パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

まとまらない話(選挙の判断について)

2017年10月31日 08時43分21秒 | あれこれ考えること

迷惑な台風が2週連続して日本列島を襲い
迷惑な自分勝手な解散のせいで2週連続して選挙を行うことになった新城市
その後半戦の新城市長と市議会議員の選挙が29日終わった
可哀想なのは市の関係職員、まさにてんやわんやの様相
天候が良くない為に期日前投票を利用する人が多く
専用の駐車場に案内する人は傘をさし合羽を着て、それでも少しばかり濡れて
寒い中立ちっぱなしで、ローテーションでお役目が変わるというものの本当にご苦労様といったところ
それが2週間も続けてとなると、、ちょいと国に文句を言いたくなる  だろうな

市長選と市議会選挙は、いままでなら自分はほとんど市民の権利(投票)を発揮するだけだったが
今回は当事者や関係者とは言えないまでも、少しばかり興味を持って眺めた
でもその関心は選挙そのものというよりは別のこと
「人はどのように判断をするのか」ということ

政策論争やマニフェスト、選挙戦術や後援会の活動、ネガティブキャンペーンや途中での
現状分析、どの陣営の支持層が寝返ってどうのこうの、、といった生々しい話は
選挙を戦いとかお祭りのようにどこかハイテンションになる人
あるいは評論家風に自説を披露する人には絶好の機会だっただろうが
正直なところ選挙の勝ち負けというよりは、
人は何を根拠に選んだのだろうか、、といったことのほうが気になる

そしてそれは、そもそも論に立ち返り、人は多くの人が選択するというシステムで果たして
より良い未来を選択することが可能なのか 、、といった疑問まで及ぶ
なんとなく選んでしなう(この選び方の多様さにはどんなものが有るか)未来への選択
(はたして熟慮・理性による判断はあったか)
時間が経過してからでないと結果がでない未来に対して、はたして責任が取れるものか
責任が取れないとしたら、せめて覚悟は自覚していたか
(ナチスのは合法的に権力を把握した面もある)

でも人はこんなことは普通気にしない
ほとんどの場合、一部の人を除いて多分なんとなくという判断をする
この無意識のような判断、それが間違いなさそうなのか、、それとも危ないのか
最近読んだのが認知心理学系の「選択の科学」「ファスト&ロー」の影響もあって
このところが気になる

人は当事者にならない限り真剣に考えたり行動したり出来ないものだ
当事者でない人たちはどうしても無関心に陥りがちで当事者として考えるべき
と説かれるわけだが、強制されてもこれが出来ないのが現実
そのうちに当事者となる可能性があっても、今は当事者ではない場合は結局他人事

何か話が変な方に進んできたぞ(いつものことか)
少し仕切り直して、再び選挙時の判断について
後援会とか応援団に気が進まず参加するように強いられた人は
その選択を指示通りするのか、それとも匿名でわからないから面従腹背で
自分の中に浮かぶ上がってくるもので行うのか、、
この自分の中に浮かび上がってくるものを信じるか信じないか、、
このあたりが一番気になるところだが、やっぱり人は自分で責任もって
判断するのは面倒だし辛いと思ってしまうのだろうか

一体、何が言いたんだか、、ホントまとまらない話、情けない、、、

 

 

 


 

 

 



 

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どっと疲労感を覚えた「イスラエルのアイヒマン」

2017年10月29日 16時13分11秒 | 

MARUZENで購入したのが10月15日
読み終えたとは言えないまでも最後のページに達したのが
(とても理解したとはいえないが)
台風のせいで読書しかすることのない今日10月29日

「イスラエルのアイヒマン」 ハンナ・アーレントの問題作だ
最後まで来てどっと疲労感を覚える
それは集中して読んだからと言うのではなくて、そこにかかれている事実の重さ
やりきれなさ、怒り、悲しみ、絶望、そんなものが入り混じって感情を動かしたからだ
(途中で裁判が法的に正しいステップを踏むことが、本当に正しいことなのか、とさえ思ったこともある)
この本を読んでいる時何箇所かで気持ちが悪くなって吐き気を催した
人をモノのように扱い死体製造工場と化していく、それを淡々と進めていく気味悪さ
それだけではない、なにかもっと違う言いようのない不気味さ
これは最後にグサリとくることの多いフランス映画の後味の悪さみたいな
それでいてその映画を見たものは確かに一つの実体験をしたような気にさせるそんな体験に似ている 

