パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

それを、平気でやってしまっている人がいるということ

2012年11月30日 19時38分07秒 | あれこれ考えること

復興予算が本来の目的とは離れたところで使われ
肝心なところには回ってこないどころか
その大部分が使われてしまっていた
というニュースには心底怒りを感じざるを得ないが
なんでそんなになってしまったのか?
を考えると少し絶望感に陥りそうだ

こんなことになってしまった原因の一つに
「東日本大震災復興基本法」の第2条(基本理念)の中に、
「単なる災害復旧にとどまらない活力ある日本の再生を視野に入れた抜本的な対策」
という文言があって、アンダーラインの日本再生うんぬんの
拡大解釈が行われたからだと言われる

上記の条文はさらっと読んでしまえば、良いこと書いてある!
くらいの感想しか持たないが、
ある意図を持った人がなんとでもなる文章のようだ
あの時期に作られた法案なので、普通の人は復興のための
そして再生のために使われる予算だと理解する

しかし、文章だけ取り出して考えると
確かに拡大解釈を制限できないような文章なのかもしれない
だから、省益を求める官僚が理屈の上では間違いのない
請求と使用を行なってしまったのだろう

ここで、先程の絶望感を覚えてしまうというのは
ここでの官僚達のメンタリティーのこと
こんなことを平気でやってしまう精神
確かに厳密な意味では予算の使い道を絞りきっていないにしても
普通の人ならそこは行間の意味を読み取って復興に予算を回す
といった考え方にはなると思うのだが、彼らはそうではないらしい

解釈が正しいかどうか?正確に書かれているか?
起きている悲惨な事象に関係なく
行間を読まずに物事に対処する事は一体どうなんだろう

一番の疑問は、平気でやってしまっている人がいる
ということ
やましい気持ち、罪悪感は感じなかったのか?
いや、感じた人はいたかもしれない(それは分からないが)
しかし、事実としてやってしまっている

人は自分の思いもよらない考えに従ってしまうことがある
ナチスなんてと馬鹿にしていた人々が
知らない間にナチスに従わざるをえない状況になったように
意識するしないにかかわらず、
人にはこのような傾向があるのは認めなくてはならないかもしれない

官僚の人たちも、一人ひとりは普通の感覚を持った
良き人なのかもしれない
ところが、そこに蔓延している雰囲気は彼を
人間としてもっとも大切なところを麻痺させてしまうのかもしれない

無駄なお金の使い方をしてしまっている
そうさせた政治家が情けない
というより、解釈上に間違いがないからといって
平気でこんなことをしてしまう人たちの存在
実は一番怖いのはこの事

人間性
官僚の人たちはリベラルアーツとか教養といった分野を
普通の人以上に磨かないと更に怖いことになりそう
と思うのは杞憂か?

 

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正しいことは疎ましい?

2012年11月29日 20時24分31秒 | あれこれ考えること

少し疲れているのか、
それとも年齢のせいで少しひねくれてしまったのか
あるいは元々変な性格だったためためなのかは知らないが
最近、いわゆる正しい、建設的な意見を胡散臭く感じたり
疎ましく感じてしまう

それが正しければ正しいほど
何か違うような気がムクムクと湧き上がってくる

確かに、その通りなんだが、お前が言うな!
といった低次元のものから
政治の分野に対するものまで
あらゆる正しそうなモノに疑いの目を持ってしまう

あまり好きじゃないニーチェの文句ばかりの
姿に似ていそうで、少しその点では不満だが
それにしても、なんでそんなふうに思ってしまうのだろうか?
と思ったりする

確かに正しいことは、実行できれば素晴らしい
だからと言って、その事を強要された世界はどうも住みにくい
正しいことを行なって続けた人はご褒美を上げることに問題はない


ただどういう訳か世の中には何も正しいことをしなくても
一般的にみれば、それこそひどいと思われる人間でも
ちゃんとどころか、いい生活をしている人がいる
この現実は、実は限りなく深い


