パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「ロケットマン」を見て

2019年08月30日 08時18分41秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

仮に大きな成功や偉大な作品を創造するためには、人知れぬ辛い経験や
どこまで経っても満たされぬ思いをしなければならないとしたら
自分はそうした誇らしい業績などよりは、何もなさないとしても
平和で満たされた生活を送ってるほうが良いかのしれない
そんなことをつい思いつく映画だったのは「ロケットマン」

エルトン・ジョンの半生をミュージカル仕立てにした映画だ
一年前の「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディ・マーキュリーのような格好良さは
期待できない体型と容貌のためか、自分の他に観客は10名ほどだった

エルトン・ジョンは嫌いではなかった
クロコダイル・ロックで知ってから、「Border Song」「Sixty Years on」「First Episode at Hienton」
が収録されたアルバムを購入し、その繊細な感覚が好きだった

でも途中から聴かなくなった
アルバムジャケットがへんてこなメガネと賑やかな色彩のファッションに身を包んだころから
音は厚みが増えてきたにもかかわらず、訴えるものが無くなってきているようで
音楽よりはビジュアル面は先行したショービジネスのやり方にも違和感を感じて
聞かない、アルバムを買わないという形で抵抗をした

その聴かなくなった頃の出来事が映画の中心だった
彼の満たされぬ思い
ただ父親から当たり前のように褒めてもらいたかったり、抱きしめてほしかっただけなのに、それがされなかった
その傷を引きずりながら、ホモセクシュアルの世界に浸ってしまう
そのことへの嫌悪やらバレることへの恐怖からアルコールや薬に依存するようになり
徐々にそれらがないと作品制作やライブパフォーマンスをできなくなるのではと思うようになる

周りの人間は彼を金を生む機械として扱った
有名になると、あの冷たい父親でさえ一見優しく迎えた
父親は再婚して別の女性との間に子どもを作り、その子どもを当たり前のように抱っこした
そんなことが、ただしてほしかったのに、、別れる車の中でエルトンの流す涙、、

エルトン・ジョンの楽曲の中では初期の叙情的な歌が好きだ
それは作詞家のバニー・トーピンの影響が大きいと思われる
有名な「Your song」よりも「First Episode at Hienton」が何度も聴いた曲で
この曲は日本人の作品なら井上陽水の「いつの間にか少女は」の世界に近い
少女が女に変わっていく、、その切なさを、バニー・トーピンの叙情的な詞と
エルトン・ジョンの声とシンセサイザーが効果的だ
この曲をカバーしてYoutubeにアップしている人が多いが、その気持はよく分かる

この映画の中で無条件にエルトンを受け入れたのは祖母とバニー・トーピンだったかもしれない
だがちょっとしたいざこざでバニー・トーピンともしばらく離れることになる

エルトン・ジョンの歌を再び聴き出したのは、多分バニー・トーピンとの共同作業が復活した頃
「アイス・オン・ファイア」のアルバムは、以前の彼が戻ってきたという感じで
「メイド・イン・イングランド」もその方向性を進化させたようで、今でも時々引っ張り出して聴く

人生にはいろんなことがある
エルトン・ジョンはこのように乗り越えた(まだ終わっていないが)というこの映画
キリスト教的には「放蕩息子」のエピソードに繋がるかもしれない

冒頭で、つらい経験をしないで穏やかな生活をしていられれば、その方が幸せとしたが
現実的には人は生きているうちには必ずといっていいほど試練の時を迎えることになる
それを考えると、本当に必要なのは穏やかな環境ではなく
試練を乗り越える力なのかもしれないと考え直したりする
もっとも、その乗り越える力の源泉となるのは、幼いときたっぷりの愛情を受けた記憶なのだろうが

最近は音楽関係の映画がブームなのだろうか、予告編に「イエスタデイ」があった
ビートルズが存在しない世界に、ビートルズを知っている人間が迷い込んで起きるドタバタを描いた作品のようだ
予告編にはその他にも「CATS」もあった
これらは楽しみにしていくことにしよう
今年は「映画の秋」となるのかも

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質問の意図(6月の山田議員の一般質問)

2019年08月28日 16時14分38秒 | 市政、市議会に関することなど

今回は新城市の話題
専門的な知識を要するのでわかりにくいと思われるが
その気になって取り組むと、とても知的なスリリング感を味わうことができる

新城市議会の爆弾男といえば、山田辰也議員だろう
不穏当発言や議事録からの削除部分が多くて、インターネットの録画中継も編集に
時間がかかり、前回6月の一般質問もようやくアップされている
それをやっと見ることができた(山田議員2019年6月一般質問

