パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「エスノセントリズム」という言葉が頭に浮かんだ

2025年02月07日 09時31分11秒 | あれこれ考えること

急に「エスノセントリズム」という言葉が頭に浮かんだ
何年か前に知った言葉で、一旦検索してみると
その時は、そういうことってあるなあ!と妙に納得した

エスノセントリズムとは、最近活躍しているSearch Labs | AI による概要のよると

エスノセントリズム(ethnocentrism)とは、自民族の文化を優位とし、
他の民族の文化を劣位とみなす考え方です。自文化中心主義とも呼ばれます。

【エスノセントリズムの特徴】
自民族の文化や価値基準を基準に他の民族の文化や価値観を判断する
自民族の文化を絶対的な基準として諸文化の優劣や良し悪しを判断する
他民族の生活様式・思考法・行動などに関して、自文化の慣行・規範にもとづき否定的な価値判断をくだす
自民族を絶対的優位とみなし、他民族に対して排他的・蔑視的な態度をとる

【エスノセントリズムの影響】
異文化間のコミュニケーションにおいて誤解が生じやすくなる
ステレオタイプや偏見が強化される
文化間の交流や相互理解に障害をもたらす

【エスノセントリズムの例】
ナチスドイツによるユダヤ人迫害は、強いエスノセントリズムの例として挙げられる
消費者エスノセントリズムは、国内商品の購買、外国商品の購買、
グローバル・ブランド態度、知覚リスク、広告態度などに影響を与えている

世界がグローバル化している反動で、自国の文化を必要以上に重要視する傾向のこと
だと自分は想像している
それは日本においては「日本すごい!」の礼賛が多いこととか
日本は歴史的、文化的に特別と思いたがる傾向とつながっていると思う

どの国もどの地域も、地域の事情に合わせて必然的に生まれてきた文化・慣習
倫理・正義感等があって、それは外からの人から見れば異様であるとしても
それらの生まれた背景などを知れば全面的でないとしても理解ができるものだと思う

つまりは、自民族の文化が他と比べて優位と認識することではなく
そう信じたいという心理的な傾向がどの民族にもあるということなんだと思う

心理的な傾向は、一般化できる可能性はあると思う
それは多くを知れば、自己評価したものが唯一無二のことではなく
よくあることの一つと思えるようになる
つまりは視野を広くして知ることは、とても大事だということ

いろんなことが頭に入っていく世代の人は
たとえ消化不良でも大食漢になったほうが良いと
年配者は思うが、それは余計なおせっかいか?


 
 
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影響を与えられる行動

2025年02月04日 09時33分37秒 | あれこれ考えること

多分、人に必要なのはきっかけだと思う
個人は社会に関係していて、社会は政治に結びついているという現実は
それなりの経験を積んだ人間なら実感すると思われる

それを踏まえて個人としてどのような行動を起こすかが問われるが
行動は面倒なので、とりあえずは傍観者とか批判をすることで
とどまっている人は多いと思う

自分も自戒を込めて思うのが、あることが起きるまでは全くこの手のことには
ノータッチでまさに傍観者だった(市議会議員の名前も知らなかった)
ところが、声をかけられて手伝った新城の住民投票に関する理不尽な出来事に
怒りを覚えて何かを調べたり、いろいろ知ることになると、社会とか政治が
本来あるべき姿に実現されていないことに気づくことになった

知ればなにかが変わる
知ることは力となり行動を促す
そして行動すれば何かが変わる
と上手い具合に物事が運べば良いのだが
現実は行動は短期的には何も報われない事が多い

だが、変化がないとしても行動することには意味がある
と先日から扱っている「フィンランドの高校生が学んでいる人生を変える教養」
には書かれている
実はそのようなことは、希望も込めて自分もそう思っていた
世の中の多くのことは思い通りにならない
それでも何かを求めて粘りづよく何かをし続けること
それば信念のように大事なものだと感じていた
(容易に行動したことが達成されると、人は妙な自信と
 全能感を覚えてしまうのではないかとの不安を覚える)

