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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

負けた原因、異なる意見こそ参考になる

2020年10月31日 08時38分50秒 | あれこれ考えること

NHKの囲碁選手権の番組、その最後に「今日の一手」というコーナーがある
勝ちを納めた棋士が対戦を振り返って、その戦いの流れを決めることになった手を
紹介するのだが、多くは「この手が良かったので勝つことができた」と解説する

ところが井山裕太氏(本因坊、名人、棋聖、天元)は「この手が悪かった」と
反省を込めて取り上げる
たまたま見た時がそうだったのかな?
と思ったが、思い出してみると前回もやはり悪かった手を挙げていた

性格と言ってしまえばそれまでなんだろうが
勝った手より負けにつながった手を心に刻むというのは良いことかもしれない
徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄にボロボロに負けた
その屈辱を忘れないために家康は、大小を漏らすほど惨めな自分の姿を絵師に描かせ
ことあるごとに見直したという

昔、自分が経験したサッカーの試合でも勝てば気分が良いが
本当にチームの強化につながったのは、負けた試合の方だった
どこが悪かったのか、どうすればよかったのか、そのためにどの様な練習をすれば良いのか
そうしたことを考えざるを得なくなって、それが役立った

気分の良い経験をしているだけでは進歩はないそれを実感する話だが
ちょいと話は飛んで現政権は自分たちに都合の良い話を仲間内で共有して、
それで満足しきっているような気さえする
満足に浸っているだけなら良いが、そのうちになにか全能感を感じるようになって
とんでもない間違いを起こすのではないか、、と不安を覚える

自分に自信を持つ(自分を信じる)のは良いが、それを疑うことも必要だと思う
そして自分を疑うことを敢えてするのが、真の教養だと思う(あるいは民主主義)

つい、ここで何度も取り上げているドイツの政治教育の基本原理
ボイテルスバッハ・コンセンサスを思い出してしまう
日本も地方自治体ごとにこの条約に参加するってのはどうなんだろう
(自分の住む新城市も条約に参加して欲しいと思う)

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ただで貰っても、使いにくいのでは、、、、

2020年10月30日 08時10分53秒 | あれこれ考えること

ただで貰っておいて文句を言うのは好ましいことではないが
それでも一言発したくなってしまったことがある

世間では新型コロナウィルス感染症防止のために、リモート会議なり授業が
頻繁に行わるようになっている
自分たちが関わっている外国をルーツに持つ子どもたちの勉強の手伝いも
例外ではなくリモート授業(?)が勧められている
その必要機器として、このボランティアの主催者のもとに気前よくタブレットが支給された

現在の勉強の手伝いをしている人は、こうした機器の扱いに長けている世代ではない
ラインはその便利さと難しい操作がないために、グループを作って連絡用に利用できている
ところがリモートワーク(授業)となるとZOOMだが、これが初めて経験するアプリとなるので
まずはこのアプリの使い方の勉強が必要となった(タブレットでの)

まずは支給されたタブレットにZOOMをダウンロードすることから始まる
そのためにはタブレット使用者等の初期設定が必要となる
支給されたタブレットのOSはアンドロイドなので
グーグルショップからアプリをダウンロードすることになるが
初めてタブレットに触る年配の方々はここでいきなり戸惑ってしまう

まずはライン以外のメールアドレスも持っていないことも多く
なんとかGメールを作成し(パスワードも設定し)所有者の確定もして
どうにかアプリのダウンロードが可能になる

今度はZOOMの設定にかかる
要求されるのはメールアドレスとパスワード、その他名前とか誕生日等が入力される
パスワードはアルファベット(大文字は一つ必要)と数字を組み合わせて6文字以上のものを要求される
これをどこかに書き残しておかないといけない

実はここまでいくのにも随分時間がかかっているが、なんとかたどり着いて
さあZOOMの使い方の勉強!ということになった

ZOOMはサインインしている場合としていない状態で会議に参加できる
アプリを立ち上げた時の画面がサインインしている時としていない時では違う
新規ミーティングを開けるのはサインインしている時だけ、
していないと参加はできるが会議を開くことはできない