彼の質問は大きくは一点だけだった
それは新城市の新庁舎の用地内のあった物件の移転補償等に関する税金の問題で
自分のブログでも2018年10月14日の「8.02メートルの謎(仮説)と真夜中の電話
のタイトルでアップした内容の、その後のこと

新城市の入船地区に急に道路幅が8.02メートルもの道路を作るとした案が議会に上程されたが
このやたらと幅の大きな道路はある人物の物件に対する税金対策に有効なためではないのか
というのが、前回のブログの仮説の内容
この幅の大きな道路は議会で議決を受けられず廃案になった

ところが、ここで話は終わらなかった
その一年後、今の庁舎の南側の用地が分筆されて、知らない間に8.02メートルの道路
と思しきものが復活している
分筆したときに、公拡法で購入することとし、分筆作業をした二日後に
ある人物が市に購入の申し入れをしている
その結果、廃案になったにもかかわらず8.02メートルの道路ができたときと同じような
税法上の特典をある人物は手にしている
(この人物が例の行政訴訟の対象物件の持ち主)

ここまでの情報を踏まえて、6月の山田議員の一般質問を聴く(見る)ととても興味深い
そのインターネット中継はこちら→山田議員2019年6月一般質問
廃案になった道路が結果的に何故復活したようになっているのか
市は将来の土地利用のためと答えているが、、、、

この話の内容を知っているものは、山田議員の聞こうとしていることがよく分かる
しかし、そうでない人は難しい専門的な用語や、そもそも何を問題としているか
わからないために、ただただ時間が過ぎていくだけのように感じるだろう

議場にいた他の議員さんでさえ山田議員の質問意図を理解できた人は
どのくらいいたことか(明らかに理解できている議員さんは一人は存在したが、、もしかしてもうひとり?)

この問題は山田議員は引き続き取り上げるらしい
このインターネット中継は見方によってはとても興味深いので
関心のある方は、是非確認を!

 

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ムラサキシキブ

2019年08月27日 07時57分08秒 | 徒然なるままに

ムラサキシキブの花が色づき始めている
いつもなら、セイショウナゴンという花は無いのかな
と思うだけなのだが、今年は源氏物語を読んだだけに、どこか感慨深い

紫式部の名前は源氏物語の「紫の上」からきているとか
自分は子どもを産めず、愛人の子どもを育てることになり
夫の浮気に悩みながら、自分が望んだ出家も許されず一生を終えた「紫の上」

源氏物語にと登場するヒロインの中では、個人的には「かわいそうだな」と
とても気になる人物
どのヒロインが好きかで性格判断ができる占いがあるらしいが
「紫の上」を選んだらどんな答えが出てくるか少し気になる

紫式部は清少納言と同時代で紫式部日記には清少納言のことを
ボロクソに書いているらしい
それが人間ぽくて、そんなことがあると言って紫式部が情けないと思うことはない

最澄と空海も同時代の人間だったが、本の貸し借りとか弟子のことで
二人は最後の方では好ましい関係ではなかったらしい
人間世界は仲良くやっていくというのは難しいようだ
でもお隣さんとの国とはなんとか上手くやっていってほしいものだと切に思う

 

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三十三間堂にて

2019年08月25日 08時29分48秒 | 徒然なるままに

2012年に五山の送り火を見にいって、その時の京都の暑さが
サウナにいるような猛烈なもので恐怖さえ覚えたので
いくら京都が好きでも夏は行こうとする勇気がない

一番最近の京都は葵祭の見学だった
その日立ち寄ったところで印象に残ったことがある
立ち寄った先は三十三間堂で、修学旅行、ある年の成人の日以来の(多分)三回目

久しぶりに見る三十三間堂はなかなか興味深いものだった
千手観音が所狭しと並んでいるのには驚くことはなかったが
風神雷神の彫刻がそこにあるのに驚いた
俵屋宗達の風神雷神図はこれをお手本にしたのだろうか
と素朴な疑問が浮かんだ

この風神雷神と並んで28部衆像が並んでいたが、
そもそも28部衆がどういうものかわからないまま、眺めることになったが
随分肩に力の入った戦闘的な像ばかりだなと思っていると
ちょうど中央辺りに肩の線の柔らかな、女性を連想させる穏やかな表情の像が目に入った
それはホッとして緊張感から開放されて、どこか救われるような気がすると同時に
戦いばかりの男の世界だけじゃ世の中はしんどいからなあ、、、と自然と頭に浮かぶものがあった
力には力で対抗する限界、、無力に見えても祈りのほうが救いがあるのかもしれない
カラマーゾフの兄弟で雄弁な大審問官に対して、キリストは何も言わずに口づけをするだけ
ゾシマ長老もアリョーシャも言葉に言葉で応じるのではなく、ただ静かな行動(祈り?)だけで自分の意図を示した

