パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「医師中村哲の仕事・働くということ」上映会

2024年09月24日 11時22分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

世の中は時々気まぐれのように、とんでもない人が現れる
万物の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ
一度聴いただけで何声もの音楽を譜面に残すことができたり
訓練もしていないのにヴァイオリンを演奏できたり
すごいスピードで作曲できたりしたモーツァルト
多数の言語を話すことができ、日本人でも読みこなすことの難しい
古文の源氏物語を読みこなして、英語に翻訳を行ったウェイリー

マザー・テレサもその中の一人で、とんでもなく良い人で
彼女がいたという事実は「まだ人間は信用できる」とも思いを強くする
同じようにとんでもなく良い人が日本人の中にいた
中村哲さんがその人だ
彼の名前、業績等はなんとなく知っていたが、昨日、新城文化会館で
ドキュメンタリー映画「医師中村哲の仕事・働くということ」が上映され
上映後は彼を知る人二人による対談が行われた

すごいなあ、、と圧倒されるが、ひょうひょうとした雰囲気は
使命感といった覚悟とかそういったものはあまり感じられない
現実的にできることをコツコツとこなしていく姿がいたるところで見られる
「一隅を照らす」身の回りの些細な場所でも良くしていく  
その連続が、いつか良い生活を可能にする
人はそれぞれの立場で自分のできることをし続けていけば良いのだと教えられる

医師としてアフガニスタンに出かけた彼は、現実問題として医療所が少なすぎる
ことに気づき、まずは診療所を増やすべく行動を起こす
物理的な家屋だけでなく、診療できる人物を増やす
それでも、診療所までなかなか来れない人達がいるので、巡回診療と言う手段を試みる

そうした行動を淡々とこなしていくが、現実に直面する彼はその時に
どのような絶望感に日々苛まれたかを思うと、心が辛くなる

対処療法のような試みをするうちに、医療と同じような、いやそれよりも現実的に
病人を作らないことに効果のある方法に気づく
それは灌漑施設をつくることだ
干ばつしがちな地域だが、大きな川は存在する
そこから用水として取り込むことができれば、農業が可能となり人は栄養確保もできる
そうすれば医療行為以上の効果が得られる

この土木事業は壮大な事業で、言い出したのは良いものの知識や技術が彼にあるわけではない
そこで本で色々学ぶ
その中には江戸時代の技術も含まれており、たまりすぎた水を堰から逃す現実的な方法もあり
それは実際の工事にも使われた

アフガニスタン人は勇敢であることが尊敬されるとのこと
ただし、無鉄砲の勇気と正しく勇敢とは違う
根本に自然法的な正しさが必要となる

用水路は直線であることが望ましい
だがアフガニスタンは隣同士の地区が仲が良い訳では無い
ときに争いもある
その地区の親分的な人物は大きな土地を所有している
その親分に、真っ直ぐな用水路をつくるためには土地を提供してもらはねばならない
そこで中村さんは、その親分のところに出向いて話をつける
無防備で説得に出かけることは正しい勇敢そのもの
親分は納得する

このエピソードは上映後の対談で紹介された
この灌漑施設については政府的な発想ではODAで援助していけば
もっと効率よく早くできるだろう、、との考えがあったらしい
だが、結果的には中村さんが総指揮をとり、アフガニスタン人が我がことのために
自ら壮大な事業を行ったという経験を積むことになったのは
アフガニスタン人の財産になったと思われる
自分たちで自分たちのことを行う
それが成功し、成功体験は経験と自信になる
こうした連鎖は、中村さん抜きでは達成しなかっただろう

すごい人だな、、と思うと、彼の生まれが気になる
子供の頃はどういう育ち方だったのか、、
興味は自然とこうしたことに繋がる

中村さんは祖父母の影響が大きかったそうだ
その祖父母というのが驚くことに、映画でも何回か繰り返し撮影された
「花と龍」の主人公たちというのだ(対談のなかで紹介された)
この話を聞くまでは「花と龍」は(反社会的な)例の人たちの話かと思っていたが
全くそうではなくて、搾取しがちな人々に対して正しい勇敢さを
行動で示した人たちだったそうだ

「花と龍」はメモしておいたから、近々本を読んでみるつもり
それにしても、偉い人っているものだ
そういう人と接した人は、きっと良い人になっていくと思われる
人が会うべきは、人物は利益をもたらす人ではなくて良い人であるべきだと
つくづく思う

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化会館の「ランチタイムコンサート」

2024年09月16日 09時35分59秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

エアコンのない部屋で夏はレコード・CDを聴くことはない
理由があって長い時間、家を空けるわけにはいかないので
名古屋にコンサートに行くこともない

ちょいと音楽に飢えていたが、先週の土曜日、生の音楽に触れる機会があった

「ランチタイムコンサート」と名付けられたヴァイオリンとピアノの演奏会で
場所は近くの文化会館、ありがたいことに無料
プログラムはに2.3は知っている曲が入っている

