パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

音読(黙読)は、人の説明より内容が頭に入るか?

2020年06月30日 08時57分24秒 | あれこれ考えること

家電製品の取扱説明書は二人で取り組むのが良いらしい
1人が声に出して読んで、もうひとりが操作を行う
そのほうが操作するひとの頭にすんなりすべきことが入るようだ

これはなんとなくわかる気がする
読んで覚えたつもりの操作を1人でするのは、思いの外手こずる
どうも読む、覚える、行動するということは
そんなに簡単に繋がっていない気がする

だが、一通り操作等が分かった後で読み返すと、
覚えにくかった説明も「何だそんなことか!」と
すんなり頭に入っていく

これは、スマホとかコンピュータの使い方は読んで覚えるよりは
最初はとりあえず試行錯誤でトライして
一段落したところで説明書を読んだほうが理解が進むことに似ている

同じことは難解な本を読む時も感じることで
最初から解説を読むより、本体を四苦八苦してあれこれ想像・考えながら
読んだあとで解説書を読んだほうが理解が進むように感じる

読むという行為は、覚える行為のように思えるが
時と場合によってはあまり効果的ではないのではないか
特に音読という作業は、頭の中に内容を入れることには
(発声に集中しすぎて)あまり適さないのではないのか、、
子どもたちの勉強の手伝いをしているそんな気がしたりする
もっとも、物理的な音声を発する行為(訓練)は大切なので
音読の必要性は否定しないけれど

ということで、外国をルーツに持つ子どもたちには
どうすれば効果的に覚えてもらえるか、考えてみよう
(例えば、右手を使うと左脳が働いて言葉を覚えやすいそうだから
 ひたすら右手で言葉を書かせたり、、、?)

ただ、彼らは辛いことは嫌だろうから、勝手に努力する方法を考えねば!
ところで勉強の手伝い、今日火曜日は2年生の男の子が相手
彼のリズム感はすごい(太鼓の達人の真似事で机を叩くと日本人とは全然違う)
おだてながら、頑張らせよう

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徒然なるまま浮かんだこと(選挙違反など)

2020年06月29日 08時56分19秒 | あれこれ考えること

早朝は爽やかな印象があるが、日によって少し違う
今朝は湿気も少なくて気持ち良かった
いつものように田んぼではカエルが鳴き
(急に道に飛び出したカエルもいた)
カラスも生ゴミを狙って飛んでいる
今日はウグイスの声は聞けなかったが
どうしたんだろう、、と思う

ウォーキングの終盤に同級生と出くわした
彼は走ってる(ジョギング)
「どのくらい走る?」
「約、6〜7キロ」
少し悔しいが、調子づいて走ると脊柱管狭窄を刺激して
またもや股関節や膝を痛めそう
仕方ない、マイペースでいくしかない

歩いている途中は自分に沈潜し、あれこれ思い出したり考えたりした
本当にいろんなことが頭に浮かぶ
でも、最近気になっていることに時間を使うことが多い

実質的な被告である6人の議員に、自分たちの弁護士費用を
支払うように市民が要求するのは、寄付行為を強要することにあたり
公選法違反か、、、が相変わらず気になっている
だが、違反か違反でないかは、言ったもの勝ちではなくて
実は「裁判」で決めることのようだ
総務省に電話をかけて聞いた時
「個別の案件は事実認定をしながら判断する」
と返事はあったが、その判断は結局は「裁判」任せということらしい

そこで以前あった選挙違反っぽい出来事を思い出した
選挙に出る人物はどの時期においても「戸別訪問」をしてはいけないとされる
正確には「戸別訪問時に投票依頼をしてはいけない」だが
現実には「戸別訪問で投票依頼」ぽい行為は行われる
それは「後援会の加入依頼」の形をとれば違反は免れるらしく
「政治活動」と「選挙活動」の違いらしい
この「政治活動」と「選挙活動」の区別は現実には
なかなか見分けがつかない

問題の事件は、新城市が産廃中間処理施設の進出で
少しばかり騒がしくなっていたときのこと
感情的になったある人物が、地元選出の議員に
「お前は禁止されている戸別訪問の投票依頼行為をしたじゃないか
 俺は、ちゃんと見ている」
と追求した
当の議員はその勢いに負けて素直に認めた