支給されたタブレットを子どもたちに配った場合、
どのような状況で使われるか想定するとサインインしていない状態で「参加」するのが
簡単そうなので、とりあえず自分らもこの方法で行くのが良いだろうとした

新規イーティングを開く
画面に自分の顔が写る
画面に触って上部のZOOMの文字を触るといろんな情報がでてくる(ミーティングID、パスコード)
この2つが大事で、サインインしていない状態で会議に参加するには、
参加の画面をタッチした後、この2つの情報を入れれば参加できるようになる

さてここからが本日の不満の内容
アプリの使い方に慣れていないとか、なかなか覚えられないのは仕方ない
しかし、この支給されたタブレットの性能が圧倒的にイマイチなのだ
指でタッチしても専用のペンでタッチしてもすぐに反応しない
何度もタッチし直すがスムーズに作動するとは贔屓目に見ても言えない

こうなると、正直ストレスが溜まってくる
そこで少し怒りを覚てきた
こんな性能で果たして現実的にリモート授業なんてできるだろうか
(しようとする気になるだろうか)
何かをする度にタブレットが動いてくれないなら、投げ出したくなってしまいそう

自分はこの仲間の人に使い方を、多分こうだろうと教える立場にいて
使用しているタブレットはiPadだが、自分のは問題なく作動している

この差はアップルのOSとグーグルのOSの違いなのか、
それとも単にタブレットの基本性能の差なのか、、となるのだが
昨日、生命保険の契約内容の変更に我が家に来た方が使っていたのが
アンドロイドのタブレットで、そのタブレットはサクサクと動いていた

となると上手く作動しないのはOSのせいと言うよりもタブレット自体の
基本的な性能のせいではないか、、と思い至った

確かに、ただで支給されたことはありがたい
でも支給する側は、その機器が通常使用に耐えられるくらいの性能を持っているか
果たしてチェック済みなのだろうか?
もしかしたら、タブレットならなんでも良い、ただで支給するのだから
ないよりあったほうが良いから、それに予算もないから、、、
などと使用者の感覚を顧みないで実行されたのではないのか
とつい想像してしまった

最近、使う人の身になっていない製品なり商品が多いと感じることがあるが
(転びやすい掃除機など)
日本の技術なり製品が商品力を失っている感じがしてしまう

それにしても、もう少し性能の良いものが欲しかった

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映画「鬼滅の刃」を見るにはまだ早い?

2020年10月29日 08時31分59秒 | 子どもたちのこと

「鬼滅の刃」の話題がこれだけテレビ放送されると、「関係ない!」
と思っている自分らにも少しづつ影響を与えてきている

急に、「この子たちに鬼滅の刃の映画を見せたらどうだろう?」
と思い浮かんだ
この子たちというのは火曜日・木曜日に勉強の手伝いをしている
外国にルーツをもつ小学生のこと
火曜日は2年生以下、木曜日は3年生以上の面倒を見ているが
学校では彼らなりに集中して勉強してたから、下校時間後の勉強は
少しばかり大人が思うよりは辛いものかもしれない

実際、彼らには集中力がない
なんとか真剣にやってほしいと思うが、大概の場合その要望は果たされなくて
この時間が終わって帰る頃には無力感とか落ち込んだりしてしまう

今年の七夕の短冊に「鬼滅の刃の本が欲しい」と願いを書いた2年の男の子がいた
先の木曜日に、急遽、野外でおしゃべりの訓練をした時、「鬼滅の刃」の話が出て
3年の子が内容を説明しようしたが上手くできず、それを聞いていた4年生の子が
フォローして解説してくれたことがあった
このように小学生の間では、この漫画(アニメ)は話題の中心らしい

(外国人が)日本語を勉強する方法としてアニメを見ていた
と「Youは何しに日本へ」という番組では度々紹介される
そこで思ったことは、自分が面倒を見ている子どもたちは
映画なら机に向かう勉強よりは集中していられて、結果的に日本語の勉強になるのではないか!
映画は日本語の勉強の一環として、使えるのではないかということ

