パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

新城市の新庁舎問題

2015年10月30日 13時01分42秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

市を二分する住民投票になったにもかかわらず
新庁舎建設の見直し、その後の進展状況は
時々新聞に断片的に報じられるだけで
多くの市民は残念ながらそれで知るしか無い

しかし、新聞報道はスペースが限られるために
上手くまとめられているものの
詳細に伝えることが出来ていなかったりで、
ともすると 途中経過の報告であるにもかかわらず
決定事項の様な印象を読者に与える

先日新聞各紙に市長が発表する
新庁舎の見直しの概要が報じられた

地元 中日新聞は

朝日新聞は

ここで注目する点は30億円と言う数字
この数字、どこかで見たような数字だが、新城市民は住民投票の際に
選択肢2を推すグループが総事業費の上限とした数字であることは
印象として覚えているかもしれない

しかし、新聞に載っている30億という数字は本体工事の目標額のこと
よく読めばそんなことはキチンと書いてあるが、そそっかしい人は
選択肢2(3階建て30億)の勝利に終わった住民投票の結果を
踏まえていると勘違いしてしまう
(現実に署名活動を行い選択肢2を勧めたある方も
勘違いしていて住民投票通りになったねと声をかけてきたという) 

実際はこれに他の費用が追加されるから、住民投票の争点での
数字の扱いからすれば、当初の計画(50億)から(おそらく40億強)
の変わったということで、選択肢2の30億円はあまり関係ない

しかし、ここで市民の記憶の中に残っていると思われる
30億という数字を、市長がわざわざ新聞各社に伝えたところは
確かに政治的(広報的)なセンスを感じさせる行為だ
(それが良いか悪いかは別として) 

それにしても、新聞社に対して自分の好きなタイミングで
自分の好きな内容でリリースできて、
その内容をそのまま信じてしまいがちな人びとの特性を
熟知しているとしたら、その立場の人はある意味非常に大きな権力を
持っていることになる

これは、本当に要注意だ

ところで、その建設目標額と同時に発表された配置案
前々から伝えられているように地下トンネル案(B)

トンネルがない案(A)

 

上記のトンネル案は、前に紹介されたトンネル案が流石に危険と認識したせいか
少し工夫が加えられている
つまり前回よりはカーブがゆるやかになり角度も抑えられている
しかしこの案の決定的な欠点は、結局のところ駐車台数が少なくなってしまうこと

庁舎の西側(図の左側)は誤って侵入した大型車がスイッチバックで
向きを変えるのに必要なスペース
これにトンネルを通るためのスロープを確保するためのスペースも必要とあって
結局、この図では駐車場は思いやり・車いす当駐車場の5台
プラス第一駐車場に5台 (と図には書かれている)
トンネルの先の第2駐車場はスロープの確保があって
駐車台数は33台となっている 

何故か市長はこの案を進めたい意向
トンネル案の安全性はまだ完全に確保されているとも言えない 

同時に出てきた(B)案
しかしこれは実は驚きがあった

図の手書きの矢印がそれで、現庁舎の出入り口は右左折の侵入・退出が可能になっている
少し前までは左折イン、左折アウトしかできないと言われていた 
その理由は、駐車場法と言う法律に関係していて
駐車場の面積が500平米以上あるときは
その出入口等の位置や出入りの方向が(この部分は公安と関係する)
決められるということで、前の計画では500平米以上あったので
公安は左折イン・左折アウトしか認めなかったということ
ところが、今回は500平米以下としたので(それでも駐車台数は33台ある)
今までどおりの使い方をしても許される ということらしい

つまり簡単にいえば、(A)案というのは
体育館跡地に入る、現市役所に入る
ということが今まで通りに出来るということ
もちろん市道東新町桜淵線も同じこと
しかも駐車台数は結構確保できていて
第一駐車場にも22台あると図には書いてある
(第2駐車場は38台)

問題はこの解決方法をいつ気づいたかということ
みんなが散々苦労して悩んでいた問題に
こんな解決方法を思いついたのなら、そしてそれが早いうちであったなら
なるべく早く 提案して欲しかった

