パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

セミと風鈴(久々のメルヘン創作)

2014年07月30日 15時31分21秒 | 創作したもの
最初の1行は決まっていた
しかし、そこから先にはなかなか進まなかった
そんなことが続いて数年
とりあえず最後まで行くことに意味があると思い直して
重い腰を上げて書き終えたメルヘン「セミと風鈴」

「100万回生きた猫」と同じテーマとなるはずだった
しかし、書き始めると少しずつストーリーは変わっていった
あまり説教臭くなるのは避けたいと思ったせいか
そして説明的な部分を省いたせいか
ぼんやりした印象でしかない
テーマが何だったのかさえ不明確
しかし、今のところはこのままで
いつか変更するかもしれない

ただこれを書いているときは
なかなか楽しい時間だった
先に行き詰まって困ったこともあったが
あれこれ考えるのは頭の良い訓練に生る

さて本日仕上げた「メルヘン セミと風鈴」



セミは少し悔しかった
今も小さな女の子のつぶきが耳に残っている
「涼しそうな風鈴の音。とても気持ちがいいわ。でもセミたちはなんて賑やかでうるさいこと、どうしてあんなに必死に泣き続けているのかしら?」

その林道の中腹には小さな古びた休憩所があった。旅人は疲れた体を休め、眠りについたり、時には食事をしたが、その軒先に風鈴が吊るしてあった。
風鈴は日が傾き始めた頃、チリンチリンとなった。
「ほう、いい音だ。」
年老いた旅人がつぶやく。
セミはそのつぶやきを耳にした。
セミは「羨ましいなあ。自分の鳴き声があのように褒められるようになりたいものだ」
最初は何気なく思っただけだった。が、そのうちに褒めてもらえる鳴き方をすることがとても大事な、
もしかしたら生きているうちで一番大切なことではないかとも思うようになった。そして、そのためにはどんな努力もいとわないと考えるようになった。
それからは前にもまして、体全体を震わして大きなで声で鳴くのだった。

朝から晩までセミは鳴き続けた。
近くの木に止まったセミが助言した。「そんなずっと必死に鳴いてばかりじゃ命がもたないよ!」
セミは頷いたが、全力で鳴くことをやめることはしなかった。
美しく鳴く、ただひたすらそれを求めて。

来る日も来る日もセミは鳴き続けた。
セミの一生と言う時間をはるかに超えて鳴き続けた。親切に助言したセミは少し前に木からポトリと音を立てて落ちて今はその亡骸を蟻たちが運ぼうとしている。

しかし、そのセミは相変わらず朝から晩まで泣き続けるのだった。ところが林道の休憩所から聞こえる声は風鈴の涼やかな音を褒める言葉ばかり、蝉の声については何の言葉を発せられなかった。

鳴き方がまずいのか?音が大きすぎるのか?音の高さを工夫することはできるのだろうか?セミは考えついた全てのことを試みた。しかし、やはり旅人にはただ騒がしいセミの鳴き声にしか聞こえなかった。いやそんなことすら感じてもらえなかったのかもしれない。

そんなある日の午後、遠くに見えた雲が急に黒っぽく変わり、あたり一面が暗くなった。冷たい風も吹き始めた。突然、激しい雨が降り始めた。雷もなり始めて、はじめは遠く聞こえたのが徐々に近づいて来ている。旅人は先を争って家に飛び込んだ。ピカっと光った瞬間、ガシャーン!と大きな音。近くに雷が落ちたようだ。「クワバラ、クワバラ!」旅人は口々に呪文を唱える。
軒先に吊るされた風鈴は強い風にさらされて右に左に大きく揺れている。間髪おかず金属音を鳴らし続ける。チリ、チリ、チリリーン。チリ、チリ、チリリーン。「うるさいな!」旅人の中の一人がつぶやいた。とその瞬間、風鈴を吊るしていた紐が切れた。風鈴が落ちたところは少しばかり坂になっていた。おまけに風に押されて風鈴はころころと転がっていった。豪雨と雷の中、誰も風鈴を取りに行こうとはしない。コロコロ、コロコロ、風鈴はしばらくすると見えないところまで転がっていき、ようやく草むらに入って止まった。
風鈴はそこで人々の記憶の中から消えてしまった。かつて休憩所にあったことも、その涼やかな音も。