ただし、聞くところによると今回の映画は2時間くらいとのこと
いくら関心があると言っても不自由な日本語の話を2時間も見ていられるかが心配だ
それに、そもそも漫画は絵で見て楽しめているとしても物語として楽しめているか
少し疑問はある

そこで、2年生の男の子に聞いてみた
「鬼滅の刃のお話ってどういう話か分かる?」
すると「本は欲しい」と言ってた子だが、内容はわかっていないようだ
「もし映画を見れるとしたら、2時間見てられるかな?」
この答えは、自分の予想した勉強法がまだ早い!と判定されたもので
「ううん!」

今朝のこと、月曜日・木曜日は近所の子どもたちと小学校の校門まで
歩いていくことにしているのだが(あいさつ推進運動)
その道の途中、映画を見てきたという1年の男の子に聞いてみた
「映画の鬼滅の刃のお話ってわかった?」
「うん、〇〇(登場人物の名前)が✗✗で、、、」と答えると
それを聞いていた4年生の男の子が話を続ける

当たり前のように日本人の子たちは言葉を覚えていく
でもそれができない子たちも間違いなく存在する
小学校で日本語を勉強しても、家に帰るとポルトガル語とか親の使う外国語を使う
良く言えばバイリンガルとなるが、どうやらそのもう一つの言語も
ちゃんとできていなくて、どちらとも不完全になっているらしい

子どもたちのストレスは、自分が意識しているかどうかわからないが
少なくないと思われる
そのストレスがどの様なかたちで表に現れるか
ストレス発散行為が周りとの関係悪化につながらないか、少し心配

新城市は今年から外国にルーツを持つ子どもたちに対して「プレ教育」をする
ことが決まって、研究期間を終えてそろそろ実践にはいるらしい
少しでもその成果が現れるといいのだが



 

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「近代の虚妄」読書中

2020年10月28日 10時17分54秒 | 

思いのほか面白かった「歴史の終わり」(上)だったが
勢いに任せて注文したのが(下)ともう一つこの本

いざ届いてみると、どちらを先に読もうかと迷ってしまった
いつものパターンなら(下)の方を読み終えてから移るのだが
今回は(下)は一旦お休みしてこちらを優先した

この本には「歴史の終わり」について書かれた部分がある
それはフクヤマ氏の楽観的な見方に対する批判で、物事はそんなに簡単に
理性が求める状態にはなっていないことを、現状を踏まえて行っている

フクヤマ氏の「歴史の終わり」が書かれたのはベルリンの壁が崩壊した直後で
少しばかりハイテンションな気分で、思いの丈を思いっきり発揮したかもしれない
その時点での判断をとやかく言うのは可愛そうなところもある

ところで、日本人の書いた「近代の虚妄」は「歴史の終わり」に劣らず広範囲の視点
総合的・俯瞰的に取り上げられている
この本も先へ先へと気が急いてしまったが、そこで感じたのは
「自分はこの手の本によって考え方・感じ方が作られていった」ということ
気が急いて流し読みっぽくしても、なんとなく言わんとすることが分かるのは
既にこの内容を受け入れようとする姿勢と知識・情報が個人の中に蓄積されているからだと思う

と言っても、自分にはこの本を詳しく紹介できるまでの力量はない
例の如く、部分的に印象にのこった部分を取り上げるしかない
(それでいいのだ、と「読んでいない本について堂々と語る方法」と書いてあったが)

そこで文中つい書き出しておきたくなったのがオルテガから次のような引用(大衆の反逆からの)
「今日の大衆は、彼らが喫茶店からえた結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を
 持っていると信じているのである」
このあたりの話は、ワイドショーで得た情報を世論と称して、あたかも正当な空気のように
なりつつある現代を連想させる