言葉の限界を感じるとき、共感とか感情とか、言葉に出来ないかもしれないが
そうしたものに身を委ねることも大事なのではないか、、とフト思ったりする
(厄介なのはこの感情というものは、ときにとんでもない事態を引き起こしてしまう)

つまりは、28部衆のなかにあのような優しい像があって救われたということ

ところで、その日の見物客の中には修学旅行中と思われる男子学生がいた
ところどころに賽銭箱が置いてあったのだが、その男子高校生のグループの一人が
賽銭を投げ入れた
せっかく来たのだから、そのくらいはするだろうな、、と通り過ぎようとすると
何と彼は、2礼してパンパンと2拍して、また1礼をした
おいおい、、ここは神社じゃないぞ、、とおせっかいをしたくなったが
その後に続いて別の男子学生が、2礼2拍1礼と続き、
その後も別の学生が、ここではそうするものだ、、と疑いもせずに行った
ここまで自信たっぷりに行われると、それはそれで良いか、、という気にもなった
(でも彼らはいつか気づかないと恥をかく事になってしまうけれど)

三十三間堂でのこの2つのこと、
女性と思われる像の存在でホッとしたこと
男子学生が間違って参拝し、少し笑えたこと、、
覚えていることはどうも大事なことばかりでなく、どうでもいいようなことが記憶に留まるようだ
(何故なんだろう)

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気になった箇所(それでも日本人は戦争を選んだ、天皇機関説事件)

2019年08月22日 09時41分58秒 | あれこれ考えること

一冊の本のなかで、印象に残ったり気になったりするところは
全体の印象を除けば、自分の能力の範囲ではそれほど多くない
それじゃいかん、ということで最近は付箋をつけるようにしてるが
面倒なのでついつい疎かになり、
あとで、あれはどこの部分に書いてあったかな?
とバタバタすることが恒例になっている(情けない)

そこで反省も踏まえて最近読んだ(読み直した)本の気になった部分を
備忘録を兼ねて抜き出してみる
最初は加藤陽子氏の「それでも日本人は戦争を選んだ」から
映画の東京裁判でも、また先日のNHKの特番の拝謁記でも問題となった天皇の統帥権
それにつながる戦争責任に関する部分だが、実際の現実的な天皇の統帥権に関して
こんな記述があった

日清・日露の2つの戦争に関しては、開戦から始まり講和条約の締結まで、明治天皇の決断と言うよりは、元老による政治主導が優先されていました。
第一次世界大戦期になりますと、大正天皇でもなく、元老でもなく、内閣の判断によって進められる。
この点、大日本国憲法には、第11「天皇は陸海軍を統帥す」とありますが、天皇の統帥大権ついての輔弼(ほひつ)も、
内閣はこれを行いませんが、別に設置するところの統帥機関、すなわち陸軍大臣、海軍大臣、海軍司令部長(1933年からは軍令部総長)、侍従武官長によってなされるものでした。
また、宣戦講話の大権と条約締結の大権についても、憲法13条では「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」と定めておりますが、実際は、国務大臣による輔弼がなされていました。

この部分を読むと、法令上は天皇に統帥大権があるというものの、現実の世界では全部をコントロールしきれるものではないと思われるし
この雰囲気は「御前会議」でついに押し切られる様子に繋がる
天皇が「道義的責任」の言葉を口にしているのは、人としても正直な感情の現れなんだろう

この統帥権の問題はあとの「天皇機関説事件」の美濃部達吉氏への軍部の批判にも関係するが
その前に、まるっきり別の件で気になったところがあったので抜き出すと
(長野県の飯田市付近の村に満蒙に移民する人たちが多かったという話の後で)

満州に初期に移民した人々から、満州が「乳と蜜の流れる」土地であるという国家の宣伝は間違いで、
厳寒の生活は日本人に向いていないのだとの実情が村の人々に語られはじめ、移民に応募する人々は38年くらいから減ってしまった。
そこで、国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします。
このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわねば経営が苦しい村々が、
県の移民政策を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引き上げの過程で多くの犠牲者を出していることがわかっている。

この部分などは、補助金頼りの地方とその未来への警鐘のように思えてしまう
もらってしまうお金はよく考えないと怖い(悪銭身につかず?)