雨が上がった。
ホッとしたような雰囲気が漂い、旅人たちは各々それぞれの方向に歩き始めた。

しばらくして雨を避けていたセミは休憩所が見えて、人々の会話が聞こえるいつものところまで戻っていつもと同じように鳴き始めた。
以前と同じように来る日も来る日も。

しかし何かが前とは違っていた。風鈴を褒める声が聞こえない。セミの目にも風鈴は見えなかった。
セミは少し寂しかった。
やがて多くのセミが生まれ死んでいく季節も終わりを告げようとしていた。
ずっと鳴き続けてきたセミもとうとう声が小さくなってきた。チチチ、チチ、懸命に鳴こうとしてももう体がいうことをきかなくなっている。「あと少し、、、」意識が遠くなりそうな瞬間、「あっ、セミの声。すごい今まで鳴いていたんだ。頑張ったね」小さな女の子の声が耳に入った。その声をセミは木から落ちながら聞いたような気がした。


これで少し勢いがついたかもしれない
ずっと頭に引掛っていたネタでもう少し創作してみようかな
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大逆転負けに思う

2014年07月28日 15時21分31秒 | あれこれ考えること
石川県の星稜高校が小松大谷高校から9回に
0-8から9点を奪って逆転で甲子園行きを決めたと
ニュースで報じられていた

諦めないことが大事
まるでドラマのような展開に勝った方のチームに
メディアは早速飛びつく

しかし、勝負事は相手がないと成立しない
自分はフト逆転負けを食らった小松大谷高校のことを少し考えた

9回で8点差
普通ならこれで終わるはず
最悪何点か取られても逆転までは遠い
これで勝利は自分らの手にあるはず
こんな風に思うのは思い上がりでもなんでもない
普通の発想
しかし時に普通の発想を超えた事件が起きる
あれよあれよと言う流れ
小松大谷高校の選手、監督はあの時どんな気分だったのだろう

今にして思えば
と振り返ることができるかもしれない
そして今から同じ状況で9回から再開したら
多分あんなことは起きないと思う

つまりあれはどうしようもない運命のようなもの
しかし負けるには理由があると言われる
反省すべき理由はなにか?

その試合を見ていないのでなんとも言えないが
(野球全般を見ないが)
サッカーでも難しいのは流れを切ること、変えること
あの時点で一体あのチームに何が起こっていたか

実力不足
結果からすればその一言
しかし、それだけで済ますにはこの教訓は痛すぎる

あの時間の中、選手、監督の頭の中で起こっていた事件は
おそらく一生ついてまわる

この大逆転劇のニュースは忘れられても
逆転負けを食らった方は一生忘れられない

問題はこれが人にとって不幸か
というと必ずしもそうではないかもしれない
ということ
これだけ派手な結果を体験する人は多分何をやっても
派手な山あり谷ありの人生を送るタイプ
その時に役立ちそうなのはこの時の経験

パニックになると良い結果を導くことができない
そのことをいやというほど経験したものは
世の中にはどんなことでも起こりうる
という貴重な経験と、その対処法、心構えができるようになると思うのだが
果たして、、、
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老化

2014年07月28日 10時11分26秒 | 徒然なるままに
社会との関係が希薄になりつつあって
少しばかりボケのスピードが早まるのではないか
と心配の最近

自分との付き合いは長いので一向に進歩しない自分が
生物学上ではそれなりの年齢で存在している事実に驚く

しかし、間違いなく老化は進んでいる
まず第一に目が駄目になった
老眼
小さな文字が読めない
CDのライナーノーツなど字が小さすぎて全然読む気にならない
新聞のクロスワードクイズもヒントの字が小さすぎて読めないし
最近まじめに取り組もうとしているドイツ語も辞書の字が読めない

その次は歯がダメになってきている
最近冷たいものhがしみるようになって歯医者に出かけると
歯槽膿漏
虫歯も少しはあるようだが冷たいものがしみるのは歯槽膿漏が原因
もっとも歯槽膿漏は加齢が原因ではなく
単に不精だったせいもしれないがやはり年月をかけて不精だった意味では
加齢が原因

次は食欲
よく言われるように脂っこいものが食べられなくなった
そもそもまずそういったものを食べたいという気が起きない
そして食べる量も減っている
以前、ラーメンとチャーハン、唐揚げがついたランチを平らげていたことが
まるで嘘のように思える

お酒もてっきり弱くなった
以前から強い方ではなかったが最近は35mlの缶ビールですら
全部を飲むと暫くのあいだ心臓がバクバクする
お酒は?
の問に、養命酒です
と答えて笑いを取っているが正直実際そんなところだ

