パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「香子」「清少納言のたくらみ」「丸山眞男対談セレクション」

2024年05月31日 09時30分48秒 | 

町(村)に1軒も書店がないところが増えているそうだ
通販がそれに拍車をかけているようで、確かに自分でも
書店よりAmazonで購入するほうが多い

でも書店は好きだ
女性がウキウキしながらウィンドウショッピングするのと同じように
書店で脚が棒になるまでウロウロしたり突っ立っているのは
とても幸せな時間だ

書店ではいつも、人はなんと多くのことを感じたり、考えたり
表現したりするのだろうとの思いに駆られる
そしてそれらの中から宝物を探すように運命の本と出会うのは
通販では感じられない醍醐味だ

通販と書店で購入し読むのが同時進行しているのが以下の三冊


帚木蓬生の「香子」2は紫式部の人生が大河ドラマ「光る君へ」の現在の放映と
ほぼ同じくらいの頃の話だが、大河ドラマとは違って藤原宣孝と結婚し
子供も産んでいる(夫はあっけなく死んでしまっているが)
そして藤原道長とはあまり接点がなく、ようやくその機会を得たくらいのところ

大河ドラマとは状況が違うがドラマを見ていると話が頭に入りやすい
大河ドラマもこちらもフィクションだが、まずは楽しむこと優先で接している

前回の「光る君へ」では枕草子が書かれるきっかけがエピソードとして登場したが
「枕草子のたくらみ」山本淳子著では、そのエピソードをフォローするとか
支持するような内容だ
つまり不幸な定子のために、彼女だけのために枕草子は書かれたとしている
有名な冒頭の「春はあけぼの、、、」何故、四季の話題が一番先に来るのかは
実は古今和歌集等でも季節の話が最初に扱われることを真似ているらしい
そして、枕草子の定子の登場するシーンは年若い定子が年上の清少納言の
力を引き上げるためにいろいろな課題を与えたとしている

つまりは定子はすごく教養の高い女性となっていることがわかる
定子はそんなに教養の高い女性の素地があったのか?
と彼女の母親のことを調べると、高階貴子(道隆の妻)は36歌仙の一人で
相当な知識と力の持ち主のようだ
定子は親のそうしたものを引き継いでおり、それ故に学問好きの(?)
一条天皇にも可愛がられたようだ

本を読んでいて「これは自分と同じ感じ方とか同じ考えだ」と思うことがある
それは「自分と同じ」なのか、それとも「同じと感じるように教育されているのか」
はどちらの可能性もあるような気もする
そうしたことを感じたのが三冊目の「丸山眞男対談セレクション」で
教育のこと、吉田秀和との対談の「フルトヴェングラー」のことは
同感の部分が多くて、ページが早く進んだ

現在は三冊が同時進行中だが、源氏物語絡みの「香子」は急いで読まずに
ドラマの進行に合わせて読んでいくことが良さそうと思うことにした

「枕草子」絡みは一気読みしたほうが良いかもしれない
もうドラマにはききょうは登場しないかもしれないから
紫式部と清少納言は対立したとの説もあるが
本によると清掃納言の娘は紫式部のように藤原彰子に仕えたとある
現実世界はそんなものだろうと思う

そう言えば何かで、いとこ同士の藤原定子と彰子は仲が良かった
との話を見けけた記憶がある
これも実態はそう言うことがありそうな気がする

ということで、人と会話する時間が多くない生活をしているが
今のところ退屈はしないでいられる
本はお金のかからない楽しみだと思う
(だが、欲しい本は妙に価格が高い本が多くなっているかも?)