この本は「悪の陳腐さ」と「思考停止」のことばを用いて解説されることが多い
だが有名になりすぎたこれらのことばよりも、自分のずっと興味を持っている問題
「上司の命令に従わなければならないか、、、」について、いろいろ考えるヒントとなることが多かった
(個人の判断について、またキリスト教がホロコーストに関して何もしなかったことについても) 

なんにしても、最後のページにたどり着いたばかり
どこか興奮気味で頭の中が整理できていない
(はたして時間をおいて整理できるか?)
とにかく、これだけは言えそうだ
読む前と読んだあとでは、人は全然違う人間になりそうだ

「全体主義の起源」(2)帝国主義も、100分de名著の要約ではなく
時間をかけて、それが故の実体験として読まなければならないような気になった
そして今なら読み終えられそうな気がしている 

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親の意見と冷酒と読書

2017年10月29日 08時38分29秒 | あれこれ考えること

ハリーポッターの作者、K.ローリングさんは、電車内でゲームではなく
このファンタジーあふれる小説を読んでいる人が多かったことをとても喜こんだという
それは自分の作品が売れているからではなくて、自らの想像力を駆使しなければ
何も楽しむことができない読書というものに触れる機会を与えられたからだそうだ

ハリー・ポッターがどんな男の子で、ハーマイオニーがどんなかわいい女の子かは
映画を見てしまうと固定されたイメージが出来上がるが、映画が作られる前は
それぞれ勝手に頭の中で思い浮かべるしかない
箒にまたがってへんてこなボール(羽根?)を追っかける奇妙なゲームも
具体的にはどんなのかよく分からなくても、ハラハラ・ドキドキするような気持ちになるのは
ひたすら勝手に浮かんでくる想像力のせいだ

話は変わって大変な読書家だったチャーチルは
読書する人が20年後のイギリスを作る、、、
みたいなことばを残したような記憶がある

欧米人と日本人の違いを考える時、結果が出るまでの時間の捉え方が随分違うと感じることがある
ケルンの大聖堂もバルセロナのサグラダファミリア教会も100年を超える建設期間で
人が生きている間には完成できないようなものでも、そんなもんだと受け入れている
大きな計画には時間がかかるものだと、、

またまた話は変わって、今も記憶に残っているのがドイツ人が日本の学校(多分小学校)を見学した時のこと
詰め込み教育、その時点で物知りで賢そうな子どもを育てる日本の教育を見たドイツ人は
素晴らしい子どもたちと賞賛した後、でもおとなになったらドイツがこの子達を追い抜くだろう
と自信を持って帰っていった
(子どものころには子ども時代にしか得られない経験とかものがあるはずで、それが将来の伸びしろに関係し
結果がわかっている大人が最初から答えを与えるべきではないと自分は解釈したが) 

今必要なこと、将来の伸びしろのために必要なこと
役に立つか立たないかわからないもの、、そうしたものに時間をかけられるか
一見役立たないと思われるようなことでも、いずれ役立つことになるという確信をもつ欧米の知識人
(アメリカにはこういう人は少なくなってしまったかもしれない)
読書は楽しみの一つに過ぎないかもしれないが、「親の意見と冷酒は後で効く」みたいなもので
実感として役に立ったと感じるには時間がかかるのだろう

ところで、チャーチル 読書 で検索するとこんなページが見つかった
「チャーチルの能力開発 賢人は歴史と経験に学ぶ」

この中から部分的に抜粋すると

なぜチャーチルはここまでの実績を残すことができたのでしょうか? 理由は多岐にわたりますが、ここでは彼の歴史観や大局観を指摘したいと思います。

チャーチルは「決断の人」であり、同時に「説得の人」でもありました。それを支えるには強烈な信念とビジョン、「善」の判断が必要です。これは一朝一夕に獲得できるものではありません。歴史を学び、考え、自分なりの経験や他者との議論と突き合わせてさらに考えるからこそ確固たる信念やビジョンが生まれるのです。

