パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

熟睡のための方法

2018年11月30日 08時55分42秒 | 徒然なるままに

残念ながら朝まで一気に寝てしまうということはなくなった
月木の朝は近所の小学生と(あいさつ運動で)校門まで歩くようにしているが
度々集合時間に遅れている子がいて、彼はいつも寝坊してしまうのだそうだ
聞いてみると寝たのは10時、起きたのは7時25分、そこまで一度も起きずに眠りっぱなしという

それと比べて我が身は、最近は必ず一度は覚ます
目を覚ましてもまたすぐに寝られるのは良いが、朝起きたときぐっすり寝た感覚はあまりない
寝るのにも体力が必要で少しづつ低下しているのだと感じたりする

ところが時々、よく寝たと実感するときがある
振り返ってみるとそういう時は、いつもよりお風呂に長く浸かっていた(普段はカラスの行水に近い)
効果に根拠はないが、いつもと違うことはそれしかないので、これが利いていたのと思うようにして
暗示をかけるようにしている

もう一つ眠れたと感じるための方法がある
それは音楽をしっかり集中して聴くということ
先日は秋の季節の定番、ブラームスの4番の交響曲をフルトヴェングラー指揮の1948年の演奏のを聴いた
フルトヴェングラーが生み出す弦のズシーンとした太い音、彼自らは音は出していないのに気合が入っているという表現しかいいようのない熱気、
明らかに夢中になって演奏している人々の姿が連想できて彼ら演奏者にとってスリリングで楽しそうなこと
(第三楽章の金管のメンバーはのりにのってる感じ)
音楽はフレーズと楽器間との会話であったり、主題の展開の時間的変化とか、、そういうものを真面目聴くと感じられる
(だから音楽と向かい合うのは、聞き流すのはもったいなくて、集中できそうな時しか聴かないようにしている)
「すごいなー」といつものように自然に出たことばとともにレコードの針をあげる
フルトヴェングラーの演奏では第4楽章の終わり方は必然と思ってしまうが
他の指揮者では「変な終わり方」としか思えないのはつくづく不思議だが、
とにかく満足した音楽経験をしたのだった
翌日しっかり眠れたのは、きっとこの音楽体験のせいに違いない、、と勝手に思い込んだ

熟睡のためには自分の場合は「お風呂」と「音楽」をうまく使えば良いらしい
(音楽はただ聴いているだけではなくて、参加するように集中しないとダメだからいつもうまくいくわけじゃない)
浅い眠りに悩んでいる人たちは、どんな工夫をしてるのだろう?

 

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怒り、諦め、覚悟(ショック・ドクトリンを読んで)

2018年11月28日 09時29分53秒 | 

月曜日、急に鼻血が止まらなくなった
最初はそのうち止まると気楽に構えてきたが、いつまで経ってもタラタラと落ちてくる
そういえば、血液サラサラの薬を飲んでいたことを思い出した
身体のあちこちに知らないうちに青あざができてることも珍しくなく
こいつのせいか、、と少し情けなくなる

身体が縦の生活よりは横になっている方が鼻血は出ないだろうと腹を決めて、
寝転びながらの本を読むことにした
手にしたのは「ショック・ドクトリン」ナオミ・クライン著

寝転がって気楽に読める本ではなかった
危機的なショックが起きた時、人は判断力、思考力を失う
個人の例では拷問を(これがあまりにも効果的な方法が書かれていたので、そのことにまずは驚いたが)
された人間は、どのように人格を失っていくかが紹介されていて、これらは現実に使われているようだ
ショックが社会に関する時、例えばハリケーンや津波、政治的な対立(戦争)などの後には、人々はやはり
判断力も思考力も失う
この茫然自失の機会を逃さずにアメリカのシカゴ学派の唱える市場主義経済改革(大胆すぎる民営化など)
を進めようとするのが惨事便乗型資本主義で、この例として南米チリ・アルゼンチン・グアテマラが紹介される