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凄いと思える能力に感謝したい

2024年05月30日 09時23分01秒 | 音楽

いくら食リポが上手でも食べ物の味は実際に食べてみないとわからない
ところがみんな同じ経験をしているのに、感じ方が全く違うことはある
少しばかりオタクっぽい世界のことだが、同じレコードを若しくは演奏を
聴いて感じることの多様差、好みの差は存在する

音楽について語ることは音楽を楽しむことに繋がるが
この音楽の感じ方について気になったのがYoutubeでこの演奏を
聴いたからだ

【高音質】ウラニア盤じゃないけどウラニアのエロイカと同じ演奏(1944年)

全部聴くと長いので、15分41秒からの第2楽章を取りあえず聴いて欲しい

これを聴いて人はどう感じるのだろう
自分は「全くなんて演奏なんだ  特に2楽章 深すぎる」のコメントに全く同意する
そこには音楽を聞くということが極めて重要な体験と思われるような時間経過が
存在して、口から出るのは「凄いな!」の一言だ

だが、そう感じるのは実はそんなに多くないのかもしれない
今の時代の空気に合わない大げさっぽい古めかしいもの、、
と感じるかもしれない(自分は今の若い人がどう感じるかはわからない)

でも、これは本当に凄い
そして自分にラッキーな能力があるとすれば、この演奏に驚きとか
感動を覚えることができる能力だと思う

指揮者は自分で何一つ音を出していない(演奏していない)のに
どうしてこんなに印象が異なる演奏が存在するのだろう
(他の演奏はあれよあれよと時間が流れていくだけのような気がしている)

ということで、口を酸っぱくしてもフルトヴェングラーは凄い
と言いたい!ということ

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休み?

2024年05月29日 08時57分52秒 | ダイアリー

7時50分 子どもたちの登校時刻
庭に出てその1団を見る
今のところ全員いる
やはり晴れの日は気持ちよさそうだ

途中、遅れている子の家のチャイムを鳴らす子がいて
少し待っている
「行ってらっしゃい」と庭から声をかける
男の子は反応なし、女の子二人は恥ずかしそうに手を振る

その時、今年入学したばかりの女の子が「休み?」と聞いてきた
一年生になったばかりで、月曜と木曜がみんなと一緒に
歩く日ということを理解していないようだ
「何時に起きた?」と聞いても「わからない」と答える
赤ちゃんに近いような子だ

「ううん、また明日ね」
と手を振って見送る

たったこれだけのことで、とても幸せな気分になれた
「休み?」
という少しばかりピント外れ問いの無邪気さに
本当に心が洗われる

早速、同居人に今の会話を報告
同じように笑って幸せを感じている

今日は良い日になりうそう

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徒然なるままに思うこと

2024年05月28日 09時07分25秒 | 徒然なるままに

枕草子も外国語に翻訳されているそうだ
ところが「枕」とつくのが「ピロートーク」を連想させるようで
ポルノっぽい内容と勘違いする人も少なくないらしい

前回の「光る君へ」では枕草子が生まれるきっかけが
感動的に展開されたが、史実とはだいぶ違うので批判的な声も多い
大河ドラマはフィクションとして余裕をもって愉しめば良い
とする声もあるが、そもそも歴史に詳しくない人は
これをきっかけに覚えていくので多少の混乱は生まれるかもしれない

ドラマでは文字が書かれるシーンが多いが、いつも不思議に思うのは
縦に書かれた文字が左右にそれていないことだ
自分が試みたら下の方はどちらかに曲がってしまいそうだ
慣れれば真っ直ぐに書けるのだろうか?
それともまっすぐ書けるようなサイン、印がどこかにあるのだろうか

それにしても昔は中国が、今のアメリカだった
文明とか文化の進んだ国で、日本はそれを身につけるために人を送り
向こうからも人を招いた
そしてその根本となる文化は実用的なものだけでなく、生き様をも
指し示すようなものが多かった

まひろが誰でも役人になれる可能性があると憧れた公務員の選抜試験「科挙」は
実はとんでもなく難しい試験で、これにトライできる家庭は現実には限られていたようだ
どうやら科挙の試験内容は実学だけでなく、今でいうリベラルアーツっぽいものも
重要視されていたそうだ

日本でも上位にいる人々はこうした教養をベースに
そしてノブレス・オブリージュの精神でことに当たるようしていたようだ
知識人・教養人の支配は目先の損得に支配される政治形態よりはましなのか
人はそこまで善人になりきれないから、それよりは多数の意見の集約が可能な
一種の民主主義的な方法が良いのか、、は今も答えのないように思えるが
それでも程々の感情とか懐の深さをもった人が上の立場にはいて欲しい

ホントかどうかはわからないが、最近の国語では小説よりも契約書を読みこなす
勉強が優先されるかもしれない、、との情報を耳にした
馬鹿なことを、、と単純に思うが、過度な実学優先の社会は
いつか大きな間違いを起こしそうな気がしてならない

ということで、例のごとく話はあっちこっちに逸れてしまった
締めを想定せずに進めたからだが、どう進むか考えながら行っているのは
実は作家さんのストーリー展開を工夫しているのと同じなのだろうか
(そんなことあるはずないか!)

