パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

オンラインツアー

2021年04月30日 10時47分02秒 | 徒然なるままに

まだまだ好奇心は健在なのかもしれない
試しに流行りのオンラインツアーの予約をしてみた
ここ一年は真面目に自粛生活をして名古屋にすら行っていない
(宗次ホール行きたい!)

巣ごもりの生活は他人との対話が少なくなるので、どうしても話題に欠けて
考えることも感じることも一人よがりになる
これじゃいかん!と思っても、誰かと合うのは迷惑をかけるし自分も危険を負いたくない
そこでオンラインツアーを試みることになった

だが何処にするかを迷う
せっかくだからウィーン絡みがあればよかったのだが、それは見つからなかったので
とりあえずドイツのロマンティック街道の一都市のツアーにした

この街はフランクフルトから電車で向かった時に、ちょっとしたトラブルに出くわして
電車の乗り合わせたおばさん(自分と同じくらいの年齢)に助けてもらって行けた街だ
ドイツの高山みたいな有名な街だが、街の印象より助けてもらったおばさんの印象が強くて
どうもおぼろげにしか覚えていない
(写真はそれなりに撮っているのに)

そこで復習も兼ねて再訪問をしようと考えた
それにしても、すごい時代になってきたものだ

これでそこそこ面白かったら、今度は国内旅行も良いかもしれない
行きたくても行けずにいる京都
そのための予習としても楽しみだ
※旅は5月7日にzoomで行うことになっている

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強かった川崎フロンターレ

2021年04月29日 18時01分40秒 | サッカー

1位と2位、盾と矛の戦いと楽しみにされていた今日のグランパス対フロンターレ
結果はフロンターレの完勝(4−0)
やることなすことがフロンターレはうまくいったが、チーム力も現時点では
フロンターレの方が相当上にある感じだ(選手全員に自信が漲っていた)
グランパスの得意とするインターセプトを狙う守りも、ワンタッチで交わされ
トラップのボールも次のプレーに最適な位置に置いて奪えない
おまけに選手間の距離が良いからボールを失ってもすぐに取り返しに行ける
攻撃の素晴らしさだけでなく、こうした守りも徹底されて見事なものだった
それはチームの完成度というもので、余程のことがない限り大崩れは無いだろう
試合の入り方もフロンターレの方が良い緊張感で入れていたのではないか

1点目の旗手のシュートも素晴らしかったが、そのお膳立てをしたり
見事なヘッドで2得点のレアンドロ・ダミアン素晴らしかった
ポストプレーも丸山との競り合いにも負けずにきっちり収めてフィジカルも強い
同じポジションのグランパスの山崎と比べると貢献度はだいぶ差がある

グランパス攻撃は結果は出ていても、マテウスと相馬のサイド攻撃は
少しばかりワンパターンというか選択肢が少なすぎる
イライラして強引にシュートしたり突破を試みそうと予想したがそのとおりになった
相馬はそれが形というか特徴なので、妙にアレコレして器用貧乏になるよりは
良いかもしれないが、このところは難しいところだ
ただもう少し柿谷との関係を考えたプレーをしたほうが良いだろう

それにしても、今のフロンターレは強い
あの中山・高原・名波・藤田・服部、鈴木がいた頃の、ものすごく強かったジュビロのようだ
あるいはシャビがいた頃のバルサに似ているような印象をもつ
これでフィジカルさえ強かったら海外のチームとも戦えそうな気さえする

このあと5月4日には今度は川崎で続けて同じカードがある
グランパスは今日の体験をどう感じるかが興味がある
きっちりやられたので自信喪失か、それともU24のアルゼンチン戦のように
直前の試合の経験を生かしてチームの建て直しができるか

今日のように一方的に運が傾くとは思われないが
地元のチームだからグランパスには経験をうまく生かして対応してほしい
だが、あの完成度に立ち向かうのは相当難しと思われる
(戦術として前から行くか、後ろで構えるか?)

