パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

本の読み方

2017年08月31日 10時02分59秒 | 徒然なるままに

一つコツを覚えた
自分だけに通用するものだが、それは本の読み方

難しい本を読む場合、集中して読むのは必要だが、一字一句分かるように読むと
前に進まないのでストレスがかかる
そこで、何となく分かるくらいで我慢して、、とにかくページを稼ぐ
そして最後のページまで達したら、そこで、もう一度最初に戻って読んでみる
すると、読み返す時のスピードは最初のときとは比べ物にならないくらい早く読めるし
なんとなく理解できるような気もする

できれば最初の時に付箋をつけておいて、そこだけ読み返すようにすると
無駄はないかもしれない
もっともこれは小説の類には使っても意味は無いかもしれない
(小説ではそんな読み方はもったいないかも知れない)

最近読んだ本「多数決を疑う」坂井豊貴 岩波新書
これをこの方法を使ってみると、何かわかったような気になれた


本はバトンリレーのように関連本をまとめて読むことが多くなるが
いま関心があってAmazonでほしいものリストに入っているのが
●「ファスト&スロー」 あなたの意志はどのように決まるか ダニエル・カーネマン
●「予想通りに不合理」 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 ダン アリエリー 
どちらも判断に関すること、、
きっと近々選挙という「判断」のを要求されることから、人は何を根拠に判断するのか
に関心があるからなんだろう

でも要領よく本を読むコツは覚えても、
気力が続くか、、、、これが問題だ

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思わず納得(ラ・ロシュフコーの名言)

2017年08月29日 08時59分45秒 | 徒然なるままに

急に面白いのがあったぞ!と思いだした
それはラ・ロシュフコーの名言だ

ネットで調べて、ちょいと取り上げてみると

あまり利口でない人たちは、一般に自分の及びえない事柄についてはなんでもけなす。
(ドキッ、少しやばいかも)

この世でいちばん幸福な人は、わずかなもので満足する人であるから、その点、えらい人や野心家たちは最も惨めな連中である。彼らを満足させるには、実に限りない財宝の山がなくてはならない。
(あんまり物欲はない、、、と思うから、今は幸せってことか)

どんな人も自分の記憶が失われていることに不満をいだくが、判断の欠如について不満をいだくものはない。
(判断力がないとはみんな思っていないようだ 選挙時においても)

 われわれは、あまりにも他人の前に自分を偽装するのに慣れているので、しまいには自分の前にまで自分を偽装するようになる。
(そうかもしれないって思えるのは政治屋さん)

好運に圧しつぶされないためには、不運に堪える以上に大きな徳を必要とする。
(これがなかなか出来ないんだ)

ざっと気になったものを取り上げただけでもこれだけある

しかし、自分はこのような、どうでもいいこと、役に立たない知識への偏愛が過ぎるかなと改めて自覚 
(本当は、役に立たないことは、役に立っていると自分では思い込んでいるけれど)

 

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「信託」と「代理」

2017年08月25日 08時12分10秒 | あれこれ考えること

本を読んでて、思わず付箋を付けたくなる部分にでくわした
一部の人には当たり前過ぎることかもしれないが、これを見つけてなんとなくスッキリした
その文章とは

有権者と代表の関係は「信託」と「代理」に 分類できる。
有権者が代表を選出する際に、候補者の諸問題への判断力を規準として選ぶのが信託
自分の利益を増進する代弁者として選ぶのが代理 である
(多数決を疑う 坂井豊貴 岩波新書の一部から) 

選挙の場合、ごっちゃに考えられているが、後援会とか支持母体というのはこの「代理」をメインとした考えで、
普通の人は自分で仕事で忙しく、面倒な知識なんぞは持ち合わせず、その為にこの人なら間違った判断はしないだろうから、、
との判断で選んでしまうのが「信託」(選んだ本人はそんな自覚はもっていないかもしれないが)

建前は、一部の利益よりは全体の利益を優先すべきで、総合的な判断力をもった人々による「信託」とすべし
となっているが、現実には「代理」の機能の方が力をもってしまいそうだ
選挙に勝つには利益団体の支持が大きな力を持つ
利益団体の利益が社会全体の利益となればそれは問題はないが、それは必ずしもそういうことにならないのは
いろんなところで見かける(国も地方でも)

方針の決断は「数の力」でその正当性が確保される
しかし、その数の力を得るための方法(選挙)といえば、直接現実的な利益に結びつく方々の力の入れ方のほう(応援のほう)が
あまり直接利益には結びつかず「信託」を規準に選ぼうとする人よりも、熱の入ったものとなる
結局、自分の生活が第一、全体の秩序はもう少し余裕がある時に、、、といったところになりやすい
(どことなくトランプさんのアメリカファーストの世界に近い)