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言葉以外のメッセージ

2024年05月27日 10時45分04秒 | あれこれ考えること

既に何人かの人が「光る君へ」の中の別れる時の言葉
「お健やかに」は品が良いという指摘をしている
確かに「おすこやかに」は濁らずきれいな音で
現代でも真似してみる価値はありそうだ

ところで昨日の一場面で気になったことは
まひろと道長の二人だけのシーン
「伊周、隆家を引きずり下ろしたのは道長様ですか?」
と聞いたところで、答えたのは「そうだ」の一言
これからのドラマは彼が権力欲に満ちた人間として扱うのだろうか?
と思ったが、長い沈黙の後
「会って聞いてよかった。答えた時の表情から(それは嘘と)わかって
 道長様は変わっていない」
とまひろは口にして、嘘がバレた道長は自虐的に本音を漏らす

気になったのは、もしこれが裁判であったなら会話は文字に残され
それは二人を引きずり降ろしたのは道長と自白した証拠になりうるという点だ
つまり言葉以外のメッセージは全く逆のことを示しているが
記録として残るのは彼の本音ではない言葉という点

残っている文書をそのまま信じて良いものか否か?
これは思いのほか難しいように思われる

以前、市の職員に高速バスの補助金が一年だけになった理由を聞いたことがあった
職員が補助金を扱う官僚さんと話していた時は
「数年継続して補助金を受けられる制度ですが、継続されないこともあります」
と無難に答えたが、言外のメッセージは
「大丈夫ですよ、次年度も大丈夫です」の意思を感じ取ったらしい
つまりは匂わせたことと、その結果とは違いがあったということ
だが記録に残るのは匂わせたことではなくて言葉のみ
官僚は間違った発言はしていないとして責任を問われることはない

今回、証拠は文書化されていないと話にならないことは
痛いほど実感したが、言葉以外のメッセージがある場合はとても難しい
例えば市の指示は文書に残されていても
言外のメッセージはどのようなものであったのか?
それは一切わからないということになる
こうして欲しいということは阿吽の呼吸で伝えられたとしても
その内容は文書として残っていないということは一般的にあるようだ

大河ドラマを見ていても、こんなことが気になるとは
少しばかり精神が疲れているのかもしれない




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「一次資料、自然法、ルサンチマン」

2024年05月26日 09時29分53秒 | あれこれ考えること

最近気になっている言葉が「一次資料、自然法、ルサンチマン」

一次資料は歴史研究に使われる言葉で
「対象となる出来事と同じ時期に書かれた新聞記事、本、音声記録、写真、
日記、絵画、映像、政府文書などの資料」との解説がネットに出ている
自分がこの言葉を知った時は、一次資料は「出来事の関係者、当事者」が残したもので
それを見聞きした人がそれを参考に残すものを二次資料とすると理解していた

今、この言葉が気になっているのは、自分たちが当事者である案件を
なにかの形で残しておかないと、後の時代に勝者によって都合よく
書かれたものが残されることを危惧するためだ

その案件とは行政訴訟のこと
いつかは結論が出るが、裁判で結論が出たと言ってもそれが完璧に真実とは限らない
以前から文句を言っているが、市民が手にできる証拠は行政によって限定されている
都合の悪い書類は「不在」として扱われ、出てくるのは自分たちに有利なものだけ
そこまで極端ではないにしても、この傾向はおそらくどこでも存在する
だからこそ、結果がどうであれ当事者の記録(感情を含めた)を残すことは意味がある
と思われる

以前、新城市の住民投票について静岡大学の学生が研究・調査を行って
そのメンバーが住民投票に関わった市民の話を聞きにきたことがあった
彼らが事前に手にしていた資料は市のホームページなどからもので
一見客観的に見えるとしても、住民投票を求められたのは市側で
その立場からの記述が多いのではないか、、と思われた