それともうひとつ現代の特徴としての次の点
「相互的な寛容」や「組織的な自制心」や「手続きへの信頼」が民主主義を支えるとしても
これらの「暗黙の規範」そのものは、民主主義から生み出されるわけはないのだ。
いや政治的でさえない。それはひとつの国の自生的な文化や歴史的経験、社会的な意識の中で
形成されるほかない。「コモンセンス」つまり常識である。
現在のトランプさんの姿勢はこの「暗黙の規範」(緩やかなガードレール)をやすやすと超えている
そしてこの「暗黙の規範」とか「紳士協定」をあっさり放棄しているのは
アメリカだけでなく現在のこの国も似たようなものだ、、、と感じてしまう

ということで、なかなか刺激的なこの本、読み終えるのが楽しみだが、心配なのは
この本の売れ行きはどのくらいで、どのくらいの人の間で共通認識ができているのか
という点
個人的にはこういう本こそがベストセラーになってほしいと思うが、、、ちょいと無理かな

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思い浮かべる量の差が判断の差に(なると思う)

2020年10月27日 09時19分49秒 | あれこれ考えること

例えば「りんご」
そこからイメージされるものを挙げてみる

サンふじ、津軽、秋映え、王林、紅玉、(アップルパイ)、アップルワイン、フランクフルト
長野、青森、ニュートン、万有引力の法則、ウィリアムテル、トロイア戦争
ビートルズ、アップル(Mac、iPhoneの)、エチレンガス

あるテーマで人が話し合うとしても、個人個人のそのテーマに対する情報量はかなり違う
上記の「りんご」でも、トロイア戦争とかエチレンガスとかになると、よくわからない人も
少なくないと思もわれる

人は何となく問題なく会話しているように思えても、
頭に浮かべる共通点が意外に少ないのではないか、、と思えることがある

この前提となるもの(情報量)の差が、個々の判断の違いになることは充分想像できる
今世間を騒がしている日本学術会議任命拒否問題でも
このことについて日本学術会議の目的とか日本学術会議法とか任命の手続き、答申の実績を知っている人と
菅さんの10億使っているから、諮問機関だから公務員だから、、、等の
ちょいとばかり雑な説明でわかった気になる人とは、判断は随分違ってくると思う

問題は、よく知らないひとも(間違っていても)大きな声を上げることができる時代になっていること
むしろ、詳しい情報は理解するのが面倒なので、わかりやすい論法につい寄り添ってしまう傾向が
現代は加速しているような気さえする

知の絶対量による分断、知の支配による分断、、
こうしたものは間違いなく存在する、、と感じる昨今

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総合的、俯瞰的とはこういうこと

2020年10月25日 18時27分16秒 | 

最後まで読めるか心配だったので(上)しか購入しなかったのが
「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)

これが読み始めたら面白い(こんなだったら(下)も買っておけばよかった)
本当はじっくり理解するように読むべきなんだろうが、先へ先へと気が急いて仕方ない
歴史、経済、哲学、心理学(?)などの分野が一人の知の巨人の手によって包括的に捉えられ
とてもわかり易く紹介されている
内容的にはベルリンの壁が崩壊するまでの事実を元に書かれていて
結局は民主主義と資本主義のバランスよく合わさったものが一種の到達点として
考えられるのではないか、、との仮定に沿って書かれている(違ってるかな?)
ただし、その後、世の中はそううまくは行かず金融資本主義と科学技術の発展により
豊かな中間層は徐々に消滅し、格差という新たな問題を生み出しているが
これが書かれた時点では、それで批判するのは酷な話で、まずはこのものすごく大きな掴み方
考え方を楽しむことがこの本の読み方のように思う
現在は(上)しか読んでいないので、(下)を読めば違った印象を持つかもしれない
この本の特徴的なのは哲学者ヘーゲルが出てくること
観念哲学の大家で現実社会とはあまり無関係そうに思えてしまうが、今で言う「承認欲求」
の概念こそが人が人としての存在のスタートとしていて、そこから考えられる幾多の可能性について
粘り強く例を挙げて紹介している
この本を読んでつくづく最近話題となる「総合的・俯瞰的」というのは
まさにこういうことだと強く実感する
(これと比べると政府の使う総合的・俯瞰的というのは単なる言葉のごまかしに過ぎない)