使いやすさからすれば、今までの使用方法と変わらない(A)案が
駐車台数も多いし、なんだか良さそうな気がするが、、、

ここまで来て今度問題は基本設計
ここからは又の機会に

それにしても、駐車場の出入り口の問題と駐車場法、公安との件
行政は正しく「求める会側」に伝達できていたのだろうか
行政の提案はいつも記者発表と言う形でしか
なされていないような気がしてならない

いくら市民が市政に関心を持っても
行政の人たちと同様な知識・情報を持っているわけではない
そしてあることを交渉するにも行政の人間でしかできないことがある
言い換えれば市民は行政の人たちに頼るしか無いのが現実だ
(これは議員さんに頼るしかないことと同じだ)

本当は、普通の人たちが必死になって行政や市議が
キチンと仕事をしているかなどと気にしなくても
粛々と問題なくなされるのが一番

しかし現実には、これが一番難しいのかもしれない


 

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聴きやすい(?)現代曲(ペルトとメシアンから)

2015年10月29日 17時12分59秒 | Weblog

昨日アルヴォ・ペルトの曲を紹介したので、もう一つ聴きやすい曲を!
これは時としてアンコールに使われるかも(長すぎるかな?)

鏡の中の鏡 (アルヴォ・ペルト)

この曲を思い出したらメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」のなかの
チェロが活躍する楽章を連想した
 

このあたりの現代曲は緊張感を強いられるものではなく、まあまあ聴きやすい

でも聴く人がいない(?)現代音楽
昔、ラトルの演奏会のアンコールにヴェーベルンのものすごい短い曲をやったが
(曲は忘れた!)
その時は、これもあり!と言った印象で、それなりの美みたいなものは感じられた
しかし、録音されたもので聴くのはしんどい

感情表現としての音楽は、現在の複雑な社会を反映している面では
難解な現代曲のほうがバロックやロマン派よりは優る
聴きやすい(?)バーバーの弦楽のためのアダージョだって
バロック時代の人が聴いたら聞きにくい音楽として扱われるかもしれない

言葉ではなく感情に直接働きかける音楽は、これからの人の精神状態を
いち早く表現しているのかもしれない
とすると、やっぱり現代人はストレスの多い
複雑な時代に生きているのだと、(音楽を聴いて)つくづく思ったりする 


 

 

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アルヴォ・ペルトの声楽曲

2015年10月28日 16時00分51秒 | 音楽

今日永らく臥せっておられた方が亡くなった
接点はそれほどあったわけではないが
人は生まれて、生きて、死ぬだけのこと
いつか自分にもやってくるその最後のステージの知らせは
準備はしていたものの、少なからず心になにか重くにそかかる

その人を悼むつもりでふさわしい音楽を探した
葬送の音楽でも感情が表に現れすぎるのは
好ましくない気がした
フォーレのレクイエムでさえ饒舌すぎるような気がして
結局引っ張りだしたのが

アルヴォ・ペルトの声楽曲の一枚(タイトルのアルボスともう一曲は器楽曲だが他は声楽曲)

アルヴォ・ペルトは1935年生まれだから現代音楽の作曲家ということになる
しかし、ここに聞こえる音楽は難解な現代音楽とは違う
音楽的な技法上のことはわからないが、耳から入る音は
まるで中世の音楽と勘違いしそうな雰囲気に満ちている

2,私達はバビロン河のほとりに座し、涙した
4.デ・プロフィンデス(深淵より)
5. 何年もまえのことだった
6.スンマ
8. スターバト・マーテル
のトラックが声楽曲 

音はあくまでも静寂に向かって進む
先程まで出ていた音は永遠の静寂の中に消え去ってしまいそう

これらの曲はシェーンベルクやヴェーベルン、シュニトケ、ブーレーズなどとは
違って聴きやすい
逆にもしかしたら飽きやすいのかもしれない
しかし、何度も聴くという行為は録音の技術が出来あがっている最近の聞き方
音楽は本来すぐに消えてしまうもので、半ば記憶の中で再生するもの
だとしたら、聞いている瞬間が印象的であること、
いかに心に響くかが全てなのかもしれない

世界が複雑な感情に支配されているこの様な時代に
この様なシンプルな静寂に向かう音楽が存在することは
一つの奇跡のようにさえ思えてくる

音楽は生活に、いや生きていくうえで必要なものだが
だからと言って聴き流すのは余りにももったいない
聴きたい気持ちが高まって聴いてこそ素晴らしい瞬間がやってくる

願うのは音楽が回りにあることではなく
聴きたいという気持ちが生きている内に数多く体験できること
こうした願いがだんだん冗談ではなくなってきている年齢になっている 

私達はバビロン河のほとりに座し、涙した  youtubeから

スターバト・マーテル youtubeから前半部分

 