その進め方は、およそ民主主義とはかけ離れた強権的な要素を持っている
もちろん表向きはそんなことはなく、言葉の上では何々のために、、、云々、、とまっとうな表現が表に出ている
しかし、この本は批判的な視点からのせいか、まっとうなやり方を否定するエゲツない方法
(強権的な方法・一見合法的とも見られるが実はそうではない方法)がこれでもか、と挙げられている
そして結局儲けるのはグローバル企業で、国民の間に所得格差を生んでいく

これらの挙げられた例が本当かどうかはわからないが、読んでいた時抱いた感情は、最初は「怒り」だった
ドサクサに紛れて私腹を肥やそうとする意地汚い資本主義の連中に対する怒り
次に感じたのは、それでもこの惨事便乗型資本主義を一見合法的に実行してしまう詭弁とか、現実的な支配力に対する「諦め(無力感)」
どんなに正当な普通の怒りを持ってしても、現在を支配している一部の人間たちのトータルな権力にはとてもかなわないような諦め思い

だから、読んでいる時は怒りと諦めがつきまとって少しつらいものとなった
が、人は痛い目をしていろいろと覚えたり賢くなっていくようだ
本の最後の方には惨事便乗型資本主義でボロボロにされた南米の国のその後が紹介されれている
彼らは惨事便乗型資本主義に実施と、それによって引き起こされたマイナス面(多すぎるが)
その反省を踏まえて今度は安易にIMFからの借金をしなかったり無闇矢鱈と事業の民営化を図らなくなった
そこには「自分たちのことは自分たちでなんとかする」という覚悟のようなものが感じ取られ
その姿勢が結局は今はなんとか持ち直していけるようになりつつあるというのだ

ピンチになった時、ピンチが大きい場合は、特につい誰かに何かに手助けをしてもらわないとと考えてしまう
でも安易にその手に乗ってしまうと、、ひどいことになる、、
自分たちのことは覚悟を持って自分たちでなんとかしていくように、、
手助けも、、よく考えた上で要請するとか、、
そのように考えたほうが良いよ、、と示唆するがこの本というのが自分の現在の認識

それにしても、数々のエゲツないやり方は本当に頭にくる
それは資本主義の性格によるものか、それとも無限の欲を持つ人間という存在が生み出すものか、、
(自分がお金持ちでなくて、欲深くなれずにいられるのは、、物足りないかもしれないが、悪いことではなさそう)

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学生さん世代の社会的問題に関する知力・洞察力について

2018年11月26日 09時37分45秒 | あれこれ考えること

毎月第4日曜日は新城軽トラ市
お決まりの買い物もあるし、なんとなくザワザワしてる感じが好きで
足を運ぶようにしているが、すぐには現場には行かなかった
その前に出かけたのは、新城市の文化会館小ホールで行われた「公共政策フォーラム2018in しんしろ」
大学生による政策コンペで「若者活躍社会の拡大」がテーマ
前日の24日は予選、日曜日は勝ち残った6チームによる決勝戦
プレゼンタイムは15分、その後審査員等から質問を受け答える時間が設けられている

勝ち残った6チームと発表テーマはは
専修大学石川ゼミ マイルドヤンキーが活躍するまちづくり
愛知大学鄭ゼミ 若者議会、その先へ!さらなる発展を試みる
明治大学木寺ゼミ Station S
日本大学中川ゼミ 討議型世論調査と小規模コワーキングスペースの創出 実証分析と経済実験による提案
愛知大学西堀ゼミ 小規模農業が地域を活性化する 新城市における農業の新しい働き方モデルの提案
北九州市立大学楢原ゼミ 北九州リンクールプランによる若者活躍社会の構築 愛知県新城市の若者議会から見えてきたもの