人間は努力した人がかならず報われるといった未来の
実現を確保することが出来ない
努力したら成功の確率が上がるだけだ


普通の人は楽に儲けたり、技術を身についと願い、
すべきことの出来ない理由を探したり
怠惰に流れて横着したりする
しかし、自分がそういう人間だからという点もあるが
それはそれでいいのではないか!
と思ったりする

自分はモーツアルトの「魔笛」が好きだ
1幕の後半のパミーナは生きているという合唱が出るあたりから
幕のおしまいまではホント美しいと思う

と同時にこのオペラの好きなのは
パパゲーノの存在
いい加減で、横着で、ずるくて、、、、
でもこれが好きなんだな
どこか憎めないというか
彼のほうが本当で、ザラストロの深遠な思想なんて
空想にすぎないのでないかと思ってしまうくらい

つまるところ、人間の横着な、いい加減なところを
前提としないような、遊びの部分のない正しい事は
どうにも信用出来ないということを
グダグダ言っているだけなのかもしれないが

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あだ名のついた曲

2012年11月28日 17時55分01秒 | 音楽

先日のゲルギエフのショスタコーヴィッチの5番
ウエブ上のあちこちでコンサートの感想がアップされていて
自分と似てるな!とか、それもありかな!
と楽しんでいるのだけれど、それとは別のことがちょっと気になった

このショスタコーヴィッチの5番に「革命」なんて
あだ名が付いていたっけ?
というより、単に「交響曲第5番」でいいんじゃないか

確かにあだ名がついている方が、何か親しみやすいかもしれない
しかし、そこで妙な先入観も持たれてしまうのでは?

マーラーの「巨人」なんてジャン・パウルの同名の小説を
読んでみないと、曲とあだ名がピッタリかどうかなんて判断できない

エロイカ・運命・田園・月光・熱情・テンペスト・ワルトシュタイン
クロイツェル・スプリング・ハンマークラヴィーア・大フーガ
ベートーヴェンにも思いつくだけでも、これだけのあだ名付きの曲がある

名前が付いていなくても、良い曲がたくさんある
8番の交響曲も完成度が高いように思えるし、ピアノソナタの最後の3曲は
とんでもない名曲だし、同じく晩年の弦楽四重奏曲は人間の創りだしたもののうちの
最高のものの一つと思えるし
ベートーヴェンに限らず自分の好きなブルックナーでも「ロマンティック」よりも
8番の交響曲などか桁外れの傑作だし、9番も何か別世界の感がする作品
7番も「ロマンティック」より深い


これらあだ名が付いていない曲にあだ名さえ付けば
もっと知名度が上がるかどうかは分からないが
音楽の教科書にはあだ名がなくても良い曲は紹介してほしいな

 

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よくわからない!

2012年11月27日 19時43分00秒 | あれこれ考えること

あの震災の後の福島原発の状況を専門家・メディアがあれこれ解説した時、
専門的すぎたり、説明が要領を得なかったり、こちら側の知識がなさすぎたりで
結局正確なところはわからずじまいだったが、
今度の選挙の争点TPPもそれに近い

つまりTPPの利益・不利益が非常に分かりにくい
工業会は賛成、農業関係は反対とあっさり片づけたり
感情的になった討論でそれぞれが言いっぱなしでは
頭の中の整理ができない

まず考えるべきは、国益に沿うか?
それも今だけでなく、将来を見据えて

今しないと置いてけぼりになってしまう
どうせいつかは参加しなきゃならないことになってしまう
だったら早めに参加した方がいい

こんな単純な話から
ISD条項という国内法よりも上位の法律がTPPの中には
入ってきて、それが今までの例からすると
アメリカの企業が訴えた訴訟は100%アメリカ側の勝ちとなっており
これが認められれば日本もエライことになってしまう
それが心配と言う声やら
今の交渉状況が全然わからないので、なんとも言えないが
自分たちに不利益になりそうなら、交渉の場でノーといえば良い
とか、実際のところアメリカに向かってそんな事ができるのか?
といった現実的な疑問まで、討論にならない議論が何度か交わされている

