パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

違和感の理由がわかった気がした

2025年02月16日 09時48分44秒 | あれこれ考えること

世間的に著名で実績もあり雄弁な人物の一人が橋下徹氏
竹中平蔵氏と同じように(はっきりしない)違和感があって
全面的に受け入れることをしないでいる(信用しないでいるということ)
何かが違う、、という感覚がどうしても拭い去れないのだ

だが先日、彼の知事時代の経験とか弁護士としての経験から
紡ぎ出された雄弁な語り口を聞いて
違和感の正体はこれだったのか!と気づいたことがあった

それはアメリカ(トランプさん)がUSAIDの解体を示唆しているとか
マスク氏が無駄を省いているとされるが、それには賛成で
自分でもそうして当然と思う、例えば無駄な経費の中に「ダンスの普及」
なんてものは全く役に立たないものだから経費をかけるべきでない
とする発言を耳にした時のことだった

ダンスの普及などは、世界平和になんら役立たないと断言する
その判断に疑問を覚えたのだった
確かにダンスなどは、ちょっと見には役に立たないと判断されるかもしれない
しかし、アメリカという社会が世界に向けて推し進めてきた
自由とか平等とか楽天的な未来に対する向かい方は
ダンスという文化にも含まれているように思う
違う国同士がダンスを通じて共有する意識などは
直接的には何も産まないかもしれないが
円滑な関係構築には役立っているのではないか

文化とか芸術とか、そうしたものは社会生活に役立つか?
を考える時、先の大戦でドイツに残って自国の音楽文化を必死に守り
その音楽のなす力を信じようとしたフルトヴェングラーのこと思い浮かべる
音楽の訴えるものは内的な葛藤や美と調和で
それにはユダヤ人の奏者が彼には必要だった(彼はユダヤ人の奏者を守った)
そして演奏に全身全霊をかけてあるべき調和の世界を示し
それを味わい気づく人々を救おうとした
それは傍目には芸術至上主義者で世間音痴の人物の戯言のように
思えたかもしれない(トーマス・マンやトスカニーニはその視点で批判した)
だが当時のフルトヴェングラーの苦悩の深さを思うと彼を批判することは
自分にはできない

仮に美とか芸術が何の役割を果たさないとしても
それらがない世界は何とつまらないものだろうと思えてならない
(モーツアルトが存在しない音楽なんてつまらない)

つまりは普通の生活をするには、人が心の余裕を持つには
こうした一種の無駄に見えるものが必要だと思う
(この部分の考え方が彼とは違っていた)
そしてこの無駄と思えるようなものは、多分リベラルアーツと呼ばれるものだ
わかりやすい日本語にすれば教養というものになるかもしれない

もう一つ違和感を覚えた橋本氏の発言は
「市場に任せておけば良い」の一言
それは新自由主義的な考えで、それぞれが自己の利益を求めていけば
ついには市場は均衡点を手にすることができるというものだが
現実世界はそうなっているか?を観察すると
この市場での戦いはアダム・スミスが要求した道徳的な判断
というものが欠けていて、力のあるものが他を圧倒するという状態になっている

話は飛ぶがピケティの本には経済的に成功した人は
努力した人 運が良かった人、塀の上を歩いた人
の3つを紹介していた
現実世界は3番目の人も少なくないのだ
それを踏まえて何でも市場に任せるというのは、
個人的には賢い方法だとは思えないでいる

橋本氏の発言の多くは現実を踏まえて実効性のあるものを優先している
しかし現実を踏まえているだけでは、結局は力のあるものに従うになってしまう
力とはあるときは暴力のことで、ウクライナ戦争の現実的な対処は
結局はロシアの力によるものを一部認めることになってしまう
問題はそれで良いのか?という点で、現状の解決だけが問題ではないと思う