そこで、おせっかいにも彼らは知らないだろうと思われた当事者である市民側の
活動記録(怒りの感情を含めた)を提供することにした
そこには市民に向けて公平に行われると思われた住民投票の2つの意見の討論会が
実は全くそうでなかったことも残されている
それが市側の説明によれば、市民自治条例にある「まちづくり集会」で
2つの意見の是非を討論会形式で行われた、、、くらいな記述だろう

でも実態はそうではなかった
当事者から見ればとんでもなく不公平な集会だった
これはこのブログの住民投票のカテゴリーに残されている

歴史は勝ったもの、支配する層が残す
だから「彼の話」ヒストリーという言葉があるのだろう
この話をしだすと怒りで止まらなくなりそうなので
とにかく敗者を含めた一次資料はとても大事ということ

次に「自然法」について
この言葉に対するのが「実定法」
後者はいわゆる明文化された判断基準となるもの
一方自然法は人間がなんとなくそうした方が良いと感じるような
正義感とか倫理観とか道徳みたいなもの
ぼんやりとしているがとても重要なものだ

今の世界は実定法で過度に運営されている
つばさの党の選挙妨害にしても、表現の自由とか政治活動の云々などと
言い出すと収集がつかなくなる
誰もが「それはないでしょう」と思われる行為として
よろしくないと判断したほうが世の中は上手く回ると思われる

実定法は時代・社会によって運用が実態と合わなくなってくる
未来のことを想像する時は人間のもっている叡智を信用して
つまり自然法の知恵を借りて判断するのが適切だろうということで
自然法は実定法よりも上位の概念らしい

ところが世間で幅を利かすのが、専門家が物事をより難しくしてしまう実定法主義
実定法が悪いというのではなく、もう少し人間の本姓を信用する自然法の概念を
大事にしてほしいということ

最後に「ルサンチマン」
ネットで調べると、弱者の怨恨、遺恨、復讐感情。
特に、ニーチェの用語で、弱者の強者に対する憎悪をみたそうとする復讐心が、
内攻的に鬱積した心理をいう。
とある、そしてこれはネットのSNSでのヘイト的な内容とか人格否定のような
極端な言動の原因理由だとされている
そしてそれは、そうかも知れない、、と実感する

ということで、すべて社会にちょいと文句があるという内容
あまり面白くない内容だと思われるが、自分にとってはとても大事なことなので
備忘録とした

相変わらず、まとまらない話



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カスハラの精神状況

2024年05月25日 09時06分10秒 | あれこれ考えること

カスハラがテレビのニュースになっている
多くのテレビ局が同じタイミングで一様に報じているのは少し違和感を覚える
今のテレビ局は視聴率以外になにか別の要素が働いて
番組づくりがなされているような気がしないでもない

それにしても取り上げられるカスハラの情けないこと
旅館のチェッイン前に着いて、掃除とか準備しているスタッフに向かって
客のいうことを聞くのが当然と態度で例外的な措置を要求する人

チェックインの時間は公表されているし、相手の都合も有るだろうから
少し待つということが何故出来ないのだろうと思えて仕方ない
自分の経験では先日車の修理のためにディーラーに時間前に着いて
そこで少しの間待つことになったが、スタッフの行動を眺めていて
なんとも思わなかった

「お客様は神様」ではないと思う
話は変わるが、スーパーのレジの担当の人が座って作業をしていていいか
ということが話題になったことがあった
自分はそれに違和感を感じないし、それが疲れない方法であるなら
それでいいじゃないか、、とも思う
確かドイツでもレジ係の人は座って作業していた記憶がある

飲食店でスタッフに「ごちそうさまでした」と声をかける客はダサい
との発言がSNS上で話題になったことがあった
なんでそんな発想をするのか?
直感的に思ったのはそのことだった
同居人は飲食店を出る時はいつも優しい声で「ごちそうさま」と言う
そしてそれが自然にできる人を自分は尊敬している

社会にはいろんな人がいろんな仕事に就いている
それらがないと上手く回っていかない
どうせなら気分良く回っていくほうが良い
「ごちそうさま」と言ったり、開店準備をしている人に
ご苦労様とは言わないにしても、各自が己の仕事を誠実に行っていることに
安心感を覚えるくらいの気持ちになれないのだろうか

