パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

段戸湖と茶臼山の紅葉

2013年10月31日 19時20分17秒 | 徒然なるままに
中日新聞の三河版の朝刊に
段戸湖の紅葉が見頃を迎えていると出ていた

早速、以前から名前は知っていても行ったことのない
段戸山に向かった

田口から国道257号線から県道33号線に入って
くねくねとしばらく行くと標高が上がるに従って
葉っぱの黄色が目立つようになる
時折太陽が顔を出すと赤と黄色のコントラストが
より鮮明に感じられる

段戸湖の30台ほどの駐車場は昼少し前には満杯


少し曇り気味だったのが残念
新聞の写真ではもう少し色鮮やかだったが
光線の加減だろうか

林道を歩く
上高地から横尾へ向かう道を思い出す
しばらくすると


太陽は残念ながら雲の中に隠れていることが多かった

段戸湖の標高は917メートル
ここでこのくらいの紅葉なら
茶臼山はもっと見頃かもしれない
と今度は茶臼山に向かう



茶臼山はご覧のとおり曇天
確かに紅葉はしてるけど、感激するには
もう少し強い光が必要

それでも帰り道、思わずカメラを向けた光景が


紅葉は、1週間くらい後が見頃かもしれない

ということで、のんびりの休日を過ごすことができた
(京都の紅葉狩りも行かねば!)




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イギリスの音

2013年10月30日 19時22分29秒 | あれこれ考えること

「From Bach To Wagner 」というエイドリアン・ボールトのCDセット
だいぶ前に勢いで購入したのはいいけど、あまりまじめに聴いていなかったが
タイトル部分の後半Wagnerの録音を聴いていると
気になったのは編曲がいつもと違っているということより
その音の柔らかな中庸の感じが心地良いこと

エイドリアン・ボールトはイギリス人だが
イギリスはタンノイなどのスピーカーが有名
このスピーカーはどちらかと言えば尖った感じより
フワッとバランスを取った耳に刺激のない音が特徴
まるでエイドリアン・ボールトの紡ぎだす音のよう

そこで少し考えたのがイギリスの音のこと
イギリス人はディーリアスもそうなんだけど
案外モヤモヤしたような楽器がくっきりするより
中間色にブレンドされた音が好みではないか

イタリアのくっきりはっきりのフレーズ
ロシアの生々しい音
フランスの多様な音色
アメリカの機能的な国際色のない音
ドイツのツボにハマるとおらが国の音楽と感じさせるような
それらの音とは違う
イギリスはあくまでも中庸っぽい

そういえばイギリス絵画も似たような印象
薄暗くてスッキリしない絵(ワトー?)が多いような

おそらく光が人々の好みを決めているに違いない
となんの根拠もなく勝手に決めつけてしまった
音色も絵画の色彩も中間重視の
イギリス流というものが出来上がったに違いないと

この感性に心地よい中庸の音、考え方
ちょっと見なおすべきなのかもしれない
スペックに振り回されない感性重視のところが
今の時代には本当はあるべき姿なのかもしれない
などと思ったりする
日本人は(会社に属する人間は)自分の感性に従うなんてことは
怖くて出来ないだろうな

少しニュアンスは違うが、感性に従うところは
ジョブズはやってしまったけれど
それを学習しても日本人は出来ないだろうな、きっと

話は戻って、国には(地域には)好みの色・音が存在し
それはその地に行かなければ本当にはわからないだろうが
とりあえず音に関してはイギリスの音
自分は結構好きかな
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土産の羊羹、今回は「おもかげ」

2013年10月29日 19時22分04秒 | 徒然なるままに
東京土産にはどんなものがあるのだろう
地方の自分は情報に疎いし、
好んでその手の話題を収集しようとも思わない

思いつくものといえば
東京ひよこ・舟和の芋ようかん・満願堂の芋きんつばくらいなのだけれど、
その中に東京土産ではないかもしれないが
とらやの羊羹を東京へ行ったついでに買って帰ろうとしたことがあった