現在、現状大事なのはわかるが、それを過度に評価しすぎると
反射神経しかない動物のようで、人としてはなんかつまらない

昔、パンドラの箱の物語で、ありとあるゆる災いが飛び出したが
箱の最後に残ったのは「希望」とあったのはとても救われる気がした
ひとはどんな時も希望を捨ててはいけないと思う
(現実対処法だけでなく、あるべき未来を求めることも大事だと思う)

またもや、まとまらない話

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みんなが常識的な方が効率が良いようだ

2025年02月11日 09時39分42秒 | あれこれ考えること

秋になると豊橋と新城を結ぶ「柿の木街道」と呼ばれる道には
無人の柿を販売する店が幾つも並ぶ
一袋で5つくらい入っていて金額は200円の安さだ
少し見てくれの悪い物が多いが自宅で食べるには問題ない

年に2回ほどだが購入するところは大体決まっている
(店ごとに味の安定感が異なる)
販売所にはお金をいれる箱みたいなものがあって
個々に購入者が要した金額を入れることになっている

この格安な柿は消費者にとってはとてもありがたい
そして多分、消費者だけではなく生産者にとっても
ありがたいシステムだ思われる

気になるのは、お金を払わずに商品だけを持って行く人がいないか
という点だが、これまでずっと続いているので
被害があったとしても大したことはなくて済んでいるのかもしれない

みんな(買い手)が正直に常識に従ってルールを守るということは
経済的にもとても効率が良い
販売の人件費が必要ないから安く販売できるし
消費者はその恩恵を受けることができる

こうした道徳的な精神がみんなにあってこそ世の中は
市場に任せても効率的に動いていくと思われる
アダム・スミスの「神の見えざる手」は市場に任せておけば
均衡点に自然と落ち着くという考え方だが
それには前提条件があって、みんなが常識的な(良い)人であることだ
アダム・スミスは国富論の前に「道徳感情論」という書物を残しているらしい

市場を自己の利益優先の場と考えて、それぞれの自己の利益拡大を目指していけば
良いところに落ち着くというのはどうもそうではないらしい
令和の米騒動ではお米自体の供給量は不足していないが
お米を扱う中間業者が再び不足のときのためとか、個々の利益のために買いだめを
しているのが原因だともいわれる

話を拡大して、トランプさんの自慢の政策
アメリカ・ファーストとかを継続していくということは
実は効率的にもわるくなっていくのではないかと想像することができる

生半可な知識だが経済学の考え方に、ナッシュ均衡とかパレート最適
というが異念がある
これらは数学的に(論理的に)導かれる結論を予想しているが
それらは(多分)片方だけが得をするというのは全体的には効率が悪い
というところに落ち着くと自分は勝手に思っている(違っているかもしれない)

つまりは少数者の利益を優先するとか少数者の収奪が存在する時は
数学的、論理的にも効率の悪い社会で、社会は安定せず、社会の衰退が
起きてしまうというのが最終的な着地点のようだ

しかし、かつては今よりも道徳的だったと思われる社会が、現在は
「道徳的に問題があっても(法に抵触しなければ)やったもの勝ち」
のような風潮になっているのは、どうしてなのかな?
と思うと同時に、これを常識的な状態に戻すのはとてつもなく
大変なことだと思えてしまう





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自撮り画像は撮るだけでは完結しないかも

2025年02月09日 09時16分53秒 | あれこれ考えること

よくわからないなあ!
と思うのが有名な観光地等で自撮りして、それをSNSにアップする気持ち


確かにその光景に感動して思わず写真をとるということは自分にもあった
上高地の河童橋と穂高連峰の見える光景は、初めて見たときから心奪われて
ついつい同じような写真を何枚も撮った
あまり期待していなかったドイツのノイシュバンシュタイン城も
マリエン橋からの姿がとんでもなく美しい風景は
ルードヴィッヒ2世が求めたものはこうした美しさだったのか
と妙に納得したものだった

