パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「自由からの逃走」を思い浮かべてしまった

2020年01月31日 18時41分02秒 | あれこれ考えること

シロノワールで有名な喫茶店で週刊誌を見た
その特集のページの写真にこんなのがあった

東京オリンピックのマラソンで銅メダルを手にし、次回のオリンピックも期待されたがために
自ら命を失うことになった円谷幸吉さんの手紙の中の言葉だ
真面目で一途で責任感を一人で抱え込んでしまって
その行為に至った方のこの文章にみられる「自由のしんどさ」は
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を思い起こさせる

自由は無条件に良きものとするのは、少しばかりお気楽すぎる
全て自分の思うようになるということは、全て自分が責任を負うことに等しい
果たして人はそんな自由を欲しているのだろうか
こうした自由を実は欲していないのではないか、、
これを連想させる(究極的に)自分自身に向き合わないシーンが日本のドラマには多い

スポ根的なドラマでは必ずと言っていいほど師に当たる人物が登場する
そしてその師の助言は絶対的な価値を持ち、それに従うことでスキルアップする
師の伝えるノルマは厳しいかもしれないが、それは肉体的・忍耐の問題だ
でも答えのない問題を思いつき、自分で答えを見つけ出さなければならないとしたら
精神的なストレスは半端なものではない

言い換えると、一旦指示されたらそれをしんどくてもするだけでいい場合と
何をしても良いとされて自分で効果があるかどうかわからないまま行うとか
自分の判断根拠となるものを自分で見つけなければならない苦痛
それが自由というものとしたら、、、

禅とか哲学の世界は究極的には自分自身の対話であるとしたら
そんな面倒でしんどいものよりも、現世的には他人が具体的な指示してくれることに
従ったほうが楽と考えるのは無理からぬ事だ

話は変わって、官僚(公務員・職員)さんの本分は、法を守り全体の利益のために
(多分)自らの良心に従って行動することだろう
でもこの自分の考えに従ってを突き詰めて考えるのは面倒くさいし
その答えがあっているかあっていないかを自分で決めるのはとても難しいし
あっている根拠もない
そうした時は指示に従うほうがはるかに楽だ
まして、そしてそれを正当化するための法的根拠があればなおさらのことだ
でも折りに触れ、自分が官僚さんとか公務員(職員)の方々に期待してしまうのは
人としても感性をもった存在としての職業人

それは職業人の前に独自の判断力をもった個人であるということ
つまりは個の確立
だが、それ期待するのはロマンティスト、夢想家なんだろうな、きっと

人はパンのみにて生きるにあらず、、
と言われても、
人はパンがなければ生きられない、、、のが現実
それでもついつい期待してしまう、、個人としての判断力をもった人たちの存在を

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ベートーヴェンのアダージョ(緩徐楽章)

2020年01月30日 18時49分27秒 | 音楽

ねずみ年の今年はベートーヴェン生誕250年
いろんなベートーヴェン絡みの企画が予定されているらしい
ベートーヴェンといえば運命が昔の定番だったが
現在は年末の第九かもしれない

だが自分のイチオシの交響曲は「英雄」(エロイカ)だ
押し付けがましくなく、若々しく、変化に溢れ、劇的で完成度が高い
ウィーンのハイリゲンシュタットにはエロイカガッセという道がある
その少し先にはベートーヴェンガングと名付けられた田園を作曲した時に
歩いたとされる小川に沿った道がある

ところが田園をレコードで聴いてもこのあたりの風景は頭に浮かんでこない
そのかわりピアノ協奏曲「皇帝」の第2楽章を聴くと
ハイリゲンシュタットの町並みが浮かんでくる

ブルックナーはアダージョの作曲家と言われるがベートーヴェンの
緩徐楽章も印象的なものが多い
エロイカの第2楽章の葬送行進曲もできが良いし、第九の第3楽章も
しみじみと頭の中の楽器群を鳴らすかのよう

その他にも少し思い出すだけでも
弦楽四重奏曲のラズモフスキー一番の第3楽章も忘れられない

ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲 第7番 ヘ長調 作品59の1「ラズモフスキー第1番」
アルバン・ベルク四重奏団 1989 Live