これらが「若者活躍社会の拡大」とどう結びつくかパッと見て想像できないし、正直なところさほど面白そうとも思えない
それでも自分が足を運んだのは、少しばかり意地悪い「確かめたいこと」があったからだ
それは「この世代の人間がどのくらいの知力・洞察力があって、人間が織りなす複雑な社会生活を捉えているか」ということ

一般的には「若者の政治離れ」が叫ばれている
今回このフォーラムに参加するメンバーはそうい人たちとは違う民度の高い人間と思われるが
このひとたちの思考の深さや広さ、柔軟性や論理性みたいなものが、自分の目からはどのように感じられるかを実感したかった

新城市では「若者議会」という16歳から29歳の若者が参加する組織があって、
そこに年間1000万円くらいの自由に使える予算を与えられて、
その使いみちを若者議会で検討したのち市長に提案して、ステップを踏んで実行に移す事になっているシステムがある
これが新城市の画期的な他市に誇る試みとされているようだが、へそ曲がりな自分には一方的に良きものとは考えられでいる
若者議会に与えられている予算が約1000万円だが、その若者会議を開催する費用が同じく1000万円くらいかかる
会議に1000万円使って1000万円の使いみちを考える
これはいくらなんでもバランスが悪すぎないか、、と思えてしまうのだ

若者議会に対して自分と同じような考えを持つ人は少なくない
しかし、そこで大きな声で反対の意見を言いにくい雰囲気があるのは「若者の政治参加の機会を奪うのは良くない」
という不文律のようなものがあるからだ
「若者には機会を与えて、若者にしかできない発想と実行力」に期待することは無駄ではないはずだ
それに若者議会は参加したメンバーのその後の生き方へ(社会との関わり)の良いきっかけとなる
だから、そういう機会はできるだけ与えるべきだ、、というのが表立って反対しにくい理由の一つだ

しかし、それは若者議会というシステムでしか実現されないか
もっと現実生活に根ざした普通の生活の中からは生まれえないものか
つまり若者にスイッチが入る瞬間はもっと別の方法でも提供できるのではないか、、と思えて仕方ない

そこで昨日の確認事項に話がつながる
この世代の人間(学生さん)たちはどのくらいの思考力をもっていて、果たして1000万円の予算を与えても良い存在か
それを確かめたかった

そこで結論、やはりというか、「若いということは、若い(若すぎる)」ということ
プレゼン技術や分析方法などは慣れがあって、どのチームもそれなりにこなしているように見えたが
肝心な「さてどうする」に部分になると一気に迫力は低下する
いやデータ分析し把握した現実すら少し違和感がある(自分にとっては)
彼ら(学生さん)の現実はある意味理想化した視点であるので、
より年上の人間の様々なことを経験したのち、しょうもない人間という存在の考察とか、惰性に流されやすく
見えも張りたい個人の人としての視点の欠如、、つまりは人に対する洞察力が欠けているように思えてならない

だから全体的にひ弱な提案となっている
もう少し別の言葉でいえば、昨日の提案は「他人ごとの批評家」のような一見賢そうな人間が行うものに近かった
そこには切実感がない、、
もっともこれらのテーマ自体が自分たちに生活に切実なものでなかったこともあるかも知れない
同じテーマでも市職員がなんとかせねば、、と考えるのと、学生さんがシミレーションのように学習の機会として考えるのとは大きく違う

このフォーラムに参加した学生さんは18歳から 22、23.24歳(?)
若者議会は16歳から29歳だが、現実は高校生が多いメンバー構成になっている
この世代の実力は民度の高いとされている中でも、だいたいこのくらいなんだ、、とわかると
今度はいくら若い人に機会を与えることが必要だとしても、いきなり1000万円の予算を与えるというのはちょいと無謀ではないかと思えてしまう