間接民主主義で、自分たちの意見は自分たちが選んだ議員に
代表して任せているのだけれど、昨今の議員さんを見ていると
自分たちがまずしっかりしなくては!
正確な判断を下すためには正確な情報を自ら掴まなくてはならない
と思うのは、少し残念な現実だけれど
とにかくメディアも議論をきちんとコントロールしてそれぞれの意見を
普通の人が比較できるようにしてほしいものだ

アメリカ側の全て勝訴の件も、それがもっともだ!
と言う意見やら、いやアメリカ側の企業の横暴だ
と考えるものなど、言い争っている部分はわかっても
そのどちらの言い分が正しいかは分からない
せめて、同じ対象となった案件をきっちり紹介・討論する場面でも
あれば良いのだけれど、、

それにしても、国益と言うモノについて
そのあるべきイメージ
それを確保するための戦略・戦術がある国と
全く反射神経的な、単細胞的な反応をする国のこの国
いったいどうしたら良いのだろうか?


とりあえず、とにかく自分たち一人ひとりがしっかりするしか
手はないかもしれない
誰かが考えたり行動してくれる
と考えるのは駄目だということは、
ここ最近身にしみて感じたこと
せめてこんな風に感じる人が多いことを望む

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似通った辞世の句(吉田松陰と土方歳三)

2012年11月25日 15時58分58秒 | あれこれ考えること

今日の新聞広告の一つに吉田松陰の辞世の句が載っていた

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

あれっ、これって土方歳三の辞世の句に似ている
まず最初に思ったのがこのこと

ちなみに、土方歳三のは

たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん

なんか雰囲気が似ている
政治的な方向性が全く逆だった二人が似たような句を残すとは

もっとも、この土方歳三の句は、本人の作ではないという説もある
自分としては、そちらに賛同したい

豊玉発句集を残した感性の土方歳三は
様々な経験をしたとしても、最後にあのような句を残すようには
どうも思えない(思い込みだけど)

土方さんは、もっと柔らかで、こちこちの武士ではないような気がする
彼がずっと貫いたのは、その生き方であって
なにか具体的な対象ではないような気がしてならない

世の中には様々な土方ファンが存在する
その多くは燃えよ剣の司馬遼太郎の影響を受けているかもしれないが
自分は新撰組からの呪縛を逃れて
自分本来の姿に戻れた彼に興味がある

島田魁などの資料からの感想だけれど
きつくてもいい奴だったんだな
そんな気がしてならない

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中抜け

2012年11月25日 13時30分46秒 | あれこれ考えること

消費は高額なものと低価格のの2極化が進んでいるという
確かに巷で流行るのは100円ショップをはじめとする
絶対金額の安いもの
もしくはブランド物の恐ろしく高価なもの

つまり真中が抜けていて
今まで日本が得意としてきた
ほどほどの値段でもそこそこ良いものは
安くていいものに取って代わられている

しかし、安くていいものって本当に存在するのだろうか?
現在の安くていいものの定義とは
値段相応の安いもの
安いから文句は言えないが、我慢できるのもではないのか

価格の安いものは、質感・発色・使い勝手がやはり落ちて
購入したもののその商品にどこか愛情が持てないのが実感

商品によっては使い捨ての分野ではそれも仕方ない?かもしれない
しかし、今自分が欲しいとか求めたいものは
そんなに安くなくてもいいから、ちゃんとしたものを
ほどほどの価格で提供してほしいということ

つまり日本が得意としてきたコストパフォーマンスの良い商品
安いからコストパフォーマンスがいいのではなく
しっかりした価値観のもとで製造された
いつか上のグレードのものを持ちたいと思わせるような
手ごろな商品(製品)

各メーカーには価格だけで商品計画を練るのは
やめてほしいと思うのは非現実な夢物語か

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テレビ討論を聞いて、あれこれ思うこと

2012年11月24日 20時25分05秒 | あれこれ考えること

内閣が解散となって、テレビ局に連日各党の代表者などが登場している
今日も朝から日テレ系列で論戦を交わしていた

この手の番組でよく思うことは、各自、人の話を聞いていない
ということ
自分たちの主張の正しさを、自分の土俵に持ち込んで述べるだけ
そして、たまに同じ話題で討論することになっても
都合の悪い話は感情的になって反論するだけ