しかし、それは何回かパスすることになった
何故なら価格がべらぼうだったから(確か百貨店で見かけた)
一竿(と数えるのかな?)が竹革包で2800円(税別)
羊羹一つでこんな値段はその当時の自分には思い切ることが出来なかった
(実はもう少し求めやすい金額の商品もあったのだけれど)

一口大の商品を見つけて購入したのはもう少し後のこと
それで食べた印象はどうだったかと言えば
記憶に残っていないところをみると大した感動はなかったみたいだ

それから、しばらくして求めやすい中形羊羹
といっても1550円(税別)を買って帰ることがあった
これには少し感動した
たかが羊羹、それにもかかわらず何かしらこだわりというより
執念みたいなものが感じられて
中型でもしっかり重い手応え、包丁で切ろうとすると
刃にねっとりと絡みつく感じは練り羊羹という言葉を思いださせる
そして上質なものが持つ共通の甘さとその抜け具合
その時は「夜の梅」だったけれど

実は中型羊羹を求めたのは知り合いから
一口羊羹より大きい物の方が圧倒的に良い
とのアドバイスを受けていたからなのだが
確かにその通りだった

さて先週のこと埼玉に嫁いだ妹が帰省した
その時のお土産が


以前持参してきてくれたのは一口大のものだったけど
大きいほうが良いといったことがあったので
前回は「夜の梅」
そして今回はやはり「おもかげ」が良いとリクエスト(?)したらしく
希望通りに

砂糖・黒砂糖・寒天・小豆 それだけの材料なのだが
その凝縮感は存在感に満ちている
職人さんたちの仕事ぶり(機械の活躍ぶり)が何となく想像できる
短い時間ではない費やした時間の多さを想像すると
値段も仕方ないかな
と思ったりする

ということで、練り羊羹を気にする様になってきた昨今
京都へ行った時は最近は八つ橋関連ではなく
鶴屋吉信の季節の羊羹を土産にしたりしている

ということで、来月ポール・マッカートニーのコンサートで
東京に言ったら塩瀬総本家の羊羹を求めてみようかな
(塩瀬家は自分が住む地区の豪族だったらしい)



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時間との戦い

2013年10月28日 20時24分58秒 | あれこれ考えること
陸上競技におけるタイムを競うことではない
仕事の締め切りを守ることでもない
また物理学上の抽象概念を扱うことでもない

自分に与えられた時間との戦い
それこそが人生の最大の戦いではないのだろうか

多くの人は学生時代は勉学、
仕事に就けば仕事で時間の使用は制限される

その場を逃げたいがために
自分のやりたいことはこんなことではない
と思ったりするが
いざ、さあどうぞ!
と時間を与えられると喜ぶのは最初のうちだけ
次第にその自由さが辛くなる

すべきことを自分で探す
窓際族が仕事を取り上げられ
黙々と自分の時間との戦いに強いられるのは
かなりストレスの貯まることになる

結局人は何かに強いられている方が
一見不満そうでも幸せなのかもしれない
と思ったりする

カラマーゾフの大審問官もそんな事言ってた(?)

すべき事を指定され、期間内に成し遂げることは
条件が厳しければしんどいかもしれないが
それよりももっと難しいのは
自分で成すべきことを探すという行為

多作であったモーツァルトもバッハも大半は
委嘱されて作り上げたもの
(ジャンルも期間も制限されて)
時々止むに止まれぬ創造の衝動に突き動かされて
その時代を飛び越えた作品を作り上げたが
問題はここのところ
ベートーヴェンはおかしな人間で
自分の衝動に正直な行き方を通してしまった
(マンのファウスト博士にベートーヴェンの
 狂気みたいな衝動のシーンがあったような記憶がある)