と同時に不安になったのは、こうした総合的な見方とまとめ方を現代の日本人の学者や専門家は
果たしてできるのだろうか?ということ
今起きていることの具体的なと著述とか解説本は、できる人はいかもしれないが
これだけのトータルな視点でまとめきるだけの力量のある人はちょいと思い浮かばない

ということで(下)はポチッとやってしまった
ついでにおすすめ本として最近やたらと目の前に現れてくる
佐伯啓思氏の「近代の虚妄: 現代文明論序説」も注文してしまった(何となくこの本と関連していそうで)

佐伯啓思氏は以前何冊か読んだが、この方もとてつもなく広範な知識の持ち主で、世の中には
物事をうまく説明できる能力のある人がいるものだと感心したものだった
(もしかしたら、日本で総合的に書ききれるのはこの人かもしれない)

でも、郵送でこれらの本が届くと、偉い人に「また、、、、」と嫌味を言われてしまいそう

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浦島太郎状態?

2020年10月24日 09時22分28秒 | 徒然なるままに

浦島太郎の気分と言うには少し大げさかもしれないが
世の中随分変わってしまったと感じたのは新しいパソコンのご対面の時
最近、酷使?している我が家のiMacは立ち上がりがおかしくて、
レインボーボールがくるくると回転し目覚めてくれない


6年間ほぼ毎日使っているが、さほど負荷のかかることはしていないつもり
でも消耗品には間違いないので、どこかの疲労は有ったかもしれない

大事な写真や書類がパソコンには収められているので、一応バックアップは
とってあるが、いつも使うパソコンですぐに見られる便利さにはかなわない
そろそろ買い替えどきかな!の思いに拍車をかけたのが「国勢調査」
インターネットでチョチョイと済まそうと思ったが、いざ始めようとすると
このパソコンのOSではできません、、の冷たい宣言

このOSでは利用できません、、とつれない宣言をされて使えなくなったのはまだあって
便利なDropboxも最新のものでないと使えない
OSのヴァージョンアップはできたのだが、今まで使えたソフトが使えなくなるので
どうしても二の足を踏んでしまう

でも、ついに諦めて新しくすることにした
iMacは外付けのHDにバックアップしてあるので、データやシステムの移行は簡単にできる
でも手間だったのは、というよりこれも使えないのか!と実感したのが
今まで使っていたマジックマウスとマジックトラックパッド
単3の電池を入れてブルートゥースでつながって使っていたが、これが新しいマシンに反応しない
そんな馬鹿な!
もしかしたら、使えるかもしれないが、ちょっとショックだった
この2つのマジックの名がついた機器は今までは電池を入れてたが
今回のは充電式になっている

データ移行してびっくりしたのがiphotoが無くなっていた
代わりに写真というソフトになっていて、今までの使い方と少し違う
あったはずのものがない、、と迷って、どこかにあるはずと
ネットで調べてようやく元通りの使い方ができるようになるかもしれない

そういえばiPhoneもiPadも少し前からパソコン上にバックアップできなくなっていた
これもOSが古すぎたためだが、結局のところ買い替えの時期だったのかもしれない

でも少しは良いこともある
快適なのはやはりスピード
立ち上がりも動作も速い

古いのは邪魔だから早く片付けて!
と偉い人が少し怒ったふうに言う
でも、もう少し彼にお疲れさん!と言いたい気分

それにしても、この世界はドッグイヤーと言われるが本当に変化が激しい



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みんなの評価は正しいか?