彼が恐ろしいまでの読書家であったことと、このことは無縁ではないでしょう。読書を通じて、本質を見極め、人間の本性を知り、何が善かを考えたからこそ、有事において彼の決断力が際立つことになったのです。また、若い頃から長きにわたって文章を編むことをルーチーンとしていたことも、彼の構想力や説得力に寄与したはずです。

結局「全人格」というものは時間をかけて作られる、もちろん仕事の上の経験は大きなウエイトを占める
しかし、実体験だけでなく、想像するという人に与えられた奇妙な力を、そしてそれでもって「善」を判断するように
ならないとしたら、人は危険な方向に進んいってしまわないか 

果たして安倍さんは、読書家か
全人格的な「善」の判断をし得る人物か
残念ながら不安の方が先に立ってしまう 
(発言にインテリジェンスとか教養を感じない) 

ところで、(またまた話は変わるが)先日の選挙の結果を踏まえて、思い出したことがある
プリンストン大学で行われた「新聞がなくなった都市に起きたこと」という調査の結果だ

地方紙が衰退・無くなっていったアメリカの話で
特徴的なのは新聞が無くなって明らかになったことは

●投票率がダウンした
●現職の再選率が圧倒的に高くなった
●市の財政状況が悪くなった
●首長・議員の報酬が高くなった

新聞が無くなって監視・批判機能、及び良質の情報の提供が
無くなったために起きたことだと解釈するらしい

これらは現実に自分の住むところでも見られる傾向で
本を読まなくなった人が増えて、新聞を読まなくなった人も増えて、(情報弱者になって)
オンリーワンの存在でありたいと言うものの、その孤独には耐えられず
結局は多くの中のひとりでいたいと感じる(と想像される)人たちばかりになって
口当たりの良い、あるいは過激なことばに酔い
想像によるあるべき未来の姿ではなく、直近の利益を求める気持ちが優先してしまう世界

これらは、人ってこんなもんだと仕方ないと思う反面、こればっかりでは困る
本を読むことによって勝手に身につく何か
それらに大いに期待したいが、、

親の意見と冷酒はあとで効く
読書もあとで効く(多分)

本好きの独り言、、、

 

 

 

 



 

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初期どころか、危険水域かもしれない(全体主義的傾向)

2017年10月28日 09時00分33秒 | あれこれ考えること

少しばかり心配な今の日本
同じように感じる人はいるもので、幾つかのブログで政治学者ローレンス・ブリットの
「ファシズムの初期症状」が 取り上げ紹介されている

ファシズムの初期症状(米ホロコースト記念館に展示)

○強情なナショナリズム
○人権の軽視
○団結のための敵国づくり
○軍事の優先
○性差別の横行
○マスメディアのコントロール
○国家の治安に対する執着
○宗教と政治の癒着
○企業の保護
○労働者の抑圧
○学問と芸術の軽視
○犯罪の厳罰化へ執着
○身びいきの横行と腐敗
○不正な選挙

今の政権に思い当たるところがしっかりあるところが辛い
思い当たると言えば、ナチスのゲーリングのこんな言葉もあちこちで取りあげられている

ナチスの高官だったヘルマン・ゲーリングが、人々を戦争に同意させるための方法を語った次の至言、「当然だが、一般の人々は戦争など望まない。ロシアだろうがイギリスだろうが米国だろうがドイツだろうが同じだ。〔…〕簡単だよ。人々にあなた方は攻撃されつつあると言い、平和主義者に対しおまえは愛国心に欠け国を危険にさらしていると糾弾するだけでいい。このやり方はどの国でだって同じように有効だ」

先日麻生さんは「選挙の自民党の勝利は北朝鮮のおかげ」と思慮もなく口にしたが、根っこにはこの考えがあるようだ
また以前にも「ナチスのやり方を真似たら、、」の発言もあったし、うっかり発言と言うものの危ない人と感じるほうが普通でヨーロッパでの評価は日本ののんびりしたものとは随分違うようだ

引用をもう一つ (マルティン・ニーメラーのことばから)

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

この様に気がついた時は遅かった!
ということにならないためには早めにセンサーが働く人が
ものを言えるうちにもの申すということが肝心 

しかし、現在が危険水域にいるということを知らせる(感じてもらう)ことの難しさ、、
本当に手遅れにならぬようにしなければ

 

 


 


 

 