人には承認欲求というものがある
弱い立場の人にあれこれ命令することで、自分が高い立場にいるような気持ちになる
先日のつばさの党の選挙妨害は表現の自由の問題ではなく
鬱積した自己承認欲求が形になって現れただけだと想像する

だが問題は、人間が完璧にコントロールしがたい承認欲求の誘惑が
社会全体に異様に蔓延していないか、、ということ

つまりはあまりにも余裕のない社会で、みんなが何かしらイライラしているような
イライラは誰かを攻撃することで解消する
それは、あまりにも幼稚だと思えてしまう

しかし何でこのような社会になってしまっているのか?
は考える必要がありそうだ

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似たようなことが起きているものだ

2024年05月24日 09時16分13秒 | あれこれ考えること

似たようなことがあるものだ
これは時々みられる「共時性」のせいなのか
それとも実は世の中にはよくあることのためなのだろうか


豊橋市についてのニュースにこんなのがあった

市民が市長を刑事告発 新アリーナの建設に関する情報公開請求めぐり 愛知・豊橋市

告発文書によりますと、豊橋市の新アリーナの建設に関する情報公開請求をめぐり「公開請求した公文書のすべてが示されていない」として、市議が行政不服審査請求を行ったところ、市は「いずれの公文書もすでに公開していて、それ以外の公文書は不存在である」などと虚偽の弁明書を作成したとされています。
これに対し、新アリーナ建設の賛否を問う住民投票を求める署名活動を行った市民は、市が虚偽の公文書を作成したなどとして刑事告発し、20日付で受理されたということです。


似たようなこというのは、先日このブログで紹介した写真のこと
新城市は5億近くの金額で更地になった土地を購入することになったのだが
これだけの金額だから慎重にチェックしたもの(写真も撮ったはず)と想像し
現地での確認に関する全ての書類を提出してもらうように求めた
ところが、市の答えはなんと更地の写真は全く無いとの答え

そんなはずはないと思ったのだが、ないと言われれば
有るはずだとの言い分は通じない

ところがこの更地の写真は結局存在したのだった
その写真は別の用途で表に出ることになったのだが
それまでの市の対応は豊橋市の対応とそっくりだ

情報開示で求められたものは「ない」と言い切られて
自分たちに都合が良いとなれば、その資料は表に出る

豊橋市と新城市で起きた似たような出来事
これは偶然の一致によるものではなくて、実はそこらじゅうで
起きているこかもしれない

有るはずのものがない
都合の悪いものはない
市民が情報開示請求をしたところで、このような判断のもとに
対応されるならば、物事を正しく把握することなど出来ない

今回のこうした記事は、こんな事があるんだ!
とのんびり構えるのではなく
世の中は想像以上に危なっかしい事が多い!
と認識したほうが良いとの警告と受け取ったほうが良さそうだ

それにしても、これらはいたるところで有るんだろうな



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地元で起きた百姓一揆

2024年05月22日 09時31分29秒 | ダイアリー

昼食後は睡魔がやってくる
高校時代、昼一の生物の授業は先生のデオキシリボ核酸、メッセンジャーRNAとかの声が
子守唄のようでノートの文字も乱れて何が書かれているのかわからないことも多かった
先生は教壇からそうした様子を見ていただろうが
寝るな!とは言わなかった
本当は怒りを覚えていたのか、それともよくあることだと諦めていたのか

昨日せっかく出かけた歴史のお勉強会も睡魔との戦いだった

農協の本部の3階で2時から行われたのは、地元で明治3年に起きた百姓一揆の話で蓑着騒動と言われるもの
地元では有名な話らしいが自分は全く知らなかった

眠い中で聞いていたので、夢の中で聞いていたような記憶しかない
ただ、そこまで追い詰められたとは言え、農民が一種の実力行使をしたのは
もしかしたら今の時代よりもマトモだったのかもしれないと思いもした

困難とか劣悪な環境下にあって、管理する人よりもは人数は多かったのに
何もしなかったユダヤ人強制収容所の人々
単発でもせめて感情の爆発のような抵抗をするのが普通と思われるが
それすら起きなかったことについてハンナ・アーレントは
「人間性すら破壊されていた」としている