時間との戦い
決められたことを成すことの如何に楽なことか
自分も含めて老人の膨大な(?)時間
この時間の使い方、時間との戦いを楽しむことにしよう

有意義な使い方をして世間に認められる行動をしてもよし
言ってばかりでなにもしないで何も残さずに終えるのも良し
そう何も成し得ないとしても
自分の自分しか分かり得ない精神は
この勝ち目のない大変な戦いを
楽しんでいるといえるかもしれない
(一体何を言ってることやら)

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新城軽トラ市「のんほいルロット」

2013年10月27日 15時12分22秒 | 徒然なるままに
1週間前の台風予想は良い方に外れて
今日の新城市は雲ひとつない快晴

この新城市で2つのイベントが開催された
ひとつは新城ラリー
何でも国内のラリーの大会最終戦だとか
知人もそのお手伝いに参加
この1週間、彼のストレスは頂点に達していた
(天気の心配で)
と奥さんの話
金曜日は泥だらけになって帰ってきたし
朝は早くから出かけたらしい

昨日の夕刊にも町おこしの起爆剤に
とラリーが紹介されてていたが
残念ながら今まで一度も見に行ったことがない
次の機会、そんなことが何回も続いている

さて今日出かけたのはもうひとつの市内でのイベント
新城軽トラ市「のんほいルロット」


9時からの開催で天気が良かったせいでまずまずの人手
ハロウィンが近いのでスタッフも一部仮装して客を迎えている

まずは中町からスタートして橋向まで下見にサッと歩く
毎回参加の店や初めての店もある
今日の目的は、りんご
味見させてもらえる店を含めて4軒くらい
さてどの店にしようか
だが味見をしてしまうと店から買わずに通過はしづらい
ということで、飯田から参加のお店で購入



マスコットキャラクターの「のんすけ」も子どもと一緒に
被写体となってサービス
涼しい季節は良いけどこの中に入っている人
夏は大変だっただろうな
ついそんな心配をしてしまう

のんすけは今ブームのゆるキャラというより
「イケメンキャラ」ではないのかな
つくりが丁寧で可愛らしく美しい
地元愛がこんなところで発揮か?


気になったのが鉢植えの柑橘類
庭にちょっと置いてもよさそうだったが
自転車で来たために運搬が大変そうだったので次回に(?)

数時間の歩行者天国となるイベントは
夏の夜店もあるが、この時もどこにそんなに人が
いたのだろうか?と思われるような町中は人口密度の人出

新城ラリーも軽トラ市も裏方の方々の協力あってのこと
本当にご苦労様
しっかり楽しませてもらいましたよ




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昔の人の涙腺は緩かった?

2013年10月26日 18時33分20秒 | 徒然なるままに
年齢とともに涙腺が緩くなる、と言われる
確かにそれはその通りだと納得する
感情移入どころではない、表情を見るだけで
既に先の展開を予想してウルウルしてしまいそうになる

感情は言葉を媒介にしなくても伝搬するのだと
つくづく思う

涙は女の武器とも言われる
涙を見せられると男はオロオロしてしまう
どうしていいものかと
あるいは、守らなければならないみたいな感情に
急に襲われてしまって

一方男は涙を見せるもんじゃない
何となくそんな風に思っていたが
ところがどうも昔の人は平気で涙を見せていたのではないか

和歌にやたらと涙が出てくる
男も女も関係なしに
西行の歌にも泣くシーンは結構あったような気がする

もしかしたら男は涙を見せるもんじゃない
という考え方は比較的新しいのかもしれない
新しいと言っても武士の時代くらいからかな

韓国や北朝鮮では泣くことは別に隠すものではないようだ
葬式には泣くことが故人をより特別に弔うとされるようで
泣く担当のアルバイトが存在する
といったような話を耳にした記憶がある

日本と朝鮮半島は聖徳太子の時代から接点があったし
その文化の影響も受けていたから
泣くということも良いこととして
伝わってきたのかもしれない(?)