ところが問題はそれで選挙違反となるか?という点
選挙違反か違反でないかは、警察が動かない場合は
誰かが告発して裁判に持ち込まないとダメらしい
その裁判は
「いつ、何時何分、どこに来て、何を話して、そこには他に誰がいて、その証拠は」
とあとから振り返るには結構しんどそうなことを要求される
おまけに弁護士費用も少なからずかかるので、大概の人は
わざわざ裁判沙汰にするのは諦めてしまうのだそうだ

そんな具合だから、公職選挙法はザル法だ、、と言われてしまう
現実には「法に違反はしていないが、限りなく怪しい」
ことは、この例に限らず世の中には呆れるほど溢れているように思われる
時に「法に違反していない」と大見得を切る人がいるが
そんなに大したことではなくて「当たり前のこと」に過ぎないのだ

ということで、世の中は案外うまく回っていないものだと
朝っぱらから考えたりした
その他、多数による判断は、現実世界で本当に正しいものにつながるか?
との思いも浮かんでは消えた

それにしても、何も考えていないようなカエルや早起き鳥の声は、、、
心地よい

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世論調査センターへの依頼主は誰か?

2020年06月28日 08時18分23秒 | あれこれ考えること

その電話がかかってきたのは2度目だった

1度目は前回の参議院選挙の前
2度目は昨日で、機械音で「世論調査センター」と名乗り
内閣支持率、政党支持率、衆議院選挙をしたならば
どこに投票するか?との質問がなされた

1度目は何故か途中で切れてしまったが、不思議なのは
その時の目前の「参議院選挙の投票先」ではなく
「衆議院選の投票先」を聞かれたことだった

昨日は途中で切られないように丁寧に答えたつもり
(気に入らない答えがあったら切られてしまうのでは
との疑いもあった)
今回はとりあえず最後までいった

世論調査はこのようにして行われるのか?
とのんびり構えていられるほど、自分はボーッとはしていないつもり
そこで「世論調査センター」と検索してホームページを見つけた

トップページには住所・電話番号が掲載されている
ところが企業情報のページに飛ぶと、代表者も本社所在地も代表者名も
資本金も〇〇となっており、何も書かれていない
それどころか、トップページにおいても更新情報は2016年にサイトオープンして
少し奇妙な〇〇新聞に〇〇が掲載されました、、とあるだけ

こうなるとこの企業自体が本当に信頼できるものか疑われても仕方ない
だが事実として確かに電話による調査は行われている
この企業は、誰かの依頼を受けてこのような調査をする企業と思われる

誰かが依頼してこの調査を行っている
だが、この調査の結果はメディアには報道されないだろう
第一、メディアで世論調査センターを目にしたり耳にしたことはない

すると依頼したのは誰か?
となるが、以前から自民党はメディアの世論調査を信用せず
独自の調査をしているとの噂があった
だから依頼主は自民党ではないかとの予想が働く
実際のところ、一度目は目前の参議院選挙ではなく
衆議院選挙についての調査だったが
そのときは自民党が「衆参同一選挙」を打って出るかもしれない
との声が上がったときだった

そして今回、自民党の4人が夜の会合で何やら討論し
解散も噂され報道が出ている
調査のタイミングが似ている

映画「新聞記者」では内調がおどろおどろしく暗示されたが
実世界でも奇妙な企業の奇妙な調査が粛々と進行していて
どこか気味悪さを感じてしまう



 

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法の解釈より、法の存在意味のほうが大切(と思う)

2020年06月27日 08時38分22秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

1人で判断するよりは、多くの人で判断したほうが間違いは少ない
との数学的な根拠で正当化されているのが、意志決定手段としての多数決
ただこの数学的な理屈が成立するためには、損得、好き嫌い、怒りなどの
複雑な感情をもつ人の世界ではなかなかクリアできない前提条件がある

それは議決すべき案件に対して、ひとが完全に客観的に立ち向かうことで
現実は国会の多数決の状況を見れば分かるが、その案件の着地点の
良し悪しというよりも党の台所事情で決まってしまう

