パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

人は何をしでかしてしまうか

2015年09月30日 22時14分55秒 | あれこれ考えること

ドイツ好きの自分としては残念なニュース
フォルクスワーゲンの排出ガス規制の不正

この事件がドイツのみならずヨーロッパ全体に及ぼす影響とか
トヨタと販売台数世界一を争っていた中で
追いつめられてついやってしまったとか
何故チェックできなかったのかとか
そういう問題ではなく、今日取り上げるのは
「人間は何をしでかしてしまうか 」という点

一般的には社会的・経済的地位が高く成功者の人びと
でも、やってしまった 
それが悪いと知りながら、いつかばれるかもしれないと思いながら
でも、やってしまった 

どうも人間という存在は完全ではない
どんなに反省を踏まえたうえで二度と起こさないシステムを
作り上げても、必ず問題を起こしてしまう

警察だから犯罪をしないということも確率的にはないし
教師だから道徳的に優れた人間とは限らない
それこそどんな集団も多分同じ確率で様々な事が起こる

そう言った不完全な存在だからこそ、ものすごく大事なことには
大いに保険をかけて失敗しないようにするのは必要
ものすごく大事なこととは、戦争をしないこと

人間は感情の生き物
何をしでかすかわからない
といった人間に対する不信感を前提に
世の中のシステムを決めていかなければならないことがある

権力を持ってしまったら人は何をしでかすかわからない
これは、現在地元の市でも、国内でも身にしみて実感している
のは残念なこと

ホント、誰でも人は何をしでかしてしまうかわからない
そして、何かをしでかしてしまうのは特別な人ではなく
ごく普通の人もしてしまうかもしないということ

そういった人間に対する想像力・洞察力
それらが欠けた人たちがリードする立場になっているとしたら
(今はそんなふうに思えて仕方ないが)
ちょっと心配どころではない

 


 

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少数と多数を前にした時の発言の違い

2015年09月28日 10時04分38秒 | あれこれ考えること

大勢の前で話す時と少数の人を相手に話す場合とは
当然話し方が違ってくる
どこまでを少数というか厳密な定義付けは横においておいて
最近ではSEALsの代表 奥田愛基氏の発言にその違いが見られる

9月15日 参議院の中央公聴会で行われた意見陳述は
冷静かつ客観的、説得力をもち素晴らしいものだった

意見陳述全文 

しかし、よくありそうなことだがデモの現場では
端的な短いフレーズの、しかも攻撃的な言葉が使われる

 憲法壊すな!
 集団的自衛権はいらない!
 国民をなめんな!
 安倍はやめろ! 

これを同じ人物が発している(SEALsのシュプレヒコール)
片方は理性的、片方は感情的(特に最後のやつは)

少数を相手にするときは説得を目的とした話し方
しかし多数を相手にした時は熱狂を目指したアジテーション
目的が違う

実際のところ困るのは、大きな集団になればなるほどシンプルな
端的な、攻撃的な言葉のほうが効果的に思えてしまうこと
「何々だから何々で、だから何々しよう」といった語り口は
多数を前にした時は余りにもまどろっこしい
「要は何なんだ?」と群衆は求めてしまう
それで、シンプルな言葉の羅列になってしまう 
そして攻撃的なフレーズ故に全体が煽られてしまう

ところで、そうは言うものの自分が参加した8月30日のデモは
こうした傾向はそれほど見られなかった
確かに一部ではこうした言葉も叫ばれていたが
どちらかと言えば、そうした発言よりはもっと穏やかな感じだった
それはデモに慣れていない恥ずかしがり屋の一般市民が参加したためかも知れない

デモとかこうした活動を劇的に効果的に行う事は
ある種の人間にとってはとてつもなく面白いことのように思えるかもしれない
その内容よりも、戦術としての視点から
しかし、これは大きな危険性を孕んでいる
起きなくていい対立を知らないうちに引き起こしてしまうかもしれない
(もしかすると、それを望んでいる人びとがいるかもしれない)

最近、まともな示威行動とは何かと考えると
ガンジーさんやマンデラさんの一見無力のような行動が
とてつもなく貴重なことのように思えてくる

少しづつ、真面目に、しかも間に合うように
結局、何事も継続的に取り組むしかない
国の問題も、新城市の問題も! 

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携帯料金が高いのは、テレビ局の電波利用料が安いため?