 

 

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意味がわからない文章

2015年10月28日 09時15分36秒 | あれこれ考えること

最近、意味がよくわからない文章に出くわす
特にコメントとか、ツイッター上のやりとり

ツイッターは@がついて誰かと誰かが
やり取りしているのだろうが 、部外者がその内容を把握しようとすると
なかなか想像力を使っても難しい
それで、ツイッターの場合はすぐに諦めてしまう

ブログとかSNSのコメントもどうも短すぎて
投稿した人の伝えようとする意味がわからないことがある
まずは自分の理解力が欠如しているのか
と疑ってみるが、原因はどうもそれだけではなさそう

コメントする人は本人の気持ちはわかっている
しかし、その表現が他人に伝わるかどうかは
考えていないのではないか!と思ったりする

もっとも、自分にしたところで独断と偏見の投稿が続いて
他の人にちゃんと自分が意図していることが
伝わっているかどうかは心配で人のことを言えた義理ではないが

それにしても、独りよがりの文章(発想)
増えている様に思えてならない 

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疑うこと、反抗することについて

2015年10月27日 09時24分07秒 | あれこれ考えること

「やっぱり!」というか、「そうだよな!」
と納得する記事を見つけた
プレジデントの最新号「平気で人をだます人、攻撃する人」のなかの一節

自分は現在リタイア状態で、実社会で身につまされる様な経験を
するようなことはないために、こういった人との具体的な対応法には
さほど関心はなかったが、気になったのは日本人の傾向についての記述

抜き出してみると

素直で人を疑わない、忠誠心が高い、初志貫徹などは、日本では好ましい特質とされることが多い。しかしこのどれもが、裏を返せば支配されやすい人の傾向のもなってくる。なかでも、物事を疑う能力が欠けている人は要注意。というのは、どんな話に対しても「その話は本当か、(本当だとしたら)その方法論はふさわしいか」「正解は一つではなく、ほかにもあるはず」と多段化で疑ってかかることが、支配されないコツとなるからだ。

ところが日本ではまず教育の中で疑うことを教えない。教科書に書いてあることは全部本当だとし、それをまるごと記憶すればいいという授業が成り立っている。本来ならば、歴史教育などは出来事に関して幾つもの解釈があるもので正解は一つではない。南京大虐殺であろうと従軍慰安婦であろうが、まずは「やったかもしれないし、やっていないかもしれない」と考えるスタンスが、認知的には成熟度が高いのである。

中略

社会に出ても、上司の話、社長の訓話、経済評論家のコメント、テレビのニュース番組の解説、コマーシャリズムなどを疑いもなく素直に信じる癖がついている。特に権威のある人の話はたやすく信じてしまい「かくあるべき」「この道しか無い」と言う思考の奴隷になってしまうのだ・

認知的に成熟度が高い反応とは、もっともな学説を聞かされた時に、「本当にそうなの?」「ほかの説があるのではないか?」と自問できることだ。その発想があってこそ、より検証材料を得るためにたくさんの情報を集めようと工夫する。それが、何者にも支配されず、常にニュートラルな思考でほかの方法を試すことに繋がっていくのだ。

                          ここまで引用

へそ曲がり、偏屈な自分は教えられたことが本当か?と考える癖は
おそらく他の人よりは備わっていると自覚している
新聞記事も全面的に信用しているわけでもないし、世論調査の結果も
その母集団の選択や調査方法を明記しないで結果だけを報道する姿勢は
無条件には信じられないと思っている

自分の理解を超える話の専門家による解説も
対立する意見をもつ他の専門家との討論によってこそ
なんとなく理解できるものと考えていて、
つまりは頭ごなしに信用しているわけではない

別のページにも興味深い記述があった
それは北朝鮮の人々は何故恐怖政治の中でなにもしないでいるのだろう
またナチスドイツも日本の戦前も何故あんなふうになってしまったのだろう
と言う疑問に関することで、その心理学的な傾向が述べられている