ところで例の教科書には、自分が影響を与えられる行為として
以下のようにリストアップされている

・投票、また人に投票するように勧めること
・抗議の投票、反対投票
・立候補すること
・政党での活動
・政党の青年組織の委員、高校生同盟、青年議会などでの活動
・国際的な活動
・市民イニシアティブ
・法制化を求める、署名する
・ソーシャルメディアで弱者を養護する
・レイシズムのステッカーを剥がす、張り替える
・居住地の自治体評議会、国会議員、大臣、その他影響力のあるひとにコンタクトする
・雑誌に記事を書く
・デモ、行進
・市民団体を通した影響力の行使
・職業組合に所属
・身の回りの問題に取り組む
・ボランティア
・寄付
・倫理的な消費
・ボイコット
・菜食主義、公共交通機関の利用
・ソーシャルメディアでキャンペーン
・責任あるソーシャルメディアの使用
・アートを通じた活動
・科学
・ハンガーストライキ
・ハッキング
・市民的不服従
・暴力、テロ
・革命、クーデター

つまりは影響を与えられる方法はとても多様だ
(人はこの中で幾つくらい行動したことがあるだろう?
 個人的にはざっと数えて10以上ありそうだ)

個人個人が(影響を与える)行動することが民主主義には必要とされているが
影響を与えるのは何年に一度かの選挙で投票するだけではない
本ではそれでは全く不十分だとされているし、実感でもそう思う

面倒くさかったり、人との摩擦が起きるかもしれない行動に
飛び込むことは日本社会では好まれないかもしれない
でも、自分自身が社会と折り合いをつけるというのは
巷に存在する空気に無条件に従っていくるのではなく
とりあえず自分も納得することが必要と思えてならない

こう言うときの個人(自分)というのは
利益を求める個人主義のそれとは違う気がする

またもや、まとまらない話!


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執行猶予停止にならないのは何故か?

2025年02月02日 09時22分01秒 | あれこれ考えること

法律は手続き論がいろいろあって素人には直感的に理解しにくい
最近、個人的に疑問を覚えたのが
立花孝志氏は執行猶予中であるにもかかわらず個人へのデマ・脅し等を行い
結果的に自殺者まで生んでしまったが、なぜ執行猶予停止にならないのか?
という点だ

そこで文明の利器(Chat GPT)を使って調べてみた
(100%信じられるものではないとしても、手っ取早く概略が理解ができそうなので)

問 立花孝志氏は執行猶予中ですが、脅し等の行動をおこして自殺者まで出ていますが
  執行停止にならないのは何故ですか

答 立花孝志氏は、2022年1月20日に東京地裁で懲役2年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けました。
  執行猶予中に新たな犯罪行為があった場合、執行猶予が取り消される可能性があります。
  具体的には、執行猶予期間中に再び罪を犯し、禁錮以上の刑が確定した場合、執行猶予は必要的に取り消されます
  しかし、執行猶予の取り消しには、新たな犯罪行為に対する有罪判決が確定することが前提となります。
  現時点で、立花氏の新たな行為に対する捜査や起訴が行われていない、もしくは有罪判決が確定していないため、
  執行猶予が取り消されていないと考えられます。

  また、執行猶予期間中に新たな犯罪を犯した場合でも、その刑が1年以下の懲役または禁錮であり、
  情状に特に酌量すべきものがあるときは、再度の執行猶予が認められる可能性もあります。

  したがって、立花氏の執行猶予が現時点で取り消されていないのは、法的手続きが進行中であり、
  まだ有罪判決が確定していないためと考えられます。

つまりは手続き上の理由で執行猶予の停止にはなっていないということだ
ところが素人は、あんなに好き勝手にひどいことを行っても何ら罰せられることもなく
同様な犠牲者を生んでいるのに、放ったらかしになっていることに疑問を覚えてしまう

執行猶予の停止は、新たな犯罪に対する有罪判決(あまり軽微なものでない罰)が確定することが
必要となっているが、次に湧いてくる疑問は、この件を訴えて有罪まで持っていくのは誰か?
という点だ

恥ずかしながら自分は、検察とか警察が勝手に動いて起訴するものと思っていた
だが、現状を見るとそうではないらしい
(誰か有志が告発するという手はあるのだろうか?)
SNSでは、立花孝志氏を逮捕せよ!とか、警察(検察)頑張れ!
と言った文言を見かけるが、その気持はわかる
確かに安易に何でもかんでも起訴したりするのは危険性を伴うように思われるが
このように放ったらかしも危険性を覚えてしまうと感じるのは
せっかちすぎるのだろうか?