そこで、フト気づいたのが被選挙権のこと
衆議院議員、県会議員、市町村長、市町村議会議員は満25歳以上
参議院議員、都道府県知事は満30歳以上
という条件
これはなかなか現実的な考え方から生まれたものかもしれないということ
数学的な思考と違って社会に関する事柄の把握は人生経験を必要とする
25年、あるいは30年を経た人間が下す判断は、学生さんの判断よりは余計なものへの視野とか気配りが存在する
これがブレーキをかけて若者にはまどろっこしいと思われても、トータルではより良い結果を生み出すだろうとしたのは先人たちの知恵

若い人が若すぎるとか、高校生でもやたらと子供っぽく見えてしまうこの頃
会う人会う人が年下ばかりになりつつある現在
次の世代は彼らのものと思いつつも、、、心配事は絶えぬ日々が続く

ところで、昨日のコンペ、結果を確認せずに軽トラ市の方に移動
さてどこが勝ち上がったのだろう、、





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講演会と討論会(スクープ野郎の逆襲)を聞いて、思い浮かんだこと

2018年11月25日 08時08分52秒 | あれこれ考えること

現在進行中の裁判でお世話になっている弁護士さんのお誘いで
昨日(11月24日)、刈谷市で行われた「講演と討論会」に出かけた
テーマは「スクープ野郎の逆襲」〜市民とメディアを考える

これは2018年10月1日「法の日」記念行事の一つで愛知県弁護士西三河支部が主催
講師は高田昌幸氏と秦融氏の二人のメディア側の人間
高田氏は北海道新聞記者時代に北海道庁の不正経理問題に取り組んで新聞協会賞を受賞した人物
秦氏は現在中日新聞の編集委員で今朝の中日新聞にも記事が載っている

一部は講演
二部は討論となったが、自分にはよくある本質と関係のないことが記憶に残った
それは「新聞記者は最初はスポーツ担当の方が良い」という言葉だ
秦氏は最初に所属したのが中日スポーツの記者で、こうした例はアメリカでは多いそうだ
最初はスポーツ記者が良いとされる理由は、(試合後の)興奮状態の中で記事を
冷静沈着に簡潔にまとめる能力と締切時間に間に合う能力が要求され、自然と
文章作成技術が身につくからだそうだ
ところが最近は一般的には新人記者さんは警察周りが多く、警察から如何に内緒の情報を聞き出すかが
重要な技術となっていて、求められる技術の質が変わってきているらしい
このあたりは、最近の記者クラブ所属の記者さんの報道ぶりを見聞きすると、なるほどと納得してしまう

討論の場面で、資料として「マスメディアに対する学生アンケート結果」が示された
名古屋文理大学情報メディア科、栗林教授と東海学園大学北出教授の協力で大学生84名の回答を得たものだ
この中には、今の時代(の学生)を反映するような答えが(気になっていることが)2つあった
その一つが、マスメディアの報道に関する関心が低くなっているが、その原因として考えられるものは何か?
の問いに「批判する報道に接したくない」との答えが、ネット・SNSで充分とするに次いで多かったことだ
内容のいかんを問わず、批判しているように感じられるものを(それだけで)嫌うような雰囲気を今の若者に対して感じている自分は
やっぱりそうか、、と感じるのだが、つくづく今の若者はちょっとした摩擦でも嫌がるかのようだ

この傾向は、もう一つの気になった問の答えにも反映されている
憲法改正とメディアでくくられた問の中では、「中立性を確保してほしい」「偏った政治報道はやめてほしい」とあった
討論の壇上にいる人間にとっても、またそれを聞いて(年齢を重ねて)いる自分らにとっても「中立」という存在自体が
そんなものは幻想に過ぎないと思えてしまうのだが、学生たちの間には確固とした「中立」という現実があるかのようだ
その「中立・公平」が現実に存在しうるのか、認識論を踏まえて哲学的に突き詰めて考えているわけではなく
なんとなく、そのほうが良さそうだ、、との安易な考え方・突っ込み方しかしていないような気がしてならない
つまりは、今の若いもんはよく考えずに、、、とひとこと言いたくなってしまったということだ