再び統帥権がらみの話題に戻って、今度は「天皇機関説事件」から
天皇機関説はその概念が発表されてから30年近く問題なしとされていたのだが、
ある年から急に批判されることになった
そこには美濃部達吉氏への個人的な恨みもあったようだ(天皇機関説事件から抜き出し)

この時期の日本軍人は美濃部達吉という個人に対して強い反感や敵意、恨みの感情を抱いていたのです。
一つは1930年4月22日に日本政府が締結した「ロンドン海軍軍縮条約」に関し、日本海軍の司令部(軍事作戦の計画立案などを行う幕僚組織)が
「帝国憲法に定められた天皇の「統帥権」を干犯するものだ」として強く反対したにもかかわらず、
美濃部が自分の憲法解釈を採用して政府の判断を「正しい」と弁護したこと。

ところでロンドン海軍軍縮会議とは、各国の保有する軍備に制限をかけようとする国際的な協議で採択された条約で、
日本政府は欧米各国との交渉の末に調印を決定し、1930年10月1日の枢密院(大日本国憲法の規定に基づく天皇の諮問機関)本会議でこれを可決、10月2日に批准。

海軍軍令部等の言い分
艦艇の保有数に関する条件の交渉と最終的な決定の権限は、交渉を担当した海軍省ではなく、天皇がもつ統帥権を補翼(補佐)する海軍軍令部に属するもので、
軍令部が条件を了承していないのに政府が条件を締結したのは「統帥権の干犯」ではないか、結果としてそれは「天皇の統帥権」をないがしろにする行為ではないのか、

美濃部達吉氏の言い分
外国との軍縮交渉の締結は、単一の軍事作戦の計画やその実行(軍令)とは異なり、国家の運営に関して様々な分野に影響を及ぼすものであるから、
海軍司令部には不満な条件であっても、内閣の総合的判断に基づく決定を受入れるしかない」
「たとえそれ(海軍軍令部の意向)が、上奏によってご裁可を得たものであるとしても、法律上から言えば、それは単に軍の希望であり設計であって、
国家に対しては重要な参考案としての価値を有するだけである。
内閣はこれと異なった上奏をなし、勅裁(天皇の決裁)を仰ぐことは、もとよりなし得ることでなければならない」

実際のところ法律は難しい
専門家でないものはよくわからないというのが実感
だが、国の条約締結は生活の分野にも及ぶことなので、一視点だけの判断ではよろしくなく
総合的な見地からの判断からなされるべきなのはよく分かる
(最近の日本の韓国に対する措置は、、地域の観光業への影響を考えたのだろうか、と疑いたくなる)

法律(天皇機関説)は難しいから、その道の専門家に任せておけ、、という立場が当時の政府にもあったのが
いつの間にか変わってしまい、排除されただけでなく、その結果として、それいけドンドンといった風潮に変わっていった

現在この手の本を読むということは、今現在との比較を前提としている
二度と繰り返さないためには、過去に何があったのか
何をどう間違えたのか、、
国民の共有の記憶として何が残されているか、、、

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ビスマルク
(日本人は賢者の道を歩いているか、ちょいと不安)






 

 

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今年の関心事(今のところの)

2019年08月21日 09時08分10秒 | 徒然なるままに

人は何かを考えると言うより、何かを感じて生きている
その感じたことは直ぐに忘れられるのではなく、割合と長く心に残っているようだ
今年読んだ本を眺めてみると、今年の今までの関心事がよく分かる
とりあえず最後のページまで行ったものは

去年よりは読むペースが若干速い
だが夜の読書は年々しんどくなってきている(白内障、かすみ目で)

何といっても前半の主役は「源氏物語」だった
これはつくづく読んで「得した」と感じた
読んでない人に対する優越感もさることながら、読むことによって一気にいろんな世界が広がったからで
京都に行く楽しみが増えたし、何よりもゆかりの地で楽しむ気分が今までとはぜんぜん違う
それに平安時代の奇妙な風習(結婚のしきたり、歌の交換、仏教の影響)などが、この国の人たちは
このように生きてきたのだ、、と実感を持って感じられた
物語自体も「若菜」のあたりから物語から小説に変わる気配で、宇治十帖は今の時代でも充分に
通用するドラマティックな展開と心理で、読んでいて時を忘れるほどだった
(まさかこの物語でそんなふうになるとは思っていなかった)

次は政治がらみのこと
といっても現在のリアルな誰が、、といった話ではなく、もう少し漠然とした一般論的なもの
何故人はそのように行動するのか、、といった、そもそもの部分をちょいとかじってみたくなった
そこには最近の怒りっぽいネトウヨの存在や、庶民の(?)過激な言葉に反応する傾向に対する不思議さも
気になっているからだ(世論、群集心理、従順という心の病、そして職業としての政治)