それから睡眠
朝まで爆睡なんてことは最近記憶に無い
ほとんど夜中に1回目を覚ます
何かをするのではなく、別にトイレに行きたいわけでもない
しかし手持ちぶたさなので目覚めたついでにトイレに行くのが習慣化している

それから記憶力
これは確かに怪しい 
本を読んでいても途中一旦間を空けるようなことがあると
再開してもさてどんな内容だったかが怪しい
これはミステリーを読むには最悪
特に外国ものは名前が同じ人物でもいろんな呼び方で記されるので
誰が誰だったか混乱してしまう
だからといって元に戻るのはいまいましいので
そのまま読み続けるが、そのせいで最後のページまでいったとしても
果たしてて読み終わったといえるのか

感受性 驚き
これらも明らかに鈍くなっている
妙な知恵がついたせいで新しく体験するような事柄も
知らず知らず過去の経験に照らしあわせて
その中で理解しようとしたりする
これはこのパターンだろうとか、、、

それだけではない、やはり瞬発力にかける
一番のショックだったのは昨年のドイツ旅行のミュンヘンで
ノイエ・ピナコテークでゴッホのひまわりを見た時のこと
20代の自分はこの絵に衝撃を受けた
画面の中の花、茎が四方八方ににょきにょきと伸びるような生命力
迫力を感じて凄いというよりなにか気持ちが悪かったのが
昨年はなんてことはない目の前の絵画そのものでしか無いように思えてしまった
(もっともまじめに見なかったのがいけなかったかもしれないが)

この例のように感じ方は明らかに鈍くなっている
しかしその反対に感じやすくなっているものがある
人の悲しい感情に関すること つまり涙腺がめちゃくちゃ緩くなっている
テレビ画面で悲しそうな表情を見るだけでもうウルウルしそうになることがある

悲しいに決まっている画面はとても敢えて見る気はしない

ドラマでも分かっていても泣けそうになる場合もある
しかし、あまりにも陳腐だとまたへそ曲がりの気持ちが勝って
しらけたり批判しようとしたりする

それから当たり前といえば当たり前だが年齢を重ねたせいで
合う人会う人が自分より若い人たちになっている
現在の日本の人口構成や現在の自分の年齢を考えれば
別に驚くことではないが、それでもフトそんなことを思うと
やはり不思議な感覚を感じざるを得ない

自分が歳を取ると幼いもの、若いものがとても愛おしく思える
小さな赤ちゃん、新緑、無条件に愛おしくなる

しかし最近気づいた事柄は高校生のこと
男の子も女の子も同じなんだがそれを思ったのは昨日のこと
新城軽トラ市のイベントに高校生の吹奏楽の女子のメンバーが
イベント会場に集まっていた
暑いのにご苦労様と思うより先に瞬間に頭に浮かんだのは
「高校生ってこんなに子供っぽかったか?」
ということ、まるで中学生みたいに見えたりする
(中学生は小学生に見えたりする?)

自分はどんどん年取っていくが高校生はいつの時代も
15歳から17歳
その年齢差はどんどん離れていく
そのせいでこんな風に思うようになるのか

そして気力と根気
これもダメだな
それこそ習慣化しないといろんなことが面倒でたまらない

男はダメだな
女性のように毎日をきちんと生活することが苦手

まずは毎日の生活をちゃんとしなければ
というのが今日の反省
しかし老化は、、、、、
仕方ないか

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教えられて身につけたものと体験して身につけたもの

2014年07月27日 08時26分24秒 | あれこれ考えること
正直すぎる
言われたことを実行しているだけで対応力がない

これは先のワールドカップで指摘された日本の弱点
もっともこれ以前にも同じことは言われ続けてきた
確かに感じるのは個々の選手のひ弱さと発想力のなさ

しかし、これを考えると結構いまの日本の社会の縮図的な面も
浮き上がってくる

それはなにか

日本は促成栽培の国
答えが先に進むものが指し示してくれることが可能な場合は
必死になってその答えを追い求めようとする
効率的に、コストを掛けず

サッカーでも前々回の優勝国スペインのパスサッカー
ポゼッション・サッカーをお手本に
スペインがその戦術に至った歴史や体験を無視して
最新の良きものとして取り入れようとした