当たり前のことだが、損得が当事者に係る場合、その当事者は議決とか
決定に関わることはできない
でも例外はあるようで、時々不思議だなと思うこともある
例えば市会議議員の特別手当のアップについての問題がそれで
これなどは議員の生活に直接関与することで、
議員たちは客観的に判断ができるとは思えないのに
不思議なことに議員が議決をすることになっている
ただ、(特別手当とは違う)給与等については「報酬審議会」なる議員さんとは
一切関係のない客観的な組織が決める(アドバイスする)ようになっているようだ

ところで、つい最近のこと、多数決の本来の前提に合わないのではないのか
と思われる事態が発生した
それはみっともない話だが、新城市議会でのこと
以前からアップしているが、新城市の6名の議員は政務活動費の使途について
疑わしい面があると裁判に訴えられた
裁判終結前に(不利になったと思われる)6人の議員は急遽、問題となった
宿泊費を返却して、宿泊費の変換を求めた裁判の争点がなくなり実質的に終了した

この経緯を、原告、市民、他の議員に対して何の説明もしていないこと
裁判に訴えられた政務活動費の説明不足(必要な報告書等の欠如)などの理由で
6名の議員は今回の議会でも問責決議案が提出された

ここで問題となったのは、6名が一括して同じ理由で問責決議案に訴えられたことだ
当事者の利益に関わることは、議決に関わることはできない、とするならば
この件に関与していない議員たちだけで審議・決断をし
6名の対象議員は議場から退席という手続きになるのが普通と思われた

ところが、複数の同一理由の問責決議であったとしても、
法的(?)には一人ひとり分けて行うのが正しいとの解釈が紹介されて、
議会運営委員会もこの理屈を認めて、そのように1人ひとりで審議されそうになった

この運営方針に反対意見を述べたのが、問責議案の提出者たちのグループで
過去にも二人の議員問責決議案の対象になった事があったが
その時はふたりとも議場からでる措置が行われた
その時の措置との整合性はどうなるのか、、との意見がでた

この時との整合性の問題だけでなく、同一の理由による複数の議員の
問責決議案を一人ひとりにバラすことは、
同一の理由で訴えられた仲間(?)を守る意識が働いて、それは
現実的な多数決の結果に大きく影響してしまう
それは法的に正しいものか?との疑いの声も上がった

議員一人ひとりの自由な議決権を確保するために、6人の除籍をすることはできない
同一の問題を抱えた対象者を、仲間の審判の多数決の現場に残すことは実態としておかしい
議員全員で行われた会議は、突き詰めていくとこの議論がなされることになったが
ここでは「法の解釈」はどうのように読み取るべきか、、が大きな問題となった

でも、自分は独断と偏見で「法の解釈」よりは「法の求めるもの」のほうが
大事なのではないかと考えた
法が「利害関係者の退席」を求めることは、自分に不利になることに
人は完全に客観的な判断はできない可能性や人間的本質を捉えての
ことだろうと想像する

こうして考えると制度と実態はよく考えるべきととだと思われる
制度と実態として、今回の件で新城市議会で少し問題があると思われるのは
この一人ひとりの方法を選択し進めようとした議会運営委員会のメンバー構成だ
この議会運営委員会の6名のうち、なんと4人が問責対象になっている
この実態で、果たして真っ当な議会運営を進める事ができるのか大いに疑問だ
最近は、議会運営委員会がその本来の役割以上に影響力を発揮していることが
端々に見られる

少し悲しいことだが、「戦いの場としての議会」という実態は
国でも市でも存在する
その議会を運営する手続きやら規則やらが、本質的な議論以上に
大きなウェイトを持ち、勝つための戦術としての進め方が
注目されつつあるのは、、残念な気がする

ところで、新城市のこの問題につては全員協議会で長い時間をかけて討論され
最終的には会期延長をして、さらなる調査・検討がなされる運びになったそうだ








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納得出来ないこと(納得したくないこと?)