でも、それらの写真には自分は写っていない
(上高地を撮影したことはまだ自撮りできるスマホはなかった)
写真を残すのは、それをきっかけに楽しかった記憶を呼び起こしたいからだ
でも、時には写真を撮ることが気になって、風景を楽しめなくなることもあったので
写真に撮るより記憶の中に深く保存しておこうという気になった
(写真はないが記憶に残っている素晴らしい光景は槍ヶ岳から見た朝焼け)

自撮りで危険にあう人が多いとニュースにあった
自撮りは自分だけが楽しむためというよりは、SNSにアップするためのようだ
自分がそこにいたとか、そこで有名なものを食べたとかいうことは自己完結せず
人に伝えてこそ意味があるかのようだ
それは見る人が多いと収入につながる経済的な面から解説がされることが多いが
個人的にはもっと別の理由のほうが大きい気がしている
それは承認欲求ということ

人は誰かに認めてもらえないと辛い生き物のようだ
それを見たとか食したということは全く個人的なことだが
それを誰かに伝えて初めて意味があるかのようだ

世の中にはこれだけ自撮りの写真が出回っているというのは
みんな寂しいからなのだろうか



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おすすめ動画の紹介は、自己の代弁のため

2025年02月08日 09時36分36秒 | あれこれ考えること

知人が時々ラインでおすすめ動画を送ってくる
その知人はとても穏やかで趣味も多く多才な良い人だ
面倒くさい自分をそれなりに評価してくれていて
市政に関して無駄かもしれない自分たちの行動に感謝してくれている

ところが困るのは、お勧め動画の傾向とその内容を盲信していること
歴史について縄文人と弥生人とかユダヤ人と日本人の関係などは
いろんな説があってお楽しみとすることができるが
少々問題なのは、石丸さん、斎藤さん、立花さんを擁護する動画にハマっていること
そしてもう一つ盲信しているのが「ザイム真理教」の内容

「ザイム真理教」は貸してもらってとりあえず読んだが
それは国の財政状態は言われるほど危機的ではないとか
自国通貨で暮らしている日本は、通貨発行権があるので
お金を刷って世間に回すほうが経済には効果的な方法だ
とする考え方で、これはMMTによるものだと思われる

だが、個人的には正直なところ「わからない!」というのが実感だ
残念ながら、何が変だとは指摘できないが
そんなに上手い話があるのだろうか?
という不安が拭い去ることはできない
だから自分の直感に従って、「ザイム真理教」の言い分をそのまま受け入れることはなく
単に考え方として、こう言うものが存在するくらいの扱いにしている

問題は石丸さん、斎藤さん、立花さん、そしてディープステートを
壊そうといているトランプさんを支持していること

人はそれぞれ考え方や行動を自由に選択できるが
それでもその基本となるところは、事実に基づくものから成り立つべきと思うが
この事実の認定が、考え方が違うという判断で共有できることはできないでいる

最近、旗色の悪い斎藤さんの件についても、
オールドメディアは一方的で真実を伝えなかったとか、SNSにこそ真実があるとか
あれは公益通報にあたらないとか、県民局長が自殺されたのは不倫がバレたからとか
かなり立花さんの影響を受けている
そして何故か表にでてしまった個人情報であるUSBの中身を
百条委員会で問題視しないのはおかしいと怒りの声を上げたりしている

そもそも百条委員会は法的に許された機関で段取りを踏んで設置され
そこでは、公益通報と思われることについて拙速に行った行動が正しかったのか?
とか、県民局長の指摘するパワハラとか優勝パレードの不正は事実かどうか
を調べるためのもので、県民局長の自殺の原因を想像するものではないし
また守られるべき個人生活をあれここれ推理することは
そもそもなされてはならないことだ(と思う)

しかし、世の中には相当数の知人と似た考えを持つ人がいる
それは一つには、考え方の方法論を知らないからと思う
普通は拡大しがちな話を論点整理して、その点にフォーカスして追求する
争点に無関係だったり、個人生活に関することには触れないとする運営方法には
そこには何か隠しているものがあるとする正義感によって不満を覚える
そこに感情が関係するから始末に負えなくなってしまう