2015年09月28日 05時58分44秒 | あれこれ考えること

安倍首相が突然、携帯電話料金の引き下げを求める
発言をしたものだから、思い出したことがある

それは一部の週刊誌で採り上げられ
ある時期の民主党の中でも問題視され
しかし、テレビ報道ではなされない問題 
テレビ局の電波利用料負担のこと 

放送局は国から周波数を割り当てられて行っている
許認可事業であるが、放送局は国に対して
「電波利用料」を支払っているが
その利用料金が異常に低い

週刊ポスト」が情報公開請求によって入手した資料によると、各局の電波利用料は次のようなものだ(2008年実績)。

☆NHK       14億8700万円(事業収入6644億円 比率0・22%)
☆TBS       3億8500万円(  同  2727億円  同0・14%)
☆日本テレビ    3億7600万円(  同  2777億円  同0・14%)
☆テレビ朝日    3億7000万円(  同  2209億円  同0・17%)
☆テレビ東京    3億6000万円(  同  1075億円  同0・33%)
☆フジテレビ     3億5400万円(  同  1717億円  同0・21%)
☆地方局など    9億1251万円(  同 1兆2525億円  同0・07%)
☆全国128局計  42億4641万円(  同 2兆9676億円  同0・14%)

   全国計で見ると、テレビ局は42億4641万円で電波を仕入れ、
それに番組やCMを乗せて受信料収入や広告収入で2兆9676億円を売り上げているということ。
事業収入に対する『仕入れ料』比率はわずか0・14%である。

一方携帯会社の電波利用はテレビ局の数字とは大違いに高く
それが結果的に個人の通信料が高くなっている理由とされる

財政に余裕のない国はこの電波利用料を
諸外国のようにオークションで決めるようにすれば収入が増えるし、
携帯会社も負担が少なくなれば通話料の引き下げも可能となるはずなのだが
(そのようにしようと動きがあった) 

しかし今この問題は、何故か何事もなかったかのように忘れ去られている
そして、電波利用料をテレビ局を払い、その金額が一般企業の視点から見れば
不公平と思われる事実も(多分)国民の間には知られないでいる 

世の中には不公平なことがたくさんある
知らないと別に気にならないが、一旦知ってしまうと
単純にそれでいいのか!と思えてくる

政府(行政)が許認可権を持ち、
その料金さえもコントロールできるとしたら
報道の方向性は公平・公正に確保されるものだろうか

特に最近の安保関連に関しての一部のテレビ局の報道を見るにつけ
不安を感じてしまうのは自分だけではないと思う

それにしても、テレビ局の電波利用料については
オークション制度を取り入れるべきと思うが、、、
 


 

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「抱く女」(桐野夏生)を読んだけど

2015年09月27日 19時59分41秒 | 

どうも最近は小説の類が読めていない
読みたいと思わせる本がないのと、
今はそのモードに なっていないせい
又吉直樹の「火花」も書店で文芸春秋を手にとって
パラパラと冒頭を追ってみたが、思いの外一つのセンテンスが長く
そのリズムが今の自分には合っていないように感じられて
今のところはパス

代わりに購入したのが桐野夏生の「抱く女」
この作家の作品は読んだことがない
ただこの作品は自分が学生時代の、あの妙に熱っぽい世相を
書かれている様で何かしらのインスパイアされるものがあると
期待したのだが、、、

著者には失礼かもしれないが、そしてこの作品は彼女にとって
駄作かどうかわからないが、自分としてはすぐに忘れ去られる作品
確かに麻雀をしたりすることは自分の学生時代にもあった
ジャズ喫茶も、そうしたシチュエーションはわかる
でも何か違う 
同じ時代を扱った女性の作家のものに小池真理子の「恋」があった
こちらの内容も例のごとく覚えていないが、これは妙な熱気がある
こうした差は作者の筆力(描写力)によるものか
それとも受け手としての自分のコンディションのせいなのか

いずれにしても、主人公の男に対する猛烈な思いは
小説的な空間かも知れないが
余りにも唐突過ぎてちょっと違和感を感じる
(桐野夏生のファンには少し申し訳ない)

あの時代の雰囲気は「ノルウェーの森」村上春樹
「されど我らが日々」柴田翔
高橋和巳「我が心は石にあらず」とか「邪宗門」
それに多少ニュアンスは違いかもしれないが
福永武彦の「草の花」とか 「海市」のほうが感じられるかもしれない
もっともこれはみんながそう感じられれるというのではなくて
個人的な思いに過ぎないかも知れない

とにかく今は小説に関しては読書モードになっていない 

読書モードになっていない時は、一旦お気楽なミステリーを読むと
一気に読書モードに入ることができる
その意味では今興味があるのは「生還者」下村 敦史
これは書評などではかなり高評化

しかし、よく見ると見かけの本ばかりが散らばっている
先ずはそれから済まさなければ、、、?