暴力的な支配を受けている場合は、虐待などのひどい暴力を受けると、恐怖感から行動を起こせなくなってしまう。よく言われるのがサレンダー真理というものだ。これはジュディス・ハーマンというトラウマの研究者の説で、虐待も軽い間は逃げ出すことも逆らったりすることもできる。しかし、命の危険を感じるほどの虐待を受けると、逆に支配者に気に入られるように媚びへつらってしまうというのだ。そして周囲の人には虐待を隠したり、いかにも仲良しであるような態度をとって支配者を喜ばせようとしてしまう

                              ここまで引用

要は自分を守るための本能が強くなってしまうということか
実際には虐待は暴力と言う形だけではなく、よくありそうなのは、どこかでみた
「自分の生存が存立が脅かされ、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される状況」
を会社内・組織内で形成されてしまうと、個人はある段階から安易に上に
モノ申すことができなくなるということ


これは現実的には程度問題と思うが、特に問題となるのは社会も
ある段階を超えると行動を起こせなくなるかも知れないと想像できる点
周囲の空気を読んでとか、他の人との意見の違いを好まない日本人
空気が出来上がってしまったらいざ反対の行動を取るのは難しくなる

だからこそ、間違わないためには、大勢の空気が出来上がらない内に
つまり理性的な判断ができる内に、危険を予想して声を上げ
妙な空気を作らないことが必要となる
今回の安保法案に関するデモはこうした行動の現れと考えたい

今日は雑誌からの引用でお茶を濁した投稿でした、、、

 

 

 

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新城市の住民投票、その後

2015年10月26日 07時35分27秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

5月31日、新城市ではあのややこしい文言の選択肢による住民投票が行われました
マスコミも大阪の住民投票の直後ということと
分かりにくい文言は報道としては美味しい面もあって
随分報道されましたが、あれから約5ヶ月
新城市の皆さん(関心を持って新城市を見守って下さった皆さん)
今はどうのようになっているか、ご存じですか?

6月に実務協議なる市側と市民側の会議が持たれたことを
どのくらいの方が知っていることでしょう
またその会議の進行の状況や、内容について
どのくらいの方がご存知でしょうか

そして今、その住民投票の結果が完全に無視された状況に
なりつつあるのをご存知ですか!

住民投票が求められたのは新城市に分不相応な大きすぎる庁舎
大きな金額をかけすぎることに待ったをかけることが目的でした
お金は他の使い道とすべきと言うわけです

つまり先日の中日新聞の記事でも明らかにされなかった庁舎建設の予算
これこそが本当に問題とすべき点、住民投票の本質だったのです

素直に住民投票の結果を重く見るならば、何よりも予算を削るべきだ
と考えるのが普通ですが、何故か行政はそのように解釈していません
道路を元に戻す、東庁舎を活用する  しかし、予算は削れないかもしれない
大雑把に言ってしまえばこんな態度で進めています

本来ならは何よりも予算ありき、縛りありきで設計会社に新たな案を依頼するのが
普通だと思いますが、何回も行われた実務協議で市民側はそのような
依頼の仕方を設計会社にして欲しいと言い続けましたが
市・行政・市長は無視し続けました

そして今漏れ聞こえてくる噂では庁舎建設予定額は何の事はない
選択肢1で説明された50億に近いというではありませんか
さすがにそこまでの数字は次の記者発表(マスコミ発表)は
無いと考えられますが、行政は「もっくる新城」で使った手を使って
つまり補正予算と言う手を使って、結果的には大きな予算を
投じてしまう可能性を考えられます

上に挙げたことがすべて個人的な思い込みや偏見で終わってくれれば
良いのですが、そうでないとしたら人は何をすべきでしょうか

新城市の財政については様々な解釈があります
大丈夫という人もいれば限りなく危ないと言う人もいます
でもはっきりしていることは今後人口が減少していくことは
余程のことがない限りストップがかけられないということです

その少なくなっていく人口の中で、今の人口を前提とした
そして職員数も考慮しない計画が真にまともな計画なのでしょうか

もう一つ大きく心配するのは先日の新聞発表のあった地下トンネル案です
仮にこの案が実行された時、何年後の市民はなんと思うでしょうか
どうして庁舎の前のスペースが駐車場にもならずに空き空きになっているのか
どうしてこんなに危険なトンネルを作ってしまったのか
一体誰が判断して実施させたのか、、、
その一つ一つに法律的な問題があって仕方ないと言うかもしれませんが
その法律的な対処方法に真正面から行政は取り組んでいると言い切れるのでしょうか