知人が推薦動画を送ってくるのは、自分と言い争い(討論)をすると
言いくるめられててしまうので、うまく言えない自分に変わっての
言い分を動画で理解してほしいという意図なのだそうだ

しかし、言いたいことを動画が言ってくれるというのは
本当にそうなのだろうか?
動画は100%自分の考えをまとめてくれているのだろうか

個人的なことを言えば、自分の重要な経験の一つは本だ
だが、本は読み終えて自身に何が残っているかといえば
スラスラと解説できるようなことではなくて、むしろ漠然とした印象だけだ
そして身につくのはその漠然としたものを、自分自身で言語化したり
記憶に残った部分の整理したり、何故記憶に残ったのかを考える過程に意味があると思う

つまりは動画は自分の言いたいことを語ってくれるというのは
実はその人の言いたいことを語ってくれているのでなく
単なる影響を受けているだけなのはないだろうか

ちょっと面倒な話になってしまったが、現実にこのような人々は少なくないし、
自分のこのような考え方も単なる一つに過ぎない
それでも、何らかの一致点を求めて話し合うことができれば良いと思う



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「エスノセントリズム」という言葉が頭に浮かんだ

2025年02月07日 09時31分11秒 | あれこれ考えること

急に「エスノセントリズム」という言葉が頭に浮かんだ
何年か前に知った言葉で、一旦検索してみると
その時は、そういうことってあるなあ!と妙に納得した

エスノセントリズムとは、最近活躍しているSearch Labs | AI による概要のよると

エスノセントリズム(ethnocentrism)とは、自民族の文化を優位とし、
他の民族の文化を劣位とみなす考え方です。自文化中心主義とも呼ばれます。

【エスノセントリズムの特徴】
自民族の文化や価値基準を基準に他の民族の文化や価値観を判断する
自民族の文化を絶対的な基準として諸文化の優劣や良し悪しを判断する
他民族の生活様式・思考法・行動などに関して、自文化の慣行・規範にもとづき否定的な価値判断をくだす
自民族を絶対的優位とみなし、他民族に対して排他的・蔑視的な態度をとる

【エスノセントリズムの影響】
異文化間のコミュニケーションにおいて誤解が生じやすくなる
ステレオタイプや偏見が強化される
文化間の交流や相互理解に障害をもたらす

【エスノセントリズムの例】
ナチスドイツによるユダヤ人迫害は、強いエスノセントリズムの例として挙げられる
消費者エスノセントリズムは、国内商品の購買、外国商品の購買、
グローバル・ブランド態度、知覚リスク、広告態度などに影響を与えている

世界がグローバル化している反動で、自国の文化を必要以上に重要視する傾向のこと
だと自分は想像している
それは日本においては「日本すごい!」の礼賛が多いこととか
日本は歴史的、文化的に特別と思いたがる傾向とつながっていると思う

どの国もどの地域も、地域の事情に合わせて必然的に生まれてきた文化・慣習
倫理・正義感等があって、それは外からの人から見れば異様であるとしても
それらの生まれた背景などを知れば全面的でないとしても理解ができるものだと思う

つまりは、自民族の文化が他と比べて優位と認識することではなく
そう信じたいという心理的な傾向がどの民族にもあるということなんだと思う

心理的な傾向は、一般化できる可能性はあると思う
それは多くを知れば、自己評価したものが唯一無二のことではなく
よくあることの一つと思えるようになる
つまりは視野を広くして知ることは、とても大事だということ

いろんなことが頭に入っていく世代の人は
たとえ消化不良でも大食漢になったほうが良いと
年配者は思うが、それは余計なおせっかいか?