こうして選ばれるとき、本当に数で決められることは民意の反映か?
と言えば、ちょっとばかり怪しくなってしまうかもしれない
(多数決が数学的に民意の反映ではないかもしれないことが「多数決を疑う」では細かく書かれている)

結局のところ、人が下した判断とか行為は、
その都度その都度チェックして、変だなと思えるようなことに気がついた人たちが
声を上げるしかないのかもしれない
(でも、オルテガの定義する大衆の反逆の概念も念頭に入れなければならないが)

この秋の新城市の選挙、市民は「信託」すべき人物を選ぶのか
それとも「利益」の代表を選ぶのか、、、果たして、、、

 




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飴ちゃん(お菓子)

2017年08月23日 08時21分23秒 | 徒然なるままに

大阪のおばちゃんはヒョウ柄の派手な服を着て、頭はパーマをかけて、大きな声で買い物の時は値切り倒し
誰にでも話しかけて直ぐに打ち解けて、現在という時間を徹底的にエンジョイしてるというのが、よそ者から見たイメージ 
実際にはそんな人ばかりではないだろうけれど、そう思っている方がなんとなく楽しい

この大阪のおばちゃんに欠かせないアイテムが「飴ちゃん」
どこへいくときも必ず持参して、知らない人にもひょいと渡すコミニュケーションツール
義理の兄の大阪にいる妹さんに、大阪の人は本当にいつも飴ちゃんを持っているか、聞いたことがある
答えは、何かそういうものは持っている
ついでに大阪の定番の「たこ焼き器は家にある?」と聞いたら、これはなかった
でも別の機会に他の大阪出身の人に聞いたら「あるよ!」の答え
やっぱり大阪の「粉もの文化」は根付いている

2日ばかり夜に会合があった
むさ苦しい男ばかりではなく、妙齢の女性も参加する会合
女性がいるとなんとなくやんわり、賑やかとなるが、そこには男だけだったら
きっとなかっただろう(思いつきもしない)お菓子があった(袋もんのそんなに高価でないもの)
それは気遣っていると言うよりは、そんなのあって当たり前!と言った風情

そう言えば時々開かれる会合も、女性陣はいつも食べるものを用意しておいてくれる
そこで、少し考えてしまった(というか勝手な連想をしてしまった)
食べることは、女性は男よりも本能的に大事なことと感じているのではないか、、、と
子供の頃の将来の夢といえば「ケーキ屋さん」と答える女の子も少なくないし
仕事中にも隠れて(?)お菓子を食べてるのを見たこともあるし、女性の引き出しのなかには
お菓子が隠されているという噂(?)もあるし、グリコがヤクルトおばさんのような
「オフィスグリコ」としてお菓子を販売するシステムにトライしたことがあったとか

「飴ちゃん」「お菓子」神通力はなかなか馬鹿にできない
ともに何かを食べると言うのは、ちょっとした幸せを感じることができるかもしれない
男がバスの隣の座席の人に「飴ちゃん」を屈託なく渡す、
と言うのはなかなかイメージしにくいが、それが簡単にできてしまう女性と言うのは
、、、、なかなかすごい(コミュニケーション上手だな) 

そう言えば同居人もどこかに出かける時、必ず飴ちゃんを持って出かける
そして運転してる自分に時を見計らって渡してくれる(その飴の種類の豊富なこと)
「飴ちゃん」は大阪のおばちゃんの専売特許ではなく、女の人の常識、、なのかな 

 


 

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「やはり」と「どうして」

2017年08月22日 09時53分21秒 | 徒然なるままに

例えば誰かが何か普通じゃないことを(例えば犯罪)起こしたとする
その時出るのが「やはり」と「どうして」
いつのも行動から「やはり」してしまうだろうな と想像がつく人の場合と
そんなことをする人じゃないのに「どうして?」と疑問を覚えてしまう人がいる
特に後者の場合は「何か理由があったのだろうか?」と彼の心情を知ろうとする

話は飛んで、議員さんの議決について
残念なことに新城市では、行政の監視役としての議員さんの役割はあまり果たされていないようだ
首長と議員との関係は、小池百合子さんが言うような「車の両輪」ではなくて
「アクセルとブレーキ」と考えるほうが正しい捉え方らしいのに
(共同経営者としての捉え方もあるらしい?)