住民投票をする前は「お上の決めたことはひっくり返せない」
と言う声が大半でした、
しかし新城市民は結果的にお上のやることにNOを突き付けました
それは先程行われた小牧市の住民投票も同じで
小牧市は計画の白紙撤回までこぎつけています
ところが住民投票の先輩である、そして貴重な経験をしている新城市民は
何故か求める結果を得られないでいます

これは住民投票の文言から解釈すれば行政側は住民投票の結果を守っている
というのとは違います
問題をテクニカルな面に置き換えていますが、本質的なことに答えていません
深読みする必要は無いけれど、住民投票にまでなってしまった点を
考えるなら建設費は市民が納得できるほどに抑えるべきです

市民自治を自分たちがひとりひとりが意識して進めていかなければならないのは
今では当然のことの様に思えますが、実はそれは行政や市議・市長が
当てにならないということの裏返しです

いずれにしても、住民投票を他の自治体に先に立って行い
市民自身の経験・知恵となったことは結果として生かさないと
もったいないことになると思います

如何に拘束力がなくても、ダメなものはダメ
というべきだと思いますが

※念のため住民投票の経緯・資料を紹介します

先ずは、分かりにくい住民投票案


庁舎の建設に関することが争点となっているのに道路の話が出てきて
しかもその道路が一般の新城市民の知らない道路
これでは何がなんだかわからないのが普通です
この選択肢(条例案)に関して毎日新聞では批判しています
 

毎日新聞に指摘されるまでもなく、当事者の新城市民はこの選択肢の文言を変更するように
訴え続けましたが、それは無視されました

住民投票に至る前に、「しみんまちづくり集会」という市民が情報の共有を図る趣旨の
会議が開かれましたが、上にあげた選択肢1を支持するひとの時間と
選択肢2を支持する人の持ち時間が大幅に違いました
そしてその説明の人選がまた不思議で、選択肢1は行政が説明、
選択肢2も行政(検討していないからよくわからないといった説明)
結局はとても公平とはいえない内容となりました

住民投票の期間中は各陣営の活動もそれぞれ、
特に選択肢1の陣営は奇妙な団体を急遽作り上げたりし、
その推薦人の名前を本人の了解もなく使用して
(同姓同名の方がいたため)苦情の電話が30数件あったということです) 

新城市初の住民投票は結果的に
選択肢1 9759票
選択肢2 12899票 となり
大幅な庁舎縮小が求められました
しかし、あのややこしい条例案で行われたために
テクニカルな言葉の解釈で有耶無耶にされるのを避けるために
住民投票を求めて大幅な縮小案を提示した市民団体は
争点(結果は)は3階建て30億円を実現するということであったと
請願書、要請書を議会、市長に提出しました

↑議会宛の請願書


 
↑市長あての要請書 

それから市長の提案で庁舎見直しの実務協議が合計4回行われました
(行政と市民が参加、公開)
これも振り返ると不思議な会議で、市民と行政が一緒になって
住民投票の結果を踏まえてより良きものをつくるといったニュアンスは
全くと言っていいほどありませんでした
行政側(市側)から出てきたのは問題点の指摘ばかりで
それは実は自分たちにも関係することなので自らも検討すべきですが
なんら前向きの話は出てきませんでした
職員数を今後減らしていくとか、ペーパーレスにして机の上をスッキリさせる
といった現実的な提案がないどころか、今をベースにしてあれが足りない
これが足りないという発言が続き、本当に市民と協力して
見直しをするのか疑問に思うのでした


そこで出てきたのは、今も大きな問題となっている庁舎に対する進入路の問題
大型の車が間違って侵入した場合、頭からでられる方法を講じなければならない
まずはこの問題が出てきました
その解決策は残念ながら行政側からは出てきませんでした
実務協議に参加した市民側の工夫でなんとかクリアできましたが
それでも、本当にこの解決法がベストなのか今でも疑問に思います
 

車をスイッチバックで切り替えて出られるようにするというものです
しかし、この方法では庁舎の面積が削られてしまいます
大型車の進入を禁止する看板、施設を設置して最初から入れないように
すればよいのではないか!
誰でも考えることですが、これは頑なに拒否されます