続いて「主戦場」「東京裁判」の2つの映画と、「御前会議」「226事件」「拝謁記」のNHKの良心的な番組の
影響で「帝国の慰安婦」「天皇機関説事件」この他に再読中の「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子)が
気になって仕方ないし、これはまだしばらく続きそうな雰囲気(多分今の政情に不安を感じているからだ)

本を読んだところで現実には何も行動していない、、
というのが、実生活者のこの手の人間(読書家)に対する厳しい言葉だが、
ガラス玉演技名人が象牙の塔で生きることの意味を説いたように(?)
本を読んで何かを感じるということは、それがみんなにできることではないし、そのように感じる事自体が
何らかの意味とか存在価値があるのではないのか、、、と思うようにしている

ところでアマゾンの欲しいものリストには、
「自発的隷属論」エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ, 西谷 修
「パンタレオン大佐と女たち」M.バルガス リョサ, 高見 英一 (慰安婦に関する小説らしい)
が待機している

でも気になるのはやはり今の世の中に漂う嫌な気配のこと
見て見ぬふりをしたり、無関心でいることは、、
過去から学べばアカンということになっているのだが、、、





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愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」

2019年08月19日 08時25分38秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「時間あたり、ざっと1000円だね」
そんな声が近くで聞こえた
チケット代金が4000円で、演奏時間が下の画像のようだから
だいたいそのくらいの計算になる

昨日は名古屋の芸術劇場コンサートホールで行われた愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」
コンサート形式の演奏会
上演に4日もかかる長い長いヴァーグナーのニーベルングの指環の最後の楽劇だ
演奏する愛知祝祭管弦楽団は素人の集まりで、作品は長いし編成も大きいので
じっくり時間かけて年に一つづつ上演してきた
途中、芸術劇場のコンサートホールが修理期間にあたったので「ジークフリート」は
音がデッドな御園座で行われた

4年前のたまたま見た「ラインの黄金」が良かった
コストパフォーマンスが良かったけでなく、演奏もプロにはない熱気があったし
何よりもめったに聞けない音楽を(全曲を)聴けることがありがたかった
タンホイザーやパルジファルは聞けても指環は縁がないモノと思っていたが
本当にいいきっかけとなった

さて昨日の「神々の黄昏」
長いのは承知してた
話がスイスイと進まず過去を説明するダラダラと長い会話があったり、
男と女の言い争いも少しばかりくどくて、うんざりするところもあったが、
音楽に合わせての証明が光の色、その明るさの強弱がとてもその時の雰囲気を表して
それはもう一つのライトモチーフのようだった

昨日の演奏で強く印象に残ったのがブリュンヒルデを歌った人(基村昌代さん)
声が出るだけでなく、性格描写とはそういうことを言うのだろうか、、、と感じさせるような
歌い手と登場人物との一体化されたようで、ブリュンヒルデの怒りや悔しさ、喜び等が
聴いている方に感情移入ができて、最後の自己犠牲のところは圧倒的な必然性をもって聴くことができた
(シークフリートとヴォータンに対するものと)

この歌とか声による性格描写で、不意に思い出したのが劇団四季の「エビータ」のヒロインのこと
「アルゼンチンよ泣かないで」はしっとり歌い上げる曲だが、エビータ自身は上昇志向の強い
いわば気のつようそうな女性、その気の強そうなところは劇団四季のきれいな歌声(声の質)では
感じられなかった、、エビータはもう少し癖のある人のほうがリアリティがあったかな
などとぼんやりと頭に浮かんだ

音楽を聴くということは演奏の比較をしているのか、
それとも作曲家の意図したものを探そうとしているのかと考えることがあるが
何回も聴く曲は自ずと演奏の比較ができるが、めったに聞けない曲はどうしても関心は
作曲家の意図とか考えたことの方に興味が湧く

ヴァーグナーのライトモチーフによる音楽
昨日はその音楽が、まるで「映画音楽」のように思われた
音楽が過度に表に出るのではなく、物語の進行に対して効果的な説明をするような、、、そんな感じだった
会場で手渡されたパンフレットの指揮者の文章の中にも、それを意図していると言うような表現があったが
多いに納得した次第

それにしても、驚くのはヴァーグナーの馬力
全部を上演するのは4日間かかる
それだけでなく彼は中断をはさみ指環の作曲に20年近く時間をかけてきている
それだけで呆れるが、20年かけても統一感のあるようにした仕掛けに驚く

ニーベルングの指環は「ラインの黄金」から始まるが、指環の物語のそもそものきっかけが
アルベリヒがラインの乙女にからかわれ、その仕返しにラインに沈む黄金を持ち去って
指環を作ったことからスタートする
この指輪は愛を断念した者が持つと世界を支配する力を持つとされる
この大事な指環をアルベリヒはヴォータンの策略により失うが、そのときに指環を持ったものは
死に迎えるとの呪いをかける