一見無駄のないようなこの考え方自身が実は大きな間違いではないのか

話は飛ぶが、ある時何かの裁判の話になった時
誰かが日本ではその命令を下した人が罪を問われることが多いが
欧米ではそれを実行した人が罪に問われる事が多い
なぜなら個人として判断力を持っていたはずだから
言われたことをそのまま行うということは考えにくい、、、

つまり、欧米は自分の考えを自分で持ち
その行動には自分自身が責任を持つことが
当たり前のようになっている

しかし日本はどうも本質的なことを考えたり
自分なりに考えることは得意でないというか、避けられているかのようだ

結局、自分は何をすればいいのか
この単純化作業意識は結構仕事の場面でも見られる
仕事全体の流れから自分のすべき事を判断するより
とにかく自分の役割部分だけを頭に入れ、余分なことを覚えたり考えたりするのは
無駄なこととしてひたすら自分の責任の範囲内だけで完璧に仕事をしようとする

時に前後関係を気にする人物が出てきて
後先の事も配慮して行うように!
と訓示を垂れるが、それは精神論に終始することが多い

もっとも仕事に限ればもしかしたら外国もそんなものかもしれない

さて話はサッカーに戻って、問題なのは
いつまでたっても日本はいいとこ取りの癖が抜けないということ
ひ弱な面も、応用力のなさ  これらが問題視されるようになるのは
育成時代に余りにも教えられすぎているからではないか
と思う

フィジカルの弱い日本人はコンタクトを避けるべくパスサッカーを目指す
練習も当たりに来る前にパスをしたりパスコースをつくる練習をしたりする
しかし、サッカーは相手があってのこと
日本人同士ならあたりに行っても交わされるから強めにプレスには行かないことが多くても
めったに闘うことのない国はまずは早いプレスにいく
その時緩いプレスに慣れている日本人は果たして正確なプレーが出来るか
また外国人が相手だと日本人なら通るパスが脚が長かったり
瞬発力が凄いために通らないことがある
またボール奪取に関しても相手の選手のリーチが長いために
日本人の時と比べてなかなかうまく奪えない

外国人がボールキープに優れているのは多分
単にフィジカルの問題だけではない
彼らは身にしみてボールを取られないボールの持ち方、体の使い方を知っている
そしてそれは個々の選手の体格、筋肉の質などからそれぞれ違ったものになる

これらは体験を通じて身につけたもの
工夫、知恵、そういったものと言えるかもしれない

しかし日本はこの体験から身につける知恵や工夫が余りにも
少ないのではないか

こう来たらこうして対応する
日本は緊急時にはマニュアルで応対しようとする
しかし、マニュアル以上の何かが来たらどうしようもない

結局は個々のポテンシャルを上げていかなる状況下でも
普通にプレーできる技術、知恵、工夫が必要ということ

育成時代ごく幼いうちは相手がボールを持っていると
どうしてもボールを取りに行きたくなる
すると交わされてかえって相手に楽になるから
指導者は無闇に飛び込むな
と教える

しかしこの無闇に飛び込むな!
と言う助言はもう少し後でもいいのかもしれない
と思ったりする

つまり飛び込んで交わされた子は何度も同じ経験をするうちに
徐々に体が慣れていってボールを取る瞬間を発見できるようになったりする
また言われなくても飛び込まないほうが良さそうだと実感するようになる

こうした個々の選手の歴史の中で技術や知恵、工夫は身についていくものだが
どうしても日本は教えられると言う傾向が強い

とここまで不満をタラタラ書いたところで
これが今後大きく変わるとは思えない

ただ今回のワールドカップの結果を踏まえると
問題は育成時代から何とかしなきゃと思ったのは自分だけではないと思う

良い指導者
勝つためだけでなく、真にレベルを上げるための問題意識を持った指導者
そういう人たちが多くならないと日本はまだまだ上には行けない気がする

なんでも急に良くなるなんてことは無理なのだ

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欲望

2014年07月26日 11時09分35秒 | あれこれ考えること
その立場になってみないとわからないことがある
理屈の上では、また他人の立場からみれば
何故そんなことをしたり、そんな判断を下したのか
不思議な事柄が実際に自分がその環境下におかれると
やはり同じようなことをしてしまう
というのはよくある話

お金は寂しがり屋
と言われる
お金持ちでない自分は、お金持ちの人の気持が
わかるとは言いがたい

お金がない分(不自由しているわけではないが)
お金に振り回されているわけでもない
(そこが生活力にかける的な印象があるかもしれない)