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思いついたこと

2017年10月27日 08時34分18秒 | あれこれ考えること

どちらかに決めなくてはならない
いつまでもその結論を延ばし延ばしにしておくことは出来ない
いろいろ悩んだ末決めたが、決めたあとでもその判断は果たして正しかったか
といつまでも頭の片隅に残ることというのはありそうなことだ

例えば議員さんは議決において
どうしても賛成か反対か選ばなければならなくなる
どちらにも言い分、良い点はある、、しかし一方だけを選ばなければならないとしたら
このちょっとした迷いのストレスを無くすためには、、(いつまでも悩まないためには)
たまたまある方向を選んだが、反対の方の意見も少し取り入れてバランスをとることで
クリアされると考えることはあるかもしれない

民主主義はかくあるべし、、といった難しいことを言わなくても
知らず知らず人は穏やかな解決策を求めようとしているのではないか
(それを妥協というのか知恵というのか)

しかし、選挙という現実は必ず勝者敗者が存在する
その時の勝者は果たしてどのような態度をとるか
数を持っているから支持(白紙委任)されたと考えるか
それとも敗者を支持した人の意見も考慮すべしと考えるか 

このあたりは「民主主義とは」といったそもそも論よりも
その個人の人となり性格・性質による方が大きそうな気がする

選挙人にできることは「最終的な判断を間違えないだろう」と思える人を
ほんの少ししかない情報から選ぶことだけ
この選択を間違ってしまうと「決める政治」といった耳障りの良さそうなフレーズで暴走してしまいそう

しかし、これのなんと難しいことか(国も市も)
やれやれ!



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寝たほうが記憶は良くなる(頭が整理される)

2017年10月24日 08時50分06秒 | 徒然なるままに

学生時代、自慢じゃないが徹夜してテスト勉強なんぞしたことはなかった
単に根性なしだったかもしれないが、とにかく寝る時間だけは確保していた
あるとき、記憶は寝ることによって定置されるとの実験結果が新聞で紹介された
その実験とは、あることを覚える役割を強いられた人物が
徹夜の場合といったん寝た場合とではどちらのほうがより覚えていられるか
と言うもので、そこでは寝たほうがより覚えているとの結論が出たのだった
この結果が自分の睡眠欲求の正しさを後押ししてくれるようで
安心して眠りについた(でもやっぱり根性なしの部分は大きい)

最近、この実験結果がやはりそのとおりなんじゃないかと思うことしきりだ
今のところ気力が続いて読んでいる「イスラエルのアイヒマン」ハンナ・アーレント
これは難解な政治哲学というよりレポートなので「全体主義の起源」よりは読みやすいしわかりやすい 
それでも、読んだだけではなにかわからないが凄い(重要な)ことが書かれている印象は得る
読んだ当日はそんな印象
でも一日、あるいは少し経つと不思議と頭の中が整理されたような気持ちになる
相変わらずぼんやりとした印象とか大半は覚えていられなくても、
自分の中に何かが整理されて蓄積された実感を持つことができる

本を読むこと
最近は忘れても覚えられなくても、そんなことは気にしなくなった
読んでいる時間が楽しければ元はとったと思うようにしてるし
いつかどこかで役に立つだろう、、くらいの気持ちでいる(役に立つ時なんであるかな、、、)

ということで、秋の夜長、覚えても覚えてなくても読書はとても良いものだが
致命的なのは老眼とかすみ目、、
読書は昼間の明るい中でしないとだめになっている
年令を重ねるってことは、こういうことか、、(仕方ないか)

 

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気になる「ネトウヨの人たち」

2017年10月23日 08時10分27秒 | あれこれ考えること

自民党にすれば、してやったりの今回の衆議院選挙(自民単独過半数)
野党が準備不足のうちに理由もハッキリしない(取って付けたような理由で)解散
策士の小池百合子氏も、予想したとおり『成功した理由で失敗する」を地で行って自滅
そして政策というよりは批判合戦に終止した選挙戦
また本質ではなく国盗りゲームのような扱い(解説)でダラダラと時間を潰したメディア(テレビ局)
問題は山積みだが、今回一番気になったことと言えば、少し別のこと