後期のハンマークラヴィーアソナタの第3楽章も考えるアダージョっぽい

ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調「ハンマークラヴィーア」第3楽章 内田光子 2007


年齢を重ねるとベートーヴェンの音楽が熱情とか感情のおばけみたいなものではなく
極めて理屈っぽい技術的な音学家だと思うようになってきた
いや理屈と思索が一致しているような、、、
そしてアダージョが心にしみる


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パレートの法則

2020年01月27日 09時22分19秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

パレートの法則という経験則がある
いろんな場合に応用できるようだが、ビジネスにおいては
「売上の8割は全顧客の2割が生み出している」として用いられる
飛行機利用者、クラシック音楽の客などを想像すると
これは「そんなものだろうな!」と自分でも思う

新城市では新東名高速道路を利用した新城・長久手の直行バスを
市のお金を使って走らせている
これは今のところ3年と少しの間の実証実験という形で行われていて
今年の3月がその実証実験の終りとなる

年間目標利用者は45,000人としているが
現実は29年度 13,061人 30年度13,113人
となっており目標に遠く及ばない
一便あたりバスの利用者は7人前後で、市民の間では
「空気を運んでいる」と評判が悪い
この高速バス事業の費用は
29年度36,881,999円  30年度36,459,051円
となっており、一般財源と基金から充当している

この結果を踏まえてバスの運行を続けるべきか、やめるべきかを
検討すべき時になってきている
利用者にはもちろん継続してほしいとの声がある
ところが、この事業のコストパフォーマンスの悪さに即廃止すべき
この費用は、福祉や教育に使うべきだとの声もある

実証実験期間と言いながら市側は十分な検証をしていなかったことは
現場の人間が認めている(PDCAチェックもその他の検証も)
そこで昨年末、急遽利用者アンケート(調査)を行った
そこには、新城にバスで来た方がどのくらいお金を使うか
と言った項目もあるとのことだ

そこで冒頭のパレートの法則に話に戻るが
このバスの利用者は(ヘビーユーザーは)どういった人たちなのだろうか
と想像してみる(実際に聞いてみた)
2005年に作手、新城、鳳来の自治体が合併して現在の新城市となっているが
バスの利用者は、かつてのどの地区の方々の利用が多いかをまずは想像してみる

作手はバスの停留所まで来るのが大変だし、発着時間が限定されているバスの利用は
現実的でないと思われる
バスの利用者がヘビーユーザーで名古屋まで通勤・通学をしている人と仮定するならば
鳳来地区の方々は名古屋までの時間がかかりすぎて、そもそも通勤・通学を考えないのではないか
もし名古屋で働く、学ぶとするならば名古屋で家を借りる方が現実的と判断するのではないか
となると、現実には新城地区の人間がバスを利用しているのではないか、、と想像した

以前、新城から名古屋に通勤・通学をしている人が300人以上いると行政から聞いたことがあった
その時は通勤・通学の人たちはこの3つの地区のどこが多いかは調べていないとのことだったが
最近の調査では、やはり旧新城地区の人の利用が多いとのこと

ところがこの新城地区の方が名古屋に行く場合には、高速バスと競合するライバルの存在がある
それはJRで、旧新城地区の駅からでは、日帰りの名古屋往復は
普通の日は1680円、土日祝が2000円となっている
これは安くて本数も多くて使い勝手が良いのでよく利用する
一方高速バスは片道1000円 往復2000円 本数は3往復で朝昼夕方で
利用はある程度限定されてしまう
ただし、一旦バスの乗ると乗換なしに藤が丘・長久手まで行けるので
これは確かに便利と感じることはある

でも再びパレートの法則に戻って、このバスの利用者、収益の柱となる
ヘビーユーザーがそもそもそれほど多く存在したのか、、という疑問にぶち当たる
通勤通学している人が300人以上(400人未満)しかいない
しかも、この数字の人達には代替え交通機関(競争相手)が存在するのでは
最初からこの事業の採算的な面の勝ち目は無かったのではないか、、というのが
厳しいと言うより常識的な見方ではないだろうか