 
 
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影響を与えられる行動

2025年02月04日 09時33分37秒 | あれこれ考えること

多分、人に必要なのはきっかけだと思う
個人は社会に関係していて、社会は政治に結びついているという現実は
それなりの経験を積んだ人間なら実感すると思われる

それを踏まえて個人としてどのような行動を起こすかが問われるが
行動は面倒なので、とりあえずは傍観者とか批判をすることで
とどまっている人は多いと思う

自分も自戒を込めて思うのが、あることが起きるまでは全くこの手のことには
ノータッチでまさに傍観者だった(市議会議員の名前も知らなかった)
ところが、声をかけられて手伝った新城の住民投票に関する理不尽な出来事に
怒りを覚えて何かを調べたり、いろいろ知ることになると、社会とか政治が
本来あるべき姿に実現されていないことに気づくことになった

知ればなにかが変わる
知ることは力となり行動を促す
そして行動すれば何かが変わる
と上手い具合に物事が運べば良いのだが
現実は行動は短期的には何も報われない事が多い

だが、変化がないとしても行動することには意味がある
と先日から扱っている「フィンランドの高校生が学んでいる人生を変える教養」
には書かれている
実はそのようなことは、希望も込めて自分もそう思っていた
世の中の多くのことは思い通りにならない
それでも何かを求めて粘りづよく何かをし続けること
それば信念のように大事なものだと感じていた
(容易に行動したことが達成されると、人は妙な自信と
 全能感を覚えてしまうのではないかとの不安を覚える)

ところで例の教科書には、自分が影響を与えられる行為として
以下のようにリストアップされている

・投票、また人に投票するように勧めること
・抗議の投票、反対投票
・立候補すること
・政党での活動
・政党の青年組織の委員、高校生同盟、青年議会などでの活動
・国際的な活動
・市民イニシアティブ
・法制化を求める、署名する
・ソーシャルメディアで弱者を養護する
・レイシズムのステッカーを剥がす、張り替える
・居住地の自治体評議会、国会議員、大臣、その他影響力のあるひとにコンタクトする
・雑誌に記事を書く
・デモ、行進
・市民団体を通した影響力の行使
・職業組合に所属
・身の回りの問題に取り組む
・ボランティア
・寄付
・倫理的な消費
・ボイコット
・菜食主義、公共交通機関の利用
・ソーシャルメディアでキャンペーン
・責任あるソーシャルメディアの使用
・アートを通じた活動
・科学
・ハンガーストライキ
・ハッキング
・市民的不服従
・暴力、テロ
・革命、クーデター

つまりは影響を与えられる方法はとても多様だ
(人はこの中で幾つくらい行動したことがあるだろう?
 個人的にはざっと数えて10以上ありそうだ)

個人個人が(影響を与える)行動することが民主主義には必要とされているが
影響を与えるのは何年に一度かの選挙で投票するだけではない
本ではそれでは全く不十分だとされているし、実感でもそう思う

面倒くさかったり、人との摩擦が起きるかもしれない行動に
飛び込むことは日本社会では好まれないかもしれない
でも、自分自身が社会と折り合いをつけるというのは
巷に存在する空気に無条件に従っていくるのではなく
とりあえず自分も納得することが必要と思えてならない

こう言うときの個人(自分)というのは
利益を求める個人主義のそれとは違う気がする

またもや、まとまらない話!


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執行猶予停止にならないのは何故か?

2025年02月02日 09時22分01秒 | あれこれ考えること

法律は手続き論がいろいろあって素人には直感的に理解しにくい
最近、個人的に疑問を覚えたのが
立花孝志氏は執行猶予中であるにもかかわらず個人へのデマ・脅し等を行い
結果的に自殺者まで生んでしまったが、なぜ執行猶予停止にならないのか?
という点だ

そこで文明の利器(Chat GPT)を使って調べてみた
(100%信じられるものではないとしても、手っ取早く概略が理解ができそうなので)

