パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ルール違反ではないとしても、疑問を覚えること

2024年07月03日 09時16分06秒 | あれこれ考えること

登山には必要な「3とう」と言葉があって
水筒、弁当、懐中電灯がそれらに当たる
これらは登山経験者の経験から知恵となったものだ
その他にもいろんな実践的な知恵があって
それは製品となって便利この上ないものになっている

例えば下着は綿製品だと汗はなかなかひかないので
いつまでも着ていると寒くなることがある
こういうときはゴアテックスの発汗しやすい素材はありがたい

またごつい靴はいざ使ってみると、徐々に脚が上がらなくなってくる時には
石を蹴ってしまうことがあってもつま先は傷めない
その他にも長袖シャツは日焼けしないので、半袖シャツを着た時の
日焼けで火照ってしまうことはなく体にも優しい

つまりは、道具というのはちゃんと合理的なものがあるということだ

山梨県側の富士登山口に入山料として2000円支払うようになった場所がある
だがちゃんと入山料を支払った人の中に、Tシャツ、短パン、サンダル、
おまけにキャリーケースを引きずっているひとを見かけたとニュースでやっていた
確かにお金は支払った証はつけていた
しかし、その格好で登山はどうなのだろう
もちろんその人達が全員頂上に行くとは限らず、少し登ったところで帰って来る可能性はある
しかし、仮に標高の高いところまで行くとしたら、そんな格好では寒くて仕方なかったり
上り下りに不便で仕方ないことになる
そしてそれは想像以上のもので、必ず「甘く見すぎた」と実感する羽目になる

お金を払ったからゲートを開けて通す
それは適切なことなのだろうか
明らかに心配が予想される人々に対し、ルール範囲内だから見逃すというのは
そこにいる立場の人としてどうなのだろう
少なくとも、頂上まで行くのか行かないのか
服装・靴はちゃんと用意する様に、それができないなら無理はしないように
と何らかの制限を課すようなアドバイスは必要なのではないだろうか

こうした一つの目安としてのルールは、時として数字だけが独り歩きしてしてしまう
最近では政治資金収支報告書の金額がそうだ
規定の数字以内なら記述しなくていいのなら、誰もが想像するように
それ以下の金額使用をいくつも作って行けば良いことになる

話は飛んで、地元の産廃中間処理施設では食物残渣を長い時間発酵させて
肥料とするリサイクル事業を行っていたが、この発酵時間の決定というのが
極めて根拠のない怪しいもので、40日間で発酵が終わり水分も飛んで
匂いもなくなると県が認めている
だが、実態は40日ではとてもそんな状態にはならないし、匂いもなくなることはない
でも文書には40日で完成品になるとしている
だから法的にはルールを守って作業していることに苦情は言えなくなっている

ここで更にややこしいのは悪臭防止法と言う法律で、悪臭について文句を言うのは
市の権利としてあって、それについての対策を事業者にものいうことは出来る
しかし、悪性の元となる原因についての施設の不備等については管轄が市ではなく
県となるので、詳しいこととか施設に対する要望は何も言えなくなっている
つまりは、一見安心のための法律というものが、実は抜け道みたいになっている
ということは世の中には少なくないということだ

法律違反ではない、、しかし、正義ではない
そんなことが多すぎはしないだろうか
誰もがもう少し常識的な人間であれば良いのだが(上にあげた登山者も)

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それなりの年齢の人は、それなりの考えをもつのが当たり前

2024年07月02日 09時35分12秒 | あれこれ考えること

それなりの年齢の大人が選挙のことに関心を持つのはごく自然のこと
先日、サッカーののヨーロッパ選手権真っ最中のフランスのエース
エムバペが「サッカーも大事だが、選挙も大事」と発言した記事を見かけた

このことを取り立てて紹介しなければならないこの国の状況は
正直言って情けない状態だ
SNSでの政治的な内容に気分を害しているような人は
SNSから離れる方が良いと諭したメディア関係の人がいたが
この発言は、その人の人間性を疑わせるものだった
(それとも何らかの目的意識があってしたのか)

人間が普通に生きていればいろんな困難に出会う
自己責任によるものもあれば、理解できない出来事によるものもある
そうした時に、それなりの経験をした人はその解決法として
「政治的な方法」があることを知っている