民間がやらないから行政が行う
そのようなことは現実には存在する
同じ交通でも市内を走るSバスがそうだ
このSバスも現実には赤字の垂れ流しに近い形になっている
でも年寄りが多く過疎が進む代替え交通機関がない地区には必要不可欠となっている
税金の使い方としては、これは仕方ない、、と思えてしまうが
この高速バスは「そこまで費用を使って継続する価値があるか?」については
どうしても自分自身を納得させることができない

物事は、特に行政は走り始めたら何が何でも(屁理屈を付けても)事業を継続する
継続してるうちに、そこでの問題は忘れ去られて継続が当たり前のようになっていく
だから肝心なのは一番最初の決定に関わることとなるのだが
市職員も議決をした議員さんも現実的なパレートの法則を少しは考えてみたのだろうか

 

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映画「CATS」を見に行った

2020年01月25日 15時49分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

映画館の入り口でこのようなカードが手渡された

シニア料金を使わなくてもファーストショーだから安くなっていた
「CATS」はミュージカルを見るきっかけになった作品だ
正確にはアンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲した音楽を聴きに行くきっかけとなった
と表現するほうが良いかもしれない
(このあとオペラ座の怪人、ジーザス・クライスト・スーパースター、エヴィータ、スターライトエクスプレスを体験した)
30年以上も前、偶然チケットが手に入りそれほど期待せずに入ったが
帰る頃にはその音楽に、声の迫力に圧倒されていた
今覚えているのは、一部の終わりで歌われた「メモリー」にとても心揺さぶられて
つい「メモリー」の楽譜を購入してしまったことだ
そして、蝶々夫人のある晴れた日に!に似てるな、、と思ったりした

他に覚えているのはコートを羽織ったグリザベラが出てきた時
(このときは志村幸美さんが演じていた)照明のせいかそれとも
彼女のオーラの為せるわざなのか、その存在感が普通の人と違う
と感じたものだった
だから一匹だけ選ばれて天井に昇るのがグリザベラになったのは
なんの違和感も感じなかった

劇団四季の「CATS」はこのあと数年後もう一度見た
その時は猫の動きの柔らかさを演じていたのが印象に残っている
でも自分の興味はやはり音楽で、その間にCDを購入して音楽を聴き込んだ
このミュージカルのお気に入りの音楽は「メモリー」は当然のこと
太ったおばさん猫の歌う「ジュニエニドッツ」(のんびりと活発な対比が効果的)
おおらかな旋律が人格者を思わせる「オールドデュトロノミー」(コーラスとの掛け合いが良い)
それとグリザベラが娼婦と歌われるシーンでのピアノを主体とした伴奏で
実のところ、ストーリーはほとんど覚えていない

もっとも、このミュージカルはもともとストーリーは無いに等しいかもしれない
コンセプトアルバムと言うよりヒット曲集のアルバムのようで
それぞれの猫が特別な運命を得るためにパフォーマンスを披露する
だから変に物語を追わずに済んで音楽だけに集中できる

ところが今回の映画は物語になっていた
雌の猫(ヴィクトリア)が袋詰にされて捨て去られたが、近くの猫が
袋を解いて彼女は自由になる
そこで彼女は「天上まで行ける特別な猫」を選ぶ大会のようなものの目撃者となる
彼女はいろんな猫に出会い、いろんな経験をする

そこでこの映画に対する不満を覚えてしまった
映画がヴィクトリアの一種成長の物語風に、あまりにもわかりやすい筋書きとなっていたこと
悪漢のマキャヴィティを勧善懲悪ぽく、みんなでやっつけたこと
それらは、舞台はこんな話だったかな、、、と違和感を覚えた

この台本はエリオットの詩が元になっているらしい
だから、ところどころ歌の中にチクリと刺さる部分もあった
だったら余計なことをしないで、このミュージカルを見てどう考えるかは
見た人に任せるほうが良いのではないのか
あまりにも親切に説明しすぎるのは、、どうもな、、
想像する楽しみは残しておいてほしいな、、
そんな不満が湧いてきた

