだ
内緒の話は、誰にとって都合の良い話か
その話は事実かと仲の良い人を疑って調べることができるか、、
つまりはジャーナリストは自らを守るためには、政治家と仲良くならない
という態度も必要だと思われる(それは人間性を否定するものではない)
最近のメディアと政権の関係とか、地元の議会において行政(首長)の言い分を
疑うことなく納得してしまう議員の多いのを見ると、制度は整っていても
それが円滑に運営されているかがとても疑問に思えてしまう
最近知ることが多くなって、それに連れて制度として存在するものの、
運営上は実態から離れていると思われることが多くなってきた
なんか人間性も疑い深くなってきた?(そうではないと思いたいが)
地元新城市議会の6月定例会の山田議員の一般質問の話題
リアルタイムの傍聴が一番いいが、この日はボランティアの外国をルーツにもつ
子供の勉強の手伝いがあって傍聴できなかったので、アーカイブに残された
インターネット中継に頼ることになった
以下はあちらからのコピペ
「できるだけ不穏当発言の無いように!」
とお願いしたのが新城市議会の爆弾男の山田義員の一般質問
(ティーズに加盟していないので、傍聴できなかった部分はインターネット中継で
見ることになるのだが、不穏当発言があるとアップされるのに時間がかかるので)
ちょいと思い込みの激しい部分はあっても、
直感的に何かがおかしい!と感じる感覚は余人をもって替えがたい
今回の2つの質問(高速バスの契約、鈴木養鶏場の買取の契約)は、
貴重なお金の使い方に関することで正しいステップを踏む事によって自らの正当性、
金額の妥当性を保証する行政が、実は随分曖昧なまま物事が進められていったことがわかる
今回の山田氏は事前に良く情報を集めて、話の流れを組んでいたので
初めてこの話を見聞きした人にもよく分かる内容と思われる
いろいろ驚くのは、金額の妥当性はどうのように確保されたのか?
という点がはっきりしないことだ(高速バスの契約)
契約がいろんな都合で随意契約にしかならないとするのは譲ったとしても
提出された金額が妥当かどうかは、一旦は考えるべきだと思われる
不思議なのは「見積書を頂いたが、内訳は書いっていなかった」とする行政の答弁
内訳無しで総額いくらです、、信じてください、、で物事は進んでいくのだろうか
また予約システムについては、行政も説明しているが新たに作り上げるのではなく、
既存のあるものを間借りする形で参加しているに過ぎない
ちょいとレンタルの予約システム(たとえば美容院等の)金額を調べてみると
月1万から2万でできるようになっている
それが年間100万円以上の出費になっていて、違和感を感じずにはいられない
(予約システムの登録が三社だとしても総額はそこまで行かないと思う)
2番目の鈴木養鶏場の買取についても情報開示請求なり、議員の資料要求を読み込んだ上での
事実を積み重ねた質問になっているので、見聞きした人はぼんやりと違和感を感じると思われる
途中で、急に市長が登場して経過説明をしたが、その経過自体に不自然なことがあったことを
山田氏は指摘している
この質問は初めての人が聞いてもわかるので、一度見聞きして欲しい
インターネット中継はこちらから↓↓
http://www.shinshiro-city.stream.jfit.co.jp/?tpl=play_vod&inquiry_id=693
地元新城市の話題
6月議会の一般質問が先日行われた
18人の議員のうち、その機会を駆使しなかったのは2人
そのうちの1人(M議員)は地元の人が知ったなら
怒りを覚えそうなくらい今までも一般質問はしないでいる