強いものが勝つ
それは残酷でも厳しいゆえに美しいともいえる
Jリーグの各チームはフロンターレを破るように切磋琢磨する
そうすることによってJリーグ全体がレベルアップする
選手は海外に行って経験を積むのは役立つが、国内でも意識次第で
それなりの経験はできそうな気がしてきた



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マーラーとブルックナーの音楽(感情的か否か)

2021年04月29日 08時36分11秒 | 音楽

休日らしくのんびりした話題

美しい音楽のことを考えてみた
その例としてマーラーとブルックナーの静かな音楽を取り出してみる
(ブルックナーの方は静かばかりとは言えないが)

まずはマーラーの方から、有名な交響曲5番のアダージェット
映画「ベニスに死す」にも使われた弦を主体とした耽美的な音楽
これを心動かされずに聴ける人はそれほど多くないと思われる

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から

マーラーよりは少し前の作曲家にブルックナーがいる
男前のマーラーに比べると田舎のおっさんといった感じの垢抜けない男だ
彼の作品の中からは7番の交響曲から第2楽章のアダージョ

Bruckner - Symphony No. 7 in E major - 2 Adagio - Celibidache

この音楽も美しいと思う(自分は)
だがその感じ方はかなり違う
マーラーの音楽は失った青春時代の思い出とか、かきむしられる感情の疼きみたいなものが全面に出てくるが
ブルックナーの音楽は、その響きに沈潜した思索とか法悦といったのもを、体全体で感じ取るものとして存在する

マーラーとブルックナーは一時期ブームになった
例にもれず、自分も違う指揮者、違うオーケストラのCDやレコードを購入し聴き比べた

だが、今は不思議なのだがマーラーの音楽はあまり聴かなくなってしまった
ブルックナーの方は相変わらず取り出して耳を済ませている
そこで、いったいそれは何故か、何が違うのか?と独断と偏見で考えてみた

すぐさま思いついたのは、マーラーの音楽は感情的すぎるという点だ
感情の起伏が激しく、若い時は「それいけ!」と共感した部分も今は「ちょっと大げさだな!」
といった印象ばかりが強く、ついていけない気持ちを感じてしまう
ブルックナーは繰り返しが多く、しどろもどろ的な要領を得ない音楽だが
深い思索の現れのような、自然界のなかの音のようなフレーズが精神の中まで染み込んでくる
そしてそれは、楽譜を見ると主題から導き出されたものであることが多く
その緻密な作曲技法に驚いたりする
そして、マーラーの音楽と違って感情的ではない

感情的と言う要素がキーポイントになっているのかもしれない
そういえばめっきり聴かなくなった音楽にチャイコフスキーがある
彼の音楽も自分には感情的すぎて、途中で気恥ずかしくなってしまう

だからと言って感情のない音楽を聞き続けるのは、それはそれでしんどい
バッハの音楽は緻密な数学的な作りで聴いていて落ち着くが
それでもずっと聴き続けるのは忍耐を要する

とまあ、好き勝手なことを言ってるが、とにかく最近は感情的すぎると思われるものは
パスする傾向にあるということ
でも不思議なのはモーツァルトだ
23番のピアノ協奏曲の第二楽章やK364のヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲の第二楽章は
情緒面々といった感じだが、感情的ではない
それはただただ美しい瞬間で過ぎゆくもの、、としての存在だ

モーツァルト、ブルックナー、そしてベートーヴェン
最近はこの三人をローテーションで聴いている
それにしてもブルックナーは彼もまた不思議な作曲家だ

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靴下

2021年04月28日 09時03分13秒 | 徒然なるままに

「これ、どっちが右かな?」朝、靴下を履きながら聞いてみた
靴下には左右の片側だけにデザインされた刺繍がされている
それがそれぞれ外側になるように履くのが良いのか、それとも内側になるように履くのが良いか
生活のプロの声を聞いてみようとしたのだ