批判的な報道は見たくない
(有りもしない)中立を確保してほしい
中立ということさえ、対立する討論のなかで見つけられたり発見されるものと思うのだが、そのような内的な経験をすることもなく
響きの良い「中立」と言う言葉を安易に使い、使われている現代、、それはどことなく知性の劣化を感じさせる
(とおっさんは思ってしまう)

今の時代に欠けていることは、じっくり自分の頭で考えること
自分の考えすら疑い、人に対して自分の主張を通すことに正当性があるかどうかを考えたりすること
その上で中立とか公平とか批判の是非が出てくると思うのだけれど、、、どうも、いまの若者にはそうではないみたい
この傾向は全世界の若い人に見られる傾向なのか、それとも日本の社会においてのみ見られるだけの傾向なのか
もし後者だとしたら、ちょいと心配事が増えてしまう、、

ということで、よくまとまらない話
でも最初はスポーツ記者が良いというのは、面白かったな、、


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誰が今読むべきか「戦争と新聞」

2018年11月23日 08時44分45秒 | 

読んでいて少しばかり落ち込みそうな気分になる
その先の歴史がわかっているが、それでも読んでいる最中はなんとかならないものか
と期待してしまっていた

前の戦争(日清・日露も含む)に関してメデイア(新聞)の関与の仕方・その変化・表現などが解説されている
無謀な戦争を煽ったのは右翼だけでなく、新聞のその姿勢にもあったかも知れない
新聞も商売、どのように書けば売れるか、その誘惑からはなかなか抜け出せない

新聞紙条例、検閲、右翼の脅し(テロ)などなどで、本来の活動ができなかったのはわからないではない
でもあまりにも時の権力の軍門に簡単に下りすぎで、それは現在のこの国の姿を思い出させる

この本は田舎のリタイア組の人間が腹を建立てて読む本ではなくて、メデイアに関わる現役の人間が
自戒を含めて読むべき本だと思われる
馬鹿な経験を繰り返さないために、それぞれが何ができるか
何をしなければいけなかったのか
そうなってからでは遅すぎるので、何をその兆しとして感じ、どう伝えるか、、

最近では新聞よりはテレビが世論形成に関わっている
そのテレビメディアが、ここに書かれているような「どこか浮かれた」気分に煽られていないかとても心配
兵器の質量とも差があり、しかも食料も不足の状態ででかけたロシア出兵の大失敗は
意図的に国内には知らされていないし、都合の良い表現に置き換えられていて、一般市民は正しい評価のしようがない
戦時中の大本営発表も似たようなもので、今巷に存在する情報はこれに似ていないかとの不安がよぎる

正しい正確な情報こそが、判断の基準となるのだがこの国ではそれが平然と蔑ろにされている
当たり前の正しい情報を伝えるという意識を持ち続ける、、
これが官僚も報道陣もできていないとすると、、その先は、、、、

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ロシアの風景

2018年11月19日 08時43分47秒 | あれこれ考えること

羽生結弦の原点はロシアにあると自ら述べていたのを見て
不意に自分もそれに近いところがあるかも知れないと思い出した
もう十年以上前になると記憶しているが、ショーン・コネリーの主演する映画
多分「ロシア・アウス」でロシアの風景が映し出された時に、急に懐かしでいっぱいになった

ロシア(当時のソ連)には行ったことがある
はじめての海外はソ連だった
横浜から船に乗ってウラジオストク、ウラジオストクからハバロフスクへ夜行列車、ハバロフスクからモスクワへ
でも40年以上も前のこと、あまり覚えていない
覚えているのはモスクワの町に「綿毛」が飛んで、それがまるで雪のようだったことと
泊まったホテルでツアー客みんなんで食事している時に、近くのテーブルに結婚式の披露宴が2つばかりあって
新郎新婦のキッスの時間をそれぞれ観客が煽って競ってカウントしていたことだ
当時はソ連は陰険な国だと思っていたが、一般の人達は案外そうでもないぞ、、と実感した瞬間だった