2020年10月22日 09時47分27秒 | 徒然なるままに

みんなが言うことは正しいか?
それを考えるのに良い例が食べ物に関すること
美味しい、まずいは食べた人にしかわからない
いくら上手な表現をされても、どうもまどろっこしい
「素材の味が、、、、」「柔らかくてジューシーで、、」「バランスが良くて」
よく使われる定番化された言葉だが、つくづく食べた人にしかわからないものだと思う

おいしいとされる食事の店は列ができる
列のできる最初のきっかけは誰かがそう言ったのだろうが
ある段階から加速度的にその情報は拡散する

最近はぐるなびなどが比較対象の根拠になっているらしいが
昔は「タクシーの運転手が旨いと言った店は旨い」
これは確かにそうだな、、と実感した
豊橋の餃子やさんは、タクシーの運転手さんの情報を信じて正解だった

現在、列ができるような名古屋めしのある店
自分はへそ曲がりで素直にこの手の情報は信じないし、だいいち並んでまで
食べたいと思うことはない滅多にない
それでも、一回は食べてみた
だが、並ぶまでのことか、、、それが実感

で、感じるのはみんなが旨いということは、必ずしも旨いとは限らないかもしれない
と感じるわけだ
美味しいと評価できる食通とは、毎日同じ料理を食べても最初に食べたものと最後に食べたものを
同じように評価できる人らしい

誰かが美味しいと言って、それを信じる人が多くなって、列ができる
これはベストセラー小説にも言えるかもしれない
本の選択はベストセラーか否かがある人たちには判断材料になるが、
本読みはあまりベストセラーを読まないと思う
本読みはこうした情報よりも自己の内的な衝動に従って運命であるかのように
読むべき本に出会う

ということで、偏屈者は世間の評判や噂を安易に信じないということ
(付き合いにくい、、、と思われてるかも)

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偽の情報が伝わりやすいのは何故だろう

2020年10月21日 08時17分01秒 | あれこれ考えること

 以前、図書館から借りて気張って向かったものの、ほんの20ページほど読んで挫折したのは
ウンベルト・エーコの「プラハの墓」
昔、この作家の「薔薇の名前」を読んだ記憶があるが、今思うとよく読めたなと我ながら感心する

「プラハの墓」は「シオン賢者の議定書」なる史上最悪の偽書を作成した男の物語らしい
(結局読んでいないのでわからないが解説書によると)

ヨーロッパ人には知られているこの「シオン賢者の議定書」は
ユダヤ人が世界征服を企んでいると言ったような内容で
ヒトラーのユダヤ人虐殺のきっかけにもなったようだ
ユダヤ人に関することではもうひとつ「ドレフュス事件」が有名で、ユダヤ人のドレフュスが
スパイの嫌疑がかけられた冤罪事件のことで、この2つの事件はデマとか嘘の情報によって
人々の感情がかき回された事件だ
(プルーストの「失われた時をも求めて」はドレフェス事件のことが扱われている部分がある)

何故、人は偽の情報とか不確かな情報に振り回されてしまうのだろうか
精緻な検証による正しい情報よりも、感情的でセンセーショナルな勢いだけの
そして個人攻撃が含まれる情報のほうが、広がるスピードも力も大きいように思えてしまう

これは遠いヨーロッパの話ではなく、身近なこの国でも最近実感することだ
学術会議員は6年勤めると学士院メンバーになり、終身年金をもらえるとのフェイクニュースは
あっという間に拡散した
また学術会議は中国の千人計画に加担しているとも政権中枢の人物からネットで発信され
その後消極的な訂正を行ったが、これも一気に拡散したためにその情報が誤りだったことを
知らない人も少なくない

人には「作話機能」というものがあるらしい
文字通りお話をつくることで、奇想天外なSFに限らず古典とされる文学作品も
突き詰めていけば作り物で、それは現実ではない
(トーマス・マンは小説家をこうした意味で詐欺師と呼んだとか)
しかし、時としてこの作り物の世界は正確な世界の把握よりもずっと大きな力を持つ
(事実としての坂本竜馬よりは、司馬遼太郎の描いた坂本龍馬のほうが人物像は信じられているし
 赤穂事件も仮名手本忠臣蔵のほうが、事実よりも信じられているみたいだし
 また従軍慰安婦の話もあの像のきっかけてなった小説が、事実よりも力を持ってしまったとされている
 【帝国の慰安婦より】)

正しい情報よりも旬の情報のほうが(その時の空気を反映したような)力を持つ
正しい判断を行うにはまずは正しい情報の収集が必要だが、どうも人は正しい情報を
手にすることができないのではないか?