お金持ちのように一旦お金が手もとに多く入ってしまうと
一体どんなメンタリティーになるのか
自販機を使えるようになったチンパンジーのアイちゃんですら
お釣りを貯めることを覚え、貯めることに意味を見つけ出した(?)
みたいなニュースを聞いたことがあった

また、人間は得したことより存した記憶・印象のほうが
精神に及ぼす影響は多くうと言われる

ここから容易に想像できるように
お金持ちは損することが嫌い
そして多分、もっともっとお金が欲しくなってしまう

これは心理学的な現象だが
資本論に関する本をつらつら眺めると
資本に関する事柄はどうも単純に経済学的な要素だけでは
判断できないようだ

たしかに歴史の精緻な分析などから
資本の増殖的なことは理屈の上でも説明される
しかしどうしようもない欲をもつ人間という存在は
どうも表面上の調和の世界を作りきれない生き物のようだ
だからこそ、理想の人間像というものが存在するのだが

人間の欲は変化(進歩)のきっかけとなるので
一概に悪者扱いはできないかもしれないが
今の時代のように余りにも平気でその欲の存在を肯定され
表面上は別の胡散臭い言葉で飾られきっている社会を
冷静に振り返るとやっぱりどこか人間ははじけてしまっている
気がしてならない

ノアの方舟、バベルの塔
あの宗教上の話ではなく、人間の傲慢さがなにかとてつもなく恐ろしい物を
おびき寄せているように思えるのは自分だけの杞憂で終わればいいのだが
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暑かった!

2014年07月25日 20時02分21秒 | 徒然なるままに
名古屋で38.2度
多治見は39.3度
本当に暑かった

朝の散歩の時点でも地表の熱が残っていて
いつもの爽やかさを感じなかったので
今日はとんでもない暑さになるぞ
と覚悟はしていたが、、、

暑かった

子供の頃、こんなに暑かったのか
と振り返ってみても
そんなに暑かった記憶はない

確かに暑かったが
夏だからの一言で済む範囲内

ついでに思い出したのが
夏休み中は9時だったか10時以前から
友達同士では遊んでいけない
と言うルール

朝の涼しいうちにお勉強を片付けなさい
と親切な(?)心配り
しかし子供の頃は集中力がない
果たして何時間も勉強に費やすことができたか
大いに疑問
多分せいぜい1時間位の集中だった

それにしても、今日はこのままでは夜も気温が下がらず
熱帯夜となることだろう

夏は何をしなくても体内エアコンを稼働させて
それだけで疲れてしまう

ビールを飲む気は尿管結石以来全然しない
寝苦しそうな夜
困ったものだ
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サボりすぎたので、久しぶりの投稿

2014年07月22日 20時43分58秒 | あれこれ考えること
実は自分が一番わからない
毎日鏡を見て老けた顔になってきたのは認めても
考えることがそんなに大したことではないことを
知っている

人はどんな風に自分を見ているか?
そんなことは今更気にすることも少なくなった
開き直りではないが、いろんな見方をする人がいて
自分の思うようには見てくれないことを
いやというほど経験した

そして若くない自分は、やはり若い時のように
迷う毎日を過ごしているのも
ある意味自分らしい

この歳の仲間もやはり迷うのだろうか
なぜか、そんなことはないと決めつけている

でもやはりみんな悩んだり迷っていることだろうな
そう考えるほうが妥当かもしれない

しかし一体何を悩んだり落ち込んだり考えているのか?

多分社会との関わり合い方
仕事というものから少し自由になった分
社会からの関係が薄くなってきたようだ

若い時は自分が社会とどのような関係があるのか
自分の存在は意味あるものか
自分などいてもいなくても関係なく社会は動いていく
そんなことに不安や焦燥感を覚えたものだが
今はそれとは違う社会との関係の薄さに不安を感じる

男は定年まで仕事
と言うパターンが多く女性ほど近所や地域の付き合いがない
つまり交際範囲が少ないし、男の価値は単に仕事上のことだけ
ということになるかもしれない

しかし、とりあえず今生きていると言う事実
父よりも10年も長生きしている事実
そして相変わらずどうでもいいことを考え続けている現実は
それなりの意味を持っているのかもしれない

人生で経済上の成功をしたいとは思わなかった
自分には欲が希薄過ぎたのかもしれない

今からどうなるものでもあるまい
永遠にあれこれ迷う、それでいい
迷わないのは面白く無い
迷う事こそ自分のような気さえする
なんて適当に思ったりした

浮浪雲のようになるがまま
それが一番なのかもしれない

真面目なだけでは世の中はアカン
バカバカしいこと、ユーモアが必要
つくづくそう思う
といってもそれを説明するのはなかなか難しい

多分いろいろ経験した人が感じることなのだろう

ところで、今日は一体何を表現したいのだろう?