彼の議会参加は議決のみ!とさえ思えてくる
このような怒りはさておいて、今回気になった2つのことがある
その2つはどちらとも計画通りのペースで物事が進んでいない
一つは、千郷中こども園の建設について
もう一つは学校給食共同調理場の建設が2年遅れることになったことについて
千郷中こども園については、この話が出てからだいぶ時間が経過している
もともとは現こども園の場所に建て替えで話はまとまっていた(?)ような状態だったのが
別の場所の案が出てきて、混乱が始まった
その新しい場所というのが近くに高圧電流の流れる鉄塔があって、
子どもに電磁波の影響が心配された
またその用地付近(最初は計画用地に)反社会的な人の土地があって、
このまま進めるとややこしいことになりそうなことが予想された
そこで、建設地はどちらが良いか?と話が振り出しに戻って
(今の場所で良いとしていた人たちにとっては迷惑な話だが)
検討することになった(市は現在地ではなく新しい場所を望んでいるような雰囲気)
この話は感情的なもつれもあってなかなか前に進まないでいる
そこで、判断は市にお任せ!というような形になったが
市は市で地域の連絡協議会の意見を聞いて判断すると答えた
気になったのはこの連絡協議会の回答だ
市は下駄を預けた連絡協議会からは報告が来ていない、、と答弁した
ところがこの問題を一般質問した議員は、全く反対で
連絡協議会からの答えは既にもらっていると議場で発言した
同じ報告で、片や来ていない、もう片方は既に来ている、、
一体どっちなんだ、、と、この地区以外の傍観者は不思議に思う
そしてこの一般質問を見聞きした人は(テレビ中継等で)どちらの意見を信用するのだろう
議員が現実の世界でどのくらいの力を持ちうるかわからないが
新しい場所を勧めているこの議員は、若干問題の多い人で
正直なところ言い分をそのまま信じるのは少しむずかしい
(彼はある件で議員辞職勧告を受けている)
ただ、話はどちらが本当かは深く突っ込まれず(報告の定義も説明されず)
宙ぶらりんのまま時間は過ぎた
なにか、お互いが言いっぱなしで時間だけが過ぎたようでモヤモヤする
もう一つの遅れることになった学校給食共同調理場の建設については
ちょいと情けない内容が明らかになった
市所有の場所に学校給食共同調理場を建てようとして市は基本計画を立て
次に実施計画にかかったところ、今まで市の所有と思われていた場所には
実は県の所有地が含まれていて、その土地の法的な処理を終えないと建設に
かかれないことがわかった
そこで計画を2年遅らせることになったというのだ
単純にそんなことあるのか、、市のチョンボか
それともこうしたことは時々あるうることなのか、、と疑問が浮かんだ
市は公図から判断したら市の所有地だったが、実施計画の段階で測量等をしてみたら
県の土地が含まれていたと弁解した
でも手続きを踏むことで自らの正当性を確保する行政が
現実にはこんなに雑な作業をしていることにショックを覚えた
そこで思い出したのが、やはり市のチョンボだった道の駅もっくる新城の建設費の件だ
当初5億円くらいの建設費だったのが、手違いであと3億円ほど必要になった
もっくる新城はこの建設費の間違いだけでなく、もう一つ問題があって建設設計をやり直している
依頼して出てきた設計に費用を支払ったが、それで満足できず新たに別の会社に設計依頼をしている
どんな理由があったか知らないが、その時どのような納得できる説明があったのだろう
とにかく、もったいないな、、の気持ちを覚える
そして、行政を無条件に信じるのはあまり良くないかもしれないと実感した
(そのために行政チェックの議会が存在する?)