問 立花孝志氏は執行猶予中ですが、脅し等の行動をおこして自殺者まで出ていますが
  執行停止にならないのは何故ですか

答 立花孝志氏は、2022年1月20日に東京地裁で懲役2年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けました。
  執行猶予中に新たな犯罪行為があった場合、執行猶予が取り消される可能性があります。
  具体的には、執行猶予期間中に再び罪を犯し、禁錮以上の刑が確定した場合、執行猶予は必要的に取り消されます
  しかし、執行猶予の取り消しには、新たな犯罪行為に対する有罪判決が確定することが前提となります。
  現時点で、立花氏の新たな行為に対する捜査や起訴が行われていない、もしくは有罪判決が確定していないため、
  執行猶予が取り消されていないと考えられます。

  また、執行猶予期間中に新たな犯罪を犯した場合でも、その刑が1年以下の懲役または禁錮であり、
  情状に特に酌量すべきものがあるときは、再度の執行猶予が認められる可能性もあります。

  したがって、立花氏の執行猶予が現時点で取り消されていないのは、法的手続きが進行中であり、
  まだ有罪判決が確定していないためと考えられます。

つまりは手続き上の理由で執行猶予の停止にはなっていないということだ
ところが素人は、あんなに好き勝手にひどいことを行っても何ら罰せられることもなく
同様な犠牲者を生んでいるのに、放ったらかしになっていることに疑問を覚えてしまう

執行猶予の停止は、新たな犯罪に対する有罪判決(あまり軽微なものでない罰)が確定することが
必要となっているが、次に湧いてくる疑問は、この件を訴えて有罪まで持っていくのは誰か?
という点だ

恥ずかしながら自分は、検察とか警察が勝手に動いて起訴するものと思っていた
だが、現状を見るとそうではないらしい
(誰か有志が告発するという手はあるのだろうか?)
SNSでは、立花孝志氏を逮捕せよ!とか、警察(検察)頑張れ!
と言った文言を見かけるが、その気持はわかる
確かに安易に何でもかんでも起訴したりするのは危険性を伴うように思われるが
このように放ったらかしも危険性を覚えてしまうと感じるのは
せっかちすぎるのだろうか?

世の中は、直感的に良し悪しの判断がしにくいシステムになっているようだ
それ故にストレスが溜まってしまう

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隣町の豊橋市のこと(住民投票がないことが一番のミスだと思う)

2025年01月31日 10時52分20秒 | あれこれ考えること

文章を目で追いかけていても、一向にその内容が頭に入らない
先日、このような少し悲しい経験をした

東三河の中心都市、豊橋では新アリーナ建設問題で揺れている
建設反対を訴えて当選した市長は公約通り建設の中止の作業に
入ったのだが、急遽議会からでてきたのは
「豊橋市議会の議決すべき事件を定める条例の一部改正する条例」
という議会提案

一体何のことか?と思われるが、簡単に言えば
新アリーナ建設の契約解除については、違約金に大きな金額を要するから
議会の議決が必要というものだ
結局、この改正の条例はアリーナ建設推進派の多い議会によって昨年末可決された

ところが、この議決自体(条例自体)が法令違反なのではないかとの疑いがあるようで
その法的な説明会が先の日曜日、豊橋駅前のビルの一室で行われた
(主催はアリーナ反対のグループメンバーによる)
講師はこの分野に詳しい南山大学の榊原秀訓氏
冒頭の文章を追いかけても内容が頭に入らないというのは
講師の説明・解説のことで、ぼんやりとわかったような気もするが
正直なところわからなかった!という感じ
講演は、法的な解釈とかこうした条例の他市の例とか
国の方針などが一気呵成に行われたので理解が追いつかなかった

これを理解するのは、それなりのあらかじめの知識が必要だったが
それらが全く不足しているし、豊橋市議会の現実のやり取りも
市外の人間なのであまり良く知らない
つまりは簡単に理解できる状態ではなかったということだ

でも、それはちょいと情けないので、自分なりに少し勝手に考えてみた
(法的に適切かどうかはさっぱりわからないが)

現状は議会は推進派が多く、現市長とは対立している構造がある
前市長は推進すべしとして議会の議決を経て、昨年委託業者と契約を交わした
その契約書には契約解除の場合について項目もあって
業者側からの契約解除の場合、市側からの契約解除の項目があって
市側からの場合は何ヶ月前に連絡するようなことが書かれている
この契約内容は市議会も認めて可決している

