昨晩、新城市文化会館の301号室で
問題になっている給食の共同調理場の説明会が
教育長、学校教育課のメンバー出席で行われた
市議会では、行政は共同調理場の決定過程とか、様々なトラブル
心配される物事の説明を丁寧に市民に対して行うように!
とする議案が可決されていたが、今まで行われていなかったので
しびれを切らした市民の一部が説明会の開催を計画したのだった
100名が入る会議室だったが、来場者はキャパの半分くらいで
よく見かける顔が揃った
告知は知り合いがチラシを手渡す形で行われたので広がりはなかった
多く知ってもらうには新聞折込が現実的だが費用の面
折込可能かどうかなどの問題でそれは実現されなかった
確かに今回の共同調理場にいたる経過には問題が多かった
共同調理場の予定地が市の所有している場所と思いこんでいたが
実は一部県の所有する土地が含まれていて、計画が頓挫したのだった
(なぜそんなバカバカしい失敗が起きてしまったのか?)
給食は各校でそれぞれ作る自校式が、子どものためにも良いと考える人が
少なからずいて、給食室の老朽化、アレルギー対策、調理人の人手不足、
食材の調達の不安等の解決のため共同調理場建設を選択した市の方針には
不満をもっていたし、その決定が知らないところで行われていたようなところも
気に入らなかった
最初の30分間は決定過程などと、予め市側に手渡された質問に
答える形で説明がなされた
会場にはいろんな人が来ていたが、その人達の現状把握はかなり差がある
それぞれが自分が理解している範囲内での良し悪しを語る
それらは、少しばかり正確でないことも少なくない
(食材の調達方法とか献立は市が行うということ
運搬車は委託業者が自前で揃えるということなどを知らない人が多かった)
共同調理場の建設は大まかに言えば、現状の自校式が今後継続できなくなる
との想定で解決策を講じたものだ
それは現場を一番良く知っている校長という人々が
校長会という会議を経て市に要望したらしい
この校長会の希望(共同調理場)をすんなり受け入れるか
やるべきことをしていないで安易に進めている
と考える人が出てくるのは仕方ないことだ
ただ自分としては現場の声として、それがでてきたのはわからないではない
(近くの小学校の教頭先生も、、もう無理かな、との声を聞いたからだ)
こうして市の説明のあと疑問点の質問となったのだが
やはりというか仕方ないとも思うが
手を上げて質問に登場した人の多くは質問なのか
それとも思いの丈(あるいは怒り)を述べているのかが
わからないようなものになった
(給食の話から違う方面に話が飛んで、話が長くなって
話のポイントが何だったのかがわからなくなった)
こういう話の進め方は難しい
話が逸れないようにするために事前説明を過度に行うと
人はその範囲内での思考しかできなくなるので
説明に沿った意見にとどまりがちだ
つくづく会議の進め方とか会議の機能というものは
慣れていない人には難しいと感じるのだった
会場では「民主主義」という言葉が何回となく出てきた
ただここで出てきた民主主義は「直接民主主義」の色合いが濃いもので
市民の声を反映するのが正しい民主主義と思い込んでいるようだ
だから共同調理場の可否も市民が直接選択する機会が欲しいような
ニュアンスが感じられるものだった
だが日本は間接民主主義の国で、決める人を選挙で選ぶシステムになっている
それは現実的に時間とか手間の省略になり
一歩間違うと暴走する大衆の選択を防ぐことにもなっている
選挙で決める人を選ぶことは、相反する意見の人同士の戦いにもなって
一方的な意見の反映にはならないで済む
つまりは選挙で首長を選ぶということは、
その人物に財布の中身の使い方を一旦任せるということだ
選挙で選んだ人の選択(お金の使い方)を、市民がそれは違う!