これと比べると、農民の行為は時の支配者にとっては喜ばしくなくても
まだマトモだったかのように見える
そこで気になるのは行動する人の少ない今の時代のこと
まだ極限に追い詰められていないから何も行動しないのか
それとも、もう人間性まで弱められてしまっているのか、、

講義の肝心なところは眠くて眠くて、、
ただ江戸時代の歴史の本を読んだ時、こうした百姓一揆とか直訴などについては
好ましいものとは思われていなかったが、それを中心人物として行った人は
罰を受けたが、村の人々は自分たちの代わりとして行動してくれた人物の
家族や家を皆で守ったとあった
明治に起きた新城の百姓一揆でも同じように中心人物の半田春平に対しては
地元の人々はそうしたらしい

この蓑着騒動は劇化されて中学の文化祭か何かで演じられ
その時の出演者の名前が書かれた資料が配られたが
今は偉くなっている知っている人の名前もあった

半田春平は鳥居強右衛門と同じく、新城市におけるヒーローなのかしれない
それにしても、眠かったのはもったいなかったな、、
渡された資料をじっくり読むとしよう

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日進市、豊橋市、新城市の住民投票

2024年05月21日 09時25分02秒 | あれこれ考えること

家のすぐ近くの人が日進市に嫁いで市議会議員になった
行動力と思いが市民に支持されて、もう何年間も議員を続けている

その日進市で住民投票が行われるそうだ
日進市が主体となって進める道の駅が、このところの材料の値上げラッシュで
予想したものよりも高額となりそうなので、ここで一度住民投票をして
市民の意見を確かめようとするものらしい

今は署名のチェックをしていて、その数が規定に達していれば住民投票は
行われ、そこでは市議会での議決を必要としないようだ
豊橋市でもアリーナ建設に関して何回か署名活動をして住民投票を求めたが
これは市議会の反対にあって実行されていない

日進市は市議会の議決なしで住民投票が行われ、豊橋市は市議会の否決で
住民投票は行われない
これは、住民投票に関する法律の違いからで、日進市は規定の署名数をこえると
市議会の議決を必要としない独自の住民投票条例がある
ところが豊橋市にはそれはないので、地方自治法による署名数のハードルは低いが
市議会の議決が必要となっているのだ

ところで他市の住民投票のことを話題にしているが
新城市にも市議会の議決を必要としない独自の住民投票条例がある
議決を必要としないので署名数のハードルは高い
選挙権のある人の三分の一が必要だ
ところが、調べてみると日進市は六分の一のようだ

つまり新城市は議決を必要としないので住民投票ができやすいと思いきや
署名数がかなり必要となっていて住民投票がしやすい環境下ではないようだ

おまけに、新城市の住民投票条例にはそれに付随する規則というものがあって
住民投票をしたいといって署名活動をするには、住民投票をする意味が有るか無いかを
検討する「市民自治会議」での判断を必要としている
この市民自治会議というのが曲者で、制度的には市長の諮問機関との存在で
いわば市長の問いに関して答え(答申)を出すことになっている
ここで、その住民投票にする意味が有るか無いかを判断する時に
住民投票の内容が市長に不利な案件(市長の予算提案権に反するもの)だとしたら
市民自治会議は公平中立に行われるのだろうかと疑問を覚える

これは9年ほど前に現実の問題となった
そして結果的に市民自治会議は無意味な存在と思えるようなものになった

行政には条例とか規則とか要項とか一般人には聞き慣れないものあがある
条例は市議会議員の議決が必要だが規則とか要項などは議決は必要ではなく
現場で決められるようだ
現場で決められるものは全体(市民)の利益になっているのだろうか?
偏屈な自分はその時から、これが疑問で仕方なかった

新城市の住民投票は議員提案の形で行われることになったが
これが本当に酷い内容で、これが自分が市政に関心を持つきっかけとなった
それはこのブログの「住民投票」のカテゴリーにいろいろ書いているが
今でも思い出すたびに怒りを覚えてしまう

日進市の住民投票が、後の分断を産まないようになされることを望みたい





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