少しばかり面倒なことだが、無関心でいると大事なお金の使いみちが
知らないうちに好き勝手されている、、ということになりそうだ
※ところで、行政のチェックは議員なら、議員のチェックは市民の役割
一口に欧米と言われるが日本は圧倒的に米の影響が大きい
現在、毎朝のように話題になっている大リーグの大谷
アメリカはまるで大騒ぎの様になっていると報道されるが
ヨーロッパのスポーツ界はそれどころじゃない
多くのヨーロッパ人の関心事はサッカーのユーロ選手権だ
レベル自体はワールドカップよりも上に位置するようで
まるで代理戦争のようなガチンコの戦いが見られる
前回のワールドカップ出場を逃したイタリアもオランダも
名誉挽回で必死の様相
イタリアはまずまずの戦いをしているようだ
死の組と言われるドイツ、フランス、ポルトガル、ハンガリーは
ドイツ対フランスは、ドイツのオウンゴールでフランスの勝利
ロナウドのポルトガルとドイツは2−4でドイツの勝ち
フランスはハンガリーと1−1の引き分け
ポルトガルはハンガリーに3−0で勝利
つまりは決勝トーナメント進出は最終戦ドイツ対ハンガリー、
フランス対ポルトガルの結果次第
国民にとってはハラハラのいち日になる
ところが、スポーツメディアはこの報道はほとんどない
現在のスポーツの報道は大谷の活躍の影響が大きいいが
時々欧米と一括にされるアメリカとヨーロッパには
結構大きな考え方の違いがあるような気がする
ゲームの中のタイムという概念が(ハーフタイムは除いて)
ヨーロッパ発のスポーツのサッカーにはない
ところがアメリカ発の野球、バレーボールには存在する
ここで思うのはアメリカ発のスポーツは監督の影響はかなり大きいということだ
野球ではバントとかヒットエンドランとか盗塁の指示まで行うらしい
サッカーでも監督の影響は大きくて、結果責任として成績不振の場合は首となるが
監督の日常の仕事は試合の前段階としての練習、あるいは選手の選択(それもポジション変更も含めて)
そして一旦試合が始まってしまったら、そこでは選手自身が考えたり、
練習で身につけて自動的にできるようになったプレーをするしかない
つまりは始まったら責任は選手自身にある
そしてそれこそがプレイしている選手のやりがいとなる
(子どものサッカーコーチをしていた時、野球に行かなかった運動神経の良い子は
野球は自由にできないから嫌だ!と言った)
チームプレーと簡単に言われるが、日本は上からの指示によるそれで
アメリカのそれに似ている気がする
ヨーロッパは自己主張を前提として、その自己主張をバランスよくするための交通整理
のような監督の指示が存在するだけ
ヨーロッパに出かけたサッカー選手の多くが、個の力のアップをしないとやっていけない
と感じるようでそれを声にしているが、それは単に技術だけの問題ではなく判断
しいては生き方まで及ぶものの様に思われる
(そしてそれこそが自分に欠けていたものと実感する)
ということで思考傾向としてはヨーロッパ依存の大きい自分は
最近の日本の出来事をつらつら見るにつけ、、なんだかなぁ~
日本人は個が確立していない!と思ったりする
自分の考えを述べることはある時は摩擦を生むかもしれない
だから相手の顔色をうかがって、なるべく穏便に物事を処理しようとする
でも残念ながら、もうその方法では処理しきれなくなって、
根本から自らの頭で考え直さないとあかん状態のような気さえする
不満の多いメディア人も真に個の確立ができているか、、ちょいと不安
(何故、匿名記事が少ないのだろう)
とにかく不満が多い毎日(大谷が頑張っていても)
英語のタイトルは「Good Economics for Hard Times」だが
「絶望を希望に変える経済学」の邦題タイトルは
この本の全体を言い表した良いものだと思われる
人には楽観的と悲観的な見方が同時進行的に存在するが
ここでの主張は希望につながるもので、一見楽観論のように見えるが
それは単なる希望ではなくて、人は理性とか共感力を駆使すれば未来はなんとか変えられる、、
といった信念に基づくもので、それはフランス革命を果たした人たちの
未来はもっと良くなるとか、
東西冷戦を終えた時期の人々の世界はより秩序だったものになるといった考えに似ている
(ヘーゲルの弁証法に似ている?)
経済学は今や全生活に深く結びついているので、この本で扱われる問題も多岐にわたっている
その一つ一つは興味深く、じっくり読むべきものだが、どうしても先へ先へと気が急いてしまった
そして「もう一度じっくり読み返せねば!」と自覚した
全体を通して印象に残るのは、著者の全人格的な態度だ
それは広範な知識とそれを使う技術、そして共感力、、つまりは人としての姿勢でこのような人物が
世の中に存在するという時点で、どこか救われる気がする
ピケティの「21世紀の資本」のアルマティア・センの「経済学と倫理学」も
単にどうしたら効率的な経済となるか、、といった視点からの問題提起ではなく、
むしろ人の幸せとはなにか、、を正面から問いかけている本で、
西欧は時々このような全人格的な問いかけの本が生まれてくる
このような本は日本では生まれるのだろうか?