用意された椅子席はほとんど満席、後ろのほうで聴いていた人もいるようだった
せっかくだから前から2番目の右寄りの席に座った
後ろを振り返ると、見た顔が何人か見える
こうしたイベントに来る人は、何でも首を突っ込む人なのだろうか

久しぶりの生の音 久しぶりだから演奏に集中する
ヴァイオリンってこんな音なんだ
そんな素朴な思いに浸る

生の演奏の時には、勝手に浮かんでくる連想を楽しむことにしている
最初は素早く左指を動かして音程をとるところが凄いな、、と思ったりしたが
そのうち、いやいや右手も結構大変そうだと思うようになった
リズムを刻むためにデリケートに弦から離したり接したりする
そして弾き方もアップとかダウンのボウイングというらしいが
その選択は何が基準になっているのだろうと思ったりした

プログラムの最初の曲、ラヴェルの「ツィガーヌ」はレコードで持っている
だから何回か聴いているはずだが、何故か覚えられない
自分が馴染んでいるドイツ・オーストリア系の音楽とは違った価値観で
作られているからなのだろうか
本当に不思議なくらい覚えられない
(フランス人の曲でもフランクのヴァイオリンソナタはしっかり覚えられる)
でも生で聴くと、レコードよりは印象的だ なかなか良い曲だとも思う

2曲目は同じくラヴェルの曲で「亡き王女のためのパヴァーヌ」
この曲はメロディアスで、痴呆症になってしまったラヴェルがこの旋律を聴いて
自作とは思わずに、良いメロディだと評価したとのエピソードを何かで聞いた記憶がある
確かに良いメロディだ
つかみが良いので一気に聞き終えられる

サラサーテの「序奏とタランテラ」は初めて聴く曲
「序奏とロンド・カプリチオーソ」は知ってるが、
どちらかと言えば知っている分こちらを聞きたかった感じ

奏者の石塚和基さんは新城市の出身とのこと
彼はプログラムでわかるようにスペイン・フランス系をメインとした音楽的志向なのだろうか
それが一番現れたのが、個人的にはファリャの「スペイン舞曲」だった
なんか楽しかった、その時を精一杯楽しむような、そんな気分に満ちて
難しことを考えがちなドイトオーストリアの曲とは違う気がして、これもあり!
と勝手に思い込んだ

カルメン幻想曲は時々耳にする曲だが、この日のそれは普段聴くのと違った編曲で
一言で言えば現代的に音響に満ちた音楽だった
一筋縄ではいかない刺激的な音色で、カルメンの有名な曲の一部を楽しむ
といった雰囲気の曲ではなかった
これは現代人しか楽しめないだろうと勝手に想像した

後はアンコールを一曲
超絶技巧を要するノリの良い音楽

ということで久しぶりに音楽を楽しめた時間だった
だが、こうしたランチタイムコンサートが既に22回も開かれていたこと
を知らなかったことは、大損をしていたと深く反省する
これからはこまめに文化会館のイベントに注意しておかねば


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベートーヴェンの初期のヴァイオリン・ソナタ演奏会

2024年04月07日 10時50分13秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

早死したモーツァルトは勿論だが、ベートーヴェンやフルトヴェングラーの
生きた時間を超えて久しい
だが年齢を重ねて彼らの達した境地を思うと、今の自分はあまりにも情けない
長生きしても精神はこんなものか?と思えて仕方ない
比べる相手が悪すぎるのだ、、と思うことにしても
もう少しちゃんとしないとマズイかもしれない

理由あって家を長く空けることができないので
日帰り旅行はもちろんのこと、夜遅くなるコンサートなどは
控えるようにしていた
だが昨日、本当に久しぶりに室内楽の生演奏を聴きに名古屋まで出かけた

それがこれ

室内楽専用のホール、昔はスタジオ・ルンデと呼ばれていたところ
今はハレ・ルンデと名前も場所も変わって、数年前に再開した会場で
開かれたベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏会だ

最近は家で聴く音楽はてっきり室内楽が多くなっている
ヴァイオリン・ソナタとかピアノ・ソナタとか、弦楽四重奏曲とか
内省的というか独白みたいな音楽が、世界観を大声で訴える音楽よりは
気分にフィットしている

メールで届いたプロモート用のチラシにベートーヴェンの
初期のヴァイオリン・ソナタの演奏会とあったので、
これはいい機会!と、できるだけ早く帰ることを前提に足を運んだ