しかし、ロシアが原風景のように懐かしい思いをさせたのはドストエフスキーのせいだ
「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「「白痴」「未成年」「悪霊」高校時代は通学の電車の中でこれらの本を読み漁った
そしてその影響は、饒舌なドストエフスキーの小説の登場人物の話っぷり・文体が当時書いていた日記に圧倒的に反映されていた
特に「カラマーゾフの兄弟」はその後、大学時代に映画で見たし、芝居でも豊橋で見た
この時の映画の風景、暗い雪の風景のロシア(ペテルブルク)が自分の頭の中で作り上げたイメージと同一化して頭の片隅に残っていた
その光景が「ロシアハウス」を見た時に懐かしい思いを引き起こしたに違いない

死ぬまでに見たい世界の風景というのがある
ミーハー的な視点では、ノルウェーのフィヨルドとかが第一に頭に浮かぶが、このロシアの風景も見てみたい
実際に行ったモスクワを追体験するのと、行ったことはないが頭の中でイメージとして作り上げたペテルブルク
もしかしたら原風景かもしれないロシアの風景、今ならどのように感じるか少し興味がある

どうも最近は過去を振り返ることが多くなっているようだ
でも思い出すことは、ボケ防止の予防にもなるという説もあるし、悪いことばかりでもなさそう

毒にも薬にもならない、どうでもいい話
※最初に着いたのは、ウラジオストクではなくナホトカだったかも知れない
とにかく寂しい感じの場所だった

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学習発表会と歌舞伎

2018年11月18日 18時05分43秒 | 徒然なるままに

昨日は母校の小学校の学習発表会
そして今日は「新城歌舞伎」を文化会館まで見に行って
この2日はまさに文化の秋、芸術の秋真っ盛りといったところ

学習発表会は無邪気にひたすら大きな声でセリフや歌を表現する1年生の可愛いこと
数年の差なのに一気に歌の表現力が増してくる4年生
シリアスな内容も自分のものとしているような6年生(演目は「裸足のゲン」)
あいさつ推進運動で近所の子どもたちと月曜と木曜の朝は校門まで歩いて行くことなっていて
気まぐれな子どもたちも気分が乗れば登校中は話に付き合ってくれる
名前も覚えたので、お誘いも受けたことだし、実はそんなも期待しないででかけた
ところがいい意味で期待はずれ、とても面白かった
何よりも見終わった後の印象が良い(6年生のは少し違うが)
心が疲れていないというか、ひねくれていないというか、とにかくまだ妙なものに染まっていない
そうしたところがダイレクトに感じられて、とても楽しかった

今日の歌舞伎は午前10時半から

知り合いからチケット購入を依頼されて、付き合ったものでそれほど期待したものではなかった
ところが、これも(今日も)とても面白かった
この地元の素人が行う歌舞伎は数年前も文化会館で見たことがある
忠臣蔵のいくつかの場面を取り上げていて、その時は忠臣蔵の物語はうまくできているものだ
と感心したものだった

本物の歌舞伎はバブル華やかなりし頃、招待で御園座で見たことがあった
演目は「俊寛」で比較的有名なものらしかったが、正直なところ少しも面白くなかった
最後の部分が感情過多の表現ぽくてついていけない気持ちが先に立って、劇団四季のプロの演技のほうが
伝統芸能にあぐらをかいている人たちよりはずっと良い、、、などと偉そうに思ったものだ

ところが、今日はひたすら面白かった
狂言の演目をアレンジした「棒しばり」
「本能寺の変」の後の明智光秀とお母さん、奥さん、息子、息子のお嫁さんの間で演じられる
悲劇の「絵本太閤記 尼ヶ崎閉居の場」
有名な口上が続く子どもたちによる「白波5人男 稲瀬川勢揃いの場」
常盤御前の自堕落な生活、一条大蔵卿のうつけぶりには深い意味があったとする「一条大蔵譚 塀外より御殿の場」
その一つ一つがとても新鮮だった