読んでいて感じたのは、まずはそのこと
極端な言い方をすれば、これらの本は竹中平蔵氏とか大前研一氏の効率を優先したものとは違うと思う
自分はよく「全人格的」という言葉を使うが、それを抵抗感なく理解する人と
なんじゃこれ!と思う人がいると思われる
これらの著者は全人格的を前提とした方々で、もしかしたら一部の人達はそれ故にエリート主義として
嫌悪感を覚えてしまうかもしれない
読み返さないとダメだな、、と感じたのは各章にでてきたエピソードあるいは調査の結果が
今までそんなものだろうとステレオタイプに認識していたものが、実際はそうではないことが
示されているからだ
移民が仕事を奪うとか、税率を上げると企業の競争力が低下するとかに、福祉支援をすると働かなくなる人が増えそうとか
当たり前の様に世間に行き渡っている常識は、実はそうばかりではない、、ということが
データと、何年かをかけた追跡調査で明らかにされる
そして、この著者が一番肝心と考えているのが「人間の尊厳」
たとえ自分たちの判断基準からすると遅れていると見える人に対しても「上から目線」ではなく
人としての尊厳を守りながら共感力を駆使して向かうべきとするのは
こんな時代だからこそ必要不可欠と思えてしまう
読んでいる時に付箋をつけるのを忘れてしまったことを、今は悔いている
もう一度読み返さねば、、、近いうちに、、、
今回のコロナ禍のオリンピック騒動で個人的に関心のあることは、
行うべきか、中止すべきかどのような数値があれば安全と考えられるか、、
といったことではなくて、むしろその外形的な社会の姿の方だ
例えば大会スポンサーにもなっているメディアはどの様に報じるか?
スポンサーは商業的なイメージアップになると本当に考えているのか?
世論は中止、延期が割合として多いが、一般人は何をなしうるか?
オリンピックは特別なものなのか?(日本人にとって、主催者にとって、選手にとって)
オリンピックと商業主義、それにつながる資本主義
そしてそれを可能にする多数決という決め方(議決権を持つのはロビー活動された人々)
つまりはオリンピックが世界との一体感を持つきっかけとなると言ったお題目ではなく
実態としての姿だ
オルテガの「大衆の反逆」では、知識も技術もなく何の取り柄もない人が
そのような仲間が多いというだけで、自分たちが正しい、、かのような行動をすることを
危ぶんでいる
確かに、雰囲気に流されがちな大衆の感情的な判断は、間違いやすいと思われる
しかし制度上では、俯瞰的視野を持ち全人格的な判断をしうるとされる議決権を持つ人は
(物事を決める権利を持つ人は)現実には、ある種の団体の利益代表として存在してしまう
そして選挙運動の稚拙云々では、なれた人々の手にかかっては大衆の意識の方向は
簡単に変えられてしまう
「パンとサーカス」
他人事としては軽蔑的にみなすことができるが、これから国内で起こることは
まさに地でいっている、、ということになりそうな気がする
そして、それはそれで利益を得る人々の望む姿だ
大衆はそんなに忘れやすいものなのか?
自分のこととして考えられないものなのか?
あのマスク2枚の費用と発注先の奇妙さは、もう記憶の外で良いのか?
不安や不満を持っていても、何もすることはないのか(一部の人を除いて)
多分メディアとしての責任を取らない(何かが起きても)
両論併記という逃げる手があるので、片や不安を報じ、片や高揚感を煽り
その結果どちらがより多くの影響を与えることになるのか検証はしない
ただ、事が起きて責任を問われることなると
どちらの見方からもちゃんと報道はしていた、、と言い訳しそう
これは先の戦争前・戦中の新聞の記事を読むと(それがメディアの行ったこととすると)
空恐ろしく感じざるを得ない
厭戦気分ではなく戦意高揚を果たすような報道があったが
それはオリンピックの高揚感を煽るのとどうしても同じ様に思えて仕方ない
こうして田舎にいてもイライラが募る
こんな風に無意識・無自覚なままで進んでしまって、それを多くの人が受け入れるだけ
で済ませていいのか、、
とにかく頭が整理できないが、今に生きる人は将来の人から「あのとき何をした?」
と批判されないか、ちょいと不安