 

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チャップリンの感動的なスピーチ

2015年09月26日 08時54分13秒 | あれこれ考えること

無気力・無感動・無関心が世の中にあるもっとも忌むべきもの
と言われる

一方その反対の極にいる人達がいる
積極的に活動し、人が喜ぶ姿を見て自分のことのように歓び
美しいものにも不正なものにも感度良く反応する

公に発言する機会をもつ人びとは その立場を使い
できることなら少しでも世の中のために使ってほしいものだが
その立場を立派に活用している動画を知った

チャップリンの有名(らしい)な動画 

なんと素晴らしいことか
スピーチライターの感情のこもらない言葉ではなく
豊かな教養に基づいた感情の発露

こうしたスピーチを政治家さんに聞いてもらいたい
と思うのは多分自分一人だけじゃない

 

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イラストで読む万葉集(大津皇子が気になる)

2015年09月25日 10時51分02秒 | 

瀬戸内寂聴さんが漫画で源氏物語を読むのもあり!
と発言されたこともあり、気楽に図書館で借りてきたのはが
イラストで読む万葉集

イラストは里中満智子さん
里中満智子さんは「天上の虹」で持統天皇の物語を描いて、この時代にも詳しい方
(と言っても自分は天上の虹は読んでいないが)
そして、万葉集から幾つかを選んで解説しているのが米川千嘉子さん
(この人は申し訳ないが存じあげない)

この本で一番気に入っているのは字が大きいこと
老眼が進んだ目に優しい
そしてその収納された歌のボリューム
多すぎず、少なすぎず、集中力が続く範囲内
そして歌の選び方が良くて、有名なものでなくても
心にすっと入っていく

しかし、深く理解しようとすると手こずるのが人間関係
誰と誰の子が誰で、その誰かは天皇とどんな位置関係にあるのかなどなど
章に分かれた冒頭にページを割いているのだが
残念ながら頭に入っていかない(ホント情けない)

それで、つい面倒になって人間関係は無視して歌だけを
味わおうとするが、それでも万葉集の歌以外の地の部分が
分かればその面白さはより深まる

昔は多分万葉集の中で一番有名な

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
 (額田王)

紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも
(大海人皇子)

これが好きというか気に入っていた

しかし、人間関係を多少なりとも知っていくと興味深いのが
持統天皇の息子の草壁皇子のライバルの(持統天皇のお姉さんが産んだ)
大津皇子とそのお姉さんの大伯皇女

大津皇子は可哀想な人で、今で言う権力闘争みたいなものの被害者
あらぬ疑いをかけられて刑死までに至ってしまう
しかしお姉さん(大伯皇女)は弟が危険な状態なのは薄々感じていて

我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我れ立ち濡れし

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ

と弟に向けて歌っている 
少しばかり単純な姉弟の関係ではなさそうな雰囲気が感じられるが
何かしら切実な感じが 心を打つ

大津皇子はお姉さんにではなく、恋人にセンスのある歌を送っている

あしひきの山のしづくに妹(いも)待つとわが立ち濡れし山のしづくに

少しばかり変な言い方になるが、みんな格好いい
教養として、あるいは実際の何らかの手段として
こうしたものをサラッと作って残していけるのは

ところで、「天上の虹」は持統天皇を主人公とした物語
彼女が策略した大津皇子の事件を里中満智子さんは
どんなふうに(多分持統天皇寄りの立場で)描いているのか
少し興味があるが流石に図書館には漫画はないし、、、、(残念!)

 


 
 

 

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新城市の鳳来寺に響く篠笛

2015年09月23日 09時26分53秒 | Weblog

今度は晴れてよかった
野田城伝・3つの笛がたり・月見の宴と続く
「笛の盆」のイベントの2番目
新城市にある鳳来寺山の仁王門の前で行われる
「語りと篠笛のコンサート」が
昨日(9月22日)行われた

鳳来寺の仁王門まで来るのは小学校の遠足以来で
記憶の片隅にあるのは、硯石屋さんがあったということ
なんでこんなことを覚えているのか分からない

何十年ぶりに登る鳳来寺の石階段
こんなに登りにくいものだったかな?
一歩一歩ゆっくり歩いて石の上に足場を確保しても
体のバランスはグラグラして自分の体幹の弱さを実感して
少しショックを覚える
(雨などで土が流れて岩がむき出しになって歩きにくくなっているとの想像もつく
いくら子供の頃は体が軽いとはいえ、こんなに歩きにくかった記憶はなかった)


篠笛を聴くのは初めて
仁王門を過ぎて階段を椅子代わりに座る
比較的後ろに位置取りして、篠笛が聞こえるのかと心配したが
何の事はないしっかり聴こえた
というより、こんなに篠笛の音は届くのか
と驚く