ベートーヴェンが作り上げた傑作群や精神的境地を後世の時代の我々は
既に知っている
彼の初期の作品を聴くときも、大作曲家のつくった初期の作品は
さてさてどんなものか?といった興味で聴いてしまいがちになる
だが、ベートーヴェンと同じ時代を生きた人たちは
大化けした彼のことを知らないで、眼の前にある音楽を楽しみむしかない
そしてそれを聴いて、この若い作曲家は将来性があるとかないとかを
思いながら聴いたに違いない
そんな気持ちで、自分等も聴くことができるか?
と思いながら聴いてみる

久しぶりの生演奏会だから聴く方もどこか慣れていない
集中しているようでもどこか耳の横を過ぎていく感じ
仕方ない、慣れるしかない、、と集中に努める

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは演奏者の鈴木理恵子さんが
演奏前に言ったように、緩徐楽章が素晴らしい
その楽章は精神に訴える何かを既にもっている
センチメンタルでもなく、過度に深刻でもなく
どこかジョンレノンの音楽のような味わいがある

作曲家は作品に癖が出てくる
ブルックナーは二拍子、三拍子のあの音型
ショスタコーヴィッチもあのリズム
チャイコフスキーもまたやってるという部分がある

ベートーヴェンも初期のこれらの作品を聴くと
ピアノ協奏曲の一番とかピアノ・ソナタの一番で出てくる
印象的な経過句が耳に入る
やはりその時に頭に残っていたものは、そんなに簡単に頭からは
離れられないのだろうか、、と思ったりした

やはり同じヴァイオリン・ソナタというジャンルでもモーツァルトと
ベートーヴェンは随分違う
力んだところがなく、簡潔に進んでいくモーツァルトと比べて
ベートーヴェンのそれはどこか癖がある
2番のソナタの一楽章の音階的な主題は、モーツァルトだったら
サラッとやっているだろうに、ベートーヴェンはどこか神経に
引っかかるような音を要求している

緩徐楽章も耳に心地よいだけなく、精神に刺激を与えるような
どこか引っかかりがあるような音楽だ

実はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタについてはその全作品を解説したような本がある
それはアランが残した本



1番から10番まで楽譜を混じえながら批評している
耳の良い人たちは、どうやら何々調というだけでそれが表す雰囲気みたいなものを
感じ取ることができるようだ
それは自分にはないので羨ましいが、それでも最近はハ長調とかハ短調はなんとなく
雰囲気は分かるような気がしてきている
そしてハ長調とかハ短調はモーツァルトもベートーヴェンも主題が音階的のもの
が多いのは、調自体がそれを要求しているような気がしている(思い込みか?)

この本は思いのほか難しいので積読状態が続いていたが
これを機会に読破にトライしてみようか

生演奏の良さは、奏者に徐々に気持ちが入って行く様子が見えて
演奏していることと、なっている音が一体化して
こちらに迫ってくる瞬間がなんとも言えないが
昨日も何回かそう言う瞬間が訪れた

話は変わるが映画「眺めの良い部屋」では「ベートーヴェンを弾くような女性」
という言葉で、そうした感性の女性は変わっているとか扱いにくいか
感性豊かな人になるというニュアンスで扱われていたが
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏にトライする鈴木さんは
ちょっと変わっているのだろうか?

聴いてる方は、徐々に奏者鈴木理恵子から人間鈴木理恵子に
好感を持てるようになった気がした


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

47年前の今日、僕はバイロイトにいて、、、

2023年08月19日 09時42分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

初めて見た(聴いた)オペラ(楽劇)がバイロイト祝祭歌劇場での
「トリスタンとイゾルデ」だったのは極めて特異な例だろう

47年前の今日、8月19日、自分は当時西ドイツのバイロイトにいた
そして世界中のワグネリアンが集まる祝祭歌劇場で
「トリスタンとイゾルデ」は始まるのを待っていた

その入場チケットが上の写真の一番右側で、62マルクだったが
えらく安っぽいチケットだ

チケットが手に入ったのは偶然で、あるおばあさんのおかげだ
チケットがない僕等は「ズーへ・カルテ」と書いた紙を持って
祝祭歌劇場の前に並んでいた

そこで知り合った学生さんのアルバイトの女性

彼女らは演奏が始まると劇場内にいて、「愛の死」で終わる頃には涙を流していた

自分は何から何まで初めてなので、全身で音楽を感じようとした
日本での公演のように字幕が出るわけではないので、ストーリーは想像の世界だ
もっとも、事前に大枠の内容は予習していたが、それでも大半の会話はわからない

でも良かったのは一幕の毒薬ではなくて惚れ薬のお酒をお互い飲んだ場面
あのトリスタンとイゾルデのメロディが、ハープとヴァイオリンで奏された時は
なんと効果的なのだろう、、と実感した
その前の運命のモチーフで緊張感を煽る場面も言葉は分からないがドキドキしながら聴いた