この進入路の問題はまた後の問題にも関連して
次には体育館側と現在の庁舎側を結ぶ地下トンネル案が出てきました
ところがこれが危ない 


 角度が16%と12%
またこの坂の準備段階としての予備のスペースが必要となり
実質的に庁舎用地として使える面積は随分小さくなります
おまけに

トンネルから出た時、あるいは進入する場合には
とても大きなハンドル操作が必要となります 
坂を下る(上った)寸前でこの様な大きなハンドル操作は
年寄りの多いこの新城市では危険なことは容易に想像がつきます

お役所は自分の管轄する分野だけ責任を持てば良いのでしょうか
公安は道路の部分の安全性の確保だけを責任をもち
庁舎に中にはいった車の安全性については一切あずかり知らぬ態度を
とっています
そして庁舎の面積が少なくなろうがなるまいが自分たちには関係のない
といった様に感じられます

もちろん法律的にはそうでしょう
でも、本当にそんなことでいいのでしょうか
話は飛びますが、この市庁舎の進入路以上に危険そうな例は
豊川市や新城市でもちょくちょく見られたりします

この法律上の問題を公安の方々と話し合おうとしても
市民にはその権利がないの一言で蚊帳の外とされてしまいます
ならば当事者(道路管理者)に市民がいろいろ要望をしても
最終的な判断は職員の方にはできません

そしてこうした結果が積み重なって
現在は住民投票の結果が生かされない状況になっています 

もうじき新たな庁舎の基本案が提示される予定です
はたしてこれが真に「新たな市民合意の形成」となるのか大いに疑問です
市民合意とは納得することで、
お知らせの郵便を有権者に配ったからとか
説明会を1回開いたからということでは無いはずです

それが証拠に前回はそんな安易な方法をとったために市民に怒りが生じ
住民投票にまで発展し、結果もNOとなったのです
住民投票は結果を尊重するだけでなく、何故住民投票にまで
なってしまったのかを深く反省・考慮して次に活かす知恵とすべきです 

 

 

 

 

 

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交響曲 第5番

2015年10月25日 16時50分38秒 | 音楽

昨晩 久し振りにショスタコーヴィチの5番を聴いた
ルドルフ・バルシャイ指揮 WDRシンフォニーオーケストラの廉価版のCD
だったが、なんとなくかけたのではなくて一応聴こうとしただけに
思いの外楽しむことができた

一日経って、そういえば5番の交響曲か、と振り返っていると
不意にいろんなん作曲家の5番のことを連想した

5番といえば大御所ベートーヴェンの運命
でも聴く気力が充実していないと少ししんどい

マーラーの5番もあのアダージェットで有名になっているが
自分が好きなのは前半の2つの楽章
だいぶ昔だが実演の若杉弘とケルン放送交響楽団のは本当に良かった

チャイコフスキーの5番は美味しいメロディが2楽章に歌われて
最初のテーマで統一されているというものの
えらく大げさでこちらが少し恥ずかしくなってきて
そんなに振りかぶってやることはないだろう!
と思ってしまう

実演で聴いてその効果を体験したいのがブルックナーの5番
少し聴いただけだと何処に向かうかわからないような印象がするが
生だと8番の終楽章くらい迫力があるかもしれない
などと勝手に想像して、ぜひとも聴いてみたい

あと、シューベルト、シベリウス、プロコフィエフも5番があるけど
どうも印象に残っていない

でも最初のベートーヴェンが5番が特別な番号としたので
後世の人もこの番号は気になってしかなたかったのかもしれない
違う番号だがショスタコーヴィチは9番で軽い曲を書いたので
政府から(?)文句を言われたとか 

この5番の交響曲のいろいろ お気に入りは
ベートヴェンはフルトヴェングラーの録音
気分次第でベルリン・フィルやらウィーンフィルのもの

マーラーはテンシュテットのロンドン・フィルとの演奏
とくに前半のお気に入りの楽章がいい

チャイコフスキーはゲルギエフやムラヴィンスキーが良さそう
な気がするが、どうも最近は苦手で気が進まない

ショスタコーヴィチはバーンスタインのがなかなかいける

でも秋になってきたから、聴くのはブラームスが良いかも
5番ではなくて4番あたりを 

 

 

 

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「葉隠」では、上司に物申すべきとあった(?)