議員さんの権限である議決の新城議会の傾向を見ると割合ハッキリしている
とにかく反対の多い議員
案件によっては反対する議員 
案件によって反対するのは当たり前のことで、ばらつきがあって当然だと思うが
どうもそうではなくて、この行動をする議員さんは固定化している
ところがいつもなら、同じように反対の意思表示をするはずと思えるような案件に
すんなりと賛成の選択をして、違和感を覚え「何故、反対しないんだ、、」
と不満を覚える議員さんがいる(反対のほうが筋が通っているはずと)

しかし、いつもとは違う賛成の意思表示をした議員さんの人となりをよく知っている人は
「何か理由があるのだろう」と考える
普通ならいつものように反対するのだが、今回はしなかった
あの人がそう判断したのには理由があるはずだ、、と、

あの人がそう判断したのだから、、という前提は、その人への信頼感がある
議員さんは、難しい判断力を要求される場合、無理矢理にどちらかに決めなければならない
その判断の拠り所になるのは、その案件に対する知識等の他に経験や育んできた人間性(があるのではないか)
そして一般人は普段の行動からにじみ出るこの人間性を信頼して彼の選択した判断を理解する(支持する)

現在の政治システムは、難しいことはわからないが、人には人を見る目はあって、それはさほど間違いはないもので
自分たちの目で選んだ人は間違いのない判断をするはずだという前提で、出来上がっている(代議制民主主義)

ところが、最近、これがどうも怪しいのではないか?
本当に人は人を見る目があるのだろうか、、
(でもそれに替わる方法は、、、、) 

ところで、新城市の議員さんの行動
議決だけでなく、いろんなところで「やはり」と悪い方の予想が当たるようなことが多い
起きなくても良いようなドタバタが何回も続いている
(政治倫理審査会の開催・懲罰委員会の開催・議会改革の停滞など)
でも選んだのは自分たちだから、、、仕方ない?

人が人を選ぶ4年に1回の出来事
大事な選択を間違えないために、普通の人はどうずれば良いのだろう
もう無益な「やはり」は経験したくない 

 

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発言とは違う思い(あるいは発言の信用性)

2017年08月21日 08時27分53秒 | あれこれ考えること

視聴率はそれほど良くないようだが、舞台が地元(近く)ということもあって
それなりに楽しみにしていたNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」
昨日の放送「嫌われ政次の一生」で切ないラブストーリーが終了した

この回は高橋一生が演ずる小野但馬守政次の最期とあって、よく出てくる井戸の場面も照明が夕べの色で静かな暗示的な舞台となり
思い続けた直虎の手に触れたであろう碁石を持ち続け、なにか接点を確保しておきたい男の気持ちも初めて誰にでも分かるように意味づけされ
その碁石の意味を理解する政次の弟の嫁 なつ のひたむきな政次への思いと直虎への静かな嫉妬
などが、想像力を駆使することによって、会話の内容以上のドラマが頭の中で生まれることになった

多少、やり過ぎの感は無きにしもあらずだが、最期の処刑のシーン
どうやっても救いきれぬものならば、その引導をある告白を伴って自ら渡すのが自分の役割と自覚した直虎
そこで交わされた言葉のやり取りは、長いことこのドラマを見続けてきた人たちは言ってることと思っていることは
まったく別のことだと感じたに違いない
そのように感じさせる役者さんたちの表情の変化による演技は、プロの人たちというのは、非常に細やかな
観察力と想像力をもつ人たちだと感心する

この回のドラマ、不意に以前の「親善組!」で堺雅人演ずる山南敬助の切腹シーンを思い出した
この時も妙な切実感、緊張感が漂う内容で、二度も見たいとは思わないが(せつなすぎて)
いくつかあるピークのうちでも出色のものだった
この「おんな城主 直虎」でもこれ以上のピークを作り上げることが果たしてできるか? 

ところで公にされた言葉、その裏にある思い
真実はどちらの方にあるか、、このドラマに関する限り見ている人、想像力を働かせる人は
その裏にある思いこそが彼らの本音だと感じる
この様に公にされた言葉の真の意味を知るには、彼らのことを、関係を、経緯を知らなければならない


ところが話を世間に広げると、現実の世の中は残念ながら発言者の意図を読み解くほど、個人に関して情報を
もったり関心を(想像力も)もつことはない
だから、その時点での発言をそのまま受け入れ、辻褄が合うか、感情的に納得できるものかの判断をしてしまう
でも、その人の発言が信用できるか、、、?
その判断の材料は、実はそこで話される会話だけでなく、今まで行ってきたことの全人格的な判断によるはずなのだが