二幕はなんと言っても愛の二重唱の場面が印象的
特にブランゲーネの警告は一度聴いただけで心に残った

三幕は暗くて沈鬱な前奏曲とそれに続くイングリッシュホルンの独奏が
トリスタンの心情を表現、(この部分は一幕の前奏曲よりも好きかも)

この「トリスタンとイゾルデ」のあと、翌日の「パルジファル」と
もう一度「トリスタンとイゾルデ」を体験することになった

今は昔の思い出だが、これはとてもいい経験だったと思っている
形として何かが残っているわけでないが、
自分の脳内にははっきりと記憶として残っている

祝祭歌劇場でチケット探しに勤しんで時、指揮者のホルスト・シュタインが近くを
通ったのでノートにサインをしてもらった


バイロイト祝祭劇場では幕間の時間にテラスでファンファーレが演奏される
これがとても雰囲気があって良い

バイロイト音楽祭は今も相変わらずチケット入手が難しいようだ
少し前まではもう一度行ってみたいと思っていたが
それができる時間もなくなりつつある

人は自分の過去を正当化しないと辛い
あの時の自分は今の自分と同じだろうか
今は、経験を積んでもう少し良い人間になっているのだろうか

過去を振り返っているばっかしでは生産的ではないが
過去を振り返る時間は、とても大事と感じるこの頃


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第9回 町民学習会の講演会」に行ってきた

2023年07月11日 10時19分34秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

久しぶりに真面目な話

裁判は不完全な民主主義を補う制度だとしても経験しないで済む方が良いに違いない
弁護士によれば裁判は「勝ち負け」を争うものではなく「解決策」を感情的にならず
理性的に詰めていくものとの考えがある(講演会で聞いた話だが)

建前上、行政の予算等は議会の議決で承認される
この時、多数決で決められたとしても、どうにも住民が納得できない場合がある
近隣の自治体、東栄町でそのようなことがあった
東栄町では診療所、保険福祉センター、子育て支援センターが同居する複合施設
「東栄ひだまりプラザ」の建設に際し、町は国の交付金1億4227万円を当てる計画だった

ところが事態はそうはならなかった
予定していた頼りの交付金は補助対象にならないとされたのだ
(国の担当部署からは対象にならないことと、計画の訂正等を要求される内容の
メールが届いていた  裁判の証拠として明らかにされていた)
そこで行政は別枠の交付金(過疎債)に切り替えることにして
どうやら議会でも承認されたようだ

ところが東栄町の勇気ある有志は金が認められないを知っていたのに
結局は余分なお金を払うことになったこの事態に対し
「事前の県と国との協議が足りず町に損害を与えた」として、手続きを踏んで
町長に対し4268万円の返還(町への)を求めて行政裁判を起こした

この裁判は、何回か行われているうちに何故か国の交付金に急遽目途がついて
町が損したと思われる金額はクリアされることになった
こうして裁判上の争点が無くなったので原告はこれ以上裁判を継続する意味がないとして
訴えを取り下げた

この一連の顛末及び解説が、担当の弁護士を呼んで講習会(勉強会)という形で
7月9日(日曜日)行われた


学習会と名付けられたこのチラシは、販売店の判断で新聞折込はできなかった
ちなみに、折込ができたのは反対の立場の町議が発行したもの


自分も実感するが、田舎で長く住んでいる人々は争い事をなるべく避けるようになっている
裁判を起こした人々を先に有志としたのは、若干の混乱が生じるとしても
止むに止まれぬ思いで裁判という行動を起こしたからだ

この日の会場には新城市から6名が出かけ、大手メディアの方が1人
町民が20名くらいいたように思う(数えなかったのでアバウトだが)

地方自治法の中にある制度としての裁判、その意味等、そして今回の場合を
講師役の弁護士が公演した後、休憩を取った後質問タイムとなった

ここで驚いたのは、女性の質問が多かったことだ
裁判の原告代表も女性だった
田舎だから年寄りが多いと勝手に思っていたが、現役とまではいかないが
それでも十分若い人たちが、素朴な質問を繰り返していた
質問の質とかレベルとは関係なくどこか羨ましい思いを持つものだった

講師役の弁護士は、東栄町の有志たちの姿を見て「なんとか町を変えよう」
とするエネルギーを体感したという
そしてそれは宮城県で経験した住民たちのエネルギーとそっくりとも言う

物事が変わるにはちょっとした事柄や、少数の行動から始まるが
つい自分の住む新城市と東栄町の比較をしてしまった

東栄町の人口は2313名  会場に来た人は20人とすると 0.7%の人が関心をもっているとなる
これを新城市と比べると、新城市の人口は42336名だから 0.007をかけると296人となる