そういえば、老人の暴走と言われるあのひとも
自分の都合の悪い話は聴こうとしないタイプ
記者に向かっても、他の政治家さんに向かっても
その態度はあまり変わることはない(上から目線)
論旨が正しくても、もう少し人を尊敬する態度が必要

ところで橋下徹氏、さすがに話がシンプルでわかりやすい
誤解を恐れずに割り切っているところと
現状認識について他の政治家よりはリアリティがある
それは彼が旬の男となっているからかもしれない
そしてこの分かりやすさはあの小泉さんの
ワンフレーズポリティクスに似ているかもしれない
(それがいいかどうかは難しいところだけれど)

その中で多少疑問に思ったことが少し
金融緩和などをしてマクロ的に活性化を計ろうとしても
日本の企業は良くならないのではないか
パナソニックもソニーもサムソンの様な競争力のある
商品を出せないでいる
ここのところをクリアしない限り問題は解決しない
ここまで、その通りと思う
そこから先が疑問だった、
それは規制緩和すれば企業は新しい需要を生み出すような
商品を開発できる
だからがんじ絡みになった規制を取っ払うべき

しかし、規制を取り払えば全てが解決すると思うのも
どうなんだろう
なにか停滞の問題はもう少し別のところに有りそうな気がする

人間の欲望はキリがないからモノは圧倒的に不足している
生活に必要な物は既に手にしているからモノはこれ以上は過剰となる
こんな2つの考え方が存在するが
どちらが正しいかと言えば、それを解釈する人の立場で言い分があるので
白黒決着は難しい

この話をもとにして考えると
現在の日本はもう成長途上国のようなものに対する飢餓感はなく
満腹感にあふれているが、経済成長しなければならないので
マーケティング的に欲望の喚起を行い無理やり消費を強いて
その結果としての経済成長をしなければならないことになる

ほんとに欲しいものは無限に出現するものなのかな?

年金の話で老人は昔の老人と違って若いのだから
年金の受給は遅らせてもっと働いてもらおうではないか
一見まともに感じるこの考えも
果たして雇用環境が存在するのか?
が現実的に疑問が湧く
いやそれより、そもそも人はいつまで働かなければならないのか?

働けるうちは働く
しかし、この時の働くとは何を目的とするのか
老年になっても生活を維持するために働かなけれなならないとしたら
それは社会として良い社会なのか?

ハッピーリタイア
それは夢物語なのか
毎日が日曜、そんな毎日は何かを強いられてきたサラリーマンには
却って辛い毎日かもしれない
しかし、自分の時間を自分で使うようになる
その生き方が本当の生き方ではないのか?

「百万回生きた猫」
人は、本当にあの猫の様な最後を迎えられるのか?
そんな事に気づきもしない?

フロムの自由からの逃走が脳裏に浮かぶ
人間にとって自由は孤独を強いられつらいものとなる
だから何かに従属しようとする傾向がある

ここの魅力的な従属的な生活を振りきって、
老人の生活を本来の自分の生活をする
それを求めるのは西欧的なブルジョア的な考え方なのか

政治は現実的な方法論の戦いと考えれば
どの方法論が効果的かを考えるだけとなるはず
しかし、その前提となるビジョン・哲学が今の日本には
存在しているのだろうか?

いつものごとく話が横道にそれてしまったが
それにしても、何かスッキリしない昨今の政治だ




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アファナシエフのシューベルト晩年のピアノソナタ

2012年11月23日 11時34分20秒 | 音楽

本当は聴き流すなんてことは正しい聴き方ではないのだろうけれど
パソコンに向かい作業しながら聴いたのが

シューベルトの晩年のピアノソナタをアファナシエフが演奏したもの

購入した時に真面目に聴いたのだけれど
聴き続けるのがつらくなって
少し敬遠していた

死を間近にした人間の音楽
音と音の間、休止の間の闇、深さは聴き終わった後も
しばらく心理状態に影響がでそうな演奏で
CDには珍しく演奏者の意識が感じられるものだったが
今日は何となく作業しながらなら聴けるかもと
聴き流すつもりでいたが、、、