ネットの世界が広まって、ますます加速しているのは自分好みの情報は徹底的に集められることで
それゆえに、最初に自分がこうと信じた情報(正しかろうが間違っていようが)が
判断のスタート時点になってしまう

どうしても自分好みの情報しか手に入らない、、というのは
人の傾向としてはとてもありそうなことなので、その危うい傾向にブレーキをかけるのは
あえて反対側の意見も聞く耳を持つとか情報を集める、、というのが現実的と思われる
その意味では、学術会議において、お金を払ったとしても反対意見を言いうる人たちの存在は
むしろ大切なことだと思うが、、、

それにしても、わかりやすさとか感情的であるがゆえに広がりやすい(偽の)情報は
どうすればブレーキをかけられるのだろう


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清少納言の現代にも通じるボヤキ

2020年10月20日 09時43分11秒 | あれこれ考えること

「なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い、
人の噂話ばかりし、ほかのちょっとしたつまらぬことでも根掘り葉掘り知りたがって、
しつこく話をせがみ、話してやらないと、うらんだり悪口を言ったりし、
またほんの聞きかじった程度の話を、自分がもともと知っていることのように、
他の人にも得得として受け売りしたりする。このような人も実にいやだ。」

これらは「その通りだ!」浮かべることができて、一体誰の話か?
と興味が沸くところだが、実は清少納言の「枕草子」25の「にくらしいもの」
の中の一部分だ
(最近、きっかけがあって枕草子の現代語訳を読んでいて、そこで見つけた)

現代の芸能人のスキャンダルを根掘り葉掘り知りたがっている様や
聞きかじった程度の話を確かめもせずに(フェイクニュースとして)拡散する様を
想像することができるだろう

だが、思うに昔からこのようなことがあったということは
人間がつい持ってしまう傾向のようなもので、「そうあってははいけない!」
と理性でコントロールしうるのは思いのほか難しいということかしれない

こういうことは恥ずかしいこと、みっともないこと、、と理性で考えるのではなく
感情的に嫌えるようになることが、一番無理なくていいことだと思うが
それは個人の持つ美意識、あるいは教養につながるかもしれない

現在は専門分野、特に文言の解釈の専門家による、半ば掟破りのようなことが
いたるところで起きている
それは真に総合的・俯瞰的な視点にたった解釈というより、その場しのぎの
言い訳に過ぎない(政治家・官僚)
この言い訳を可能にしているのが個人の人としての生き方の突き詰め方不足ではないか
それはハンナ・アーレントのいう「思考停止」なのかもしれない
この思考停止が進んでいるのではないかと思われるのが、官僚の世界とメディアの世界
それらは外から見ると単に、長いものには巻かれろを実践しているだけに見える(いろいろ言い分はあろうが)

話は飛んで、こうして枕草子にこうした文章を見つけて、今も同じだな!と感じたりすることは、
そしてそれらが数多く蓄積されるということは、知らず知らずその人の判断力に影響を与えると思う
その意味で、過去を知るということは大事なのかもしれない

話はまたまた飛んで、清少納言を例に挙げたのでライバルの紫式部の印象的な考察も一つ取り上げると
源氏物語の乙女の帖にある以下の著述で、光源氏が息子の夕霧に容易に官位を与えなかった理由

「貴族の子に生まれまして、官職が想いのままに進んでまいり、
自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を
苦しめたりすることはきっとばかばかしいと思われるでしょう。
遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずん上がるようなことが
ありましても、家に権勢のある間は、心で嘲笑はしながらも追従をして
苦言を人が損ねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれで立派に見えましょうが
家の権力が失墜するとか、保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑されましても
なんらみずからたのむことのないみじめな者になります。やはり学問が第一でございます。
日本魂をいかに活かせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。
ただ今目前に六位しか持たないものを見まして、たよりない気はいたしましても、
将来の国家の柱石たる教養を受けておきます方が、死後までも私の安心できることかと存じます。」

結局のところ、みんな同じようなことを感じて考えているものだということ

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