世の中は、直感的に良し悪しの判断がしにくいシステムになっているようだ
それ故にストレスが溜まってしまう

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隣町の豊橋市のこと(住民投票がないことが一番のミスだと思う)

2025年01月31日 10時52分20秒 | あれこれ考えること

文章を目で追いかけていても、一向にその内容が頭に入らない
先日、このような少し悲しい経験をした

東三河の中心都市、豊橋では新アリーナ建設問題で揺れている
建設反対を訴えて当選した市長は公約通り建設の中止の作業に
入ったのだが、急遽議会からでてきたのは
「豊橋市議会の議決すべき事件を定める条例の一部改正する条例」
という議会提案

一体何のことか?と思われるが、簡単に言えば
新アリーナ建設の契約解除については、違約金に大きな金額を要するから
議会の議決が必要というものだ
結局、この改正の条例はアリーナ建設推進派の多い議会によって昨年末可決された

ところが、この議決自体(条例自体)が法令違反なのではないかとの疑いがあるようで
その法的な説明会が先の日曜日、豊橋駅前のビルの一室で行われた
(主催はアリーナ反対のグループメンバーによる)
講師はこの分野に詳しい南山大学の榊原秀訓氏
冒頭の文章を追いかけても内容が頭に入らないというのは
講師の説明・解説のことで、ぼんやりとわかったような気もするが
正直なところわからなかった!という感じ
講演は、法的な解釈とかこうした条例の他市の例とか
国の方針などが一気呵成に行われたので理解が追いつかなかった

これを理解するのは、それなりのあらかじめの知識が必要だったが
それらが全く不足しているし、豊橋市議会の現実のやり取りも
市外の人間なのであまり良く知らない
つまりは簡単に理解できる状態ではなかったということだ

でも、それはちょいと情けないので、自分なりに少し勝手に考えてみた
(法的に適切かどうかはさっぱりわからないが)

現状は議会は推進派が多く、現市長とは対立している構造がある
前市長は推進すべしとして議会の議決を経て、昨年委託業者と契約を交わした
その契約書には契約解除の場合について項目もあって
業者側からの契約解除の場合、市側からの契約解除の項目があって
市側からの場合は何ヶ月前に連絡するようなことが書かれている
この契約内容は市議会も認めて可決している

そこで問題となると自分が思うのは、市議会は契約解除について書かれた
契約書を認めているにも関わらず、市長が事務的に契約書通りの手順で
行おうとしている契約解除に異議を求めることは矛盾していないかということ

契約解除には多額の賠償金(違約金)が発生するから議会の承認が必要
とする理屈なのだろうが、その前に多額の金額が必要だから必要とされたのは
契約にいたる議決だ(法的にも必要とされている)
つまり計画(建設)金はかかるが、もし契約解除する時も
契約書にかかれた手順で行うことに既に賛成していて、あとになって
もう一度お金のことで議決が必要とするのは何か変だなと思ったということ
(多額なお金が違約金としてかかるとしても、それは建設費と比べると
   圧倒的に小さな金額で、市が損するというものではなさそう)

この市議会が求めた条例が法的に問題ないとされるなら、議会は対立する市長に対して
本質的な問題と言うよりは、政争としてどんなこともできてしまいそうな気がする
首長と議員の役割は同じように選挙で選ばれるとしているが役割は少し違う
首長は予算編成権とか執行権、議会はそのチェック機関的な要素があって
力関係は現状では首長のほうが大きな力を与えられている(ような気がする)

だが、市議会の方は自分たちの正当性を弁護士の協力を得て確信しているようだ
つまりは法の解釈は、違法、違法でないとの2つの考えが存在して
それを決めるのは誰か?という段階になっているようだ

ややこしいなあ、これじゃ、豊橋市民は置いてけぼりだな!
と感じてしまうが、つくづく残念なのは、というより議会の一番の失敗は
白黒はっきりする住民投票をしないと決めたことだと思う

ところで少し残念に思われたことは、日曜日の講演会の出席者が
それほど多くなかったこと
面白そうな話ではなく、面倒くさそうな感じがするが
それでも市民の多くが進行中の出来事を理解するのは大事だと思う

でも、現実はこんなものか!