2020年06月26日 08時22分51秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

どうにも気になってい仕方ないことがある
以前から取り上げている、住民訴訟の弁護士費用のこと
政務活動費の不正を訴えた原告市民側は自腹で支払っている
ところが、実質的な被告(被告知人)の議員さんは
その弁護士費用を市が支払っている
これは手続き上、被告を政務活動費の支払い権者である市長に
対象議員が不当部分の金額を返却するよう求めたために市が支払っている

制度、手続きはどうであれ実態は、議員さんの弁護士費用を
市が肩代わりしているように見える
なので市民感情からすれば、せめて自分たちの弁護士費用は
自分たちで支払うべきではないのか、、
との声が市民の中から上がってきている

ここまでは今までの話
ところが、このごく自然な(感情から起きた)要求に従って
市に弁護士費用を議員が支払うことになると、選挙違反になる
との意見がまことしやかに囁かれ始めた

市議会議議員が選挙区の人に金品を支払う行為は、寄付行為にあたり
禁止されているというのだ(人の中には地方公共団体も含まれるとか)
確かにそのようなことが公職選挙法の199条には書かれている

だが、法律を詳しく知らない者の強みで、「そうですか!」
と納得出来ない(したくない)のがこのことで、
自分たちの弁護士費用を肩代わりした市に返却することが、
本当に(彼らが将来得するような)金銭の寄付になるのか
疑問に思えて仕方ない

公職選挙法の199条の前提は、選挙に得になるように、、
と思われる行為としての寄付を禁止しているように思う
だが、今回の場合、市に支払うという行為は、
具体的に誰が投票に影響するようなことになるのか疑問だ
市とは市長?職員?市民?
現実的には具体的な選挙権を持つ人の固有名詞は決定できず、
市に支払ったと言っても支払われたほうが恩義を感じる人はいない

まして今度は対象となる市議会議員が自発的に支払うのではなくて
市民の間から「自分たちの弁護士費用は市の税金を使わずに、
自分たちで支払ってほしい」との声からの要望で、
これは市民から市に寄付を要求しているのとはかなりニュアンスがちがう

行為の意図、寄付と定義される意図は自発的なのと、
要求されたのとはだいぶ違うような気がする
市民が、一種の罰金のようなニュアンスで市議にたいして
市に弁護士費用の支払いを求める行為が、
彼らの(選挙時の)得となるような行為なのか、、

現在マスコミを賑わしている河合前法務大臣と河合安里夫妻は
見え見えに自分たちの利益のための行為だ
これだけはっきりわかりつつあるにもかかわらず、丁寧な捜査で
簡単に選挙違反とは言い切らない

今回は、実態において(支払ったとしたら)支払った彼らは
何も得しないし、自発的でもない
それで、単に金銭が動いたという事実だけで禁止された寄付行為に
当たるのだろうか

知らないものは勝手にいろんなことを言える
視野が狭くて、これらの想像が全くの的外れである可能性はある
だが、この行為を寄付としてしまうような法律は
本当に実態を反映しうる法律なのか、、、と考えてしまう

おそらく法は、いちいち具体的なことは書かずに包括的な書き方をする
そうすると運用には必然的に解釈という行為が伴う
こうした問題にぶち当たった人が個別に解釈を聞こうとすると
実は、聞き方一つでかなり答えは変わってくる気がする

なになにはいけませんか?
と聞くと、原理原則を言うだけ
だが、聞き方を変えてみると(現実の世界では多い例を挙げて)
その答えは曖昧になってしまう
(公取の景品等に関する法の場合、真面目に聞くと何もできないが
  聞かずにグレーゾーンでやってる場合は多い
 それは誰かが追求しないと違反ということにはならないので)

例えば、今回の場合、ストレートで聞いたならば
答えは通り一遍のことしか返ってこないだろう
でも、聞き方を変えたら、、、

ということで、実はこの手の法律を管轄している総務省に
電話をかけて、具体的に聞いてみた
やはり通り一遍の回答だったが、
市民感情として市民は自腹で
一方対象議員は市のお金で弁護士費用を支払っている
(その法的な根拠は別として)のは納得いかない
と伝えたところ、個別には寄付行為の事実認定をしていかないと
なんともいえない、、、との答えだった