2015年10月24日 18時59分22秒 | あれこれ考えること

個人の判断について思い出したことがある
といっても怪しい記憶なのでそれが正しいかどうかは自信がないが
(だったら確認すればいいのだが、横着な人間なので、、、) 

「葉隠」に上司が誤った判断・指示をした時にどうするか
と言う例があった(ように記憶している)
その答えは、ちゃんと進言すべきとあったが
そこからが著者が苦労人というか現実的というか
なかなか深い答えが続く
間違っていると進言すべきだが、ストレートに言ったりすると
角が立つのでやんわりと、(誰かを通してだったかな?)
とにかく怒らせないようにすべき 、、

どうも江戸時代でも上からの指示を守るだけでは
なかったのかもしれない
その分一人ひとりが腹の座った判断をするのが
当たり前だったのかもしれない

「葉隠」は三島由紀夫が取り上げて、
なにか武士の生き様みたいなことを説いていたたようだが
自分がちょこっとだけ読んだ中にはこんな例が出ていて
イメージが随分違った印象だった

そんなことを思い出していたら、
脈絡はないが「韓非子」の一節を思い出した 
人は自分に直接お金を与える人を敬いがちとなるので
つまり、トップの人間より評価に直結する直属の上司のいうことを
聞く傾向にあるので 、トップの人間はそのところを
注意しなければならない 、、、

これもすごく現実的で、あまりにも本質をつきすぎて
どこか空恐ろしい気さえした

読んだ本の内容は大半は忘れてしまっているが
このようにところどころ覚えているところをみると
読んだことは無駄にはなっていないようだ?
(気休めかな) 



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個人の判断について(ラグビー日本代表 ヘッドコーチの言葉)

2015年10月23日 19時24分26秒 | あれこれ考えること

公務員、社会人が自分の意に沿わない指示・命令を受けた時に
どのように考えるべきかと 、ささやかながら考えてきたが
スッキリしたレポートが目に止まった

関口宏のサンデーモーニングにラグビー日本代表ヘッドコーチ
エディー ・ジョーンズが残した言葉がそれで
ラグビーの世界から日本社会一般ににも通じそうな話

先ずはその発言と日本社会に関する考察

ジョーンズ氏は「ラグビーワールドカップ2015」からの帰国後の記者会見でチームの健闘を称える一方、「規律を守らせ従順になるためだけの指導が行われている」と語り、こうした日本のラグビー文化が選手たちの能力発揮を阻んでいると指摘していた。

VTRにはジョーンズ氏を取材した経験のあるスポーツライターの生島淳氏が登場し、「集団主義」「目標に対して従順に勤勉に頑張っていく姿勢」が日本ラグビーを支える価値だったとコメントした。生島氏によると、ジョーンズ氏がそうした不合理な精神性を離れて「自分の判断・表現力を磨いていかないとダメだ」と選手たちを指導していたというのだ。

ここからVTRはラグビーの話題を離れ、日本社会一般についての問題提起へと移る。不満があっても会社のために頑張り通すという日本人の精神性が、高度経済成長期の日本を下支えしてきた、というのだ。

ここで登場した一橋大学大学院の山岸俊男特任教授は、日本社会は上から与えられた規則に従うことでしか社会秩序を構築できなかったと語り、その「典型が(戦前の)軍隊」だと指摘。ジョーンズ氏の苦言は日本社会全体に通じるとし、これからは自分たちで創意工夫する生き方が必要であると訴えていた。

なるほど、痛いところをつかれてしまったと言う感じ
これはサッカーでも言える事

いつも違和感を感じることがある
ハリルジャパンとかザックジャパンとかジーコジャパンとか
つまり監督さんの名前が大きく全面にでて
瞬間瞬間の判断がすべてのようなサッカーの様なゲームでも
選手の責任よりは監督の采配がどうのこうのと言われるし
そうした話をするのが大好きな日本の当たり前の風景
これが自分にとっては不思議でしょうがない
どうも野球の監督の指示・サイン・作戦に基づく持って行きように
あまりにもどっぷりと使ってしまっているために
なんら変と感じないのかもしれない(あるいは自分がへそ曲がりか)

しかし、よくよく考えるとそもそもの個人の役割とか個人の価値とか
個人の責任とか、そういった個人に関する考え方自体が欧米と日本とは
違っているのではないかとさえ思ってしまう 

日本人が規律に従うのは従順な民族、我慢強い民族というだけでなく
責任を伴う判断をするのを嫌う傾向にあるからではないのか
スポ根の教養小説的な物語や漫画でも必ずと言っていいほど
師匠にあたる絶対的な人物が主人公の成長の手助けをする
つまり自分の判断ではなくここでも誰かの意見に従っている?