この映画はイギリス・アメリカでは批判も結構あるようだ
どの部分がそれに当たるかはわからないが、
自分はあまりにもわかりやすくしてしまったことが気に入らなかったな

でも「メモリー」はホントいい曲だ

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裁判のマネごとをしてみた

2020年01月24日 08時43分52秒 | 子どもたちのこと

 さあ、今日はどんなことになるやら!
木曜日の午後三時はいつも心配とストレスが同居する
恒例となっている外国人の勉強の手伝いのボランティアの
高学年の部(小学3年以上)が行れるからだ

なかなかこちらが思うように勉強に取り組んでくれない
低学年も思い通りにならないが、我儘でもこちらはまだ可愛い
だが高学年は少しばかり難しい
それは人格とか個性とか、、そういったものが芽生えてきて
それが拒否反応を起こしているように見えたりするからだ

昨日の木曜日、いつもの三人組(男二人、女一人)は
何やら言い争いをしながら会場に入ってきた
机についてもなかなかその話を止めない
どうやら壊れた傘について誰が悪いとか言い争っている

このままでは勉強に入る状況ではない、そこでこんな提案をしてみた
「よし、今から裁判をやろう。こちらにNくんが座って、向かい合ってGくんが座って
 Aちゃんはぼくと一緒に二人の話を聞いて、どちらの言い分に分があるかを決めることにしよう」

この提案に二人は即座に賛成し、机を対面するように移動させて座った
裁判官役のAちゃんの席も自分の隣に椅子を持ってきた
「まずは被害を受けたNくんから、いつどういうことがあったかを説明して!
 そのあとその話を聞いたGくんが反対の意見を言うようにする
 このように交互に話しをするんだよ
 ちょっと、その前に言っておくけど、話すときに態度が悪いと
 僕たちの心象が悪くなるので気をつけなよ!」
この心象が悪くなると一言は思いの外効果があって、彼らは感情に任せて
喧嘩腰の話はしなくなった

「証拠ってなに?」
訴えられたGくんが聞いた
「例えばナイフで人を刺した時、血のついたナイフとかそういうもの」
「それなら写真や動画もそうだよね」
さて証拠は提出されるか、、、

事件はNくんの弟の傘を別のRくんに渡したところ、Gくんが何らかの理由で
振り回して壊してしまった
その損害を弁償せよ、そして謝れ、、というものだった

最初に原告側のNくんが事件のあらましを説明し、Gくんが悪いと訴える
Gくんは反論する
「傘を振り回したのは認めるけど、そうなったのはRくんが自分に対して
 変なことを言ったせいだ。そんなことがなかったら振り回すことなんて無かった」
すると、Gくんが話し終わる前に、言い始める(心象が悪くなるから気をつけてと言ったのだが)
「だったらRくんに仕返しをすれば良いじゃないか、どうして弟の傘を壊すんだ」
少し立場がまずくなったGくんが話を変える「傘の穴はいくつあった?」
Nくんは「ひとつだよ」
Gくんは「そうだよね」
「Gくん、その質問の意図がわかりにくいけど」
「もし僕が振り回して壊したのなら穴は2つあいてるはず、
 穴は僕が見た時ひとつ開いていて僕がやったせいじゃない」

しばらくして証人を呼ぶことにした
最初にNくん側の証人として彼の弟のLくんが向かい合う机の間に立った
「これから言うことは本当のことを言わなくちゃいけないよ」
と釘を差したのち、Nくんが自分の立場を立証する証言を引き出そうとした
「あの時、Lくんはその現場を見たよね」
「ううん、見ていない」
「ほれ、RくんがGくんになにか言って怒らせた時」
「覚えていないな」
どうやらNくんの作戦は失敗したようだ

次の証人はGくんの妹さん
同じ様に「嘘を言ってはいけないよ」と言って始めた
ところがこちらが困った状況が発生した
Gくんが自分に都合の良い証言を聞き出そうとして妹さんに何やら
話しかけたがそれがポルトガル語で、こちらには何もわからない
そこで、隣の裁判役のAちゃんに「なんと言ってる?」と聞いてみた
するとどうもあまり関係のない話のようだった

と、こんな風に互いの意見を言い合うことが続いた
途中、子どもたちは可愛いな、、と思う瞬間があった
Gくん「傘はいくら位した?高かったら僕は払えないし、、」
どうも実感として自分の立場はまずいと感じているようだ