さすがに聴き流すことは演奏が許さないようで
作業しながらの耳にもなにか訴えてくる
心に引っかかってくる

この印象・感覚 以前にも味わったことがあると思い出したのが
同じシューベルトの「冬の旅」のハンス・ホッターの歌ったもの
あれも半端じゃなく凄い演奏
絶望が深く深く沈潜していき
とてもやりきれない思いにさせる

素晴らしい演奏だが、もう一度聴きたいとは思わない演奏
それで充分というか
あの作品のある面完成された世界を表現していて
その視点からの演奏はより以上のものを期待できなさそう
と思ってしまったために
長らく埃をかぶっているレコード
その演奏の感じに似ている

何度も聴きたい演奏もいい演奏なのだろうけれど
一回しか聴けないような演奏も
いい演奏なのだと思う

しかし、演奏後の気持ちはもう少し幸せになれるモノのほうが
自分は好みなのだが

結局、この真面目過ぎる演奏の印象のお陰で
アファナシエフの演奏はこれ以外に所有していない
このひとは実演で聴くしか自分の集中がもたない気がする



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2度目の印象の希薄化(幻滅感)について

2012年11月22日 11時05分05秒 | あれこれ考えること

辻邦生の「夏の砦」は主人公 支倉冬子がグスタフ公のタペストリーの2度目の印象が、
最初の鮮烈なものと違って戸惑ったところから実質的にスタートしているが、
この2度目の印象の幻滅感(?)は普通の人でも結構経験することではないのか。

自分の経験でも、京都御所、広隆寺の弥勒菩薩、大覚寺、それらの印象は最初の驚きと感動を伴った記憶は、
2度目の対面では拍子抜けするくらいあっさりとしたもので、「あれっ、こんなだった?」と思うほどだ。

自分の印象だけで一般化する訳にはいかないが、
これは心理的な傾向があるのかもしれないと考えても不自然ではないかも知れない。
車で知らないところに出かける時、帰りの道は行きの時間よりずっと短く感じられるが、
それと同じような心理的作用が働いて、感動を希薄にさせるのかもしれない。

確かに初回の対象に向かう集中力は2回目とは随分違う。
最初は、それこそ心を奪われるといったような、自分の存在を忘れるような瞬間がある。
しかし2度目は、どこか冷めた自分がいて全部を受け入れる姿勢というより
比較対照するような態度で観察しているといったほうが正しいかもしれない。

物事を楽しむには比較対照、つまり比べることによって、その差異を感じることができ、
より深い理解を得ることができるかもしれないし、「美は(神は)細部に宿る」と言われるように、
充分な細部の観察は物事への共感を増すはずになるのだが、どういう訳か最初の感動の域までは達しない。
(その差異を他人と話し合う機会のある人は、もしかしたら、そんな事はないかもしれないが)

全く同じ物はないけれど、音楽に対する経験はどうなのだろう。
レコード(CD)と生演奏。全く同じものと言う意味では、録音されたものとの対面(聴取)が
2回目以降の印象の希薄化の検討材料になるかもしれない。

名演奏といわゆる録音されたものを聴く、
そこでもバイオリズム・精神状態・環境がピッタリと合えば、一生を左右するほどの体験となることもある。
フルトヴェングラーのエロイカ・第九・トリスタン・マーラーの「さすらう若人の歌」クレンペラーの「ミサ・ソレムニス」
リヒターの「マタイ受難曲」などはその例だ。
そしてその印象は強烈であるために、再度聴き直すことへの恐怖心も存在する。
つまり、再びあの様な素晴らしい経験をできないのではないのか!といったような。
(この意味では録音されたものの楽しみ方とは少し違っているかもしれない)
だが心のなかに沸き上がってくる、「聴きたいと」言うタイミングでその演奏に向かう時、
その世界は最初とは異なるかもしれないが、深く印象に残る場合が多い。
勿論同じポイントで心奪われることは多くて、それで一安心することもあるのだが。