「そんなのは、交互にすれば良いんじゃないの。
 そうすれば平均的に傷むので、足の爪で穴が開くようなことも少なくなるから」

なるほど、たしかにいつも親指のところは穴が開きやすい
始末屋だからいつも塞いでいてくれるが、できることならそのまま長持ちしたほうが良い
そうだな、靴下のこんなとことまでチェックしてる人はいないだろうから
正しい履き方に悩むより長持ちする履き方を選ぶほうが現実的だ

生活のプロは買い物もポイントが多い日を選んでいる
こちらは思いついた日に適当に手短に選ぶだけだが、彼女はポイントの多くつく日とか
買得な曜日とか日付とかクーポン券が使える日が頭に入っていて、その上できっちりメモしてでかけ
現場では慎重に時間をかけて選ぶ
一緒に出かけるとあまりの慎重な選び方に少しイラツキそう
世の男どもが一緒に買い物するのが苦手な気持ちはよく分かる

でも少しでも得しようとする知恵は恐れ入るし、楽しそうだし、結果的にそれがボケ防止になって
彼女にとってはいい事づくめだ
こうした彼女らの地に足がついた生活を見るにつけ、自分(男)は現実的な生活をしていないように思えてしまう

安易にステレオタイプ化してはまずいとは思うが、男と女はやはり少し違う気がする

 

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マッカートニーⅢ

2021年04月27日 08時15分29秒 | Weblog

怖くて買いそびれていたCDをやっと手に入れた

大好きなポール・マッカートニーの最新の作品だ(マッカートニーⅢ)
彼が好きなだけに購入を躊躇していた
それは年月という残酷な現実を見たくなかったからとも言える
声が出なくなる(高い声も声量も)
老化による作曲能力の低下
そうなっても仕方ないとは思うものの、どこかで認めたくない気持ちが勝っていた

だが、好きを自認するなら最後まで付き合うか!
と思い直して手に入れた

そうきたか!
際立って優れた曲があるわけではなかったが、一気に聞き終えた
そしてポール・マッカートニーに謝らなくてはいけないかもしれない
との気持ちを覚えた

声が出ないなら楽器演奏で頑張れば良い
聴き終えた印象はこの一言だ
以前のマッカートニーと名付けらたアルバムのように、彼が(すべての)楽器演奏をしている
本当に音楽に関することなら何でもできるな!
と呆れるくらいだが、前作(エジプトステーション)同様にアルバムはメロディアスというより
リズムを強調した曲づくりが多くなっている
言い換えると楽器演奏が主体の音楽になっているように思える

だがさすがポール・マッカートニー、歌ではなく楽器演奏主体の音楽も
そこには音楽的なアイデアが散りばめられている
対旋律、ベースの動き、お得意のリズム、繰り返しの中のちょっとした変化
それはいつも感じることだが、モーツァルトの曲作りを連想する
アルバムの中にはピンク・フロイドを連想するものや、
ジョンレノンが作りそうな(I want youぽい)曲があってそうした聴き方をしていると退屈しない

彼の音楽はメロディアスと言われるが、それは彼が歌うという前提で出来上がっているように思える
高い声、声量も心もとなくなった今、彼は歌うことよりは楽器の演奏による楽しみに
シフトしたように思える
それはクラシック風に言えば、純音楽にシフトしたと言えるのかもしれない

アルバムは際立ってこれという曲は今のところない(聴き込むと違うかもしれないが)
ヒット曲集といいうよりは、コンセプトアルバムとまでは行かないにしても
全体で楽しむ作りになっているように思える

それにしても、やはり凄いな、、、
タレ目のおちゃめな左利きの天才、、参りました!