エーリッヒ・フロムの自由からの逃走にあるように
責任を伴う判断なんて御免被りたい
誰か偉い人(?)が決めたことを粛々と行っていくのが
ほんとうの自由という面倒くさいものを手にしているより
楽でいい
と心のなかで思っていないか

そんな低次元のことは無いと信じたいが
どうもそうばっかりとは言えなさそうで、、

しかし、最近デモなどで自分の声を上げ始めた若者は
従来のまず反対から始まる若い日の反抗とは違う気がする
やっと精神のスタート時点が欧米の価値観と似てきたというか、、

物事が変わるには残念ながら他人の経験ではなく
自らの経験でないと変わることが出来ないようだ
それが個人であれ国家であれ
願わくば良い方向に早く変わってほしいものだが、、、 


 

 

 

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若者に政治・市政に興味を持ってもらうのは難しい

2015年10月23日 09時13分55秒 | あれこれ考えること

先ほどのお気楽な投稿とは少し違って
今度はすこしばかり真面目な(?)話

新城市は若者議会という全国に先立って若者の
政治参加を促すシステムがあるが、この若者議会の
説明会が先日近くの防災センターで行われた
当日は地域の問題の意見交換がメインでこの話題は
冒頭に紹介されただけだった

そこで気になったのが、若者会議に参加している人たちの
職業のこと(若者の定義は義務教育を終えた年齢から29歳までとのこと)
詳しく把握していないが、どうも学生さんが多そうな雰囲気
そのせいか提案された内容が少し生活感がないものと感じられた
これは批判しているのではなく、
若者議会に積極的に参加しようとした人と比べると
自分が若い頃は何も考えていず、こうした提案すら出来なかったと
思えるし、正直彼らのほうが優秀な意識を持っていて尊敬すべきと思える
しかし、にも関わらず、少しばかり幼い感じがするのは
社会人と言われる実生活をしている人たちの参加が少ないのではないか
と想像した

実はこの若い社会人の政治参加とか
市政に関する興味を持ってもらうことは 
思いの外難しい

現実に新城市の住民投票になった案件についても
中心となって活動したのは年配者が圧倒的に多い
本当はもっと若者に関心をもってもらいたがったし
現実に困る事態を経験せざるを得ないのは若者だと
少しばかり脅しながら(?)説明しても
残念ながら広がりを得ることは難しかった
(住民投票の結果は望むようになったが)

確かに歳をとらなければわからないことがある
社会の構造、矛盾、人として置かれた立場で何をするか
人間自体の矛盾した存在など
だが多分、政治・市政に興味が持てないのは
もっと別の理由によるのではないか

若い人たち、その多くは生活費を稼ぐために仕事についている
彼らの頭のなかの多くを占める話題は望む望まないにかかわらず多分仕事のこと 
期限のこと、トラブルのこと、解決すべき問題のことなどなど
その他に彼女・彼氏のことも頭を支配しているに違いない 
つまり人の興味のある分野には優先順位やその総量には限界があって
若い人には、特に仕事で追われている人、しかも優秀な人でも
関心は持ちにくいのが実情ではないだろうか
若い人でも創業者とか経営者は、自分の仕事を進めていく内に
何がしか政治とか社会システムの矛盾に感じざるを得なくなって
興味をもたざるを得なくなるが、大半のサラリーマンは
社会常識の範囲で政治をニュースで知るだけで
自分のこととして考えるところまで行かない 

これは日本だけのことか、それとも欧米の民主主義が発達している
とされる国ではどうなっているのか比較してみたことがないので
一般化できるかどうかわからないし
仮に日本だけだとしたら、そのシステムに多少問題ありということ

本当に現実のところ、若い人に興味を持ってもらう事は難しい

と言いつつ、自分もいい加減な無関心な人間だったからな
興味を持てと言われても持てないし、、、 

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