法は納得できるものと、納得できないもの、
納得したくないものがあると感じた次第

どんな法があれ、気分的にはあれが寄付になるとしたら
納得できないな(法を守らないという意味ではなく)

誰がストンと気持ちが落ちるような説明をしてくれたら
 そんなものか、、、と思うだろうけど

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話すということ

2020年06月25日 09時44分08秒 | 子どもたちのこと

火木の外国にルーツのある子どもたちの勉強の手伝いをしていると
その場その場でいろんなことに気づいたり考えたりする
一番の目的は日本語の上達(大きくなったら他の知識の習得)なのだが
その方法について何が効果的なのか、、と自分なりに考えてしまう

日本語を覚えるためには、定番として
まずは聞くことから始まる(読み聞かせ)
次に、読むに進む
声に出して読んだら、今度は書く
こんな当たり前のステップだが、時々何か肝心なことが欠けていないか
と思えてしまう

「話す」ことは重視されなくて良いのかな、、
それが、ちょっとした疑問だ

残念なことに日本語がうまく扱えない子どもたちは、
音読や漢字の書き取りの宿題を与えられる
それをちゃんとできるか見守るのが役割になっているが
その宿題をやってるなかで、こちらが気づいたことを聞こうとすると
彼らはこちらに上手く伝えることができない
筋道だって話すことができない以前に、自分の伝えたい言葉が何なのかが出てこない

この感覚は実はよく分かる
ドイツに何十年ぶりに旅行しようとしたときに、やっつけでドイツ語のおさらいを行った
NHKのラジオのドイツ語講座を聞いて、テキストを購入して、聞く、読む、書いて覚える
という作業を行った
そうしてドイツに出かけたが、現地で猛烈に感じたのは聞き取れないとか
単語が出てこないというより「何も話せない」という現実だった

まずは話そうとする内容に必要な単語が出てこない
次に文法的なものが思い浮かばない

この実体験は印象に残っているので、言葉を覚えるには「話す」という行為が
相当に重要な位置を占めるのではないのかな、、と思うのだった

聞く、読む、書く、は受動的な行為で「話す」は能動的な行為
頭が必死になって働くのは、
「どうやって説明したら良いかを必死に考えている」話す行為の方ではないか
これは子どもたちの様子を観てるとよく分かる
「オレが、えーと、、(イライラしながら必死に何かを考えて・探して)、、」
とにかく伝えようと集中する
彼の頭の中では、必要だが出てこない言葉(単語)が何だったかを自覚する
そして辻褄の合うような説明をするには、、と試行錯誤する

これは書いたり読んだりするよりは頭を使いそう
でも、書いたり読んだりするよりは子供にとっては苦痛ではない気がする
(もっとも話の内容によりけりだろうけど)

なので最近は、低学年の子にはいろいろ質問をして答えてもらうようにしている
ありがたいことに、話すことのトライには彼は面倒臭がらずについてきてくれる

時間がいつか解決する事かもしれない
(覚えるということは人がみんな時間をかけて身につけることなので)
でも、明らかにハンデキャップのある彼らが、
言葉の不自由なためやけくそにならないようにするのは
上手い上達法があれば良いな、、といつも思う




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6月定例会の予算決算委員会

2020年06月24日 08時48分15秒 | 市政、市議会に関することなど

昨日(6/23)の新城市議会の予算決算委員会は
またもや夜遅くまでかかったらしい
(途中まで傍聴していたが、疲れて退散した)

予算決算委員会は大事なお金の使い方に関わることなので、我慢して聞いていると
そんなふうになっているのか、、と驚いたり、安心したりすることが多い

だが、ずっと聞き続けるのは正直なところしんどい
いくら大事なことでも、余程のことがないと集中力はキープできない
そんな一般人の代わりに、きちんとお金の出入りをしっかりチェックするのが
(分業としての?)議員さんの役割だ

議員さんは行政にお金について質問をする
ただお金の出入りは多岐に渡っているので、現実的には一人の議員が
全てに関心を持ってチェックするというのは無理と思われる

議員さんは自分の関心事や、自身の体験上得た知識を活かせる分野の
予算・決算にはさほど苦労しなくても質問ができるだろう
つまりは、議員さんは得意とする分野でそれぞれが頑張って貰えれば
1人でいくつもの疑問点を指摘するようなことはなくなる
議員さん全体の中で、役割分担がなされていいのだが、、