そこで問題となると自分が思うのは、市議会は契約解除について書かれた
契約書を認めているにも関わらず、市長が事務的に契約書通りの手順で
行おうとしている契約解除に異議を求めることは矛盾していないかということ

契約解除には多額の賠償金(違約金)が発生するから議会の承認が必要
とする理屈なのだろうが、その前に多額の金額が必要だから必要とされたのは
契約にいたる議決だ(法的にも必要とされている)
つまり計画(建設)金はかかるが、もし契約解除する時も
契約書にかかれた手順で行うことに既に賛成していて、あとになって
もう一度お金のことで議決が必要とするのは何か変だなと思ったということ
(多額なお金が違約金としてかかるとしても、それは建設費と比べると
   圧倒的に小さな金額で、市が損するというものではなさそう)

この市議会が求めた条例が法的に問題ないとされるなら、議会は対立する市長に対して
本質的な問題と言うよりは、政争としてどんなこともできてしまいそうな気がする
首長と議員の役割は同じように選挙で選ばれるとしているが役割は少し違う
首長は予算編成権とか執行権、議会はそのチェック機関的な要素があって
力関係は現状では首長のほうが大きな力を与えられている(ような気がする)

だが、市議会の方は自分たちの正当性を弁護士の協力を得て確信しているようだ
つまりは法の解釈は、違法、違法でないとの2つの考えが存在して
それを決めるのは誰か?という段階になっているようだ

ややこしいなあ、これじゃ、豊橋市民は置いてけぼりだな!
と感じてしまうが、つくづく残念なのは、というより議会の一番の失敗は
白黒はっきりする住民投票をしないと決めたことだと思う

ところで少し残念に思われたことは、日曜日の講演会の出席者が
それほど多くなかったこと
面白そうな話ではなく、面倒くさそうな感じがするが
それでも市民の多くが進行中の出来事を理解するのは大事だと思う

でも、現実はこんなものか!

※豊橋市議会は市長の再議の要請をうけて29日臨時議会を開催し
 再度採決によりこの条例は可決された
 今後は市長が県知事に法的な判断を仰ぐ手続きに入る可能性が伝えられている



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質問の技術(伝える技術)

2025年01月29日 09時26分51秒 | あれこれ考えること

まるで共時性の一例のように、昨日ここでとりあげた想像性についての
面白いニュースが報道された
それは予想外の観客数の伸びを見せている映画の紹介で
その映画はアニメで、全くセリフがないそうだ
観客は表情・仕草を見て想像して楽しむのだそうだ
この不便と思われる情報不足が却って一人ひとりの自由な解釈を生み
それを人に伝えようとする行為が、映画の観客の広がりを生んでいるのだそうだ

これはわかりやすさとの対極にあるのかもしれない
人は受動的に楽しむよりは能動的に楽しむほうを好ましい
と感じているかもしれない
ただし、面倒くさいと思う人も否定できないが

話は変わってフジテレビのゴタゴタ
2回目の記者会見は16時から始まって、終えたのは深夜の2時過ぎ
自ら招いたこととは言え、ちょいと同情も禁じ得ない
その中で本質とは関係ないことが話題となった
それは質問者の態度というか質問の技術のこと

市の意見交換会・議会報告会でもよく見られる光景だが
質問者の話が長すぎたり、質問なのか意見なのか
それとも怒りの発散なのか、そうしたものが入り混じって
口調もきつくなってしまうという事態がそこでも見られたらしいこと

流石にこれは一般の人からも評判は悪かったようだ
もう少し整理された質問をすべきとか、論点を絞って質問をするように
運営を図るべきだったとか、つまりはカオス状態は異常だったとする考え方だ