残念ながら新城市で進行中の行政訴訟について、関心のある人が296名
いるとはとても考えられないのが現実だ
(メンバー構成とか伝え方とか大いに反省する必要があるが)

女の人の力、勇気を持って行動に出ること、継続的に勉強することで
どんどん賢くなっていくこと
そうしたことが東栄町で行われていることは、とても刺激になる

新城市は新庁舎建設の騒動以後、いろんな問題が起きている
しかし、騒動と感じるのは一部の人に過ぎず
市民自治を標榜する割には行政お任せになっている

と言って、愚痴っても仕方ない
とりあえずは東栄町並の0.7%の人に関心を持ってもらうように
なにかを考え行動しなければ、、

ところで、交付金の対象以外だったものが急に支払われるようになったのは
なぜでしょう?
そこには政治的な力(自民党を主体とする)が働いたと容易に想像できるが
この事によって一部のひとは政治屋さんに借りができたことになり
次回の選挙の票を確保することになるだろう

選挙が民主主義と言われるが、選挙にはもっと別の力が働いている
補助金とか交付金というのは、なんだか与党の賄賂のような気さえする


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どうする家康」出演者によるトークショーに行ってきた

2023年06月12日 10時06分29秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

応募件数は1596組(1組2名)
来場者は新城市内の人が6割
北は栃木県、南は九州から(応募だっかた当選者だったか忘れた)
1200名来場予定の文化会館大ホールは、キャンセルする人も少なくほぼ満員だった

昨日の6月11日、2時から「どうする家康」出演者によるトークショーが行われた
登場人物は、いずれも前回(6月4日)のドラマで主役級の役割を担った
(新城市に関係のある)鳥居強右衛門役の岡崎体育氏と亀姫役の當真あみさんで
印象の鮮明なうちに!と日程調整をしたものと思われる

司会はNHK名古屋放送局のアナウンサーで、夕方に「まるっと!」に出ている方
(自分は知らなかったが会場の多くは知っていたようだった)



写真のように2名の入場の権利を得たので、前回の番組後でサラッと紹介された
強右衛門マラソン(岡崎城から長篠所城まで走るイベント)の主催者の方を誘った

早めに出かけたが、会場に向かって歩く多く人々を見かけたし
会場の空気はどこか祭りを待つふわふわした雰囲気が漂っている
知り合いの人も結構多く見かけた(地元の歴史家とか議員さんとか)

さてイベントの内容だが、印象に残ったところをあげていくと
まずは一時間と予定された時間内にうまく纏められていることに驚いた
トークショーの間、時々時計を見ていたが無駄なくテンポよく
退屈することなく(あれ以上長いと飽きてしまうかも)進められた
司会も凄いが、答える岡崎体育氏もと當真あみさんも的確な話っぷりで
多くの観衆の中で大したものだと感心した

前回の鳥居強右衛門のエピソードで、日本国中のある程度の人に彼の名は知られたようだが
歴史の記録のうち数日間しか出てこない鳥居強右衛門は、最初はこれほど大きく扱うつもりはなかったそうだ
ところがドラマ関係者がロケハンで新城に訪れると、鳥居強右衛門の磔の看板やらがやたらと目立って
新城でこれだけ大事にされている人物を粗末に扱うことができない!
とほぼ一話彼を中心とした物語を設けたそうだ

鳥居強右衛門役を引き受けることになった岡崎体育氏は、鳥居強右衛門のことをいろいろ調べたが
「磔になって死ぬのか!」と思ったそうだ
確かに鳥居強右衛門といえば磔の絵だ
会場にはこんな絵が飾ってあった


岡崎体育氏はミュージシャンということでドラマの中で歌うシーンがあったが
作詞は別の人だがメロディーは岡崎体育氏が作ったそうだ
興味深ったのは音楽にも時代考証があって、その時代にはありえないメロディ等
のチェックがなされたそうだ

それと記憶に残ったのは(岡崎体育氏によると)手の扱いについてだそうだ
鳥居強右衛門が磔で死ぬシーンは、手が力なく垂れるような映像で残酷なシーンは避けられたが
ドラマではあと二回重要な扱いがなされたそうだ
汚い手でさわるな!というところと、汚い手でも触ってくれたというシーンがあったらしい
(自分は全然覚えていなかった)
ドラマ制作者は、こういう細かいところにこだわりがあるのだろう

トークショーは歴史の話ではなくドラマ撮影の話が中心だ
岡崎体育氏の話で印象的だったのは
武田勝頼の役を演じた千葉真一さんの息子さん(真栄田郷敦)の演技のこと
徳川は長篠を見捨てた!と言うように武田勝頼が強右衛門に言い寄るシーンがあるが
その時の勝頼役の眼力がすごくて、吸い込まれそうで役に関係なく思わず説得されそうになったそうだ
それを演技力というのか、役者さんのもっている力というのか分からないが
この話を聞いた後だから、夜の設楽原の戦いのシーンの本放送では武田勝頼役の役者さんの目を
じっと見てしまった(なるほど、凄い眼力と納得した)