この最初に登場したアルベリヒが最後の最後になってまた登場する
アルベリヒ本人も登場するが、より重要な人物はアルベリヒの息子としてのハーゲン
結局彼が長い間の仕返しをすることになる
つまりジークフリート(ヴァータンの孫)の殺害というかたちで

ニーベルングの指環は長い
とても長い
長い作品は小説でもそうだが、最後に独自の達成感とかカタルシスがある
神々の黄昏でも今まで聴いてきたライトモチーフがいろいろ散りばめられて
過去を振り返ると同時に、きっかけとなったラインの乙女のライトモチーフも現れる
そして、最後に、、、これで長いお話は、、、おしまい、、と余韻のある終わり方をする

この終わり方、とてもいいのだけれど、より効果的に感じるのは4つの物語を
時間を開けず短い期間で聴くことだろう
ニーベルングの指環の世界にどっぷりと浸って、記憶が自分の内部に蓄積され
それが忘れられない状況で最後を迎える
それが一番の聴き方なんだろうと思う

ところで、先日の中日新聞の広告にMetライブビューイングアンコール上映の広告が載っていた
なんと「ニーベルングの指環」が連続4日間で上映されるようだ
一気に聴いたほうが、、と思いつつ、その馬力は今はないかな、、ということで
ただいま検討中




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葵上(薪能)

2019年08月17日 19時23分40秒 | 徒然なるままに

よくよく今年は源氏物語に縁があるのかもしれない
今日、新城文化会館で行われた薪能のメインの演目が「葵上」だった

葵の上は光源氏の年上の正妻で、光源氏との子どのである夕霧を生むときに
生霊に祟られたようになって苦しむシーンが原作に有るが
この生霊の正体は光源氏の愛人(?)の六条御息所で
賀茂祭で車の戦いで恥をかかされた恨みと嫉妬がなせる技

幸い(今年は)物語を知っているので、能の「葵上」も舞台上の言葉が聞き取れなくても
わからなくても大体の内容は推察できる

でも内容は少し源氏物語とは少し違っている
最初は悲しそうな涙を流す姿として生霊は現れるが
しばらくすると般若に面を変えた六条御息所が登場し嫉妬とか恨みを連想させる
ここで修験者と生霊との戦いがあって、声、鼓、笛によって熱っぽい舞台が繰り広げられる

やっぱり鼓と笛の音は好きだなと、またもや感じたのだが
不意に文化会館のような室内よりも篝火の焚かれた屋外の闇の中でしたほうが
幻想的とか雰囲気があっていいかもしれない、、とも感じたりした
10月の富永神社のお能の上演は虫の声が聞こえるが、その雑音すら必要不可欠なものに思えてしまう

能のタイトルは葵上だが、葵の上は場面に登場しない
ただ舞台の前の方に葵の上を象徴する衣装が置かれているだけ
能は説明しすぎない、見る方の想像力を期待する芸術で
楽しむには少しばかり約束事とか知識を必要とするかもしれない
(踊りの所作に意味があるようだ)

そこで思ったのは、この葵上を楽しんだ昔の人達は源氏物語の「葵の上」のことを知っていたのだろうか
知っていたとしたら、やはり源氏物語を読んでいたのだろうか
昔の人は「源氏物語」は教養とか当たり前の知識として楽しんでいたのだろうか
でも能好きとは言え、織田信長が源氏物語を読んでいたとはイメージしにくい
ただ能の演目としての「葵上」を楽しんだのだろうか

能もオペラ上演のようにサイドに字幕があれば、今の人間にももう少し楽しむことができるかもしれない
狂言の会話はは何となくわかるが、能はよくわからない(予習して見に来てということかな)


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アビーロード(もう半世紀)

2019年08月15日 10時02分45秒 | 音楽

ビートルズの「アビーロード」のリリース50周年だそうだ
それを記念しての限定販売の広告が目について仕方ない
すでにアビーロードは二枚のLPを所有している
一枚は普通に東芝EMIのもの、もう一枚は小池レコードから手に入れたもの
感覚としては小池レコードのほうがより鮮明なナマっぽい音がしている

今朝、B面の方を聴いた
本当に凄いなとつくづく実感
初めて聴いた時の興奮を思い出す

ビコーズの静謐なコーラスはロックだとかの世界以上と思えたし
ミーン・ミスター・マスタードから始まるメドレーでは
ポリシーン・パンの畳み込むような切羽詰まった感じから急にメロディアスな
シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドーに繋がるところなどは
泣きたくなるほど興奮した
そして、子守唄のゴールデン・スランバーから歌いやすいキャリー・ザット・ウェイトに
なるときは、思わず声を張り上げて歌った
またユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネーのメロディが回帰するところは
なんと統一感があって効果的なんだろうと思ったし、
ジ・エンドのギタープレイのバトルは、この音楽がロックという分野と感じさせる