※豊橋市議会は市長の再議の要請をうけて29日臨時議会を開催し
 再度採決によりこの条例は可決された
 今後は市長が県知事に法的な判断を仰ぐ手続きに入る可能性が伝えられている



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質問の技術(伝える技術)

2025年01月29日 09時26分51秒 | あれこれ考えること

まるで共時性の一例のように、昨日ここでとりあげた想像性についての
面白いニュースが報道された
それは予想外の観客数の伸びを見せている映画の紹介で
その映画はアニメで、全くセリフがないそうだ
観客は表情・仕草を見て想像して楽しむのだそうだ
この不便と思われる情報不足が却って一人ひとりの自由な解釈を生み
それを人に伝えようとする行為が、映画の観客の広がりを生んでいるのだそうだ

これはわかりやすさとの対極にあるのかもしれない
人は受動的に楽しむよりは能動的に楽しむほうを好ましい
と感じているかもしれない
ただし、面倒くさいと思う人も否定できないが

話は変わってフジテレビのゴタゴタ
2回目の記者会見は16時から始まって、終えたのは深夜の2時過ぎ
自ら招いたこととは言え、ちょいと同情も禁じ得ない
その中で本質とは関係ないことが話題となった
それは質問者の態度というか質問の技術のこと

市の意見交換会・議会報告会でもよく見られる光景だが
質問者の話が長すぎたり、質問なのか意見なのか
それとも怒りの発散なのか、そうしたものが入り混じって
口調もきつくなってしまうという事態がそこでも見られたらしいこと

流石にこれは一般の人からも評判は悪かったようだ
もう少し整理された質問をすべきとか、論点を絞って質問をするように
運営を図るべきだったとか、つまりはカオス状態は異常だったとする考え方だ

しかし、こうしたカオス状態はある程度許されるべきものだとする考えもあるようだ
行儀よく進められてしまうと、この手の進行になれていない人は感情の発散場所が
ないとか、世間に蔓延している空気感を伝えることができない
とかの弊害もあるとする考え方だ
それは記者クラブに見られるおとなしい従順な態度に対する一つの抵抗だ

要は常識の範囲内で行われれば良いのだが、これが思いの外難しい
怒りは一種の個性で、それがあるお陰で世の中が是正されるということは
現実にあるし、その例を自分も見ている(自分は怒りっぽくないので怒ったのは別の人だが)

こんな風にあれこれ考えていると、今の人に必要なのは
自分の考えを上手くまとめて人に伝えるという技術ではないかと思う
技術より肝心なのは思いかもしれないが、伝えるという点においては
習得することのできる技術は有効と思われる

実際のところ、それをどこで、どうやって身につけるかが問題だ
学校で?それとも自分で? さて!

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想像力

2025年01月28日 09時52分12秒 | あれこれ考えること

リヒャルト・ワーグナーの楽劇の中に、上演が4日間にわたる作品がある
「ニーベルンクの指輪」と呼ばれる連作「ラインの黄金」「ワルキューレ」
「ジークフリート」「神々の黄昏」がそれで、それぞれが結構な時間を要する
物語は小人や巨人がでてきたり、ライン河に住む乙女がでてきたり
欠点の多い神様がでてきたり、人間がでてきたりする

映画になった「指輪物語」と同じように(愛を諦めたものが作った)指輪は
世界を支配する力を持つとされ、それを巡っての権力闘争とか
その過程で迷うことの多い人間同士の愛とか嫉妬とかが
物語をより深い作品たらしめている

これらは、いかようにも解釈可能な原型(プロトタイプ)で
ワーグナー自作の脚本には、想像上の生き物としての小人、神々、人間が現れる

この解釈の幅が大きい作品を、思いっきり現代劇のように読み替えた演出があった
ライン河に住み、時々河の近くにくる生き物をからかったり誘惑したりする乙女が
居酒屋の女性となり、神の中で一番の力を持つとされるヴォータンはタキシードを
着た人間として登場するものだ
自分は見ていないのでこれ以上のことは紹介できないが
1976年にドイツのバイロイトに訪れた時
そこで行われたバイロイト音楽祭で一番の問題となったのはこの画期的な演出だった
思いっきり現代の世相の反映とした演出はフランス人のシェローという人のアイデアだった

この年はバイロイト音楽祭100周年ということで、指揮者にフランス人のブーレーズ
演出にシェローを抜擢したのだが、バイロイトにいることができた自分は
その時、街にあふれるブーイングを肌で感じることができた