歌舞伎といえば祖母を思いだす
祖母は歌舞伎が好きだった
田舎の生まれで本格的なものを見たことはないだろうに、「出語り」が好きだと言っていた
「出語り」が何かはわからなかったが、舞台の横で三味線と一緒に歌ってる人だと勝手に解釈したが
なるほど、これがあるととても音楽的で気分がのる
フト、歌舞伎は西洋におけるオペラみたいなもので、結局のところ人間はところ変わっても
同じようなものを生み出すものだと頭に浮かんだ
祖母は歴史上の自分らがあまり知らない人物「熊谷直実」を知っていた
昔の人は歴史上の人物は歌舞伎で覚えたんだろうか、、と想像してみた

真面目に見るのは実質的に初めてなので、今日の演技や演出が良かったのか悪かったのかはわからない
ただ言えることは、演技とか演出は気にならずに物語に集中できたのは間違いない
物語は一直線に進むことはなく、押したり引いたり、多少矛盾点はあっても気にならなかった
フト、100年も前の人も、それよりももっと前の人もこれらの歌舞伎を同じように見たかも知れないことが
とても不思議な事に思えてきた
ろうそく・行灯の光しかない、冷暖房もない場所で、みんなが耳を澄まし目を凝らして湧き上がってくる感情に身を任す
そんなシーンが頭に浮かぶ
彼らはきっと今の自分と同じような感情を持ったに違いない、、
世の中の良いこと、悲しいこと、耐えなければならない運命、、
そうしたことは知らず知らずに歌舞伎の中で知って自分たちの生活に生かしていく
そして素直に湧き上がった感情は今で言う世論を形成していく
今のように格差も生き様も多様すぎる社会と比べて、こうした素直に感情に訴える物語を楽しんで享受していた昔は
実は意外と豊かな時代だったのではなかったか、、
豊かさとは一体なんだろう、、と少しばかり考えてしまう

今でも地道に地域の歌舞伎を保存・継承していく姿を評価すべきところだったかも知れないが
今日は、「歌舞伎そのもの」が気になってしまった
クラシック音楽の世界では演奏家の個性・比較よりも曲の方に関心がいく演奏は良い演奏と言われる
ということならば、今日のパフォーマンスはみんな良かったということになるのだろう
少なくとも自分にとっては、、




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「スタンディング・ストーン」(ポール・マッカートニーの珍しいCD)

2018年11月16日 10時04分02秒 | ポール・マッカートニー

あの日(11月8日)以来、依然としてポール・マッカートニーの復習を続けている
ライブのCDを引っ張り出しては、セットリストを比較して
その違いを確認しているが何よりも一番違うのは声の質
流石に今年のあのライブは声がしんどかった感じ
(仕方ない、76歳だから)
あの声で、若い時しか感じ得ないような曲を歌い表現するのはきつくも覚えるので
「アンド・アイ・ラブ・ハー」「イエスタデイ」「アナザーデイ」
がなかったのは個人的には許せてしまう

フト、CDの棚には二三回聴いただけのお宝(ゲテモノ)の類があるのを思い出した

ポール・マッカートニーがクラシック分野に挑戦した第二段目のCDだ
一番最初に挑戦したのは「リヴァプール・オラトリオ」で、これも持っているが
個性が出ていると言うよりは「ポール・マッカートニー」が作った音楽だからつべこべ言わすに聴きたまえ
と、EMIも発売した感じ

「リヴァプール・オラトリオ」よりはこちらの「スタンディング・ストーン」の方が面白い
「原子心母」みたいにコーラスが入ったり、他にもなかなか美味しそうなメロディ(エリナー・リグビーを連想するような)
があって、集中して聴くにはしんどいが、それなりに楽しむ事はできる

そこで感じたことは、こうした長い曲を作るとかまとめるには作曲技術が必要なんだなということ
ソナタ形式とか変奏曲形式、フーガとかいわゆる音楽の教科書に出てくるような作曲法が
全体の統一感を持たせるには不可欠のようだということ
ポール・マッカートニーは特に何かを勉強しているわけでないかも知れないが(?)
アビーロードでもバンド・オン・ザ・ランでもレッド・ローズ・スピードウェイのアルバムでも
曲の統一感を持たせるためにメロディの回帰を行っている(これが効果的なこと!)