そしてジ・エンドの歌詞がいい
And in the end
The love you take
Is equal to the love you make

この歌詞はなんとなくジョンぽいがポールのつくったもので
映画「イマジン」で、イメージ的にはジョンぽいので勘違いしていたファンが
ジョンに「キャリー・ザット・ウェイト」のことを聞いたら

「あれはポール作ってて俺は関係ない、、、」みたいなことを言ってたシーンを思い出した

歳を重ねると聴くところが少しづつ変わってくるかもしれない
今回はリンゴのドラムがリズムを刻むというよりは歌うパートの一つみたいな
また効果的・印象的な音を出していると今更気づいた

この音楽を作った時のビートルズのメンバーの年齢を考えると、少し驚きを覚える
解散時がジョンが30歳、ポールが28歳、、
このあとのLP(作成は早かったらしいが)「レット・イット・ビー」は
モーツァルトの魔笛とかピアノ協奏曲27番とかクラリネット五重奏曲を連想させる
どこか寂しい感じで純度の高い音楽は、とても30前の人間の音楽とは思えなかった

で結局のところ、誘惑に負けて50周年記念販売はLP3枚組をポチッとやってしまった
1枚目は今までのと同じもののリマスター(?)
あとの2枚は製作時の別テイクのものが入ったもの
マニアックで好き者しか意味はないかもしれないが、これなどは指揮者のリハーサル風景のようで
それなりに面白そう
頼んでしまったから、もう来るのが待ち遠しい、、

ところで、ポールのライブの締めはこのアビーロードのゴールデン・スランバーからジ・エンドまでの
メドレーとなっている(2013年の東京ドーム、2018年のナゴヤドーム)
本当にアビーロードのB面は、、、凄い!




 



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「東京裁判」を見て

2019年08月13日 06時07分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パンフレットを購入するなどということは珍しいことだった
いつもなら見向きもしない
でも今回はいろいろ確かめたいことがあって1000円の出費を決心した(大げさな)

名古屋シネマテークで上映された「東京裁判」
上映時間は4時間を超え、途中で休憩タイムが挟まれる
30分ほど前に会場に着いてチケット購入
良い席を確保しようと思ったら、何のことはない席はだいぶ詰まっている
良い席どころじゃない、、とりあえず座るところを確保しなきゃ、、と最後部の席で我慢することに

映画は古い画像を4Kデジタル・リマスターを施したもので、想像以上に見やすいものだった
名前はよく知られている「東京裁判」
だが、その中身はよく知らない(自分は)
不公平なものだったとの一部の人の意見もあるが、とりあえず映画の流れに身を任せる

西欧の裁判の形式が当時の日本には珍しかったようで、しかも裁判官は外国人、被告は日本人で
言葉のやり取りでなかなかうまく進まない
(同時通訳の機械も数回経てから導入されたとか、また通訳への不満もあったようだ)
ここで興味深かったのは被告には弁護士がつくが、この弁護士がアメリカ人で
敵国として戦った相手に対して、法の精神に則り、心底被告の立場で議論を挑んだことで
「公平であること」とはどういうものか、、と考えさせられた

裁判は平和に対する犯罪、戦争に対する犯罪、人道に対する犯罪、
いわゆるA、B、C戦犯に対する事実確認からスタートする
(戦争に対する犯罪の戦争の法規または慣例の違反などという概念自体が当時の日本人の間にあったかどうか
  と映画にはコメントが入った  多分、何も知らなかった素人集団が大半であったと想像される)
A級の平和に対する犯罪は新しい概念で、その概念を用いて過去を裁くというのはいかがなものか
そもそも戦勝国が敗戦国を裁くことが公平であり得るのか、、との疑問があげられたが、裁判長は取りあげず
裁判は進められた
平和に対する犯罪とは戦争を起こしたこと、計画したこと、止めなかったことに該当して
この一つ一つを丁寧に(戦争への過程を)事実確認をしていく
満州への進出(それは植民地政策ではなかったか)とそこで起きた(起こした)事件
戦争に至るまでの会議の記録(御前会議とか)
宣誓布告なしでの真珠湾攻撃が奇襲作戦だったのか否か、、
そして天皇の戦争責任は、、、