ところが昨日の予算決算委員会は質疑者は例の如く固定されていた
議員に配布された分厚い本を読み込んで、質疑したのは数人
(自分が確認できたのは、山口・浅尾・滝川・丸山・小野田・竹下・山田議員)
あとの議員はダンマリだった

最近の予算決算委員会は長くなっているので、
最初から十分な時間を確保しておけば良いと思うのだが
始まりは午後の1時半だったので、それで結果的に遅くまでかかってしまった

だが、遅くまでかかってしまった理由は、もう一つある
それは補正予算に、コロナ対策のためのものに合わせて
例の行政訴訟の弁護士費用が計上されていたためだ

これに関して、裁判の「被告知人」である当事者の議員が自らの弁護士費用は
自分で払うべきではないのか、、との意見が出され、
補正予算として一括に束ねられた議案(束ね法案)には無条件に賛成しかねる
との意見等がなされたのだ

裁判などはテレビドラマで見るのは良いが、
実生活では経験しないに越したことはない
それは一般人だけでなく行政の方々も同じだ
弁護士ほどではないが、法律のプロみたいな行政マンも議員さんの
「被告知人通知は誰がしたのか?」
との初めて聞いたような問に、数分間、右往左往する場面があった
だが、これは行政の方の知識不足と言うよりは、
そんな言葉を経験することはめったにないので、仕方ない対応だったように思う

予算・決算に関わることに制限された質疑だが、弁護士費用が補正予算にあがっている以上
裁判のことは、どうしても追求される
そこで問題となった概念が「被告知人」ということば
よく耳にする「被告」ではなく「被告知人」
一体これはなんだ、、と疑問が浮かぶ
それでいろいろ調べると(ネットで)裁判に参加する人物のようだ

こんな例が紹介されていた
Cさんは車をAさんにぶつけられたのでAさんを裁判に訴えた
 Aさんは被告になったが言い分があった。自分はちゃんと止まっていたのに
後ろからきたBさんが追突したので、それが原因でAさんにぶつかることになった
この場合責任があるのは、確かにぶつけたAさんも(いくらか)あるが
その要因にもなったBさんにもあるはずで
裁判においてはBさんも裁判に参加すべきという作業が「被告人通知」

今回の行政訴訟を、この例に当てはめると名目上の被告(市長)Aは、
そもそもの裁判の原因は、政務活動費の不明瞭な使い方をした6人の議員(被告知人)Bであり
被告(市長)に全然責任がないとは言わないものの、B(被告知人)にその責任の大半がある
ということだ

これはいちいちこんな面倒なことを言わなくても、市長が以前の一般質問に答えて
自分は手続き上(形式上の)被告だが、実態は6人の問題だ、、と答えていたことに被る

問題は、これらの弁護士費用、及び敗訴したときの費用は現実的に誰が払うか、、となるが
上記の例では被告のAさんだけが支払うだけでなく、
おそらくぶつけたBさんもいくらかの支払いを要求されるのではないかと思う
(弁護士費用もAさんだけというより、AさんはBさんにも払うように言いそう)

行政は今回の弁護士費用の支払いについて、手続きに沿って行っているという
でも、ルールには沿っていないのではないか
第一、こんな状況を想定して、ちゃんとした手続きかどうかが分かるのだろうか

何度も繰り返すが、この件については自分はシンプルに
「自分たちの弁護士費用は自分たちのお金を使って行うべき」
と思うし、それがなされないのは何故かと思う

ところで、裁判に関する質疑で6人の被告知人は、一度も裁判の傍聴も参加しなかった
ことが明らかにされた
6人の被告知人は宿泊費を返却して裁判を終わらせる事になった理由に
「我々に求められる本来の有意義な議員活動に専念するため」
としているが、裁判に対しては傍聴など少しも時間を費やしていなかったから
専念するもしないもない、最初から人任せで自分たちは何もしなかった
と思われても仕方ない(そしてその費用は市が肩代わり)

今回の裁判について、何でも首を突っ込む傾向の自分は、当初
ことを荒立てないように!と思っていたが
対象議員さんの潔くない振る舞いに、、
その他、決算委員会でも質疑の不参加に、少しばかり腹が立ってきてしまった

これらのことは、選挙で一度投票したら、あとは議員さんに白紙委任でお任せ!
では、限りなく不安が残ることを表している(と思う)
4年に一度、選挙権を使うだけで大丈夫!
と言えるほどの社会にはなっていないと思うのは、難しく考えすぎか



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フルトヴェングラーのトリスタン(ブランゲーネの警告のヴァイオリン部分)

2020年06月23日 08時42分08秒 | 音楽

非日常を感じることは気分転換になって良い
音楽や映画、絵画や芝居に心奪われて
その瞬間は頭を占めていた悩み事も忘れられる

聴くたびに非日常を感じる音楽がある
その非日常の特別な感覚を味わいたくて聴こうとするが
運悪くその非日常感を味わえなかったら
今度は感じられなかったことに失望する怖れもあるので
気楽に向かい合えないでいる

その音楽の筆頭はフルトヴェングラーの指揮する音楽だ
有名な「第九」の第三楽章の沈潜した瞑想的な音楽
マーラーの「さすらう若人の歌」の表情豊かなオーケストラの伴奏
「モルダウ」の冒頭のフルートの意味深げなやり取り
「ブルックナーの8番」の第三楽章の忘我の瞬間
「エロイカ」の全体的な統一感と若さと奏者の気合が感じられる音楽
その他きりがないが、最近気になったのが「トリスタンとイゾルデ」の音楽

聴き比べまでしたのが、第二幕の有名な愛の二重唱の部分
正確にはメインの箇所ではなくて、ブランゲーネの警告の部分
この音楽は昔バイロイトで観た(聴いた)時、初めて聴いたり観たりしたのだが
とても印象に残っており、数日後もう一度観る(聴く)ことになったときは
その部分が楽しみに思ったものだ

フルトヴェングラーの全曲盤のレコードは、ここでは歌にまとわりつくように
ヴァイオリンが奏され、その音楽は声(歌)以上に雄弁で、憧れ、恍惚感、
更に肉体的な快感まで感じさせる
この部分が聴きたくて、このレコードをかけることになるのだが
不思議なのはベーム・カラヤン・クライバー・バーンスタイン指揮の
レコードではここは拍子抜けするくらいあっさりしている
というより、音楽が美しく流れているだけでそれ以上でも以下でもない
という感覚(その美しい音楽の表現にいろいろ解釈はあるとしても)

こうして比べると、何が違うのだろう、、と思わざるを得ない
濃厚なロマンチシズム、感情移入の激しい音楽、音楽は楽譜に書かれた音楽の再現
というよりは、そこで起こっていることを今まさに観ているような感覚
この感覚はフルトヴェングラーでしか味わえない

ただこの感覚が一般化されるかどうかはかなり怪しいかもしれない
人の感じる素地は、その人の生きている時代背景が影響する
自分らの生きていた時代はギリギリでフルトヴェングラーの求めたものとの
接点があったかもしれない
でも今は、このような濃厚な音楽は歴史的意味としか捉えられないかもしれない
現代はもっと感覚的な心地良さとか技術的な完璧さを要求されるのかもしれない

つまりはフルトヴェングラーの魔術にハマって抜け出せないでいる
だけなのだが、とにかく、何かが違うと感じることだけは確かだ

トリスタンの音楽はその他にも二幕の最後、
トリスタンが刺されるシーンの音色がフルトヴェングラーのは
取り返しのつかない出来事のような悲痛(?)な音色だが
他の演奏は、そこまでのインスピレーションを喚起しない

フルトヴェングラーのこのレコードは何度も聴いたわけではないのに
もう深く記憶どころか、体験として残っている

フルトヴェングラーの音楽で感じること
これを知らないことは人生で損してるとまで思ったりするが
個人的な思い込みなんだろうか

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本について

2020年06月22日 14時16分58秒 | 

ハリー・ポッターの作者、K.ローリングが地下鉄の中で
自分の本を読んでいる若者を見かけて、喜んだという
それは売れているからではなくて、本を読むという行為
受け身でなくて自らの想像力を駆使する行為がなされている
こと対するホッとした気持ちからだそうだ

チャーチルは、今後20年後の未来のために図書館を
充実させるべきとの考えを表にしたとも聞いた
数年前、ドイツの電車の中で若者が厚い本を読んでいるのを見かけた時、
つい日本の同世代の(スマホ依存の)若者と比べてしまったが
思わず日本はヤバイと不安になったものだった

これとは別に、記憶は定かではないが、今後の学生の授業では
文学作品ではなくて契約書を読むといった実用的なものに
主力をおくようにするとか、、とも聞いた

契約書などは確かに読みにくいが、パターンを覚えてしまえば
理解はさほど苦労はしない
はたしてそんなものに訓練する必要があるかどうか、おおいに疑問で
むしろ、現代の人間が昔の人間の考えたことのレベルに達していない
ような気がするほうがずっと心配だ
(昔の人のほうがしっかり考えていたような気がするときがある)

現代のベストセラーは、読まれるべき本なのだろうか?
なんとなく言えそうなのは
読書好きの人間は、きっとベストセラーは読まないだろうということ
本好きは自分の内面の要求によって本を探す旅に出かける
そして結果的に自分にとって必然と思えるような出会いを果たす
その人にとっては新しい本に意味があるのではなくて
その時に読みたいと思った本が新しい本なのだ

ということで、自称本好きは、あまりベストセラーは読まない
頑なに読まないというのではなく、他に読みたい本があるから
読まないことになっているだけ

それにしても、図書館や書店に行って驚くのは
人は本当にいろんなことを考え、書き残す衝動に支配されているということ
生き物が呆れるほどいろんな形態や生き方をしているのと同様に
人はなんと多くの勝手な人それぞれの考え方をするのだろう
とこれまた呆れてしまったりする


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覚えられない(わからない)という実感

2020年06月21日 16時03分20秒 | 子どもたちのこと

言葉とかモノを覚えるとは、どういうものだろう?
と、外国人をルーツにもつ子どもたちの勉強の手伝いをすると
いつも不思議に思う

脳の中のある一部分に新しくニューロンが伸びて、微弱な電気が
流れるようになる、、、みたいな説明を見たような気がするが
同じ勉強をしても人によってニューロンの伸び方は違いそうだし
ある部分の微弱な電気を計測しても、その内容が同じと確かめる方法はない

どのように記憶されるかは結局のところわからないが
どうすれば、覚えられるかについては、人は経験則からなんとなく分かる
例えば、ひたすら繰り返し書く、あるいは口に出す、読む

これらは火・木曜日の手伝いのときにも、子どもたちにトライさせる
何事も個人差があって、日本語の会話に困らない子もいれば
本当に心配になってしまう子もいる

こういう子には、なんで覚えられないのだろう、、と思ったりするが
子どもたちの「わからない!」という実感は、自分らでも経験できる
例えば、ドイツ語なりを今になって復習し身につけようと思っても
基礎となる単語(男性・女性・中性)とか、前置詞は繰り返し読んだり
口に出したり書いても、そのときは覚えたつもりでも記憶に留まっていかない
それでもドイツ語なら少しは良いかもしれないが、彼らの話すホルトガル語を
今から覚えようとすると、全くのお手上げだ
数字を覚えるだけでも大変だ

彼らが日本語がわからない!というのはこういうことなんだろうな
と想像する
歳を重ねていろいろ覚えられなくなっているからこそ
彼らの気持ちも分かる、、、ということかもしれない

彼らと自分とで、よーいドン!で新しい知識の獲得競争をすると
きっと自分は負ける(可能性大)
自分らが勝てるのは今までの蓄積のおかげ
同時に、この無意識の蓄積もずいぶん多いものだと気づいたりする

昨年、七夕の短冊に「ちびっこが おりこうさんに なりますように!」
と願いをかけたが、少しづつでもそうなってほしい

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