それは「ネトウヨ」と呼ばれる人たちのこと
彼らは自分にとっては非常に不思議な存在だ
ツイッターを見ていると、このネトウヨと呼ばれる人たちの投稿がちょくちょく出てくる
そして決まって「反日」とか「パヨク(左翼)」「朝鮮人」等の根拠のない言葉が当たり前のように使われている
そして投稿者のアイコンも旭日旗とか危なそうな雰囲気を感じさせるものが多い

この「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの社会的・経済的環境はどうなんだろう(と勝手な想像をしてみた)
イギリスの国民投票でEU離脱を選んだのは社会的(経済的)弱者の人たちが多かったという
トランプ氏を応援したのはやはり格差を感じている弱い立場の人たちだったようだ 
オーストリアでもオランダでもフランスでも、どちらかと言えば社会的弱者の不満の受け皿が右に流れる傾向にある 

仮に日本でも社会的弱者が右に流れる傾向があるとしたら、彼らの不満は果たして自民党の経済政策で解決するのだろうか
自民党は資本主義社会、競争の原理に基づいて(理念的な、もしかしたら実態を反映しないかもしれない)規制改革を推し進め
その結果として得られる企業収益増が社会の下まで降りてくるというトリクルダウンを説いている
しかし、ピケティの「21世紀の資本」の膨大な資料によればトリクルダウンが見られた例は過去にどこにもないそうだし
現に儲かった分は内部留保という形で企業内に蓄積される
あるいは儲かった分はより効果的な利益を得る方法、つまり投資に使われる
また企業は人件費を下げることが利益につながるので、低賃金の人を選ぶことになり
それは結果的に日本人を雇用するより発展途上国の人を雇うことになる(国内でも海外でも) 

ここで、少し勘違いをして自分たちの仕事を奪っているのは他の国の人たちと考える人も現れてくる
(これはドイツでもイギリスでもアメリカでも見られる)
本来ならここで社会に内在する矛盾(外国人のせいではなくシステムに問題あり)に対して
怒りを持つのだが、今出来上がっている社会は強固で、それに立ち向かうとすれば挫折感・無力感を覚えるしかなくなる
そうすると個人のなかにはいつまでもイライラが残る
こんなとき人はどのように自分の鬱積した感情を納めるかといえば、
一番手っ取り早いのはその状況に屈してしまうことだそうだ
いてまでも勝ち目のない戦いに向かうより、勝つ方に身を置く、そうすれば少なくとも気持ちは楽でいられる
(つまり政権与党の軍門に下ること)

自信を失っている個人は、今度は自分たちの出自を誇りに思いたくなる
その結果出てくるのは「エスノセントリズム」
自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想のこと。自民族中心主義自文化中心主義)
これが一歩間違うと国粋主義的な運動につながる 
いま感じているのは、「ネトウヨ」と呼ばれる人たちのメンタリティは実はこんなところに 有りはしないか

もちろん、社会的経済的弱者ばかりが「ネトウヨ」ではなく、それなりのポジションの人もいる
しかし、反射神経的に相手を攻撃するような「パヨク」「反日」「朝鮮人」をよく使う人々は
申仕分けないが、きちんと教育を受けた人たちでは無いような気がしてならない
そしてそれは各人の性格というより、おかれた環境(経済的弱者)で育まれたものではないか

話は飛んで、人に与えられた危険を察知するセンサーは、その感度に違いがあって
早めにアラームを鳴らす人がいれば、もっとあとになってからでないとセンサーが働かない人がいる
早めに感じてしまう人は「今のうちに手を打たないと危険なことになる」と感じる
しかし、そうでない人は「そんな馬鹿げたことは起きっこない」と思う
この早めにセンサーが働いてアラームを鳴らす人の心配が単なる杞憂であれば良いのだが
過去の歴史を振り返ると、今は危険水域に近づいているような気が、、、

宮台真司氏によればネトウヨは「感情の劣化」の最たるものらしい
しかし「天皇機関説事件」の本によれば、そんな馬鹿げた、
今にして思えば説得力を持たない(ネトウヨのような)理屈が
いつのまにか、どうにもならない世界を作り出してしまったとしている
遅くならないうちに、なにか言えるうちに何かを言い続けないと  危ない
(国も市も)

いつものよくまとまらない話 

 

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テレビ番組について

2017年10月21日 09時15分28秒 | 徒然なるままに

新聞を一面から読むか、それとも最終面のラテ欄から見るか
最近のテレビには番組表を見られるようになっていると言えども
相当数は新聞の最終面から見る人が多いのではないか
(今では新聞を購読している人も少なくなりつつあるというが)