それにしても、予め涙でぐっしょりとわかっている話(ドラマ・ニュース)は
なるべく避けるようにしている


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過去を引きずるのは男

2013年10月25日 20時38分48秒 | あれこれ考えること
歌謡曲(演歌)の中では女は献身的に耐えて偲んで
男を思うみたいな状況が描かれているが
どうも実態とはかけ離れているのではないか

そのような歌詞があるのは
作詞家の希望とか望んだ世界に過ぎないのではないか

もっとも最近の若い人達の歌はもっと
オープンな感じで、例えば失恋や
演歌の歌と同じような状況であったとしても
人生こんなことあるよね
くらいな感じで彼らの言うポジティブな雰囲気に満ちている

ただ、単純にポジティブなだけの感覚よりは
おもいっきり落ち込んでしまう経験も長い人生のうちには
悪いことではないと思うが、これは余計なお節介か

ところで、失恋とか別れであとを引くのは絶対男のほう
女々しいという態度ではなく
忘れられない思いが多分女性よりも多い
女性は案外簡単に割り切ったり忘れたり出来るが
男はそういう訳にはいかない

と、ここまで来てやっと本題に
オルハン・パムクの「雪」
ここ数年で読んだ小説の中ではピカイチだが
細密画のような描写もすごかったが
読んで数年経って印象に残っていることといえば
男は引きずるということ
そのやり切れなさが結局は破滅へと自分を導くのだが
彼がそうした気持ちは理解できないものではない

この本の読後は一時期のフランス映画を見た後と似てる
どこかぐさっと苦い印象を残して、、、

それにしても基本的には多くの人が言うように
男はロマンティスト、女はリアリスト

でもこれは生物としての役割上
仕方ない性質なのかな
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笑ってしまうしかない、イブラヒモビッチの3点目

2013年10月24日 20時34分54秒 | サッカー
ヨーロッパサッカーのチャンピオンリーグ
その第3節が行われた
日本人としては香川と本田の活躍が気になるところ
スカパーで時間をずらして見たけれど、、
正直なところ一番インパクトを受けたのはイブラヒモビッチの得点

ずっと前からこの怪物には注目していて
機会があれば見ようとしていた
ニュース速報によれば4ゴールして
特に3点目はスーパーゴールとの報道

そのシーンを見ようと
ハイライトシーンをマンUのリアル・ソシエダのハーフタイムに
チャンネルを合わせた
(パリ・サンジェルマン5-0アンデルレヒト)

いや~、凄いのなんのって
ボレーのドカンというスピードの中距離のシュート
これを見ると呆れるというか、笑ってしまうしかない
凄いと感激するより、ホント笑ってしまう
(観客も呆気にとられていた)

イブラヒモビッチは本当に怪物
大男のパワーと繊細なテクニック、奇抜な発想
そしてテコンドーっぽい理解し難いキック
でも、人間的には風貌を見る限りは気難しそう
あれだけの才能の持ち主は普通の人間ではいられないだろうと
勝手に納得している

同じ怪物的なクリスチャーノ・ロナウドよりは
イブラのほうが好きだな
メッシも凄いけどバルサではイニエスタのほうが好き

そういえばワールドカッププレーオフはスウェーデン対ポルトガル
イブラ対ロナウドの戦い
ワールドカップで見たいのは自分は圧倒的にイブラ

ホントこの選手は呆れるほど凄い

ところで香川と本田
香川は久しぶりのスタメン
結構良かったのではないか
マンUもいつもみたいに力任せの攻撃的なところがなくて
柔らかくできていた様に思う
つくづくルーニーはいい選手だな
ひげ面ギグスも職人ぽくて好き
ファン・ペルシーはあまり好きじゃない

香川はサイドというより中に入ってトップ下みたいに
なっていたけどサイドにキープできる選手がいる場合は
彼のスペースを見つけてパスを受けるところが生きる
日本は彼が中にはいってもサイドのキープ力が若干足りない
点を取るほうになればいいのだが
日本ではチャンスメイクになっている
(ならざるをえないのか?)
今日見た感じでは絶不調でもなさそう
試合に選ばれ続けることを願うばかり