実はその前の数年の演出は、これと全く正反対の独特な演出で舞台は、ほぼ真っ暗
家も木も岩も具体的なものはなし、動きもそんなに多くない
つまりは日本の能のような世界だったらしい
(リヒャルト・ワーグナー孫のヴィーラントワーグナー演出)
そして勝手に想像することの方が好きな自分は、それを見たいと思ったものだった

世界でチケットを取りにくいとされていたバイロイト音楽祭が
最近はどうもそうでななさそうとのことだ
原因は過度の読み替えによる演出が評判が良くないせいらしい
つまり神様がタキシードを着たり、酒場で女性と戯れたりする
一見わかりやすい演出は、それ故につまらないと思う人が出てきている
ということではないだろうか

先日とりあげたハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
具体的な事件というより、想像の羽を広げるきっかけづくりの描写が多い
そしてそれは自分にとっては心地よいものだった

自分としてはプロトタイプはプロトタイプとして提供してほしい
そこから現代社会を想像するかどうかなどは、こちらに任せてほしい
と思うのだった

世の中のことは具体的ではなくても、想像することで
いろんなことに当てはめることができる
それは過去の出来事を現在の教訓として捉えることもできるはずだ
大事なのは、そうした一見関係なさそうなことも
今と関連づけることのできる想像力と思ったりする

相変わらず、まとまらない話




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思いを言語化する能力について

2025年01月27日 11時21分47秒 | あれこれ考えること

強いもの(豊昇龍)が優勝した大相撲
勢いだけでなく本当に強いものが勝つというのは良いものだ
(金峰山の千秋楽以外の負け方は優勝の資格はないと思われるものだった)
大相撲の番付は将棋のそれと似て実力に応じていて
本当に身についた力がないと上には行けない

ところで大相撲の解説者は、声で誰かわかるのと同様に
話す内容で分かることがある
元旭富士、白鳳はその指摘とか解説の細かいことで群を抜いている

特に最近はいろんな事情で解説者として登場しない白鵬は
力士の技術的な指摘が本当に細かった
立会の足の位置とか動きの中の腕の使いかたとか
彼は現役時代にこんなことを考えながら取り組んでいたのか!
と驚きを覚えるほどだった
そして彼の一番の武器(強み)は頭の良さに違いない!
と思うのだった

照ノ富士の親方、元旭富士も技術に関する指摘が細かい
あの部屋の力士がそれなりの成績を残しているものわかるような気がする

話は飛んで、イチローがアメリカ大リーグの殿堂入りの満票に一つ足りなかった
ことに関して、「満票でなかった(不完全な)ことは良かった」とする発言と
多少の悔しさにユーモアを交えた、投票しなかった人とお酒を飲みましょう
という提案は彼の知性を感じさせるものだった

大谷さんもその人間性を始めとして、話すこと一つ一つが味わいのあるものが多い
それは知性を感じるものだ

つまりは結論としてアスリートも上位になるには「頭の良さ」とか
思いを言語化する能力がないとだめなんだろうな!と思えてならない

大相撲なら、形を持たなければだめだとか、ひいてはだめだ
で終わる指摘に飽きたらないモノを見つけ出して言語化する能力
野球なら自己の状態(いろんな意味で)を客観視する能力
必要なことを洞察し、それを人にわかるように話す力(憧れるのはやめましょう)
そうしたことは、きっと自分との日々の対話で育まれていくのだろう

どの分野も上にいる人は、それなりの考えとか表現力を持っている
それらは充実した自分との対話の中から生まれてくる
と想像するので、庶民においても自分との対話は大事にしないと駄目だな(きっと)


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「急増した労働組合員について」思うこと

2025年01月25日 08時59分13秒 | あれこれ考えること

フジテレビと中居正広氏のニュースが連日続いている
その中で何に関心を持つか?が受け手の個性の現れだが
自分が印象に残ったのは
「今回の騒動を受け、フジテレビの労働組合では加入者が
 80人から500人に激増したとされた」との報道

ピンチになった時には、みんな我がこととして考え
自らの意志を反映する機会をもてる行動に移る
それは人として必然の行動のように思える

理不尽なことに声をあげたり、一人では効果がないと思われるなら
集まって行動する
このような経過は特に変わった(危険な)人たちのなせることではなく
ごく当たり前の行動と思う

権威とか立場の強い人に対して、声をあげるのはいつの間にか
日本では珍しいこととされたり、反動的な思想の持ち主とされた
(国のことに関して極論を言えば、こうした人たちは反日と決めつけられた)

