世間的に著名で実績もあり雄弁な人物の一人が橋下徹氏
竹中平蔵氏と同じように(はっきりしない)違和感があって
全面的に受け入れることをしないでいる(信用しないでいるということ)
何かが違う、、という感覚がどうしても拭い去れないのだ
だが先日、彼の知事時代の経験とか弁護士としての経験から
紡ぎ出された雄弁な語り口を聞いて
違和感の正体はこれだったのか!と気づいたことがあった
それはアメリカ(トランプさん)がUSAIDの解体を示唆しているとか
マスク氏が無駄を省いているとされるが、それには賛成で
自分でもそうして当然と思う、例えば無駄な経費の中に「ダンスの普及」
なんてものは全く役に立たないものだから経費をかけるべきでない
とする発言を耳にした時のことだった
ダンスの普及などは、世界平和になんら役立たないと断言する
その判断に疑問を覚えたのだった
確かにダンスなどは、ちょっと見には役に立たないと判断されるかもしれない
しかし、アメリカという社会が世界に向けて推し進めてきた
自由とか平等とか楽天的な未来に対する向かい方は
ダンスという文化にも含まれているように思う
違う国同士がダンスを通じて共有する意識などは
直接的には何も産まないかもしれないが
円滑な関係構築には役立っているのではないか
文化とか芸術とか、そうしたものは社会生活に役立つか?
を考える時、先の大戦でドイツに残って自国の音楽文化を必死に守り
その音楽のなす力を信じようとしたフルトヴェングラーのこと思い浮かべる
音楽の訴えるものは内的な葛藤や美と調和で
それにはユダヤ人の奏者が彼には必要だった(彼はユダヤ人の奏者を守った)
そして演奏に全身全霊をかけてあるべき調和の世界を示し
それを味わい気づく人々を救おうとした
それは傍目には芸術至上主義者で世間音痴の人物の戯言のように
思えたかもしれない(トーマス・マンやトスカニーニはその視点で批判した)
だが当時のフルトヴェングラーの苦悩の深さを思うと彼を批判することは
自分にはできない
仮に美とか芸術が何の役割を果たさないとしても
それらがない世界は何とつまらないものだろうと思えてならない
(モーツアルトが存在しない音楽なんてつまらない)
つまりは普通の生活をするには、人が心の余裕を持つには
こうした一種の無駄に見えるものが必要だと思う
(この部分の考え方が彼とは違っていた)
そしてこの無駄と思えるようなものは、多分リベラルアーツと呼ばれるものだ
わかりやすい日本語にすれば教養というものになるかもしれない
もう一つ違和感を覚えた橋本氏の発言は
「市場に任せておけば良い」の一言
それは新自由主義的な考えで、それぞれが自己の利益を求めていけば
ついには市場は均衡点を手にすることができるというものだが
現実世界はそうなっているか?を観察すると
この市場での戦いはアダム・スミスが要求した道徳的な判断
というものが欠けていて、力のあるものが他を圧倒するという状態になっている
話は飛ぶがピケティの本には経済的に成功した人は
努力した人 運が良かった人、塀の上を歩いた人
の3つを紹介していた
現実世界は3番目の人も少なくないのだ
それを踏まえて何でも市場に任せるというのは、
個人的には賢い方法だとは思えないでいる
橋本氏の発言の多くは現実を踏まえて実効性のあるものを優先している
しかし現実を踏まえているだけでは、結局は力のあるものに従うになってしまう
力とはあるときは暴力のことで、ウクライナ戦争の現実的な対処は
結局はロシアの力によるものを一部認めることになってしまう
問題はそれで良いのか?という点で、現状の解決だけが問題ではないと思う
現在、現状大事なのはわかるが、それを過度に評価しすぎると
反射神経しかない動物のようで、人としてはなんかつまらない
昔、パンドラの箱の物語で、ありとあるゆる災いが飛び出したが
箱の最後に残ったのは「希望」とあったのはとても救われる気がした
ひとはどんな時も希望を捨ててはいけないと思う
(現実対処法だけでなく、あるべき未来を求めることも大事だと思う)
またもや、まとまらない話