と言って押し戻すことはどうなのか?と考えることもある
だが話を現実に戻すと、決める人の選択も実は自分を応援してくれる
人(後援会)の意見に左右されるということだ
間接民主主義はこうしてある矛盾を含んでいる
だからそれを補正するためにいろんなシステムが考えられる
住民投票もその一つだろうと思う
(新城市は8年前、住民投票を行ったが、この時は選択肢がひどかったが
住民投票が行われたことは良いことだったと思う)
現在あるシステム、制度の中で、できるだけうまくいくようにすることは
(それぞれ持ち場の人にある程度任せるというシステムは)
なかなか難しいものだと感じた次第
昨晩は(心配した)荒れる会議にならなくて良かった
だが市は「安心してください!」
という実感を来場者に与えるまで与えるまでは
行っていなかったと思う
次もあるとの話だが、、さて
※相変わらずまとまらない話
自分ではそんなに怒りっぽい方ではないと思っているが
昨晩、目にしたSNSの投稿には少しばかり怒りを覚えた
それを夜中に目覚めたときにタブレットを覗いて見つけたものだから
感情がたかぶって眠るのに苦労した(普段は眠れるのだが)
そのSNSの投稿はリコール運動のことが書かれていた
例の愛知県知事のリコールの際の不正署名を例に挙げて
彼は新城市で行われた市長リコールのときも
閲覧したら不正署名が見つかったとあった
だがこれは明らかな嘘だ
なぜなら、新城市のリコール署名は必要署名数に達しなかったので
選管が署名チェックをしたり、市民に縦覧することは行われなかったからだ
(署名書類は、選管に必要数に足りなかったが、これだけ集まったと報告し関係者が引き上げた)
「縦覧されていないものを見た」ということ自体が明らかな嘘となる
ここで怖いのは、こうした事実を知らない人は彼のSNSの投稿を見て
そのまま信じてしまうかもしれないことだ
あの愛知県知事のリコールと同じようなことが新城でも行われたと、、
当事者だからあの当時のことは記憶している
リコール署名の作業はえらく面倒で、受任者しか署名を依頼することができない
そしてその署名簿は綴じられて、一番上は受任者の資格を示すものがないといけない
署名が終わって選管に提出する時は、これもまた面倒で署名簿はキチンと整理
されていなくてはならない(通し番号をつけて)
たかだか9000ほどの署名簿を我々は時間をかけてチェックした
同じ人が勢いで書いていないか!
とか、想定される「善意の悪」をチェックした
だから自発的に無効と思われる署名は横棒を引いて消してカウントしないようにした
そして判別できないものだけを選管に判断してもらうようにした
(選管がチェックすることはなかったが)
つまりは法に則ってキチンと行ったという自負はある
だから、愛知県知事のリコールの時は、庶民が事実と違うことを勝手に連想して
キチンと行った我々の行為が汚されたような気がして、それが何よりも悔しかった
この彼のSNSにはもう一つ、自分勝手なことが書かれていた
確かにリコール運動があった頃は、リコール推進派と反対派が
チラシとか街宣運動をして街が二分されていた
リコールの場合は選挙と違って、結果的には「何でもあり!」の世界で
それぞれがやりたい放題しても罰則に至ることないそうだ
だから、反対派のチラシにはいい加減なことも書かれていた
それは、そもそもリコール運動を始めた人物は新庁舎の近くの土地所有者で
その土地を高く買い上げてもらうために、庁舎建設にも反対してごねた、、
というようなことが書かれ、そしてその庁舎近くの家の写真まで載っていた
ここでも嘘がある
チラシに載った家は推進派のメンバーの家ではなく全く別の人物の家だ
流石にいくらなんでもこれは酷い!
ということで当事者はチラシ作成人物を「名誉毀損」で警察に訴えた
だがこの名誉毀損というものは、どっちつかずの結論で終わることが多いそうだ
名誉毀損の解釈やら、それがなされた正確な日時とか、、
つまりは感情を害された、、という勢いだけでは何ともならないということだ
警察も実態はやる気のない捜査となるそうだ
訴えられた人物は警察の聴取も受けたらしい
だが受けただけでお咎めなしで、それ故に彼のしたことは悪くななかった
と今になってSNSで身内だけに都合の良い報告をしている
事実はいろんな視点から存在するものだとしても
現実は「言ったもん勝ち!」になってしまうことが多いのではないか
自分は「言ったもん勝ち!」にならないように
一次資料としての記録を残しているつもりだ
住民投票もリコール運動も何年かすれば単なる歴史上の出来事になる
そしてその歴史は、おそらく公文書的に市の整理した内容のものになる(と思われる)
その簡潔に都合よくまとめられたものが事実とされてしまうのは
あれらの運動に関わったものとしては若干の不安を覚える
こうして当事者の愚痴などを残すのは、無駄ではないと思いたい
おせっかいなFBの機能から7年前の今日の投稿が通知された
そこには毎日新聞の記事を取り上げて、多少テンション高い表現で
新城市の住民投票の選択肢の酷さを訴えていた自分がいた
毎日新聞の記事は↓
あれから7年
いろんなこと(リコール運動・行政訴訟・産廃騒動)があって
もうずっと昔のような気がする
だが、ほんの少し前のことなのだ
現在の市庁舎南の役立たずの土地(防災空地扱い?)は
この新庁舎建設の計画の杜撰さからきている
だが、役立たずの土地はそれが常態化していると
市民はいつの間にはその不便さに慣れっこになってしまって
なぜ市庁舎の常設の駐車場として使えないのか?と疑問を持つ人はいない
この事件以前と以後で自分の意識はすっかり変わってしまったが
先日、地元の会合で住民投票のことを出席者に聞く機会があった
すると、住民投票があったことは覚えていた
だがその選択肢は覚えていなかった
だから彼らは自分が覚えたような怒り(わかりにくい選択肢で住民投票を行う意味があるのか)
は少しも持っていないことがわかった
彼らの住民投票における選択は住民が訴えたわかりやすい3階建てか?5階建てか?