これらは現代史を何故かよく学ぼうとしないこの国の教育方針(?)で
よくわからないことが多いが、折につけ読んだ各種の本で、だいたいのことはわかる
そして先日のNHKスペシャル「御前会議」を見たばかりなので
戦争に至るまでの経過とか裁判で扱われている内容がわかる
天皇に結果責任として戦争責任があるか、統帥権があるというものの結果的に認可するだけの天皇に責任はあるのか
そのあたりは国民としても難しい判断かもしれない
この難しい判断は、裁判の主役となる裁判長や検事の間でも分かれていたようで
太平洋戦争後の複雑な世界(共産主義国家ソ連・中国の台頭)を前にして、日本の国民感情を踏まえた現実的な統治とか
その後の彼の国等への対応を考えれば、責任は負わせない方向に進めたがっていた方向に舵は取られたようだ

裁判は公平なものと認識されそうだが、現実はその時の社会情勢に大きく左右される
自由主義諸国対共産主義諸国、核兵器保有国の存在、エネルギーの問題
これらは通奏低音のように裁判の判断に影響していく
人間社会で起きていることは、純粋な条件下での科学の実験とか思考に沿わないものだ

この映画の冒頭、被告人に対し罪状認否が行われたが、被告人全員が「自分は無実である」と宣言した
彼らの立場に立てば、そうだろうな、、と思いつつも、それならばあの戦争は誰の責任だったのかと少し怒りを覚えた
よく日本は「誰も責任をとらない国」と言われる、最終決定をしたのが誰なのか曖昧なシステムになっているせいで
裁判などの因果関係を基に考えていく硬直しているシステムでは、日本人のメンタル(傾向)に追いついていか無いのではいか
不意にそんな気がした

映画の最初の部分で、戦争に対する概念の対立、法的には戦争は禁止されていない、、、などという下りは呆れてしまったが
それらは法の専門家が頭でっかちになって言い出している概念で、実定法ではそのようなものかもしれないが
生き延びる方法を頭で考えるサピエンスとしての存在の人類が選択する自然法的な考えとは相容れない
精緻に定義しているものよりは、なんとなく違っている、、と感じているものを大事にする世界が必要と個人的には思う
そのための判断基準を磨くために美とか芸術がある(世界のエリートは何故「美」意識を鍛えるのか、という本があった)

この映画には「南京事件」の映像も出てくる
犠牲者の人数の違いはあるようだが、そこで行われた残虐なことは間違いが無いようだ
(これは「南京事件を調査せよ」清水潔の調査報道でも明らかにされている)
あの時代はみんなが狂っていた
そして、その狂っていることを狂っていると言えなかった時代
それは「空気」となって支配する

話はいきなり飛ぶが、名古屋までの電車のなかで読んでいた本「従順という心の病」 のなかに
ある支配されている世界の中で、攻撃的な思想は賛同して更に先鋭化するグループがあり
次になにも感じず見て見ぬふりをする多くの人がいて、3%の人たちは反対の意見を表すとあった
これを今の日本に置き換えると、利権がらみで得する人たちや、
自分の不安な存在根拠を確かめるために弱い者、他の民族の人を過度に貶める人たちの存在、、と、
それを見て見ぬふりをする多くの人たち
そしてSNSでそれらの行動を批判する人たちの存在を直ぐ様思いうかべることができる

1%の裕福な人が大半の富と、最終的には政治の方向性を決めている現在
でも同様に3%の人たちが、なにか変だぞとか、おかしいぞと声を上げるのも現在
その真中にいる人達がどちらにシンパシーを感じるか
それが問題となっていくが、その判断材料としての「過去の歴史」の把握は必要と思われる

ただ現実の歴史を探っていくと、欧米諸国のえげつなさも目につく
歴史は単純な出来事によって一直線に進むのではなく、「応仁の乱」にあったように
いくつもの要素が複雑に絡み合って解けない状態になってしまうものだと実感

ところでこの「東京裁判」は昨日の名古屋の劇場は多かったが、どのようなタイプの人が見に来ているか
ところどころ耳にはいる会話では「主戦場」の言葉が聞かれた
タイプとしては「主戦場」を見たいと思う人が「東京裁判」も見たいと思うようだが
願わくば「主戦場」の主張と反対の立場の人、いわゆる歴史修正主義者とかネトウヨと言われる人も
我慢して4時間の苦行にトライしてほしいものだと思う

東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁く不公平なものだったと言われる
でも「敗戦」という事実は、具体的にはこういうものだ(こういう事態を招く)ということ
加藤陽子氏の「戦争まで」だったかには、敗戦ということは「憲法を変えられてしまうこと」とあった(ように思う)

ところでせっかく1000円出して手に入れたパンフレットだから、しっかり読まねばもったいない
興味ある人物は「重光葵」
なにか関連本でどういう人物であったか、調べてみよう



 

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