周りは秋の虫の声、川のせせらぎ、
それでも静寂という言葉がふさわしい杉木立の中に
音が届く
なかなか心地よい
なるほどこれなら武田信玄も笛に誘われてふらふらと
狙撃される場所まで出てしまう気持ちも分からないではない
(野田城で笛の音に誘われて出たところを狙撃された言い伝えがある)

篠笛の音を聞いていたら、尺八の音もこの状況にはしっかりマッチしそう
などと連想してしまった
尺八と琵琶の音が切り裂くような武満徹の音楽(ノーベンバー・ステップス)も
今なら無理なく理解できそうな気がする

一曲は数分間、
奏者の方の話では昨日は湿度が高くて笛本来の音が出にくい
状況のようで、何曲か演奏されるうちに笛が温まって調子が出てきた
とのことだが、素人にはわからない
最初から十分楽しめた

日本人でも日本の楽器で奏されるものを聴くことは少ない
こうして笛を聴いていると西洋の音楽との違いが際立つ
特に今の音楽では当たり前のようになっているリズムというか
規則的な拍(4分の4とか、8分の6とか)がなくて
息継ぎの個々人のタイミングで音楽がつながっていく
そしてメロディーは(耳が慣れていないので違っているかもしれないが)
規則的な繰り返しとか、その一部の変形と言うよりは
あくまでも即興みたいに感じられる
曲を覚えるという意味ではパターン化されていない分だけ(慣れていないだけ)
自分たちには難しいかな
などと、いつものどうでもいいことの思いつくままの連想

この日は他に、語りと笛のコラボの出し物が2つあったが
野外という環境の中にもかかわらず集中してみんな聞いていた

このイベント、帰る道を歩く人が思いの外多く
先ずは成功だったのかも
何よりも降られなくてよかったのが一番だったけど

篠笛の音はこんな感じ 音が遠くまで届きます 

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自由なのは議員を選挙する間だけ(ルソーの言葉から)

2015年09月22日 09時09分13秒 | あれこれ考えること

敬老の日、秋分の日に挟まれた今日は「国民の休日」
少し暇(?)なので、それにテンションも上がっているので
本日二本目の投稿

たまたま興味深い文章を見つけた

「人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。

彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのこと。

議員が選ばれてしまうと、人民は奴隷となり、何ものでもなくなる。

自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、

自由を失うのも当然と思われる」

『社会契約論/人間不平等起源論』(ルソー)より

今、この言葉を嫌というほど実感している人びとは多いのではないか
特に上の3行
しかし、反省を込めて下の2行がある
要は、選挙期間に如何にまともに自分たちは
活動すべきかを説いている

古典は、それなりに名を残した著作は、それなりの価値がある
作者が自らの体験を元に心血を注いで書き上げたとしても
後世の人は残念ながら感覚的に理解できたとしても
実際の思いとなるまでには至らない

それでも、それを知っているか、いないかは大きな差を
人の間に呼び起こす

西洋礼賛をするつもりはないが、西洋の教養人はこうした
先人たちの知恵や反省を、一旦教育という名の試練を受けているのではないか
それは人間としての最終的な判断を誤らないための方法として

話は飛んで、新城市という地方の小都市でも
首長の権力はとても強いものだと感じることがある
極端なことを言えば、首長になってしまえば何でもできる
予算を提出すること、判断を下すこと、伝えたい情報を発信する
手段を持つこと、そして人事権や効率的な組織を持つこと

これは全部が全部ではないが一歩間違えば
権力の暴走を招く可能性がある
この危険性を感じているからこそ、そのブレーキ役としての
法整備や組織が存在するのだろうが
残念ながら、、、

国はどうか
権力者の暴走を防ぐシステムは多分憲法
しかしその憲法の上を行く何かが存在して
それを権力側が持つとしたら、、、

人間の何をしでかしてしまうかわからない怖さ
それを多分西洋人は教養という学習の中で身につけており
それをベースにできうるかぎり良い物をつくりあげようとする

それは単純に法的な整合性だけでなく
人間の怠惰さ、不真面目さ、ずるさ、闘争心、攻撃性
と言った負の要素も加味した上での体系ではないのか

たとえ現在がそうではないとしても
人間に対する深い洞察が、上に立って判断をする立場の人には
当然の様に求められる

ここからはいつもの独断と偏見だが
上に立つ人びと、つまり政治家に
こうした深い人間性に対する真摯に向かい合った経験のある
表情をしている人がいるか
その表情に現れているか
もちろん彼らは様々な判断を常に下している
その一つ一つが真摯でなかったとは言わないが
それが得か損かの段階で終始しているのではないか
と思ってしまう