でも、それを見ると一気に見る気が失せる
ゴールデンタイムと言われる時間の各局の番組を見ると
昔あった1時間の番組ではなく、ダラダラと続くお正月によくあるスペシャル番組風の長い長い番組が並ぶ
自分の年齢に合う番組ではないのもあるが、この長時間の番組というだけでパスしたくなる
おまけに番組紹介欄に書かれていることは、およそ関心を惹くものではない

この夜にテレビを見ない生活習慣は硬派のニュース番組にも続いて
NHKやテレビ朝日、TBSの知られた番組も結局は見ないことになる
それで困ることがあるかと言えば、全然ない
むしろ一歩引いたところからたまに見る番組を批判的に見ることができる

政治的にはどちらの陣営からも文句を言われるテレビ局の報道というのは
本当にイマイチで、なんだかんだ言いながら結局は横並びの様相を見せる
最近の政局を解説する番組も興味はない

テレビ局は本当にこんなんで大丈夫か
(そして知らないうちにそのテレビに影響されるこの国は大丈夫か)
分別くさくなったおっさんは不安を感じる
テレビ局が横並びでどの局もダラダラと長い時間の番組をつくって
ライバル局と同じことをすることで安心する姿は、どこか神戸製鋼の事件つながるような気がする
内々に感じている「こうすべきだ」という意見が、結局は言えないままでいるのではないか(?)

神戸製鋼のデータ改ざん事件は特別な悪い人たちが行った事件ではなく
実は誰でもしそうな、する可能性のある事件だ(フォルクスワーゲンもベンツも日産も)
上司は末端の人物には組織全体の利益を考えるよりも、その職場のその瞬間の利益を
考える事を要求する(部分最適が全体最適より優先する)
地元の流通業の例で言えば、市場性のない場所に市民も疑問を覚えたDIYの店が
オープンし、存在感を示す間もなく閉店の運命を辿ったが、その店舗開発を担った人は
全体最適よりも自らの仕事の部分最適を優先する
そしてそれが導いた結果というのは、、、 

自分の意見でNOというのはなかなか難しい
それをすると「空気を読まない」との冷たい視線を浴びることになりそう
無言の同調圧力  忖度を要求する空気  
みんなと同じことをすれば、責任は自分だけのせいではないと
少し気分的に楽になれそうな気がすることの誘惑

「個の確立」それは無闇矢鱈と対立する意見を述べることではなくて
個々に判断力を磨くことになるのだけれど、これが今の世の中でできているかと言えば、さて、、

森友・加計学園に対する説明に満足できない人が70%で、内閣支持率は不支持率を上回っても、
今回の衆議院の選挙では現政権のやり方を是認してしまう結果を選んでしまいそうな予想
本当にこれは理解を超えている、、
このどこか無意識の気味悪い空気が、悪い時代に導かなければ良いのだけれど、、

一人ひとりが生活を支える経済的社会人であり組織の中の人間という現実
同調圧力は思いの外、当人にとってはキツイんだろうな、、と思うけれど
へそ曲がりの偏屈なおっさんは、それでも期待してしまう
ダメなものはダメと言い切ることを
(会津若松駅には「ならぬものはなりません」の標語がある)







 

 



 

 

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「エルサレムのアイヒマン」に挑戦中

2017年10月18日 08時22分10秒 | 

先日、名古屋に出かけた時にMARUZENに立ち寄った
書店は自分にとっては居心地が良い
なかには書店に入るとトイレに行きたくなる人もいるようだが
自分の心配は立ちっぱなしでウロウロするから腰が痛くならないか
くらいの気楽なもの

でも勢いで購入した本は、少し真面目な2冊

一冊は、大好きなヘルマン・ヘッセ その作品のなかでも一番好きな「シッダールタ」の主人公の見たであろう
景色をめぐる写真集
もう一冊は最近100分de名著で紹介されたハンナ・アーレントが書いた問題作「イスラエルのアイヒマン」