※一曲一曲の印象についてはもう少し聴き込んでから

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何故、それらは反映されないか(2つの選挙において)

2021年04月26日 09時36分10秒 | あれこれ考えること

「#だまっとれんなら 投票に行こう」というハッシュタグがツイッター上に現れた
広島の河合案里の参議院補欠選の対しての良識ある方々の必死の訴えだ
この他に「#投票場はこちら」といったハッシュタグも現れた
この選挙はいろんな意味で興味があった

昨日(4/25)その選挙が行われた
結果は政治とカネの問題を声を大にした野党候補が当選を果たした
だが問題は投票率が低かったことだ
その気分を現したツイートにこんなのがある(フリーランスライターの方の投稿)

あんな事件が起きて広島が全国的に注目された。恥ずかしい」  広島のタクシー運転手はそう言った。
選挙における買収は、民主主義を根幹から揺るがすものだ。広島県民として恥ずかしく思う気持ちはよくわかる。
しかし、私はその後に続く言葉を聞いて驚いた。 「じゃけぇ、今回は選挙に行かん」

広島県人ではないのでリアルな当事者の感覚はわからない
だが、それは違うのではないかと分別くさく思う

同日、地元愛知県の名古屋では市長選が行われた
リコール署名の不正が大量にでたあとの選挙で、リコール運動の中心人物だった河村氏に対する逆風は
当然予想されたが、結果は自民党が推した候補を破り当選した
メディアの「不正署名のことは考慮したか?」の問に
「イエス」と答えた人は多かったが、それは結果には反映されていない
(それだけが判断基準では無いだろうが)

この2つの出来事では、名古屋の方はなんとなく想像がつく(独断と偏見で)
この地区は全く自民党が圧倒的に強いわけじゃない
そんななか選挙が行われると「河村さんも嫌だけど、自民党の人も嫌!」
最近の自民党の情けない状況や、政権を運営している党としての責任感の欠如などは
有権者はこんな思いをしたのでないか

結局のところ、消去法で河村さんは選ばれたように思えてしまう
もちろん良い悪いは別にして河村さんは抜群の知名度がある
その知名度の差が勝敗を分けたとする分析もある
だが、こうして広島と名古屋の選挙を眺めると、誰かに頼る代表制民主主義は
とてもデリケートなものだと実感する

広島で消去法でも野党候補に投票したくないとする(自民党支持者)
それ故に投票しないという選択だが、彼らは「自民党を守るためにお灸をすえる」
という選択はしないのだろうか
この事件の反省を踏まえて、次の時期までに気持ちの面でも制度の面でもきちっとさせる
そうしたことが必要とは考えないのだろうか

広範な知識や行動力がなくても、庶民にできることはあると思う
それは政治家や政党を育てるということで、政治家は陳情や請願などのお願いの対象としてだけでなく
最悪の事態を防ぐため(の手段として)多様な意見のぶつかり合いを求める制度としての民主主義を
努力して守ることだと思う

そのためには、自分の投票がどのような影響を与えることになるか、、との想像することだと思う
庶民が意識的にバランスを採るとかお灸を据える、、というのは案外大事なことと思われるが
現実は、その時その時の勝ち負けに振り回されているし、結果的に少数者による支配が進んでいる

上から目線ではなく、実感として「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」とは思う

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事前の情報が無いならば、感じ方はどうだろう?

2021年04月25日 18時58分01秒 | あれこれ考えること

ピカソのヘンテコな絵とかゲルニカを、有名な絵だとか素晴らしい評価の作品
と知らない人が(初めて)見たならば、その人は素直に感動するのだろうか
ゴッホのひまわりが何十億円だったなどとの情報がなかったならば
その絵をじっくり眺めることなどあるのだろうか?

事前にいろんな情報が与えられていないなら、その人の感覚・感性で感じ取るしか無いが
人は一般的に評価されているような感動を覚えるものだろうか

と懐疑的に問題提起をしてみたものの、実はやはり凄いと感じるかもしれないとも思う
それは個人的に不思議な体験を記憶しているからだ
わけのわからない抽象画の大家、ミロの版画を今はない豊橋の西武百貨店で初めて見た時
その小さな画面からとても温かいホッとするような、やさしい雰囲気がやってきたように思われた
そして、自分は「この人好き!」と直感した
受け入れる気持ちがあると彼の先品は無条件に肯定的に見ていける
そしてその後、彼の作品のはがきを購入したりした