でも、声をあげること、行動すること
それは本当に必然的で当たり前の出来事だと思う
労働者主体の共産主義的な考え方が生まれたのも
歴史の必然であったのではないかとも想像することができる
(そんなのは前から言っているという人たちがいそうだが
 やっと実感としてそう感じたということ)

やはり切羽詰まらないと人は行動には出ないのか?
と情なく思ったり、それで間に合うのか?との不安もある
でもこの事件だけでなく、今の世の中はもっと声をあげるべきことが
多いように思えてならない

モラルの低下、権威主義的に追従する姿勢、すべてが自己責任とされる社会
「今だけ、自分だけ、お金だけ」が現実論としてまかり通る社会

このような何かがおかしいと感じる人は相当数いるようだが
その分析と方法論は人それぞれだ
その中で違和感を持つのは「個人主義批判」の概念

伝統主義者とか保守と言われる人たちは
かつて日本人が持っていた価値観が、西欧流の「個人主義」によって
破壊されたと考える傾向にある
日本こそは長い歴史があって、それは個人に立脚した社会ではなく
公に従う社会構造だったし、それに従うべきものとしている

でもこの時の個人主義という言葉の使い方は「個人の利益主義」
という意味で、「個の確立」から生まれる全人格的なものでなない
個人主義は、自分の個人の権利を実現してほしいと思うだけでなく
あなた個人の権利も保証するといった狭義のものではなく
リベラルアーツを学んで個が確立した(全人格的な)人間の
判断することは、必然的に公の分野まで及んでいる
という考えには至っていない

回りくどい話になったが、要は人はそれなりの教養とか倫理感とか正義感を
学習するだけでなく、自らとの対話を通して身につけたり醸成しないと
アカンのではないかということ

「何を言うかは理性
 何を言わないかは品性」
以前知ったこの言葉が重くのしかかる

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必要なのは、ちょっとした勇気かもしれない

2025年01月24日 09時41分41秒 | あれこれ考えること

一歩間違えば独裁者となってしまうトランプさん
既に人事権とか司法に関することまで影響を与えつつある
そんな中、ニュースとなった2つの勇気ある行動に目が奪われた

一つは大統領就任関連行事の一つとして行われたワシントン大聖堂での
マリアン・ブッデ司教の勇気ある発言
司教はトランプ氏が進めるLGBTQ(性的少数者)を標的にした政策や
強硬な不法移民対策を打ち出していることについて
「おびえる人々にも慈悲の心を持つように」と諭した
さすがにカチンときたらしく、トランプ氏は直ぐ様、司教に謝罪を要求している
と最新の報道では伝えられている

トランプ氏に小言を述べた時の司教は、緊張感に溢れていて
どこか恐れるような、そして覚悟をもった様子だったと紹介する話もあった
(彼女は危険な状況にならなければ良いのだが)

もう一人、勇気ある発言をした人がいた
それはトランプさんが国会議事堂を襲撃して服役している人たちに恩赦を
与えたことが報じられているが、その中のひとりが
「私は間違っていた」「恩赦はすべきではない」と訴えたのだった

時間が経って「自分が間違っていた」と確認したり
過去の自分を否定するのは誰でも難しい
でもその人はちゃんと自分と向かい合い、自分の非を認め
深く反省の言葉を公にしたのだ

過去の自分を否定するのは想像以上に難しいと思うのは
日本での兵庫知事選で、軽いノリと熱狂に煽られて
一方的な正義感に支配されてしまった人たちが
時間をおいて自ら反省をした様子がないと思われるからだ

自分が少し不思議に思うのは、何故そんなに自分の考えに
自信を持てるのだろうか?ということ
自分は小心者だから、いつも自分の考え方が合っているのか?と不安になる
だから正当化するためにいろんな裏付けを探したり
考え方が変わるかもしれないと思いながら反対の意見の人と話す
そしてこれで良し!と覚悟を決める訳だが、それでも不安はいつまでも残る

自分のことを一般化するつもりはないが、自分がそうだから
自分の考え方を変えない人というのは、意志が強いと言うより
凝り固まっていると思えることがある

ところで話は変わるが、ここ最近問題となっている中居正広とフジテレビの件
自分が思う一番の問題点は「現実はこんなものだ」と開き直って
悪しきことも内緒で行っていたのではないかという点
つまりは接待文化(それは性的なものも含む)は現実的手段として
行われていたのではないか、、と感じられること