写真集の方はいつでも途中からでも読めそうなので、読みかけの本を急いで最後まで進めた後
気張って読み始めたのが「イスラエルのアイヒマン」の方
でも本当は少し不安だった
最後まで読めるか、、と
以前「全体主義の起源」(3)を読んだ時は、正直とてもしんどかった
一つのセンテンスが長く、途中で挿入部分が多く、そして自分は歴史的事実の知識がなく
また使われている用語の理解もないので、とにかく集中して想像力を働かせて理解しようと
努めるしかなかった 
その為に一気に何ページも進めるなんてことはできず、少し読んで休んで、また少し読んでの
繰り返しでやっと頂上についたという感じ
完全に理解したかと言えば怪しいが、とても重要な重い事が書かれている実感はドスンと心に刻まれた 

今回は本の帯に「新版」の文字がある
覚悟しながら恐る恐るページをめくったが、意外や意外、思いの外読みやすそう(さすが新版)
相変わらずセンテンスは長いが、以前ほど苦労はしなくて済みそうな予感
それでもそれなりの集中力は必要で、昨日は気合を入れてトライした

いつも気になるのは本質に関係のないことかもしれないのが情けないところだが
「全体主義の起源」(3)でも触れられていたし、
映画「シンドラーのリスト」や「戦場のピアニスト」を見た時に感じた不思議な事がここでも書かれていた

それは収容所のイスラエル人が10000人単位で、監視する人間が何百人単位ならば
どうせなら、、とみんなが立ち上がって蜂起することは何故起きなかったのだろうかということ
映画を見ている時は、その何もしないこと(できないこと)言われたとおりに処刑場に向かう姿にイライラした
さすがにこれは誰でも思うことらしく、ハンナ・アーレントもこのことを取り上げている
そしてそれができなかったのは、別の地区で蜂起した人々をナチスは
とても残酷な、いつまでも苦痛が残るような酷い殺し方を行い
それを収容者たちに知らしめたためだとしている
このいつまでも続くかもしれない苦痛への恐怖が人を行動から遠ざけたというのだ
これは今の北朝鮮を想像すると直ぐに納得がいく
彼の国では粛清という名で公開処刑が、それも極めて残酷な方法で行われる
単に殺されるだけではなく、とてつもない苦痛を伴う殺され方
(本当の問題はこれを死体製造工場の作業のように、粛々としてしまったアイヒマンのメンタリティー
 そしてそれが彼個人だけの問題かということだが)
そんな状態を目の当たりにすると、人間は人間性を失ってしまう
ここが一番恐ろしいところ

世の中は、何かの加減で動き出すとブレーキが掛けられなくなることがある
こんな馬鹿げた事が、「今の時点では仕方のないこと」とされないとも限らない
いや、きっとそうなるだろう
だから、そのような極限状態は絶対に作らないようにする、、というのが知恵だ

「イスラエルのアイヒマン」や「全体主義の起源」を読まなければならない
と自分の中に自然と湧き上がってくる何かは、現在のこの国への不安の裏返しだ
ある人は、今の日本の雰囲気は戦前に似ているという
戦前を知らない自分は、こうした本によって戦争に向かう雰囲気を感じ取るしかないが
こうした本を読むにつれ、「歴史は繰り返す」を地で行ってるような気がして不安で仕方ない

社会はあるところまで行くとブレーキはかけられなくなる
かけられるうちにかけなければ、、
今度の衆議院選挙、、この結果が、後々最悪の結果を導くようなものにならなければいいが、、

心配症の小市民のボヤキ、、、



 

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説得力

2017年10月16日 09時51分34秒 | あれこれ考えること

昨日、雨の中、その現場を確かめたくて名古屋まで出かけた
その現場とはツイッター上ではフォロー数が急激に増えて
知ってる仲間内では大いに盛り上がっている「立憲民主党」の枝野代表の街頭演説会
(ツイッターのフォロー数は自分が神々の黄昏を見に行った10月4日の新幹線の中では
 8万6千程度だったが今は17万を超えている)

以前の原発反対のデモの時も、安保法制反対のデモの時も、マスコミは本当のことを伝えているか
疑問に思えて仕方ないので、まずは自分でその真偽を確かめたくて足を運んだ
そして今回、勢いが出ているというもののその熱気がどんなものか
それが本当の勢い、流れになるか、なるとしたら時代の変化の証人となれる楽しみもある
そんな少しばかり不純な動機で現場に赴いた 