「さあ、意見を言い終わってこれでお仕舞いとなったら
 今度はこちらが、どちらの言い分が正しいか決めなくちゃいけない
 でも、ここからは相談だけど、はっきりどっちが勝ちと決めていい?
 聞いていると、どっちもどっちというところもあるみたい
 傘の穴は最初から開いていたかもしれないし、かれが開けたとする根拠もないみたい
 でも振り回したのは認めてる
 こういう時、白黒はっきり結論をつけずに仲直りするという方法があるけど
 その方法は君たちが了解しないとできない」
「ところで、Aちゃんは今までの話でどう思う?」
「ううーん、困ったな。どっちもどっちみたい、どっちに決めるのは難しい」

「さて君たちはどうしたい、はっきり結論出したい?」
Nくんが言う
「傘は700円だけど、Gくんは200円くれれば良いことにする
 その前に、(笑いながら)俺の脚にひざまずいてキスすればなかったことにしてあげる」
GくんもAちゃんも一気に緊張感は崩れて、笑う
「さあ、どうしようかな、白黒つけてもいいし、傷つかないようにしてもいいし」

「なんかスッキリしたい気持ちもある」の声
「よし、それじゃ決めようか。今回の裁判はNくんの言い分に分がある
 そこでNくんが提案した200円をGくんが払う
 それで全ておわり、その後は仲良くする」 
「でも、この支払は強制じゃない、君たち二人の間での約束ごとにしよう
 ふたりの金銭のやり取りを強制することはしたくないから、君たちに任せる、良いね」

「それで良い!」と二人の声
その後、笑いながらGくんは跪いてNくんの足先にキスをするふりをする
これにみんな大笑い
「どう、面白かった?」
A ちゃんに聞いてみる
「うん、でもN くんのBLの気があるのがおかしかった(足先のキスのこと?)」

結局宿題も何もしなかったが、昨日は子どもたちにも気分的に満足感を覚えたようだ
それに頭を使って疲れたとの声も聞かれた

子供たちは、知らず知らず、いい意味で妥協点を見つけようとしているように思えたこと
お互いに相手の事情をわかろうとしたこと
そうしたことが、実感として感じられて、こちらもいつもと違う充実感を感じた

今回少し分の悪かったGくんに
「今はNくんのほうが日本語能力があるけど、うさぎとかめの話にあるように
 いつか追いつけばいいからね、それとね、能力はどういうわけが階段の様に
 付いていくのではなくて、ある時急にグンと伸びる
 でもそのグンと伸びるためには少しづつでも努力していかないとだめだよ」

最近、真面目な話にも聞く耳を持っているGくんは納得の様子で聞いている
この手間のかかる三人とも3月の卒業までの付き合いとなった
ストレスは溜まるけれど、いなくなると少し寂しくなるような気も、、、

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自発的隷従論

2020年01月23日 11時40分56秒 | 

モンテーニュの友人の書「自発的隷従論」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ著)
とても面白くて一気読みした。
圧政(権力者)に自発的に(問題意識なく)従うのは、良き時代を知らない人々の習慣化された感じ方のせいであるとか
今でいうパンとサーカス(あるいは3S)で社会を肝心なことから無関心にさせようとしたりする手段を講じるとか
現在の官僚さんの姿を彷彿とさせる記述があったりで、早くも今年の三冊の中に入りそうな感じ
これは遠い昔の話とか、よその国のこととはとても思えない
(何故この本が日本でポピュラーになっていないのか不思議に思えてしまう、、知らないだけかもしれないが)

あまり面白くて先へ先へと急いでしまったので、もう一度読み直さないといけない
ラ・ボエシの書き残した文章の量はあまり多くなく(註は多いけれど)
さほど苦労しないで読めるので関心のある方は是非!