ゴッホのひまわりは有名な作品であることは知っていた
だが知っていたのは有名であることだけだ
ミュンヘンのノイエ・ピナコテークでそれを見た時、有名だからしっかり見ようと構えた
その時だ、絵の中の茎がニョロニョロと伸びてきたような幻覚に襲われた
それは気持ち悪いとも言えるもので、今でもその時の感覚は覚えている
そうか、たしかに凄い絵だ!その時感じたのはそのことだった

でも自分が感じたようにみんなが感じるわけじゃない
むしろみんな違っているに違いない
絵よりはもっと簡単に好き嫌いが出けきそうなのが音楽だ
絵のような慣れが無くても、人はその音楽が好きか嫌いかはすぐさま判断する

ここで事前の情報がありなしを考えてみる
個人的に端的に違和感を持つ名曲と評価される曲がある
それはビートルズの「イン・マイ・ライフ」だ
アルバム「ラバーソウル」の中の一曲で、ビートルズの中でも屈指の一曲と評価されている
でも、そうかな、、、
この思いがずっと続いている
名曲だとの評価が人の耳に届いていなかったら、人はあの曲を良い曲と思っただろうか
正直に言えば、個人的にはあの曲は全然印象に残らない一曲に過ぎないので
ついこう考えてしまうのだ

でも自分の評価が一般化できるわけじゃない
それでも人は他人の言葉なり評価に振り回されてしまうのではないか、、
との思いは捨て去ることはできない

つまりは自分の感覚とか考えと言っても、実は他人の意見とか感じ方の受け売りじゃないのか
ということ
その意味で人の行動を左右しそうな報道は、受け取るがわは気をつけないと、、

例のごとく、まとまらない話!

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ジークフリートとパルジファル(キャラクター設定)

2021年04月24日 09時32分12秒 | あれこれ考えること

リヒャルト・ワーグナーが愛したニーベルングの指環の英雄ジークフリートは
ワルキューレの最後の場面で、炎につつまれたブリュンヒルデを救うのは
「神たるわしよりも更に自由な者」としてヴォータンに期待される
この場面ではジークフリートのライトモチーフが奏されるので
それが誰のことかわかるようになっている

ワルキューレに続く楽劇「ジークフリート」では、「恐れを知らない若者」として場する
それは、つまりは子どもという存在としてキャラクター化される
見るもの聞くもの触るものがすべて新鮮なジークフリートは全くの自由の中にいる
何も知らないから彼は何にでも挑戦する
それは若者の特権で、不意に世間を変えるとされる「よそ者、わか者、ばか者」を思い出す

ワーグナーは「恐れを知らない者」「自由な者」だけではもの足りず
最後の楽劇「パルジファル」では「同情を知る聖なる愚かな者」という人物を登場させる
彼はジークフリートのように自由で恐れを知らない
だが、あるきっかけで「人の痛み、苦しみ」を知ることになる
そして、自分のなすべきことを自覚し、務めを果たすことになる
「パルジファル」の音楽はゆったりと流れ、刺激的な響きがなく神聖感に満ちてゆったりと流れ
ヴァーチャル・リアリティのように嘘とわかっていても騙されそうな気分になる

音楽を音楽以外の事柄(ストーリー)で語るのは適切では無いかもしれないが
ワーグナーのこの二人の人物のキャラ設定は暗示的で、自分の中に深く刻まれている

何かを変えるというのは、変えることができるというのは
こうした人物によってのみ可能なのかもしれない
神話として語られるこれらの物語、それは世界を写すプロトタイプのようだ

そこで、現在のこの国を想像してみる
そこには「恐れを知らない人」はいるかも知れないが
「同情を知る人」はいないのではないか、、と悲観的に思えてしまう

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探す時間(仕方ないか)