亀姫役の當真あみさんは現在16歳
トークショーの前に、亀姫のお墓のある大善寺にお参りにいった時の写真が会場では大写しにされた
普通のドラマは架空の人物だが、こうして実在の人物を演じるのは
少しばかりプレッシャーがあるようだ(二人ともそう感じたそうだ)

前回の放送で、家康と信長がピリピリと緊張感のある状況になった時
亀姫が「どうか仲直りしてください」と難しい言い回しではなく
その年令の女性がいいそうな言葉遣いで放ったことに
當真あみさんはリアリティを感じたそうだ

思い出せばもう少し覚えていることはあるかもしれないが
大きく印象に残っているのはこんなこと

ところで今更ながら、岡崎体育氏が鳥居強右衛門を演じたのは必然であった
かもしれないと思えてきた
鳥居強右衛門は長篠から岡崎、岡崎から長篠まで走った人で岡崎という言葉と深い関係がある
彼をこの役に抜擢した人はそれを考えたのだろうか?

最後に一つ明るい話題を!
昨日会場で明らかになったことに岡崎城から長篠城まで走るイベント「強右衛門マラソン」は
来年はちょっとした驚きの人物が参加するらしい
さてその人物とは、、、(見当がつく思われますが、、、)

会場はこんな雰囲気だった



新城城主、奥平信昌と亀姫のゆるキャラ
そして鳥居強右衛門の紙芝居

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫式部日記異聞(2)

2023年03月18日 18時54分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「紫式部日記異聞」

幕が上がると、そこはまるでひな壇のようだった
十二単を着た女性がズラッと並び色鮮やかで
視覚的なつかみも、絡み合うコーラスもまずまずで
物語への期待が膨らんだ

「紫式部日記異聞」と題されたミュージカルは
地元豊橋のグループの完全オリジナルのミュージカルということを
最後の挨拶で初めて知った

なるほど手作り感満載の舞台だった
洗練されているというより、勢いとか熱気が優先して
あまり退屈することはなかった

登場人物は紫式部はもちろんのこと、藤原道長、清少納言、定子、彰子、
安倍晴明、紀貫之、和泉式部、一条帝、紫式部の娘・夫などの実在の人物から
光源氏、紫の上、葵の上、などの物語上の人物で平安時代のオールスターの登場だ

これだけ登場人物が多いとまとまりがなくなるが
そこはなかなかうまい処理をして、中学の歴史の勉強みたいな
この時代の入門編みたいなところがあった

時代の入門編というのは清少納言の有名な冒頭の文章が使われたり
藤原道長のあの満月のうたが紹介されたり
定子が子供を生んだあと亡くなってしまったことやら
土佐日記や竹取物語を紹介されたり、、、
時代の大枠を知っていると楽しめる様になっていた

素人さんの集まり(?)でも起承転結の物語はできていて
プロの作品ほど完成度は高くなくても
いろいろな工夫が見られて面白かった
(現代のテレビ中継風のエピソードなど)

音楽では特に感動すると言うことはなかったが
この舞台で一番幸せなのは演じている人たちだと思う

ただ、この舞台を見に来ていた人たちは
ほとんどが女性だったのが気になった
ブルックナーの交響曲の演奏会は男ばっかりとの印象が強いが
舞台は他の演目でも女性ばっかりなのだろうか

それにしても、世の中にはいろんな分野で頑張っている人達がいるものだ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋でのNHK交響楽団定期演奏会

2023年02月20日 09時52分15秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

一階で前から7列目 少し右より
こんな席でオーケストラを聴いたのは本当に久しぶりだった
この場所が音響的に良いのかどうかはわからないが
その席でしか見えないものや音響があるのでそれを楽しむことにした

名古屋芸術劇場コンサートホールで行われたのはNHK交響楽団

少し前まではチケットは購入したものの、大勢の人の中にいるのは怖くて
行かずじまいの判断をしていたことが多かった
だがそれも流石に我慢の限界にきて、出かけることにしたのだった
(久しぶりだから席も良いものにした)

プログタムは前半がドヴォルザークの序曲「スフ教徒」
ついでシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」

後半がブラームスの第4番の交響曲だった
指揮は(現場で見ると)アンドラーシュ・シフに似た容貌のヤクブ・フルシャ
ピアニストがピョートル・アンデルシェフスキだった

前半の2曲は聴いたことがない
聴いたことがない曲はそれはそれで楽しみがある
何事も最初の印象は大事で、その時感じたものは一番素直に心に響いたものだろう
そしてそれは、どこに向かうかわからない連想の連鎖につながる