本田、相変わらず
彼は走るのは遅いけど
多分何処に行ってもそれなりに出来そう
左の繊細なキックとパワフルなシュート
ホントもう少し走るのが早ければいいのだが、、

それにしてもイブラヒモビッチ
ホント凄いな!
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今回の浅田真央の選曲

2013年10月22日 20時08分41秒 | 徒然なるままに
いつもイマイチと考えていた浅田真央の選曲
曲が好きだとか嫌いだとか言うのではなく
演技がしやすいかどうかを考えた時
前回の白鳥の湖はまだ良いとして
愛の夢とか鐘とかは果たして戦うのに良い選曲だったか
大いに疑問

バンクーバーのキム・ヨナの選曲は戦術眼とノリやすさの点で
勝利を目指すのに最適なものだったように思える
一方浅田真央は音楽にはさほど関心がないように見える
または選曲をアドバイスするスタッフはいなかったのか?

さて今年はショートがショパンのノクターン
フリーがラフマニノフのピアノ協奏曲の2番
特にショートのノクターンは一見美しいようでも
平板な感じで盛り上がりに欠ける
またこれを選んでしまったのか
と思わないでもない

フリーのラフマニノフピアノ協奏曲になって
初めてまともな選曲になった気がしてならない
感情と勢いとスピード感が一体化して
これなら演技しやすいだろうと思ったりする

このフィギアスケートは音楽の選び方は
重要な鍵になるのではないか

多くの人が採用する「誰も寝てはならぬ」「星も光りぬ」
「サン=サーンスの3番の交響曲」「シャコンヌ」などは
演技しやすそうな曲だ

演技をするのには美しさよりは
感情的に濃い感じの曲のほうが観客も感情移入しやすそう
本人も、審査員も(?)




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パパゲーノとトリスタン

2013年10月21日 19時52分40秒 | あれこれ考えること
最近、(いわゆる)いい話とか為になる話、
正しい心の持ち方、人生の目標の設定の仕方、
継続的な努力の大切さなどを説いた話に
素直に共感できない自分がいる

そうした話はどこかに「嘘」が隠れているような気がしてならない
それは単純に精神が感情をコントロールできる
ものとして決めつけているからかもしれない
(感情と理性が戦えば勝利をおさめるのはいつも感情の方なのに)

いい話、為になる話
確かにその通り
でも、出来ないなあ
(したくないなあ)
そのどこかサボりたがる、面倒臭がる気持ちの存在が
無いのだろうかと疑問に思ってしまう

モーツァルトの歌劇「魔笛」の登場人物
パパゲーノは直情的に試練に向かおうとするパミーノに
そんな危険な面倒なことは止めようと訴える
人が見ていない時、手柄は自分のモノとしようとする
どこかに可愛い恋人が見つからないか
と安易に想像したりする

しかし、自分はリアリティーと共感できる点で
圧倒的にパパゲーノの肩を持つ
人間ってそんなものじゃないのか
だからこそ愛すべき存在なのではないのか
そんな風に考えてしまうのだ

話はかわって、ヴァーグナーのトリスタンの破滅的(真面目)な
心情も違う意味で共感してしまう(音楽の力のせいか?)
第3幕の前奏曲とイングリッシュホルンの寂しげなメロディは
トリスタンの心象風景か

つまりは自分の共感は
いい加減な人物と真面目な人物の両方に
向かっていて、それを一般化するならば
人の心は振り幅が大きいということで
サボりたい自分と克己心に燃える自分とが
共存するということ
だが表に出る言葉は社会との関わりで
正しいとされるどこか余裕のない(?)ものばかり選ばれる

あまり好きでなかったニーチェも
定番的な良い話に潜む嘘じみたものを感じ取っていたのかも

こんなふうなのは疲れているせいなのか?

動物では強いライオンや虎よりもパンダを
自分は愛おしく思う
それはパンダがドジだから
それを見て安心できるからだ

ドジな人間、動物、存在を
まともな人間だけの価値判断で
決めつけてしまっていいものだのだろうか
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