安保関連法案の採決時画面に映った渡邉美樹氏、岸田外相の表情
この人達が世の中を動かすとしたら不安を感じてしまうのは杞憂か


 

 

 

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ラグビーと安保関連法案

2015年09月22日 08時40分00秒 | あれこれ考えること

熱しやすく覚めやすい国民性の日本
気持よく楽しい話題にはついつい乗ってしまう
ワールドカップの優勝候補の南アフリカに勝利した話題
これは結果がわかっていてもビデオを見てしまう
気持ちはわからないでもない 

実際、自分でもそうしたがる気持ちがある

しかし、この一気に盛り上がった話題の影で
安保関連法案の問題が忘れ去られてしまうのが怖い
特に読売系列はラグビーの生中継を抱えているので
この話題一辺倒で押してくるに違いない

他局もこれだけの話題だから無視するわけにも行かず
気持ちよくなれる話題としてヒーロー探し、エピソード探しに
邁進する

そうした普通の生活の影で無関心となってしまわないか
心配なのがせっかく盛り上がった「民主主義」に関することがら

デモを行い、その結果何が足りなかったのか、これから何をすべきか
当事者は身にしみて考えざるを得なく、実際に今後のことも考えつつある

しかし、国民の半数以上が説明不足と世論調査に出ても
強行採決の終わった後の内閣支持率の低下はさほど見られない現実
この矛盾する数字の今後はどうなるのか
(もっとも世論調査は固定電話を中心としたもので、
   母集団の選び方、年齢構成などに偏りがあるかもしれない)

世の中で一番怖いのは、無関心
しかし、現実的にみんなに関心をもってもらうことは無理
(働かない蟻のように働かなければならないと感じるセンサーの
 作動するタイミングが違う)
結局、気がついた人(センサーの働いてしまった人)は
諦めずに閾値を超えるまでまっとうに活動する 
それしかないのかもしれない

今回のラグビー報道で安保関連法案のことが、すっかり忘れるか否か
国民の力が試されるかもしれない 

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強行採決は本当に成立したのか?

2015年09月21日 08時38分05秒 | あれこれ考えること

あの参議院特別委員会の強行採決のテレビ中継を見ていた人は
やはり同じような印象を持つようだ 

あの中では何も聞こえないのではないか
数回にわたって起立したが何に賛意を示したのか
わかっているのか
そのそも審議打ち切りが聞こえていたのか、、、

可決した方からすれば、採決の順番はわかっていたし
迷うことはない
ちゃんと段取りを踏んで行っている
それ以前に野党側の委員会の妨害工作はどうだったのか

でも、やっぱりあれは素人の目から見ても見苦しい
人数構成からしてあんなに無理しなくても結論は変わらなかったはず
なのに、国民の多くが見ている中で何故あんなことをしたのか

あのシーンを見て悲しくなった、情けなくなった
という人が多い(採決の結果ではなく、あのようなシーン)
確かに子供には見せられないシーンだ
大人たちは一体何をしているのだと

前回も述べたが、疑問なのはあの混乱した状態で何故NHKは
すぐさま「安保関連法案 可決」と緊急のテロップを流したのだろう
あの状態では何もわからないが正確な情報ではないのか

時間が早いか遅いかだけの問題で 、結果には大きな違いがないことは
十分考えられる ならばそれだけにちゃんとやればいいのに!

何かこの法案の進め方すべてがここに現れているようだ
理解不足は認識している、しかし、通った後で丁寧に説明していく
それは数を頼りの多数決主義で、審議自体もアリバイ工作に過ぎなかった様に思える
もっともその審議を行う内に出てくるのは矛盾点ばかり
そもそも誰が説明できるのか?
賛成した与党の方々全員が内容を深く理解しているのか

そんなわけで、「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」が
東京大学名誉教授 醍醐 聰さんの呼びかけで始まっている

内容は

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い
http://netsy.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-6f5b.html

賛同いただける方は次の署名フォームにご記入の上、至急、送信下さるようお願いいたします。
http://form1.fc2.com/form/?id=009b762e6f4b570b

申し入れは、賛同者名簿を添えて、今国会の会期末(9月27日)までに提出します。
それに合わせて賛同署名は9月25日(金)10時締切りとします。

賛同される方は是非!

テレビで見ていて感じた素朴な疑問を疑問のままで終わらせるのではなく
たとえ微力であっても今自分ができることを行っていく
それしか手がないのなら、それを愚直に行っていこう

変なのもは変
ダメなものはダメ
ならぬものはなりません

 

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