フス教徒は、音楽の展開は音楽の内的な必然性に基づいているのではなく
おそらく外的な要因(台本があってそれに従っている)と感じてしまった
つまり描写的な音楽と感じたわけだが、あとでプログラムの解説を読むと
演劇用の音楽として作曲依頼を受けたものとのこと
それで音が音を呼ぶというよりは、物語の説明的な音楽になったと思われる
そのように自分が感じたことはあながちハズレでもなかったことが
すこし嬉しい感じだった

シマノフスキの音楽は生で聴いてよかったと実感した
この曲を録音媒体で聴いたならきっと途中で聴くのを止めただろう
後期ロマン派よりも後の時代の作曲家で
音楽の重要な要素の一つであるメロディーは
美しいというよりどこか精神に引っかかりをもたらすようなものになっている
音響も同様で、大音響でなっている音は秩序の中の音というよりは
何か(例えば苦痛)を表現する音響のように感じたりした
この音響は何に似ているのだろう、、と思い浮かべながら聴いていたが
バルトークかな、、と勝手に思ったりした
こうした連想の羽ばたきがライブは面白い

後半のブラームスになると、普通の旋律があるということのありがたみを感じるのだった
メロディというよりは短いモチーフかもしれないが、
少なくともシマノフスキよりは数段聴きやすい
4番はブラームスの交響曲の中では一番好きな曲で
秋から冬になると必ず聴きたくなる曲だ
メランコリックなモチーフが演奏楽器を変えて展開していく
昔は少し女々しいと思ったが、今はその女々しさの理由もわかる気がして
むしろ共感を覚える感じだ
この曲はナマで聴いていても、良いことではないかもしれないが
ついついフルトヴェングラーの凄まじい演奏と比べてしまっていた
第1楽章終わり近く、楽器同士が競うように鳴らしあったあと
ヴァイオリンに任された部分がフルトヴェングラーの演奏では
ものすごいスピードにテンポアップしてハラハラ・ドキドキするのだが
その演奏を知った後ではどこか物足りなくなってしまうのだった

と言っても、録音媒体ではよく聞こえない音・フレーズが良く聴こえるのは
ナマならではのこと、やはりナマは違う

あれっ、と驚きを感じたのは第3楽章の音が出た時だ
音が揃っているのか、気合が入っているのか、、とにかく今までの音と違う
不意にオーケストラメンバーはこの楽章を徹底的にリハーサルしたのではないか
と妙な確信をもってしまった
その勢いは最後の楽章まで続いて、ナマならではの音楽の高揚感がもたらされた

この4番の交響曲の最終楽章は演奏がまずいと(あるいは解釈がまずいと)
終わった気がしない音楽になってしまう
何か中途半端に放り出されたまま急に終わってしまった、、
という気分になってしまう
流石に聴き慣れてきているので、この演奏ではそんなことはなく
ブラボーの声がでるくらいの熱演だった

チケットの料金と満足感とそれに要する時間
最近は自分にとって料金の基準はなんだろうか?と考えてしまう
田舎から交通費をかけて名古屋まで出かけて
安くないチケット代を支払って、、、
でもそれが価値あるものと感じるのは
今の年齢へのご褒美なのかもしれない

今実感しているのは
何事も行ける時に行っておかないと行けなくなてしまうということ
来月も何か選んで行くことにしよう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの宗次ホールと二回目のミロ展

2022年06月13日 09時27分45秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

本当に久しぶりに宗次ホールにでかけた
朝に出し物を調べると田部京子さんのピアノリサイタルとあって
当日券が有ればラッキーで、ついでにミロ展2回目を見ることして
とりあえず名古屋に向かった

やっぱり生の音は良い
音の出口がスピーカーより大きいので、空気の振動が全体的で
包まれる感じがする
プログラムはブラームス、シューベルト、シューマンの作品だ

これらの作品は初めて聴く作品だ
もしかしたら、聴いているかもしれないが間違いないのは
印象には残っていないということで
自分にとってはシューベルトもブラームスも
作曲家としてはどこか物足りなくて相性がいいとは言えない

シューマンは「詩人の恋」とか「謝肉祭」は好きなので
この二人ほどの違和感はない

生の演奏会というものも慣れが必要なのかもしれない
しばらくご無沙汰していたせいか、なかなか集中ができない
それでも楽しんだほうが勝ちということで、初めて耳にする音楽から
色々連想することに気持ちを入れ替えた
初めて聴くと演奏家の比較はできないので、音楽自体が作曲家の視点で迫ってくる
つまりは作曲家の個性とか癖がより強く感じられるような気がする