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悔し涙

2020年01月22日 08時38分40秒 | 子どもたちのこと

今日は何曜日か?
現役の仕事を離れて曜日感覚が薄れてしまっている

だが月曜日と木曜日は生ゴミを出す日で
それは自分の役割となっており、週のリズムは
だいぶ自分の体に刻み込まれている

月曜日と木曜日は生ゴミの他に、近所の小学生と校門まで歩いていく
あいさつ推進運動の楽しい時間がある
ハッピーマンデイや代休日せいで、月曜日にこのおしゃべりタイムができなくなる
ことが多いが、その時は少し残念な物足りない気分になる

この他に火曜日と木曜日は、例の外国人を親に持つ子たちの勉強の手伝いがある
つまり月・火・木は何やかや予定があって、少しはストレスを感じながら
何もしないでぼーっとしてるよりは良いかな、、と思うことにしている

昨日の火曜日は低学年の子の勉強の手伝い
「もと にほんごが じょうずになりたい」
と七夕の短冊に書いた子と、料理の好きな、直ぐに黄色い大きな声をだす子を
いつものように見た

「今日は宿題がない」
日本語が上手になりたい子が言った
彼は会うといつも決まって「今日ぼくを教えて」
と言う
「良いよ、今日頑張ろうね!」

でもその言葉通りにならないのが、これまたいつものこと
宿題や課題に集中できないで、直ぐに無駄話をしたりする
宿題が無いなら九九のチェックをするようにと
このボランティアの主催者の方がプリントを手渡した

段ごとのきれいに並んだ九九ではなくて、適当に選別された九九が
問題として約50個ほど並んでいる
気が乗らないが見てるので仕方なく行う
どうも彼は六の段が苦手なようで、ちょっと間違った答えを書く
消しゴムで消しながら正解を書いて、それを終えると今度は九九を
反対から(大きな数字の方から)言うようにする

それが済むころ別の大人が見ていた男の子(料理好きな)も終わった
「さあ今からは、一年生で習った漢字の復習!」
彼を見ていた女性が言った
そして漢字が書かれたトランプのようなカードを畳の上にバラバラに置いた
「さあ、じゃんけんして」
「次は交互に読める字のカードを取って声に出して、答えがあってるかチェックしてもらって!」
「最後に手元に残った数の多いほうが勝ち」

「もと にほんごが じょうずになりたい」」
と話した自分が面倒を見ていた子のほうが少し勝ち目は無いかな、、と思っていた
最初はふたりとも間違いなく取っていく
だが少なくなっていくと手に取るスピードが落ちる
残り10枚ほどになると、心配した子の方はバタッと止まってしまった

本来は交互に行うのだがそれを無視して、料理好きな一年のときから日本語が
まずまず話せる子が少し考えては答えを声に出してドンドン取っていく
もう一人の子はただただ眺めているだけになった

最後までカードを取り続けた子は勝ち誇るように自分が手にしたカードの数を数え始めた
その刹那、心配した子は顔を畳に伏せて、そのうち体の向きを変えて顔を覆った
少しして顔を挙げた彼の目は赤くなっていた
「悔しいよね!でも大丈夫、君は一年のときよりずっと良くなったよ!
 それとね、今日の悔しいと思ったこと忘れちゃダメだよ。今度勝とうね」
そんなことで悔し涙を流すなんて、、と思いながらも、こちらも少し切ない気分になった

正直なところ、一年とか夏の時点では彼は大丈夫か?と思ったことがあった
こんなことで間に合うのだろうか
他にすべき教育があるのではないか、、、
授業はちゃんと受けられているのだろうか
ボランティアの立場で現在の教育現場のことが気になって仕方なかった

でも最近は、大丈夫かもしれない と思えるようになってきた
話が筋道だっていてわかるようになってきている
まだ肝心なところが怪しい面はあるが、会話が成立しないということはない
そしてこの日本語が通じるという感覚は、子供同士でも感じているようで
日本語が上手なのは一番がぼくで、二番がRくん(面倒を見た子)次がEくん
と無邪気にランク付けをしていたりする

子どもたちは何でも競いたがる
単純に勝ち負けを競う
そこには大人のような(?)後に残る卑しさはない
悔し涙を流したRくん、次は勝てるようになれると良いのだが

 

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最近気になること(平等・主権者・公会計)

2020年01月21日 08時54分48秒 | あれこれ考えること

お年寄りは子どもや孫に借金を残すのは心情的に嫌だと思い
身の丈にあったものにするように市の計画(新庁舎)の見直しを迫った
(その結果住民投票まで至った)
それに対し、公共物は現在の人たちばかりが利用するものではなく
将来の人もその恩恵を受けることになるのだから、将来の人も
(借金の)負担をするほうがむしろ平等との説明がなされた

なるほど、いろんな考え方があるものだ
と思いながらも何か違和感を拭い去れずにいた
明らかに人口減・高齢化の傾向は進み、市税の減少が見込まれ
財政がより厳しくなるのが予想されるなかで、借金を作ることが
そんな平等論で片付けられるのかと思ったりしていた

人口減が進めば、借金が存在することでそのとき必要なものに使える金額が
少なくなりそうなこと、負担割合が増えてしまいそうなことが想像されるので
やっぱりまずいのでは、、、と思っていたが
もっとスッキリした反対意見があった

それは将来の人たちの意志とは関係ないところで決められてしまっているのは
おかしいのではないか!とする考え方
自分たちの納税したお金を、自分たち以外の過去の人達が勝手に決めてしまうのは
平等どころか、そもそも主権者としての市民の意志を反映していないのではないか

アメリカの独立のキッカケも税の徴収だったか使いみちがイギリスに仕切られていて
それに対して当事者たちが怒りを覚えて行動を起こしたからとも言われている

とまあ、抽象的な想像の世界のことを思い浮かべているが
気になるのは現実世界の自分たちの町のこと
この町のお金の使い方はちゃんとできているのだろうかが気になる

そこでまずは基本となる市の会計はどうなっているのかとなるのだが
市から配布された(今年度から配布は中止されたが)「財政の話」を見ても
正直言って何が何だかわからない
そうこうするうちに「公会計」という言葉を知った

最近は便利な世の中でネットで検索するといろんな情報がヒットする
そこで目にしたのが「統一的な基準による地方公会計マニュアル」
また図書館に行くと「住民のための自治体バランスシート」(わかりやすい公会計のしくみ)
と出くわして、早速借りてきた

同じような本を3冊読めば大体のことがわかるようになると言われる
この本は面白かったが、直ぐに忘れてしまいそう
この際、今年の前半のテーマは「公会計」ということにして少し頑張ってみるか



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余計な気遣い(エレベーターの不使用、立ったままのレジ打ち)

2020年01月18日 08時44分50秒 | あれこれ考えること

夜の会議で市役所に行くことがある
多くの場合4階の会議室が使われ、当たり前のようにエレベーターを使う
会議が終わって職員の方と同時に部屋を出てエレベーターに向かうと
職員の方は階段で降りようとする
「あれ!一緒に降りないの?」
と聞くと、職員のエレベーターの使用は禁止されているのだそうだ
市民の使用とかち合った時、市民に迷惑がかかるといけないから
決まりで普段から使用しないようにしているらしい
この時間は明らかに市民とかち合うことはないし、自分は迷惑と感じずに誘っているのに
頑なに規則を守ろうとしている

なんだかな、、
そんな事しなくてもいいのに、、と思ったりする
個人の意志で健康のために好きで階段を使うというのはご苦労さま
と思うが、規則で使ってはいけないとなると少し違和感を感じる(自分は)
(使わないその他の理由は電気量の節約?)

話は変わって、スーパーのレジの係の人は立ったまま行っている
ずっと立ちっぱなしは大変だから座ってすればいいのに思う
でもどこのスーパーへ行っても立ったまま行っている
何故座って行わないのだろう
別に作業効率が下がるわけでもなさそうなのに

で、少し想像してみた
スーパーで座ってレジ打ちをしないのは、座って仕事をしているのは客に
真剣に仕事をしていない印象を持たれると思い込んでいるからではないのか
同様に市役所の職員もエレベーターを使用することが真面目に仕事をしていない
と感じられることを恐れているのではないか
でも、そんな自意識過剰なことは考えなくていいのに、、と自分は思う

少なくともそんなことをされて自分は気持ちが良いということはない
座ってレジ打ちとか職員のエレベータ使用が、見た目でみっともないと
感じるとしたら、そう感じる社会の方に余裕がなさすぎるのではないか

やってほしくないことはまだある(自分がやりたくないのかもしれないが)
例えばセルフでないガソリンスタンドで給油を終えて支払いを済ませて
車を走らせるといつまでも礼をしたままのスタッフがバックミラーに映ることがある
お客様は神様、、を態度で示そうとしているかもしれない
人は知らないが、少なくとも自分はそんなことはしてもらわなくて結構だ

でも現実はこのような態度がビジネス的に推奨されている
これは全世界でもそうなのか、それとも日本特有のことなのか
どうなのだろう
それぞれの国の文化や指向性があるとしても、自分は余計な気遣いは
そんなに嬉しくない、、、というところ

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六年生の感じること(あるいは彼の個性)

2020年01月17日 08時20分42秒 | 子どもたちのこと

木曜日は朝はあいさつ推進運動で小学校まで近所の子どもたちとデート
昼からは外国人を親に持つ子供の勉強の手伝い
朝は子どもたちは口が重く機嫌が悪いと実感しながらも
家に帰ると校門までの子供との会話を同居人に
つい話したくなってしまうから、それなりに楽しんでいる

ところが昼からの部は、一種戦いの様相となる
火曜日の低学年(1.2年生)の場合は、言うことを聞かないと言っても限度がある
ところが、6年となると我儘はそのパワーが数段違う
自分らを無視しているわけではないが、なかなか勉強のモードになれない
だから、ボランティアで参加している方が
「この子たちのことを考えると、ちょっとストレスを感じてしまった」
とこぼすのを聞くと、無理もないと納得してしまう

でも上手くいった日は晴れ晴れとした充実感が感じられるし
責任を果たした感覚になれるので、自分もその方も続けられているのだと思う

昨日、いつもの様に二人の男の子、一人の女の子を見ることになった
宿題をする事になっていたが、みんななかなか手を付けることができない
それぞれが勝手な話をしている
そこで気分の切り替えをするように、彼らにちょっと聞いてみた
「ラグビーの選手は髭をはやしている人が多いけど何故だと思う?」
自分の狙いは気分転換と「何故?」という問題意識をいろんなところに
持ってもらいたかったのだが、どうもこれは受けなかったようで失敗

それからどんな経緯でそうなったのか忘れてしまったが
三人の中ではちゃんとやればよくできる男の子が突然聞いた
「沖縄って知ってる?」
あまり深く考えずに答えた
「知ってるよ」
「ハクソーって知ってる?」
「ハクソー?土地の名前?知らないな」
「知らないの、有名なところだよ。スマホで検索してみて」

それでスマホで検索してみる
ハクソーと検索すると上の方に「ハクソー・リッジ」と出てくる
どうやら戦争映画のような動画も検索画面にでている
「これ?」
と彼に見せると
「そう、これ!この映画すごくいい映画なんだよ
 人を殺したくないと思っていた人が戦争に呼び出されて、自分は銃を持たないで戦って
 崖から落ちそうになって(?)いた傷ついた人を敵味方関係なく助けたんだよ」

この他もう少し細かく説明があったが残念ながら忘れてしまった
ただ、そのとき驚きを覚えたことははっきりと覚えている
彼はその映画を良いものと感じている
そこで示された人の命に対してどう向かい合うべきか、、とか
自分の信念と社会の関係をどう考えるべきか、、
そういったものを直感的に重要なものとして感じているようで、つい
「彼は子どもなのか大人なのか?
 6年生はこのようなことまで考えるものなのだろうか?」
と考えてしまった
と同時に、この感性を持っているのが彼の個性であるならば、
それを大事にしなくては、彼のためにも社会のためにもならない、、と自覚した

それで彼が本来持っていると思われる優しい面を伸ばすように
「君は全然ここでは勉強に集中できないけど、本当は良い感性を持っている
 それを活かさないと勿体無いよ」
と分別くさく言ってみたが、特に反応はなく
その言葉は彼の耳を素通りしただけのように思われた

でも、人の記憶は何が残っているかはわからない
忘れているようなことでもちゃんと心の奥に残っていることがある
彼が感じたヒューマニズムを、それで良しとする人間がいたということを
覚えておいてほしいと思うのだった

でも、昨日の勉強は、、、全然進まなかったな、、、

 

コメント (2)
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