だが政治的な解決法はともすると「多数決」という必殺の言葉で
極めて危なっかしいものになってしまう
多数決は現実的なところ、民意の総意の結果ではなく
多数決の数をカウントできる人たちの都合の良い結果とい考えたほうが良いかもしれない

多数決が一人の判断より「まし」である条件は、判断する人がその案件に対して
客観、公平、中立であることが求められるが、現実の世界はこの前提の確保ができていない
ある時は正当な(?)ロビー活動によって、ある時は表に出ない形の協力によって
民意は反映されない形になる
これはある時、「民主主義は民意を反映しないシステムだ」
と定義した若い学者がいたことを思い浮かべてしまう

時々、西欧式の個人主義の考え方は日本にはあわない!
と口にする人に出会う
簡単に言えば、公共的な価値観に従うべきで自分勝手ではいけない
と言う主張だが、こういう人は少し勘違いしていると思う
西欧の個人が大事とする考え方は、自分自身としての個人生活が大事なように
他の人の個人生活も大事と考えていること
つまりは他人の個人を自分と同じように認めるという言うことで
その違いから生まれるものは徹底的な討論等で解決できると言う考え方だ

ちょいと面倒くさい考え方だが、これらは長い時間をかけて育ててきたものだ
その基本的な思考方法を理解せずに、個人主義の言葉でバッサリと
決めつけてしまうのは、自分にはずっと違和感を覚えるものだった

普通の大人が当たり前のように感じる思い、こうした方が良いとか
こうであって欲しい、、という思いが、政治的な意味合いを持つ時
それを表に出すことがこの国は何故こんなに息苦しいものとなってしまうのだろう
(テレビでは暗黙の約束事があるように思えてしまう)

その意味でがっかりした人物は為末大、糸井重里、眞鍋かをり、太田光で
それに逆らったカンニング竹山とか勝俣州和などはちょいうと見直した

とにかく今度の都知事選はプロパガンダによる支配が
進行している可能性を感じさせるものということ



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彼は幸せだったのだろうか?

2024年07月01日 15時27分10秒 | 子どもたちのこと

「〇〇さん、今までありがとうございました
 (ブラジルにルーツを持つ)Lくんは先週が最後で、引っ越しました」
小学校の校門で待っていた校長先生が挨拶がてら声をかけてきた

その10分ほど前では、彼の家のベルを鳴らして
「Lくん、行きますよ!」と呼びかけたが
どこか生活感のない雰囲気だったのがそれでわかった

「岡崎の方に引っ越すそうです」
なんだか拍子抜けした気分になった
なかなか上達しない日本語に心配が募ることが多かったが
それでも、こちらの言う事はわかっている雰囲気はあった

彼はこの10ヶ月間、幸せだったのだろうか?
不意にそんなことを考えた
異国、慣れない環境、話せない日本語、彼は何を感じていたのだろう

だが「先週が最後で、最後の2日間は泣いていたようです」
この話を聞いて、少しホッとした
彼はみんなと別れるのが辛かったのだ、、と
そして彼がここにいた10ヶ月間
時には校門でグータッチして送り出した日々は
彼にとっては辛い日々ではなかったのだと思えると
どこか救われたような気もした

彼との一番最後の会話は先週の木曜日
「L くん、背が高いね、クラスで一番大きい?」
と聞いたことだった
「うん」と答えて、もう少し何か言いかけたが口ごもって聞き取れなかった

もう少し記憶に残ることをしておけば良かった
と思うが、人生っていつもそんなものだ

そんなことを思い出しながらPCに向かっていると下の方で声がした
「おじさん、ただいま!」
小学生5年の男の子Hくんが大きな声で家に向かって叫んでいる
そこで窓を開けて「おかえり」と応える
今日は妹のIちゃんもお兄ちゃんに誘われて「ただいま」と叫んでいる
彼女は2階にいるのを見上げて、もう一度「ただいま!」と言う

「あれ、どこ?」
Hくんは声はすれども姿は見えず状態だったようだったので
もう一度「おかえり」と言うと、
やっと2階の窓から顔を出している自分を確認した
ここ最近、Hくんの下校時はいつも家に向かって(車があって在宅を確認して)
「ただいま、、」と大きな声で挨拶をしてくれる

こうしたちょっとした毎日のこと
そうした喜びがLくんの10ヶ月の生活の中にもあったのだろうか
無理矢理にでもそう思いたい気がした

 

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