しかし、こうしたカオス状態はある程度許されるべきものだとする考えもあるようだ
行儀よく進められてしまうと、この手の進行になれていない人は感情の発散場所が
ないとか、世間に蔓延している空気感を伝えることができない
とかの弊害もあるとする考え方だ
それは記者クラブに見られるおとなしい従順な態度に対する一つの抵抗だ

要は常識の範囲内で行われれば良いのだが、これが思いの外難しい
怒りは一種の個性で、それがあるお陰で世の中が是正されるということは
現実にあるし、その例を自分も見ている(自分は怒りっぽくないので怒ったのは別の人だが)

こんな風にあれこれ考えていると、今の人に必要なのは
自分の考えを上手くまとめて人に伝えるという技術ではないかと思う
技術より肝心なのは思いかもしれないが、伝えるという点においては
習得することのできる技術は有効と思われる

実際のところ、それをどこで、どうやって身につけるかが問題だ
学校で?それとも自分で? さて!

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想像力

2025年01月28日 09時52分12秒 | あれこれ考えること

リヒャルト・ワーグナーの楽劇の中に、上演が4日間にわたる作品がある
「ニーベルンクの指輪」と呼ばれる連作「ラインの黄金」「ワルキューレ」
「ジークフリート」「神々の黄昏」がそれで、それぞれが結構な時間を要する
物語は小人や巨人がでてきたり、ライン河に住む乙女がでてきたり
欠点の多い神様がでてきたり、人間がでてきたりする

映画になった「指輪物語」と同じように(愛を諦めたものが作った)指輪は
世界を支配する力を持つとされ、それを巡っての権力闘争とか
その過程で迷うことの多い人間同士の愛とか嫉妬とかが
物語をより深い作品たらしめている

これらは、いかようにも解釈可能な原型(プロトタイプ)で
ワーグナー自作の脚本には、想像上の生き物としての小人、神々、人間が現れる

この解釈の幅が大きい作品を、思いっきり現代劇のように読み替えた演出があった
ライン河に住み、時々河の近くにくる生き物をからかったり誘惑したりする乙女が
居酒屋の女性となり、神の中で一番の力を持つとされるヴォータンはタキシードを
着た人間として登場するものだ
自分は見ていないのでこれ以上のことは紹介できないが
1976年にドイツのバイロイトに訪れた時
そこで行われたバイロイト音楽祭で一番の問題となったのはこの画期的な演出だった
思いっきり現代の世相の反映とした演出はフランス人のシェローという人のアイデアだった

この年はバイロイト音楽祭100周年ということで、指揮者にフランス人のブーレーズ
演出にシェローを抜擢したのだが、バイロイトにいることができた自分は
その時、街にあふれるブーイングを肌で感じることができた

実はその前の数年の演出は、これと全く正反対の独特な演出で舞台は、ほぼ真っ暗
家も木も岩も具体的なものはなし、動きもそんなに多くない
つまりは日本の能のような世界だったらしい
(リヒャルト・ワーグナー孫のヴィーラントワーグナー演出)
そして勝手に想像することの方が好きな自分は、それを見たいと思ったものだった

世界でチケットを取りにくいとされていたバイロイト音楽祭が
最近はどうもそうでななさそうとのことだ
原因は過度の読み替えによる演出が評判が良くないせいらしい
つまり神様がタキシードを着たり、酒場で女性と戯れたりする
一見わかりやすい演出は、それ故につまらないと思う人が出てきている
ということではないだろうか

先日とりあげたハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
具体的な事件というより、想像の羽を広げるきっかけづくりの描写が多い
そしてそれは自分にとっては心地よいものだった

自分としてはプロトタイプはプロトタイプとして提供してほしい
そこから現代社会を想像するかどうかなどは、こちらに任せてほしい
と思うのだった

世の中のことは具体的ではなくても、想像することで
いろんなことに当てはめることができる
それは過去の出来事を現在の教訓として捉えることもできるはずだ
大事なのは、そうした一見関係なさそうなことも
今と関連づけることのできる想像力と思ったりする

相変わらず、まとまらない話




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