名古屋の街頭演説会は3箇所
そのうちの2箇所、栄メルサ前と名古屋駅前の会場を聞いた
栄メルサ前では前半部分だけ聞いて、直ぐに名古屋駅に移動した
今回の目的は演説内容ではなく、それを聞いている人の数、熱気みたいなものの体感なので
当事者たちよりは一歩引いた感じで演説は聞けたように思う

栄メルサは会場が道沿いそのもので、立ち止まって聞ける人のキャパシティが低い
おまけに雨も降って、東京の様子と比べるとかなりおとなしい雰囲気
もっとも聞いてる人との距離が近いので、それなりの効果はあったかもしれない

全部までは聞かず、より多くの人の予想された名古屋駅の現場に向かった

写真は、枝野代表の演説中、雨に濡れずにいられる場所の聴衆
選挙カーの真ん前にスペースいっぱい、雨に濡れない箇所はぐるりとこの様な人だかり
絶対数はどんなかわからない

ところで熱気とか勢いとか、そうしたものを体感するために(応援ではなく)出かけたのだが
名古屋駅前の会場では枝野代表を演説をしっかり聞きいってしまった(動画で見聞きしていたのだが)

何故、こんなに素直に言葉が身体のなかにしみ込んでいくのだろう
何か特別のことを言っているわけでもないのに、
何かしら勇気とか力とか希望とか、そういうものが内側からジワジワと湧き上がってくる感じ
いろいろなところで枝野代表の演説を聞いて涙する人がいた、、というツイートや報道が、
この現場を体験して無条件に納得できる

枝野さんの合唱部で鍛えた声の質た馬力のおかげで聞きやすいのか
政治家に必須とされる演説能力やセンスが良いためか、
この時期だから政権批判があるものの、他の候補者の政権批判は
選挙戦術のためのそれなのに対して、枝野代表のは少し違うニュアンス
様々な問題をより冷静な、しかも生活者としての実感を基にした問題提起や
政治的解決法を訴える

そして「立憲」という言葉に代表される「そもそも」論、あるいは民主主義をわかりやすく聴衆に説いていく
民主主義イコール多数決ではない、多数決は結論を出すための一つの手段に過ぎない
にも関わらず、与党が数の力で押し切ろうとする惨状を、、いままで国民は幾度となく見せられて
それでいて、なんとなく理屈の上では表立った反論が出来ないイライラ
しかし、実はイライラするほうが自然であることがまともであることを説いていく
格差社会のなくすことは道徳的見地からだけでなく、現実的に経済政策になりうるという話
自分がずっと不思議に思っていた介護の仕事に携わる人の収入の問題
(ホリエモンは誰でもできるから、つまり置き換え可能な仕事で特別な技術を要しないから
 時給等があがらなくても仕方ないとの持論を持っているらしいが)
(介護関係の)人手不足なら普通は時給等を上げて求人をするのが当たり前なのに
それが実現されすにいる  これは政治が機能していないと断言(これに当てる予算につながる)
そして、それらを実現するのは実は政治家ではなく、主権者である「あなたたち」と力強く訴える
こうしてもたらされる昂揚感は、不意に自由民権運動が起きた時もこんなんではなかったのか
と想像してしまった
昂揚感、そこにいた人は、何かを感じる人は、確かにそれを感じただろう

それにしても、、、と少し時間をおいて考えてしまったのはこの「説得力」のこと

何故、無理なく身体に染み入るように感じてしまったのかが不思議だ
最初から受け入れ体制にあるから無理なく入っていく
それは少しはあるかもしれない
でもそれだけか、、、

地元新城市では国政選挙のあと市長選・市議会議員選挙が行われる
市長選では雄弁とされる現職と、他に二人立候補を予定している
最近、まとめて3人の話を聞く機会があったが、予想に反して(?)現職以外でも
なかなか演説(討論)がうまいじゃないか、、、というのが、多く人の印象ではなかったか

でも、その人達の演説は、こころに染み入るように入っていくか、、

いったい、こころまで届く説得力とかメッセージとはなんだろう
そして市民は、偏見なく「彼らの発する何か」を正当に判断できるのだろうか、、、
(不安はそれ以前の諸々の事情で決まってしまいそうなこと
  つまり地盤・看板・カバンの要素で、、)







 

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