最初にあげた御所・大覚寺・弥勒菩薩などは、「見たい」という心の欲求ではなくて、
単に時間的な都合上で訪れてしまうから印象は希薄になってしまうのかもしれない。
心にそうした欲求が出てくれば2度目でもガッカリすることはないのかもしれない。

ここで少し考える必要があるのは、視覚と聴覚による体験の差のこと。
人間の得る情報は圧倒的に視覚からのものが多い。そして記憶にも残りやすい。
耳からのものは幸せなことに忘れやすい。(音楽家は別にして)
そして、この忘れやすいということが何度聴いても感動を得られる秘密かもしれなしと思ったりする。

その他、当たり前だけれど個人差が存在する。
視覚的なものへの関心の多い人は、自分のような多少聴覚に重きをおいたタイプとは
違う経験の仕方をするのかもしれない。
自分は他人になれないので、他人がどうのように感じているかは、言葉による説明で理解するしかないが、
もしかしたら、忘れるという機能がなくても視覚重視の人たちは何回見ても同じような感動を得られるのかもしれない。
これは最初に、普通の人でも2回目の印象は希薄になることが多そうだと述べたこととは相反するが、
ここまで考えてきたらフトそんな思いがしてきた。

2度目の印象の希薄化。これはもう少しあれこれ考える余地がありそう。
(どうでもいいことだけれど)

辻邦生の「夏の砦」は、タペストリーの再会に幻滅感を感じた自分へ「
自分の中の何が失われていったのか?」と問い続ける。
実生活に重きを置き、時代・雰囲気など何かを象徴するリアルな小説と言うより、
一種芸術至上主義者的なトーンに満ちた様々な考察が行われるロマン的な小説だ。
読み返すには馬力が要りそうだが、読めばまたきっと感動するだろうな(2度目でも)

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今年の二尊院

2012年11月21日 21時14分34秒 | 旅・旅行

JR東海の「そうだ、京都。行こう」の
今年の紅葉狩りのポスターは嵐山の二尊院

それで、と言うより、時間的にバスよりも安定した運行が
期待できるということで電車で行きやすい嵐山方面に
今年も行く事にした

11月18日の日曜日、さすがに京都駅から山陰線は満員
人の少なそうな大覚寺を目指すつもりだったけれど
天竜寺の庭の引力に負けて少し時間つぶし

大覚寺にもその後行ったのだけれど
天気が曇り気味のせいか
イマイチ気分的に乗れなかった

お口直しの意味も兼ねて
今年のビューポイント二尊院へ

唐門は別ヴァージョンのポスターにもなっていたので撮影する人も多い

ちなみに去年11月23日に唐門は

色づきもイマイチだったけれど、人出も今年ほど多くない

別の場所の昨年との比較 今年は

そして去年は

やっぱり、時期が一週間早くても今年のほうが早く紅葉している
そしてその分美しさも際立っている
だが、きれいとなると当然人でも多くなって
撮影はどうしても人の頭を撮ることになってしまう
ポスターはどうやって人を入れずに撮ったんだろう?
素朴な疑問が湧いてくる

ところでこの二尊院の裏の山が小倉山
あの小倉百人一首を選んだ(作った)藤原定家の時雨亭あとがあったとか
そこまでは行かずに、門を入った直ぐのところで見つけたのは

西行の庵跡地の石塔
今年の平清盛で、少しは知名度が上がった西行も
正直素通りする人が多かった
写真を撮っていると何を写しているのか?と怪訝な表情

京都には気づかないようなところに
そっと気になる史跡がある
その日、御池通を烏丸に向かって歩いていると
フト目に飛び込んだのが

百人一首の「千早振る神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは」の作者の屋敷跡
落語の物凄いこじつけの「千早振る」でも紹介される、あの時代の色男の史跡
でもここもみんな素通りしていく

そういえば、今年の夏に撮影した池田屋跡も素通りしていく人がほとんど(池田屋跡↓)

京都は見所だけをササッとみて記念のための写真撮影だけで
旅を終えてしまっては勿体無いなどと思ってしまう
(もっと歴史の勉強しなくては!いや、したほうがより楽しいかも)






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