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尿路結石

2014年07月19日 10時27分51秒 | 徒然なるままに
「やっぱり見立て通り、尿路結石ですね
ほらここに!他にもたくさんありますねえ
今までの不摂生がたたってこんなことになるのですよ
お酒、脂っぽいものの摂取は控えるようにしなければ」

若い医者は画面を拡大したり元の大きさにしたりして
冷静な口調で話す

しかし、画面に映るまだ腎臓から落ちてこない数個の
結石が気になる
ましてその内の一つはデカイ
これらが落ちてきたら、またもや先ほどのような
苦しみを味わうことになるのか、、、

昨日の早朝 3時半位の事
普通に目覚めてトイレに行ったあと
なんだかお腹の右側が重い感じの違和感
そのうち治ると思ったがその重苦しさは徐々に増して
体の右側を下にして寝ないとなにか苦しい

盲腸かな?
朝まで我慢できるかな?
(医者が始まる時間まで)
しかし、キリキリとは痛まないが
重苦しい痛みは脂汗を引き起こす

数分そのままでいたが
とうとう我慢できなくなって
市内の夜間診療へ連絡をとった

しかし診療だけで治療はなさそうな雰囲気
おまけに8時半から先生が来るとか

とても8時半までもたない
こんな苦しさをあと3時間以上も我慢しなければならないのか

それで、救急車を呼ぶことになった
症状は、今は痛みが移動していますか
何時頃からですか
どんな痛みですか
お酒は飲みますか

いろんな質問が続く
右を下にして横たわるとなんだか我慢できそうな気がした
それで一旦は自分でタクシーを呼んで市民病院に
向かおうとしたが、その刹那、吐き気を催して
胃液を数回もどす

ダメですね
結局、救急車で早めに対応してくれることになった
市民病院へ

エコー、レントゲン、血液検査、心電図、血圧
ひと通りの検査が終わって
「尿路結石、私の見立てでは!多分間違いないでしょう」

その後で痛み止めの座薬をお尻から注入
効き始めるまで30分位かかる場合があります
その30分の長いこと

45分くらいしてなんとなく痛みを感じなくなった
ただお腹が重い感じは続いている

泌尿器科で再度診察を受けることになったが
その窓口全面に掲示されている病状の紹介欄は
ほとんどが尿路結石に関すること

まるで当たり前のよくある事柄のよう
こんなに多くの人が経験することなのか
と今更ながら感じた次第

それにしても、二度と経験したくない苦痛だった

まずはダイエット
真剣に取り組まないと
また同じようなことになってしまう
これは避けたいと真から思う

ベジタリアンと少食
これから始めるか
お酒は幸いあまり飲んでないので
禁酒は苦にならない

とにかく痩せなければ、、
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夏の京都(駅周辺を廻って)

2014年07月13日 19時51分04秒 | 旅・旅行
前回が正月の2日
約半年の間隔を空けて久々の京都

今回は妹から運賃を安くあげる方法を聞いて
大幅に節約が可能になった

つまりJR東海ツアーズを利用すると言うもの
日帰りの京都往復なら豊橋、京都往復が11900円
それにキヨスクでの1000円分のクーポン券がついてくる

ただし切符は当日は買えない
そこで今回は前日に豊橋駅まで出かけて購入
この日の東新町~豊橋の飯田線往復の820円を
計算してもまだまだ安い

普通に東新町~京都往復を買えば15540円
JR東海ツアーズを使った場合
豊橋~京都往復が11900円
東新町~豊橋往復が820円 これが当日と前日で1640円

つまりツアーズを使った場合
11900円+1640円=13540円

当日購入の場合は15540円だから
15540円-13540円=2000円
2000円だけ安くなるというもの
これに1000円分のクーポンがつくから
もっと得になる