でもこのCDのようにこれだけ長いと流石に音楽的なセンスだけではこなしきれない感じ

ポール好きな人はいろんなグッズやCDを持ってるかも知れないが、
「リヴァプール・オラトリオ」と「スタンディング・ストーン」はきっと持っていないだろうな、、
とポールファンの自分は、ひとりでニヤニヤしている


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「ホヨトーホ」と「ホ・ヘホ」

2018年11月13日 21時03分36秒 | 音楽

「ホヨトーホ」と聞いて直ぐにワルキューレを思い出すのはヴァーグナー好き
例のワルキューレの騎行で使われるワルキューレの乙女たちの掛け声だ

ならば、「ホ・ヘホ」と聞いて思い出すのは、一体何か、、、
ポール・マッカートニー好きなら直ぐに思い出す「バンド・オン・ザ・ラン」の中の一曲
「ミセス・ヴァンデビルト」で使われる掛け声だ
この奇妙な掛け声は、「ピカソの遺言」の中でも回帰的に使われてとても効果的だ
もっとも「ピカソの遺言」のでは「ジュエット」というこれまた印象的な言葉(メロディ)も回帰する
そしてその事によるアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」全体の統一感は「サージェント・ペパーズ」とか
「アビーロード」の統一感を連想させる

バンド・オン・ザ・ランの最後の一曲「1985年」の壮大なクライマックスが終わったあと
「バンド・オン・ザ・ラン♫」と歌われるのは、これまたとても効果的
ということで、先週木曜日のポール・マッカートニー名古屋ドーム公演の印象が心に残っている

ほんと、あれは良かったな

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落ち込みそう!

2018年11月13日 18時41分44秒 | 徒然なるままに

スマホ(iPhone)がない
きっと家に忘れたんだろう、、あとで確認しよう
これが昼間にでかけ車から降りる時のこと

夕方になって、またスマホ(iPhone)がない
昼に帰ってきてあるのを確認したのだっけ、、
どうも記憶が飛んでしまっている
三度(たび)でかけた時はスマホは持参していなかった
この記憶はあったが、帰って見当たりそうなところを探しても見つからない
家の中の盲点みたいなところにちょいと置いたに違いない
こういう時は電話をかけて着信音がするところを探せばすぐ見つかる
ここまでは余裕があったのだけれど、、、

困った、全然着信音がしない
マナーモードにしたのは昨日のことで、確か戻したはずなのに、、
少し焦り気味になる
「しっかりせりんよ!」
呆れるというよりお叱りの言葉がきつく耳に届く

おかしいな、、記憶を辿ろうとしても、、、どうもあやふやなまま
この体たらくについ落ち込みそうになる
家に帰った時はあるのを確認したか、その後でかけた時持っていったのか、、、
その記憶が、、、やばい

「iPhoneを探す」という機能を思い出した
そのやり方を調べてやってみると、二回目にでかけたところ(スポーツジム)にあると地図に表示された
どうやら置き忘れた(落とした)みたいな感じ
それで現地に赴いて自分がいた場所をざっと探すが見つからない
嫌になってしまう、、
そこで電話をかけてもらった
すると探したはずのマッサージチェアの奇妙なところから音がする
探したはずと思っても、そこは見落としていたのだ
ほんと、こんなことが多くなって嫌になってしまう

「しっかりせりんよ!」
また言われてしまった、、
しっかりしたいのだが、こんなチョンボが最近多くて
ほんと落ち込みそう、、、



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