2021年04月23日 08時43分38秒 | 徒然なるままに

人生の三分の一は眠っていると考えると、なんかのんびりしている気がして
深刻な問題もムキになって考えたり悩まなくても良いのではないかとさえ思えてくる

歳を取ると探しものの時間が多くなると言われるが、最近はまさにその通りで情けなくなったりする
あれ、何処にしまったっけ!
大事なものだから大切にしまっておかなくては!と気をつける、、
ところが、ここまでは覚えているが、肝心なしまった場所が頭に浮かんでこない
それで探す時間の登場となるのだが、なまじっか大事なものだから気をつけねば!
の記憶が残っている分、情けなさとか悔しさが募る

探しものばかりではない、我が家では
昨日の夕飯は何だった?
あそこに行ったのは何日だったっけ?
そんな会話がいつも出てくる

日課の掃除機がけも、あの場所、掃除機かけたっけ?
ルーティンでやっていると無意識なので、終えたかどうかが気にならなくなって
達成感のない記憶だけが残ることになる

ボケかな?
と不安になるが、服用している薬の飲み忘れは今のところそんなに無い
でも徐々にこういう冗談みたいな時間が増えるのだろうな
仕方ない!
すこしばかり情けない忘れてしまうことは、みんないずれ経験するだろう

忘れては困るが、忘れることで良いこともある
それはもしかしたら神様からのプレゼントかもしれないと最近思ったりする

でも、意識的に思いださないようにしていた記憶もある
それがなにかのキッカケで(音楽とか映像など)で痛みを伴って瞬間的に現れる
それは自分が自分だったような時のこと

すべては脳に刻まれた何か、、
忘れること、覚えていること、忘れやすくなっていること、、何かとても不思議

だが現実の生活では、忘れたり探す時間が多いのは、、、やっぱり困る

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外からの力

2021年04月22日 09時42分35秒 | あれこれ考えること

日本のミャンマー大使館に日本にいるミャンマー人のデモが押し寄せている
現地ではなく遠い国で声を上げて意味があるのか?
と考えてしまうかもしれないが、ミャンマーには日本企業が多く進出しているので
そこから間接的に圧力をかけて欲しいようだ

こうした政治的な思いではなく、彼らの止むにやまれる行動がわかる気がする
それはかつて自分も同じように外からの力を借りようとしたからだ
それはぼーっと生きていた自分が、一気に(政治的・社会的に)目覚めることになった事件に関係する

2015年、新城市で住民投票が行われることになった
新庁舎建設計画案が地域の規模にしては豪華に思われたので、身の丈にあったものにしてほしい
との単純な動機で始まった住民投票運動は、紆余曲折があったのち議会提案という形行われることになった
ところが、その選択肢が酷いものだった

選択肢1.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2.市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し

住民投票でこのどちらかを選べ!というのだが、この選択肢はそもそも何をいっているか
大半の市民にはわからない
わかっていたのは議決した議員と首長と市の職員くらいなもの
そこで、この選択肢による住民投票は文言を変えて行うべきと行動を起こした

その時に、外の力を借りようと思ったのだ
市外の知人にこの選択肢を送り、この選択肢が如何にわかりにくくて酷いものかを
外野の声として広がるように期待したのだ
知人にメディア関係の人物もいたので取り上げてもらうように頼んだり
他の地区の噂話でもいいからとにかく何が何でも、その時起きていることは
如何に奇妙なことかをつたえたかった
そして伝えることは選択肢を変える力があるに違いないと思い込んでいた
というより、必死だったのでできることは何でもやったという感じだ

結果は選択肢を変えるまでの流れにはならず、この選択肢で住民投票は行われることになった
ただこの選択肢のわかりにくさは、住民投票の期間(各選択肢の支持集め期間)になって
メディアの注目になって連日のように「おかしな住民投票」としてテレビ・新聞で報道された

メディアが騒ぐなら住民投票が市議会で決まった時に、その時点で騒いでほしかった
(そうすれば、選択肢も変えざるを得なかったのではなかった気もする)

止むにやまれぬ思い、自分のできることは何でもする、、
外からの力を期待するミャンマー人の思い、その切実さを
見て見ぬ振りをするのは、あのときの自分を思い返すと少し辛い

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