初めて聴く音楽は、まるでキース・ジャレットのソロコンサートみたいだな
と漠然と頭に浮かんだ

ブラームスもシューベルトも旋律依存の高い作曲家のような気がする
と言っても作曲技術をとやかく言えるほどの知識はないので漠然とそう思うだけ
でもベートーヴェンのようなかっちりした感じはないし、モーツァルトのような
直感的な迫る様子もない
ピアノという楽器に対する効果的な演奏アイデアも、どこか物足りなくて
モヤモヤしている感じがどうしても残る

それと比べるとシューマンは良かった
「詩人の恋」のピアノ伴奏もヴォルフのピアノ伴奏並みに雄弁で
ピアノパートを聴くだけでも楽しめるが、今回のプログラムも
前の二人に比べるとピアノの特性を発揮しているような気がした
(と素人の自分は思ったということ)

この演奏会の前に、近くの愛知県美術家で開催中のミロ展にでかけた
2回目だから前回よりじっくり見られた
ここでも変なことが印象に残った
それはミロの作品ではなく、ミロを紹介するコーナーに
ミロの工房がものすごく大きな写真があって
その工房には彼の作品が無造作に並んでいた
その落書きのような作品群の迫力のあること
まるで子どもたちが何人もそこにいるかのような雰囲気だ
彼はこの場所から離れたくないだろうな、、などと連想は広がった

前回も写真撮影の作品には遠慮なく撮影させてもらったが
今回の撮影可能なコーナーはこちら


この訳のわからない絵も好き
前回は購入しなかったミロのグッズも、少しだけ手に入れた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミロの展示会(撮影可能な作品があった)

2022年05月08日 09時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

なぜ好きなのかを説明するのは難しい
だが好きになった瞬間のことははっきり覚えている

昨日、本当に久しぶりに名古屋まで出かけた
お気にいりのミロの展示会を見るためだ
(ミロ展 日本を夢見て 愛知県美術館)
会場はそれほど混んでいるとは言えない
その分ゆっくり見られていい

自分が好きなのは後期の部類にはいるのだろうが
黒と赤と黄色とか緑を使った落書きののような絵
なんだかよくわからないが、とにかく愛着感を覚えるのだ
(安心感も)

そうそう、これこれ、、、と思いながら展示作品を見てると
作品の隣にカメラの印があって、撮影可の文字があった
SNSの投稿も可能ともある

そこで遠慮なく撮影したのが

上の作品は今回の展示会の紹介に使われているもので
馴染みがあるが、大きな画面を目前で見るとまた違った印象を持つ

そう言えば東京上野の西洋博物館に展示されているミロの作品も撮影可能で
2016年にちゃっかり撮影している
それが


誰でも描けそうな単なるいたずら書きみたいだが、遠くから見ていても
ミロの絵がある!とすぐに分かって吸い寄せられるように近寄った

何が良いか、なぜ好きかは言葉にしにくい
食べ物を味わってる本人が美味しいという表現でしか言えないのと同様に
好きだという感覚は、、共通項は感情の面ではあるかも知れないが
言葉の世界ではどうも不十分な気がしてしまう

ミロを知ったのは、そして一気にお気にいりとなったのは
豊橋にかつて存在した西武百貨店のイベントがきっかけだった
ある時、版画の展示即売会をやっていた
本当に何の気無しに覗いただけだったが
ある絵の前で釘付けになった
それはハガキよりも少し大きなくらいの絵(版画)で自分には
その絵から不思議な空気が発散されているような気がした
優しさとか温かさ、、それがほんわかと溢れていて
なんだこれは、、と作者名をチェックして
それがミロだと覚えるきっかけとなった

以後、ミロに関する情報はいろいろ目に入るようになって
岡崎で行われた展示会も見に行ったし
彼の作品が多く載っている本も手にした

こうなる彼の作品を手元に置きたい
と思うのは自然のことだが、本物は気楽に求められる金額じゃない
豊橋の画廊にも版画の作品があったが、金額面だけでなく
もっといい作品(気持ちにフィットした)はないのだろうかと迷ってしまう

ということで、手元にあるのは展示会でお土産用に売られていたハガキが数枚
その中で、額に飾って目につくところにあるのがこの絵


抽象的なので、なんとでも味わったり理解しようとすることができる
でもそんなことを思うより、ただただ良いなあ、、と思うことのほうが
より楽しめるような気がする

バルセロナにはミロの美術館があるらしい
そこには行ったことはないが、自分には有名なガウディの建築物よりも
ミロのほうが気になる(ペドリのいるバルサも気になるが)

この展示会は7月3日まで開催されている
昨日は久しぶりの外出で疲れてしまい、本調子がでなかったから
気分を改めてもう一度行くことになるかも、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする