パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「絶望の裁判所」が目に入ったのは

2025年04月06日 09時52分26秒 | 

行政裁判を経験した時に違和感を覚えたことがあった
(裁判は経験しないで済ませられるなら、それが一番いい)
「あれっ、もう終わり?」
「裁判官という人々は専門的な知識があるとはいえ
 普通の人が感じるように感じるのだろうか?」

行政裁判はテレビドラマのような証人が出て丁々発止で行われる
ものではなく、準備書面という原告・被告の言い分を書いたもので戦われる
相手側の言い分に対する反論は2ヶ月ほどかけて裁判所に提出されるので
裁判の進行はとてものんびりしている

行政裁判は2回経験したが、最初のものはゆっくり進んでいった
しかし、2回目の養鶏場のそれはあっけないほど早く終わりとなった
「まだ肝心な購入価格が高い安いの話が十分に戦われていないのに、、」
自分が覚えているのはそういう気持ちだった
「手続きの不自然さの指摘が終わって、さあ、問題の価格について、、」
と意気がったが、手続き論だけで判断がくだされそうになった
そしてその結果は「手続きに瑕疵はない」

外形的事実といわれる言葉がある
兵庫県の優勝パレードの問題では、金融機関に補助金を出すとした時期と
実際に金融機関がパレードにお金を出したタイミングが隣接して
しかも副知事が絡んでいるので、疑われても仕方ない(外形的事実があるということ)
と橋本徹氏も公言していたし、第三者委員会でもその旨が書かれている

このように普通の感覚ならそうだよな!
と思われることは自分たちの場合もあった
肝心な価格について、心理学にはアンカリング効果と言われる考え方で
価格決定に影響を与えると思われる行為が行政によってなされたのだが
裁判官はそれを奇妙だとは認識しなかった
(試しに数人に裁判の結果を知らせずに、行政の行為をどう思うか聞いてみると
  勘の良い人はその行為に「ええっ、なんで」と反応した)

同じものを見ても(聞いても)おかしいと思う人と思わない人がいる
白黒結論を決める人は、本当に正しい判断ができるのだろうか?
それが、ずっと頭に残っていた
そして公には結果が出たが、こころはスッキリしないでいた

そのせいか「絶望の裁判所」を目にした時、直ぐにアマゾン購入することにした


裁判絡みでは昨年に「裁判官の良心とは何か」竹内浩史の本を読んだ

竹内氏の本の中に「ヒラメ」という言葉で裁判官の出世主義を
紹介した部分があったが、どうもそれは竹内氏の独断ではなく
その空気は「絶望の裁判所」にも書かれていた

そしてこの本で頷いてしまったのは
裁判は素早く処理するもの、それが評価につながると書かれた部分で
「だからあの時もそうだったのか!」
とついわかった気になってしまった

裁判官という職業の人達の実態は部外者にはわからない
頭が良くて、正義感に燃えて、何事も公平に応じる
そうした人たちと思われるが、中にいる人達(竹内氏、瀬木氏)は
必ずしもそうでは無いとされている

瀬木氏は、失策をしない、手際良く片付けるなどの評価基準の検討
民間の常識的な判断力を活かすためにの裁判官任用のシステムなどを
提案している
ざっと読んだだけだが、ちょいと変わった人かもしれない
と思えないことも無いが、その指摘は的を得ている気もする
(キャリアシステムの変更や事務総局の解体など)

人間社会というのは、欠点のある人間同士がどこか折り合いをつけて成り立っている
できる限る妥当な落とし所を、理性と感情で求める様になっていると思っていた
でも実態は、必ずしもそうではなさそうな雰囲気だ

結局のところ、いろんなことは無条件(無関心)にスルーすることは良くない
ということかもしれない
気がついた人が声を上げたり行動したりする
それがあって初めて少しは良くなるのかもしれない
(悪いことが少なくなるのかもしれない)


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「ガラス玉演技名人」は外の社会に出ることにした

2025年03月30日 08時32分17秒 | 

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」がきっかけで読むようになったヘルマン・ヘッセ
今でも彼は一番のお気に入り作家だ
だからドイツを旅したときは、ヘッセの生まれたカルプという小さな町にも出かけた
そこにはヘッセの記念館があったが、残念ながら入館者は悲しいくらい少なかった
記念品として彼の小説が販売されていた
大好きな「シッダールタ」を購入しようと思ったが
ドイツ語の本を手にする暴挙は諦めた

購入候補に挙げたのは「シッダールタ」の他に「メルヘン」と「ガラス玉演戯」
「メルヘン」は一つ一つが短いからドイツ語でも読めるかもしれない
「ガラス玉演戯」は最後の方にでてくる「シャボン玉」という詩が
とても気に入っていたので、手元に置きたいと思ったのだった

「ガラス玉演戯」はヨーゼフ・クネヒトがガラス玉演技名人となるまで過程と
なってからの精神的な動きを克明に描いたもので、正直なところ覚えているのは
ヨーゼフ・クネヒトは偉い人だな!という印象と、「シャボン玉」の詩だけだ

昔読んだ「ガラス玉演戯」は新潮社のヘッセ全集版の一つで価格は1800円だった


若くて経験も足りない時期に、難解なものをよく読んだものだ!
と自身の行為に驚くが、今でも主人公の行為は尊敬に値すると思っている

ガラス玉演戯とは空想の産物で、音楽と数学とを混じえた抽象的なゲームみたいなものらしい
名人は純粋培養されたような教団内で、その精神的・技術的な高さ故に名人となったのだが
彼は最終的に名人の地位をすてて世間に出る決心をした
彼は一種の象牙の塔にとどまることを良しとしなかった
むしろ人間の欲望とか野心とか、良くないものを含んだ社会の中に身を置こうとした
ガラス玉演戯はその世界にいれば、高度な抽象的思考の価値とかその有益性を実感できるだが
それでもクネヒト(奴隷の意味を持つ言葉)は外にでた

そこにいれば安泰で誰もが尊敬してくれるし生活も困ることはない
でも彼はその選択をせず荒野に旅立つ
自分が覚えているのは、この人は偉い人だなという記憶

そしてこれは、もしかしたら今の社会に求められているものではないかと思えて仕方ない
つまり、高度に体系化されて調和のある世界があるとしても
そしてそれは時間をかけて守っているものだとしても
人間社会の現実に向かう態度を持つ気概こそが必要ということで
政治家とか法律家は自身の世界の中で住んでいるだけではダメということで
昨日の大乗仏教の考えに近いが、一部の解脱者とか知識人で自己完結するのは良くない
ということだ

どうもうまく説明はできないが、とにかくこういう人が偉い人と自分は思っている
ところで心が落ち着く「シャボン玉」はこんな詩

 シャボン玉

長い長い年月の研究と思想の中から
おそくなって一老人が晩年の著作を
蒸留させる。そのもつれたつるの中に
彼は戯れつつ甘い知恵を紡ぎこんだ。

あふれる情熱に駆られて、一人の熱心な学生が
功名心に燃え、図書館や文庫を
しきりとあさりまわって
天才的な深さのこもった青春の著作を編んだ。

ひとりの少年が腰かけて、わらの中に吹き込む。
彼は色美しいシャボンのあわに息を満たす。
あわの一つ一つがきらびやかに賛美歌のようにたたえる。
少年はありたけをこめて吹く。

老人も少年も学生も三人とも、
現世の幻のあわの中から
不思議な夢をつくる。それ自体は無価値だが
その中で、永遠の光がほほえみつつ
みずからを知り、ひとしおたのしげに燃え立つ。

    高橋健二 訳

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「朝と夕」ヨン・フォッセを読んで

2025年03月25日 16時37分20秒 | 

ノーベル賞作家ヨン・フォッセの作品「朝と夕」を読んで
つい思い浮かべたのは少し前に読んだ同じくノーベル賞作家の
ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」だった

両作品とも出産のシーンが書かれていることもあるが
全体的なトーンが似ている(静的な雰囲気)
饒舌な描写ではなく、むしろ反対の削ぎ落とした言葉と
内的な想像力を鼓舞する文章だ
そしてこういうの、好きだな!と思うのだった

こうした過度の描写がない文体は今トレンディなのだろうか
単なる偶然なのだろうか

何かドラマティックなことが起きるわけでは無い
淡々と語られていくのだが、出来事は夢の中の出来事のような味わいだ
それは自身が体験した大怪我をして生死を彷徨っていたときに
意識が明瞭なまま身体を離脱して上方から家や人を見おろす神秘体験の影響のようだ

ハン・ガンもヨン・フォッセも彼らの内面で起きていることは(描写していることは)
何となく分かるという実感がする
それは多分、自分との対話のそれと似ているせいだと思う

本を読んで、そのあらすじとか内容をうまく語るといった才能は自分にはない
だが、何かを感じることはできる
それはこの本のヨハネスの年齢が自分と近くなので
実感として思えるようになっているのかもしれない

ヨン・フォッセもハン・ガンも多くを語るよりも
読み手の中にある何かを呼び起こす力が優れているように思う

その分読みやすくて、目がしょぼく、気力が続かない今の自分には
有り難い存在だ
この本の評価は「優」としておいた


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「トランプ信者潜入一年」を読んで連想したこと

2025年03月02日 09時57分22秒 | 

ベルリンの壁が崩壊した後フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書きあげた
人間が作り上げた制度、思想は進歩するものと捉え、その終着点として
資本主義・民主主義を標榜する陣営、特にアメリカが代表する世界観が
全世界を席巻するものと少しばか楽観的すぎる自説を展開した

そしてこの時代の覇者と思われたアメリカは
その力(兵力・経済力・理想主義)によっておそらく過度に世界に介入していった
ところが徐々に現実社会は、NHKの「欲望の資本主義」で紹介されるように
格差・少数者の支配などを始めとして世の中の混迷の度を深めていった
それは資本主義に内在する問題かもしれないと思えるところもあった

時が少し経って、今思うと予言のように出版されたのがハンティントンの「文明の衝突」だった
それには地政学的、歴史的に育まれた民族の思考法は、必ずしも西洋的な価値観での
それと一致するものではなく、むしろ対立を生む可能性を示唆している
アメリカとロシア、イラン、中国 それらは同じ価値観で同じ傾向の考え方をしない

結局のところアメリカの世界に対する相対的な影響力は低下していった
それでもアメリカは、経済的、民主的、人道的な面で支援を行うことは続けていた
それはノブレス・オブリージュと言われる、富んだ者、力のあるものは
弱いものを助けるといった余裕のあるところを見せていた

しかし相対的なアメリカの影響力や国内の社会環境はトランプ大統領が
「MAGA」(アメリカ合衆国を再び偉大な国にする)
と宣言しなければならないほどの状況になった

昨日からテレビでも多く報道されているトランプ大統領とゼレンスキー大統領の口論
個人的にはこれは「遅かれ早かれ、どこかで起きること」と思っていた
どちらかが現実を踏まえていなくて間違った行いをしたとうよりは
いずれ起きるに違いない出来事のように思えたのだった

ところで昨日読み終えた本がこれだった(トランプ信者潜入一年 横田増生)


自分はトランプ信者ではない、むしろその反対だ
対立する人間を敵と見なし、暴言を良心の呵責もなく繰り返す人物を
あのポジションのおいては駄目だと思っている
そしてアメリカ人が民意としてか彼を大統領に地位に選んだのは
実はアメリカの自滅だと思ってる
彼の得意なディール思考、それはノブレス・オブリージュとは対立するもので
それがあった故に「腐っても鯛」と世界からは信頼されていたアメリカが
自らその地位を捨てたのだと思えてならない

さてこの本の中で、日本人としては感覚的に把握しにくいのがキリスト教の影響だ
白人のキリスト教信者、トランプ氏の応援する母体がそれだが
そのメンタリティはインタビューを読んでもストンとか受け入れがたい
(人工中絶反対の考え方だけでなく)
そして実感と違っていたのは自己責任という概念の徹底されていること
それは日本人のそれとは随分違っているように感じる
日本では皆保険制度が当たり前のように存在し、困った時、弱者でも守られるようになっている
ところがアメリカでは、それがないことでも、そしてそれ故に大変なことになっても
自己責任だから仕方ないと考える人が少なくないようだ

そして現実社会に存在する人種差別
オバマ大統領の誕生は早すぎたとの考えもあったようで
それに対する反動もトランプ氏に味方したとあった

でも一番ショックだったのは、日本でも見られる傾向だが
SNS等の偽情報に無頓着なことだ
嘘でも真実でもどちらでも良い、役に立つものならそれが価値だ
そのような扱いで社会に影響を与え続けるメンタリティは
従来ならば出馬の時点で降ろされるのだが、日本でもそうだが
こうした人物を大衆が面白がって支持してしまう

とんでもない人物が誕生したり、登場したりすることの怖さよりも
大衆が面白半分に彼ら支持したり生み出してしまう怖さのほううがずっと怖い

社会にある程度必要なのは現実感覚だと思われるが
それに依存することは、ある意味で力による支配を認めてしまうことになる
世界は力関係だけで成り立って良いものか?

いま日本国内で起きている兵庫県の斎藤対反斎藤の対立は
まさに分断と言うべきもので、お互いが譲らないでますます激化しているかのようだ
それはトランプ対反トランプとよく似ている
つまりはこうした出来事も時代の必然なのだろうか?

それにしても、大衆がより良い選択をする!
というのはとても難しいことと思えてならない


 

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女の本、男の本

2025年02月25日 09時12分40秒 | 

気持ちはわかるけど、相性は良くないというものはあるものだ
読書モードになっている最近だが、この本は途中で読むのをやめたくなった
その本が「ドヴォルザークに染まる頃」町田そのこ著

作品の善し悪しと言うよりは、一言で言ってしまえば自分には合わないという感じ
それは「女の人の感覚についていけない」ということだと勝手に思っている

独白のような気持ちの描写が多いが、実生活を踏まえたそれはリアリティを覚えるよりは
かなわんなあ、、という気持ちのほうが強い(不倫とか離婚とか性的な描写等で)
そしてこれは竹内まりあのCDを1枚通して聴く時に感じる印象とか
マルタ・アルゲリッチの演奏を聴く時と印象に近い

あまりにも感情にダイレクトに攻めてくると、ちょいと遠慮願いたい
という気持ちになってしまうのだ
尤もこれは一般化できるほどの説得力を持つものではなく
単に自分がそう思ったというだけのことだ

これはブルックナーの音楽は女性にはウケず
それは男しかわからないという思い込みの反対の例のようで
この小説は女性にしか理解されないのではないか!とさえ思う

男女差による感じ方の違いというものは、絶対にあると思われるが
人にとってどちらの感じ方が正解というのではなく
ただそういう違いがあるというだけのことだ

今、なにかに導かれるように再読しているのが佐伯啓思の「近代の虚妄」

これなどは、男しか読まないのではないかと思われる本で
そう決めつけるのは独断に過ぎないかもしれないが
女性が読んでいるところをイメージすることは難しいよう思えて仕方ない

ところで前回この本を読んだ時、ブログにアップしていたが
その内容は以下のリンク先
「近代の虚妄」を読んで https://blog.goo.ne.jp/bitte1107/e/fbf85a5cd0e1d92d77bba5d81ab958ae

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読めないかもしれない!と思えた本を読むと

2025年02月18日 09時42分10秒 | 

勢い込んで購入したものの、読み始めると書かれていることに
全く馴染みがなくて(おまけにページ全体は文字ばかり)
最後のページまでたどり着けるか不安を覚えたのが最近の二冊

一つは昨日、最後までたどり着いた「教養主義の没落」竹内 洋著

そしてもう一つは先日読了した「ナチズム前夜」ワイマル共和国と政治暴力 原田昌博著

正直なところ途中までは、何故こんな本を購入したのだろうか?
と自分の選択の意図がわからなかった

だが2つの本は読み進めていくうちに
それは現在、自分が気にしている問題を扱っているからと納得できるようになった

上の「教養主義の没落」は、かつて主流だった人文的視点からの教養主義
(文学、哲学など)が、時代を経るにつれて、以前程の重要性を持たないように
なっていった過程を分析している

自分が学生の頃は岩波文庫で星一つは50円で、岩波文庫を持っていることは
総合雑誌を「ええかっこしいー」で持っているのと同じような意味合いがあった(らしい)
ただし、その時代も抽象的な自己完結に陥りそうなその手の教養主義は
マルクス主義の人からは現実を反映していないと批判されていた
(学生時代に革マルの人から叱られた記憶がある)

一般的には教養主義は西洋の考え方を取り入れることとしている
文学には教養小説といわれるものがある
(ウィルヘルムマイスターの修行時代とかジャン・クリストフとか)
つまりは如何に生きるべきかを問うような内容で
モラトリアム時代の学生が生産的ではないにしても
内的な経験を積むことで確固とした人間になることをイメージさせている

ところがこの内的に自己完結する教養主義は、その内的な体験は
一般化しにくく、むしろ時代に合わせた空気感の方がリアリティを持つようになった
そしてそれは読書傾向にも現れる
夏目漱石から石原慎太郎、教養小説から漫画などがその一例だ

読み進めると、こうした傾向の移り変わりは半ば必然で
そうなるのは仕方ないと思えないこともない(時代の流れとして)
だが、そう簡単にそれを認めてしまって良いのだろうか?
との疑問が浮かんだのだが、それは少し前の「人生を変える教養」を読んだからだ


フィンランドの高校の教科書は今でも、人文系のリベラルアーツの教育をしっかりしている
それは時代の変化とか傾向に関係なく(?)必要なものは必要として扱い
結果的に一人のしっかりした大人を育てることを目指している

それは安易に時代の変化にあわせるだけの日本の姿勢への不安を覚えさせる
そして、それは今の自分も感じていることだ

読んだばかりは頭が整理されず記憶が定着しない事が多い
もう少ししたら、「教養主義の没落」は、人に説明できるくらいに理解が進むかもしれない
読後の評価は「優良可」のうち「良」としておいた

「ナチズム前夜」は、ヒトラーがついにトップに立って以降の動きは
今のトランプさんの暴走を連想させるもので
読んでいて不安感を覚えてしまうところに現在の意味があると思う
人は権力を持つと全能感に満たされ「あのようになってしまう」ということで
だからこそ権力には手出しができるうちに
ブレーキをかけるような行動とか制度を構築しないとをしないとまずいとつくづく思う
それは人が痛い思いをして身につけた知恵だと思うのだが
どうも最近は空気と勢いに流されっぱなしのような気がしてしまう
そうさせないために必要なのが「教養」というものの裏打ちされた
個の確立と思うのだが、、、

いつものまとまらない話

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「ナチズム前夜」読書中

2025年02月10日 09時50分00秒 | 

この本の帯には
「昨今、政治的状況や政治家の発言などがナチズムを連想させるという指摘が数多く
現在の日本はナチスが台頭していた頃のドイツに酷似していると言っても過言ではない
ワイマル共和国という民主主義国家から、なぜナチズムが生まれたのか?
それは今の私たちにこそ突きつけられている問だ」と記されている

この帯の言葉が常々の実感としてあったので、アマゾンで購入したのが
 「ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力」 原田昌博著


正直なところ、もう少し簡単に読めると思っていたし
ナチスはポピュリズムとプロパガンダによって容易に
あの地位を手にしたと思っていた

しかし、それは違った
日本語で書かれたこの本は一体誰が読むのだろう?
と思えるほどあの頃のドイツ国内の事情が詳細に書かれている
自分のような事情を知らない素人が手にすると
ここに書かれた事件や背景を知るだけで頭が混乱する
まずは正確な知識からスタートするという当たり前のことが
とても苦労が要求されるのだ

こんな時は、わからなくてもとりあえず読み進める
という手を取ることにしている(中断するのは悔しいので)
そして読む進める時は、出来事が進行している世の中の空気感を
想像力をもって味わうことにしている

すると、これらの出来事は、明治維新のころのざまざまな組織が
それぞれの考えのもとに覇権争いをしている姿に似ているような気がした
そして現在の日本においても、政権が少数与党になった中で
それぞれの党が存在感を得るために様々な案を提案することにとどまらず
組織同士の集合・離散を繰り返す姿を思い浮かべた

ナチスは一気に上り詰めたのではなく、初期は危険な存在として把握されており
ヒトラーは刑を受けて収監されてもいた
しかし、当時の政治的背景は圧倒的な与党が存在せず、第一次世界大戦の賠償で
国内に不満が蔓延していたときに、小さな政党同士の数確保に四苦八苦している
隙をついて、巧妙な戦術とイメージこまめな活動と(まだ読んでないが)暴力によって
あの状態を作り出したようだ

それぞれ党が連立を組む、そして挫折する
またもや別の連立を組む  こうした繰り返しは日本でもありそうなことで
明治維新もおそらく詳しい研究者ならこうした出来事は多かった
と解説するに違いない(と思う)

政党間のこうした出来事は、現実世界で充分ありそうなことだけに
そのなかから異端のナチスが、ついには支持を受けるようになってしまった
というのは、ナチスが一気に上り詰めたと考えるよりももっと恐ろしい気がする

日本では天皇機関説事件が発生した後、一種の熱狂を背景に暴力が各地で行われ
ついにはそれに声をあげることもできなくなり、個人・家族が現実に生き抜く方法として
体制にながれる空気にしたがっていくことを選ぶようになった

暴力が物理的なものだけでなく、現実に死を招くこともある言葉も含めるならば
(兵庫県のあの事件)現在の日本は暴力が蔓延しているとも言える

人にはいろんあ意見があって、それぞれが個々の自由に任されるとしても
一つこのことだけは、個々のいろんな意見という言葉で終わらせてしまってはいけない
それは「戦争はいけない」ということ
これは誰にとっても同様な考えが必要だと思う
「戦争はいけない」とするならば、戦争が起きてしまった過去は
なぜ起きて起きてしまったのか?どうすればよかったのか?
今後どうすれば防ぐことができるのか
これは過去から学ぶしかない

つまりは、過去の出来事の真摯な追求や反省は絶対に必要だということ
しかし、その行為を一体誰が負うべきか?
庶民全体、庶民の代表としての政治家?

この本はまだ途中なので、最後まで読んだら違う考えに至るかもしれないが
現時点で、頭に浮かんだのはこういうこと

いつものまとまらない話

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会う人会う人に推薦しているが、、、

2025年02月03日 17時01分20秒 | 

会う人会う人に薦めているのが先日紹介した本

スマホで撮影する人、頭の中に入れて後で検索しようとする人
その中の一人でも読んで欲しいと切に思う

この中には自分がずっと思っていたことが書かれている
ただし自分よりもっと上手く言語化されている
自分の考えは自分が経験の中から生まれたのではなく
これらの本によって洗脳されて生まれたのかもしれない
と思うこともある
(自分で考えついたと信じたいが)

フィンランドの教育を知ることは、実は日本のことを知ることだ
物事は比較によってその違いとか良し悪しを判断できる
圧倒的に密度の濃い人を育てる教育システムは
少し自信を失いそうな気分にさえなってしまう

気になったところは付箋をつけて、読み返すことができるようにしている
その中の一つにこんな言葉がある
「きまりを教える日本、本質を教えるフィンランド」
その通りだと実感するのだが、この言葉は本の終盤の章に出てくる
それは道徳に関わること書かれた章で
日本は挨拶しようとか、地域の活動に積極的に参加しようだとか
一見そうあるべき姿のようでも、自発的というよりは
そそのかしと思えないこともない

へそ曲がりは、良いことも強制されるのは嫌だな!
と思うが、大義名分の強さゆえに表立って抵抗することはできにくい
だから余計にもやもやした気分になってしまう

この本は一気読み近いかたちで読み終えたので
早いうちに読み直した方が良いかもしれない
だが読書モードになっている今は、同時に購入した本が
早く読んでほしいと訴えているような気がする
その本は「ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力 (集英社新書) 新書 」

現在がその当時のドイツと似ている様子を紹介する本で
ここで政治的暴力を物理的な暴力だけでなく
言葉による暴力(それは死に至らせる場合もある)を含めば
まさに今の日本を想像できる

これらの本は、何かしらの危機感を感じている人がやむにやまれず形にしたものだ
やはり、今の日本は不安な空気感は漂っていると思えて仕方ない




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フィンランドでは「人生観の知識」という授業があるそうだ

2025年02月01日 09時48分40秒 | 

本を読むと、新しい情報とか知見だとか考え方を得ることができる
だがそれ故に自分の頭で考えることをしなくなる
と警鐘を鳴らした人もいる(多分、ショーペンハウアー)

でも実感からすると、確かに影響は受けるけれども
本を読むことで得られる利益は何ものにも代えがたい

今ワクワク感を覚えて先へ先へと進みたがっている本がある
はやく読み終えたいと思う反面、いつまでもこの状態に留まっていたいとも思う
その本が「フィンランドの高校生が学んでいる 人生を変える教養」岩竹美加子

数年前、「あなた自身の社会」スウェーデンの中学校の教科書を読んで衝撃を覚えたが
北欧の社会の思想・価値観から導かれる教育というのは、随分日本のそれと違っている
端的に言えば、北欧のそれは「確固とした大人を育てる教育」
日本のそれは「従順な労働者を育てる教育」と言えるかもしれない
そして今読んでいる最中のこの本も、やはりしっかりした大人を育てるようになっている

一番衝撃的で興味深かかったのは、授業の選択科目の中に「人生観の知識」
と名付けられたものがあることで、この抽象的な名前の授業は
いろんな視点から物事を捉える訓練がなされる
現在のフィンランドは基本キリスト教(ルター派)が多く
信者たちはその授業を受けることができる
それ以外の人たちは(移民も他の宗教の信者)この「人生観の知識」
を受けることになる

この授業内容が凄い
日本では全く考えられない内容だ
フォンランドの教育庁は「人生観の知識」についてこう述べている

人生観の知識の出発点になるのは、既に用意されたカリキュラムではなく、生徒が生きている世界とその現象である。
自分の人生観をアクティブに形成、その根拠を内省し、それに影響を与えているファクターを分別する。
同時に、政治的、科学的、哲学的、思想的、ポピュラーカルチャーや宗教など、様々な一般的な世界観を考える。
人生観の知識は、多分野で、人類学、哲学、心理学、生物学、地理学、歴史、文化、アート、教育学、社会学、メディア、研究、ジェンダー研究などから得られる視点を活用する。
生徒は、全体を掴み、現象の間のつながりを理解し、幅広く批判的な思考を発展させていく。
また、一般教養、判断能力、他人の尊重、会話、聞くこと、自分の表現を強化する。
人権に目指し、持続可能な将来の建設。社会的な存在として人を理解し、
周りの現実を批判的に検証する能力、自由で平等、アクティブで倫理的な社会の一員として生きることが期待される

凄いと実感するのは、この抽象的な目標が現実に有効なものとなるような授業が実践されていることだ
こうしたものを見ると、ヨーロッパの社会は思想が現実社会に実体化されると思えてならない
それを日本と比べると、かつて明治維新で海外経験を積んだ人びとは(福沢諭吉など)
海外の思想と技術を学んで一見こなしきっていると見える日本だが、思想が社会化されておらず
表面的な技術だけが身についているに過ぎないとしている

この本、現在の読んだところは半分程度
いろんな視点からとりあげられているので、一つ一つ驚きを覚えるが
実感として思うのは、読むことで必然的に生まれる何かと比較する
(例えば日本と)ということは、本当に刺激となるということだ

きっと読んだ人はまず日本との違いに驚く
すると漫然と受け入れていた日本の教育はこれで良いのか?
と考えるようになる
そして自分の頭で考えて、日本の現状に合わせて、あるいはあるべき姿を目指して
どのような教育(方法)が良いかを考えることになる

こうした行動のきっかけとなる刺激的なこの本
個人的にはこうした本こそがベストセラーになれば良いと思うが
この本を求められる社会は、実は何かが不足していることの反映なのだろうか?

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「すべての、白いものたちの」を読んで思い浮かべたこと

2025年01月26日 09時36分24秒 | 

久しぶりに小説を読んだ
年令を重ねると作り物はリアリティがなくてしんどい!
と感じる人も多いようだ(友人がそうだった)
確かにその傾向は自分でも見られるかもしれない
その代わりに読むものは現役世代ではないのでハウツウ本とか
自己啓発本ではなく、小難しい本となっている

読んだのは「すべての、白いものたちの」ハン・ガン著

手にした理由は、ノーベル賞レベルの質感を確かめたかったからで
受賞した作品とそうでない作品、その違いはどんな印象をもたらすのか?
に興味があった

この本は不思議な本で、余白が多い
一つの章は一ページちょっと(多いものでも数ページ)
つまり文字が少ない
最近の事細かな描写が多い類とは全く違う
でもそれで情報量が不足しているかと言えば、そんなことはない
余白部分は読み手の想像力にお任せ!という感じで
このような読み手の想像力に任せる方法は結構好きだ

例えばクラシック音楽も、能を楽しむのも受け手側の想像力に依存していて
作品自体は説明的ではない
このように勝手な連想が可能な作品は、説明的なのよりも個人的には好きだ

ただし、短い文で書かれたものがすべて想像力を触発するか?といえば
決してそんなことはなくて、そこにはセンスとか文章の技術が必要
なのだろうと思われる
この作者の書いたものは、その喚起力が相当なものだったので
これがノーベル賞レベルかと一人納得した

過去に読んだ本と比較するような楽しみ方は、本当は良くないかもしれないが
この本を読んでいて思い浮かべたのは西脇順三郎の詩?(禮記)だ
何か似ていると!とすぐに頭に浮かんだのだが
似ているのは短い文で構成されているということだけだ
だが想像の世界を刺激する方法は共通している
(西脇順三郎のこの本を読もうとしたのは外国人に面白いよ!
 と奨められたからなのが少し残念だが)

深い余韻のような静寂とか悲しみ
そうしたものが本全体から感じられる

だが、このような世界観(美意識)の本が現在の殺伐とした社会で
存在意義を持つことができるのだろうかという不安が頭に浮かぶ
〇〇パといわれる効率を求めたり、過剰に勝ち負けに拘る世界
法に抵触していないからと言って、平気で常識のブレーキを無視する世界
そうした世界に、これらは何らかの力を持ちえるのだろうか

それは読んだ人と読んでいない人の判断とか考え方の違いを
比較することで実質的な効果は確認されるかもしれない
何かのCMを引用して、人は読んだものから(体験したものから)できている
とするなら、人はなるべく良質な体験をすべきだと思う







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