政治家は言葉を生業とすると言われる
しかし最近の政治家さんの言葉の軽いこと
選挙を控えて急に「住民と一緒に、、」とうたっても、1、2年前はそれができなかったばかりに
混乱を招くことになったのに、恥ずかしげもなくこのように得意気に話す人がいる 
(もっとも、政治屋さんはこのくらいのメンタリティーの方が普通かもしれないが)

論語にこんなのがあったのを思い出した
「巧言令色鮮し仁」(こうげんれいしょくすくなしじん)

でも人は甘い言葉に弱いからなあ、、、 



 

 



 

 

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投票するだけの民主主義

2017年08月20日 16時30分28秒 | あれこれ考えること

「投票するだけの民主主義」

これは、昨日(8月19日)行われた新城市政を考える会の第5回 勉強会「市民運動からみた共謀罪」で
講演の冒頭に講師の新海聡弁護士から発せられた言葉で、この日のメインとなる「共謀罪」
の話とは少し離れたところにあるかもしれないが、妙にに引っかかった

似たような話にルソーに以下のような文がある

「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。
彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。」

どちらもありがたくない話だが、実感として痛いほど経験せざるを得ないようになっている
(国も自分の住む新城市も)

新城市では秋に市長・市議会議員選挙が行われる
前回の選挙の結果、痛い目をすることになった新城市民
再度痛い目をしないためには、今、何ができるのだろう、、
(言えた義理じゃないが、無関心層の存在は、、、キツイな)


 

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優しい気持ちになれるのは、、

2017年08月20日 09時09分59秒 | 徒然なるままに

人間でも動物でも赤ちゃんを見ると、優しい気持ちになれたり
ついつい微笑みかけたりちょっかいをかけたくなってしまう
その無邪気さ、屈託の無さに心が洗われるようだ

三頭身(だったかな、とにかく赤ちゃん時代の)の動物を見ると、たいがいの生物はその動物を
見守るように機能するある物質が脳内に生じるのだそうだ(何かで読んだ気がする)
自然のこの機能への匙加減はすごいな

生物にとってはそのほうが生き延びる可能性が高いということなんだろうが
これはありがたいプレゼントのようなものかもしれない 

 

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なぜ、こんなに大きなお寺さんが、、、、

2017年08月17日 08時32分30秒 | 徒然なるままに

先週の「おんな城主 直虎」の最後の短い縁の地紹介コーナーで
地元(新城市)の野田城が紹介された
数年前に出かけた時は、ひどく荒れ放題で古びた看板があっただけで
木々に囲まれて、想像力も働かないような、鬱蒼として放ったらかしの状態だったが
地元の有志のお陰で(木々の伐採、草取り)、NHKで紹介されても恥ずかしくないような
確かにお城はあったんだろうな、、と思わせるところまで来ている
地元でなんとなく知っている、、といった史跡などは、損得関係なしの
ボランティアの方々が、勝手に楽しんで(?)やりがいを持って取り組んでいるが
本当に頭が下がる

この野田城、放映翌日には他県ナンバーの車が多数来て見ていったらしい
ところで、野田城には興味深い言い伝えがある
武田信玄が野田城攻めを行っていたある夜、笛の音色に誘われてフラフラと
出たところを野田城にいる鉄砲の名手にドンと撃たれてしまったというのだ
この傷がもとで後に武田信玄は命を落とすことになったということだが
信玄を撃った銃は現在「設楽原歴史資料館」に信玄砲として展示されている
この銃は結構口径が大きくて、ゴツい、、
この話が本当は嘘かわからないけれど、言い伝えがあるってことは
何かがあったんだろうな、、と自由気ままな連想が働く
こんなことはなかったということも証明できず、、悪魔の証明というのかもしれないが
お気楽に想像するほうが愉しい 

黒澤明監督の「影武者」にはこのエピソードが用いられていて
冒頭には、笛の音を聞いていて撃たれるシーンがあったような、、

ところで、昨日、この野田城攻めに関するもう一つの史跡を知ることになった
それが「今水寺」
どうやら、武田信玄が野田城攻めを行う際に、本陣を構えようとしたところらしい
ところが、そんな寺の名前を自分は聞いたことが無い
ただただ仲間に誘われて、あるお宅を訪問すると、これがびっくりした

なんと今水寺の50分の1のジオラマだ
制作には1年以上の時間がかかったらしい

びっくりしたのは、その制作に対する努力ではなくて(申し訳ないけれど)
この寺のスケール感だ
なんとまあ多くのお寺さんが存在している
まるで京都で見かけるような塔頭とか末寺の集合のようだ
賑やかな往時を想像すると、競うように勉学に勤しんだ僧侶たちの会話まで聞こえてきそうだ 