現実的な対応はアメリカのGAFAでもトランプさんが大統領に返り咲くと
あっという間に彼の軍門にくだって寄付金とかSNSのルールを
トランプさんに都合良いように変えている
現実社会で生き抜くというのは、こう言うことだ
とこれらの対応を見ると、先にあげた二人の行為がとても貴重なものに思える

結局、読み終えなかったが今になって気になるのが「権威主義の誘惑」という本
世界は民主主義国家よりも軽い独裁国家のほうが増えているとの報告もある
現代社会は、まるで誰かに命令されたい!と望んでいるかのようだ
人が自分で判断し、その思いを表に出す、、というあたり前のことが
難しかったり、現実的でないと思えるような社会は生きにくい世の中だと思えてしまう



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成功体験は大事

2025年01月23日 10時14分50秒 | あれこれ考えること

今朝、新聞折り込みの中に市会議員からの活動報告のチラシが入っていた
2つのテーマ、中学校の制服についてと福祉従業者のことについて
わかりやすく解説されていた
2つうち気になったのが、中学校の制服が来年度からブレザーデザインのものに
かわることに至った過程だった

この記事が心に引っかったのには理由がある
2年ほど前、あいさつ運動で小学校校門まで一緒に歩いていた女の子が
中学生になったある寒い朝、その服装を見て久しぶりに会話を交わした
「スカートで自転車に乗って通学は寒そうだね
   下はジャージじゃいけないのかな」
「うん、でも校則できまっているから」
納得はしていなくても仕方ないと思っているようだった
(実は校則はそれほど固定的ではなく、もう少し自由度があったようだ)

だったら校則を変えればいいのに!と、その時すぐに浮かんだのは
少し前に「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」を読んだからで
その本には「給食が美味しくない」と不満を持った中学生が
それを解決するために行動を起こし、そこで何らかの成果を得る経験が
紹介されていたからだ
スウェーデンの彼らは行動して何かを解決することができた
その成功体験はとても貴重で、若い人には「動けば何かがかわる」ことを
自らの知恵をして自身の宝のもとして定着したと思われる

今回の制服の件は自身が卒業した中学校の生徒が提案したらしい
「女子もスラックスをはきたい」という素朴な理由の訴えから
そのうちに「制服を変えたい」という根本的な問題となり
ついには「制服検討委員会」という組織で充分に論議されることになった
中学生も自分たちの意見を反映してほしい!
と思うのは当然で、大人たちが選んだデザインの中から選ぶだけでは
不満を覚え、実際にデザインに関わることを求めたようだ

それでも制服の色、制作コスト、時間経過による飽き等の
中学生では想像し得ない大人の知見を中学生は耳にして
若干視野が狭かったことも自覚し、それでも中学生ができることを
彼らは頭を振り絞って形にしたようだ

制服が変わることになった結果よりも、この過程に中学生が参加して
それなりの満足を得る経験(成功体験)をしたことは本当に大きなことだと思う

ところで、なぜだか自分が望んだものはゆっくりだが実現していく
というような気分になることがある
この制服の件では、実は市の教育委員会のメンバーの中に知り合いがいて
彼に「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」を手渡して
なんとかここに書かれている良いことは実現してほしいと伝えたのだ
その後、彼に会うと手渡した本は教育委員会のメンバーのなかで
回し読みされることになったと口にした

それがあったからこのような結果になったとは思わないが
何故か、自分が望んだ何かが達成されたような気がして
どこか救われた気がしたものだった

「動けば(言えば)変わる」という個人的な経験はある
それは「日本語プレ教育の実施」の要望で
最近、新城市では外国をルーツに持つ子どもたちが急激に増えている
そうした子どもたちに、一定期間日本語の教育を専門家が行うという制度で
外国人の多い他市では採用されている制度を、新城市でも行ってほしいと
数年前の市長との意見交換会で述べた
それが翌年には予算計上されて実施されることになって今に至っている

何かを言ったり行動したことは、直ぐにでないにしても
少しづつ実現していくものだなというのは実感としてあるので
人は不平不満とか批判(それはそれなりに必要だとしても)を表に出すだけでなく
あるべき姿への提案も必要だと思う

ところで、一度読んでもらいたい「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」
はこんな本↓









 

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