これからはこの方法を利用しようと思うが
思いつきで行けないのが少し残念

さて今回は京都駅に近い場所を回ることにした
西本願寺

何故、ここに来ようと思ったのかは
ここが幕末に新選組の駐屯所にもなったから
近くの島原の角屋はまだ公開されていない(来週かららしい)

西本願寺は禅宗のような緊張感にあふれる寺というより
来る者拒まずのような雰囲気を感じる

国宝の唐門

長岡京からきた男性からこの門の詳しい話を聴くことができた

しかし飛雲閣は予約制で見ることはできず
模型で我慢


ほぼ40分ほど滞在して、昼ごはんを食べて次の渉成園へ向かった
適当に町中を歩くと色々面白いものが目に入る
どこかの小学校の二宮金次郎の銅像  (今どき珍しい!)


町家風の家に折りたたみ式のベンチ

なかなか現実的で良いアイデア

そうこうするうちに渉成園
入口近くの石組み

てんでバラバラの形が混じっているがそれが面白い

園内は京都の真ん中というのに緑にあふれて落ち着いた雰囲気
写真の真ん中に京都タワーが見える
借景ではないが無い方が良いかあったほうが良いかは難しい問題


ここで体内に水分を補給して
次は智積院
バスで何度か素通りする度に気になっていたが
やっと訪問

長谷川等伯の作品が宝物殿に展示
襖絵と言っても随分大きなもの
松の幹の太いこと、それが長谷川等伯のメインテーマみたいに
いろいろな絵で使われている(?)
しかし気になったのは等伯の息子の桜の絵のほう
何故かボッティチェリのプリマヴェーラを思い出してしまった
春の雰囲気、ムンムンするようなそんな感じが絵全体からにじみ出て
これが一番好きかな

利休好みの庭もある

さすがにあちこち歩いて疲れたのでしばらくぼんやりと時間を潰す
汗も引いて、静寂に慣れて落ち着いた気分になったところで
次は祇園祭の八坂神社へ

特に何かを見ようとしたのではなかったが
この時期に京都に来て見逃すのも口惜しいので
とりあえず寄ってみた
神輿が鎮座 神輿の豪華なこと
田舎の神輿とは随分違う


しかし、やっぱり歳のせいか体力が落ちているので
もういい加減な見方になってしまった
直ぐにバス停、地下鉄までとふらふら歩いていると
珍しい看板が目に入った

浪花千栄子さんのオロナインの広告

旅は目的地へ無駄のない道筋よりは
あっちへふらふら、こっちへフラフラのほうが
いろんな発見があって面白い

ついでに実感として地図上の地名と位置関係、距離感を
把握することができる

さて次は秋の紅葉狩りの頃か
それとも気まぐれにお能の公演でも見に来るか



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春を背負って

2014年07月11日 11時46分16秒 | 徒然なるままに
大画面に映し出される山の風景が見たくて出かけた
蒼井優ちゃんを見にいったのではない

毎年お盆には登っていた北アルプス
それをしなくなって20数年
予告編であのようなシーンを見せられると
ついつい出かけてしまう

ところが、この映画、正直なところガッカリ
山の風景はいい
しかし話の部分、脚本(原作?)が弱い

松山ケンイチが食堂のサービスで盆をひっくり返し
素人丸出しのシーンはあまりにも不自然で
馬鹿馬鹿しくて情けなくなった
こんな事を許している制作関係者ばかりなのか

ラストシーンの松山ケンイチと蒼井優のシーンも
まるでありきたり
信じられないくらい陳腐

それから文句を言えばきりがない
これはこの映画だけではなく日本の映画などに
よく見られる傾向だけれど
なにか悟ったような人物が登場して
主人公の成長を促すような台詞と行動

これにはいつも抵抗感を感じてしまう
ひとは皆完全ではない
その時の気分にも左右される
間違いもする現在形の人間ばかりが人間社会であって
もし主人公の成長を促すなら
その人物の不完全さももっと表に出すべき
でないとリアリティーが無くなってしまう

そう言えばこの映画の監督は「剣岳 点の記憶」も
メガホンをとっているとか

あの時も感じたが
山登りをしている割には
汗や少し余裕の無い呼吸などは全然見られない
服はいつも乾いたまま
歩き方も「やまや」の歩き方とは違う

つまりリアリティーが全然ない

もっともリアリティなど求めてはおらず
単にきれいな山の風景を映した映画というのが制作の目的ならば、
その意図を見間違ったこちらが悪いだけの事なのだが、、、

それにしても、ちょっとひどかったな
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