しかし、何故こんなに大きなお寺さんが歴史の舞台から消えてしまっているのだろう
と疑問が浮かぶ
一説には、武田信玄が今水寺に本陣を構えようとした時に、反対の僧兵たちがいて
それに怒りを覚えた信玄が寺に火をつけ、僧兵を皆殺しにし、それで歴史の表舞台から
消えてしまったということらしい

何にせよ、こんなに大きなお寺さんがこの地にあったということに単純に驚きを覚える
日本国中に言い伝えのある神出鬼没の弘法大師(空海さん)が、この地に訪れて
真言宗のお寺さんを建てたらしい(という言い伝え)

一緒にお宅を訪問した歴史に詳しい仲間からは
野田城の城主、菅沼定盈もこの今水寺まで勉強に来ていた
との話
こういう話はなかなか楽しい

そう言えば、宮城谷昌光氏の「風は山河より」の野田城攻めの場面で
僅かに今水寺の名前が登場するらしいが、自慢じゃないがそんなところは
少しも記憶に残っていない

それにしても、これだけ大きなお寺さんが跡かたもなくなっているのは
何故かなと同時に、もったいない、、

ところで、今水寺に関する新城市の紹介ページは⇒今水寺跡

今水寺に関するある人のブログ⇒あァ〜今水寺

でも、ホント知らなかったな、、





 

 

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無知と何かを知るということ

2017年08月15日 08時49分48秒 | あれこれ考えること

バイロイト音楽祭の真っ最中なので、ヴァーグナーに関することについて

なかなか人物設定が面白いのが「ジークフリート」と「パルジファル」
楽劇ワルキューレの最後のシーンで周りを猛火で囲まれたブリュンヒルデを
救い出すことができる人物をヴォータンは以下のように暗示している

「炎よ、岩を包め
身のしびれるほどの恐怖をもて、臆病ものを去らしめよ!
ブリュンヒルデの岩は
神たるわしよりも
さらに自由なる者が征服するのだ」

そして、もう一度ヴォータンは繰り返す

「わが槍の穂先を恐れるものは、この炎を決して越ゆるな!」

音楽はジークフリートのライトモチーフが奏でられるので
乗り超えていく人物が誰かは容易に想像できるようになっている

この部分の音楽の饒舌さはわかっていても、ついハマってしまうが
今日は音楽のことではなくて人物設定のこと

「恐れを知らないわか者」それはジークフリートのことだが
彼は何も知らない故に神よりも自由で、やがて来る神々の黄昏を救いうる存在として
ヴォータンが期待した人物

この恐れを(何も)知らない、、ということは、大きく話は逸れるがどことなく
「よそ者、わか者、ばか者」という地方活性化のキーパーソン条件に
通じるところがあるような気がする

知らないこと、知らないが故になんでも行ってしまう、、その無鉄砲さと
可能性の拡大
小賢しい頭では解決できぬことを「恐れを知らない」ことにより
行動で突破し、その結果得られる未来(期待以上の)

気になるもう一人の人物、パルジファルも少し似た設定となっている
「同情により知を得る清らかな愚者」
これが楽劇パルジファルの舞台となる共同体を救う人物と暗示される

ここでも、やはり最初パルジファルは「無知」という設定になっている
どうやらヴァーグナーは「無知」 であることは、一つの力であると
考えているようだ

しかし、「無知」だけでは話は進んでいかない
結局のところジークフリートは、火を乗り越えてブリュンヒルデを見つけるときに
初めて「恐れ」を知ってしまうし、無知なパルジファルはクンドリーの誘惑の口づけで
同情という感情を得ることになる

確かに無知はそれだけに大きな力なのだが、それだけでなく
肝心な何かを知ることによって世の中を変えていくことができる、、、
ヴァーグナーの考えはそんなところにありそうだし、
ここでの多様な解釈が多様な演出につながっていくのだろう

無知であること、それだけ偏見がなくてニュートラルに反応でき
あらゆる可能性を自ら考えうることができる
しかし、「知ること」はその無知に更に大きな便利な材料を与える

10月に行われる新城市の市長・市議会選挙
現在は多くの人はジークフリートとかパルジファルの状態ではないだろうか
無知で(馬鹿にしているわけではなく、仕方ないものとして考えている)
ニュートラル(?)にいられると、自分では思っている可能性がある
しかし、「知ること」は、更にその判断を的確にするための材料になるはず

でも何を知る?
政策?マニフェスト?考え方?人柄?常々の仕事ぶり?
全部は知ることは出来ないが、一つでも真面目に知ろうとすることは
きっと無駄ではないと思いたいが、、


 

 


 

 

 

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