で行ったようだ
時間の経過は怖い
いつの間にか何故だろうと思えることも、日常の風景とか出来事になってしまう
過去を何時までも引きずったり振り返るのは生産的ではない
と思いたい人たちが世の中にはいるようだが
「新城市はピンチなのですか?」
とテレビレポーターとして新城市にやってきた春香クリスティーンが
聞いたように、新城市のドタバタはここから始まった
(というより、多くの問題が存在することが表面に出た)
自分が怒りを覚えたことも、スルーする出来事と感じる人が多いのも事実だ
身の回りの様々な問題を自分たちの問題として考える
一見まともそうなこうした考えが、いざ実行となるとそのハードルは一気に高くなる
その現実を思い知らされる日々が続く
新城市で今問題になっている小中学校の給食についていろんな人に聞いてみた
給食の問題とは大きく分けて3つの問題がある
1つ目は、給食は自校式(学校内で作る)かセンター方式(まとめて作る)のどちらが良いか?という問題
2つ目は、その決定プロセス(市はセンター方式と決めた)が適切だったか
自治条例に違反した決定プロセスではないか?という問題
3つ目は、行政のチョンボ(基本設計の参考見積もりの紛失や該当地の県の土地が含まれて
いったん計画がストップしたこと)は何故起きたのか?そこに犯罪性を疑わせるものはなかったか?
大きくこのように分けられる
だが問題と言っても現実は市民の間にそれ程問題となっているとはいい難い
ほとんどの人は行政・議会がこれで騒ぎになっていることを知らない
その現状を踏まえて、知人・顔だけ知ってる人、学校関係者・話したことのない人に聞いたのは
1.自校式とセンター方式と、どちらが良いと思いますか?
2.その決定は教育委員会・校長会・市の幹部が決めましたが、あなたはその決定に関与したいと思いますか?
3.行政の決定の仕方は自治条例に違反していると思いますか?
の問だ(チョンボの問題はありえない話で敢えて問をするまでもない)
1番の問は答えが割合偏っている
「自校式がいい」この声が多い
想像されるように、その方が温かくて美味しいものが食べられるから!がその理由だ
だが、中には「時の流れでセンター方式も仕方ないかもしれない」という人もいる
ここで改めて実感したのは「自校式がいい」というのは圧倒的に女性が多いということ
「センター式も仕方ないかも、、」というのは男性に多い
そして、その仕方ない理由は行政の説明を聞いたからではなくて、
彼らが想像した多分もう続けられないだろうという理由からだ
次に2の決定に関与したいか?
となると、元気に自校式が良いと言っていた人(年配の女性)も急に歯切れ悪くなる
その意見の多くは
「その決定に関われるほど自分たちは現状をよく知らない
だから責任をもって決める判断はできない」
というもので、いざ決定権があるとされると責任を伴うので慎重になって
安易な判断はためらうようだ(PTAの人たちは参加しても良いかも?と口にしたが)
「ちゃんと情報を持っている人たちが妥当な理由で決めたならばそれでいい」
という他人の判断で良いとするのもある
3番目の自治条例に違反するかどうかは、質問自体が伝わらない
自治条例とは何で、どこに違反している可能性があるかをすぐに分かる人がいないからだ
これは予想した通りの結果だった
2つの選択肢があると、それぞれがそれそれを推す理由がある
その一つ一つの理由は相手側には納得できない理由とか言い訳に聞こえる可能性がある
(例えば問題となっている給食婦が集まらないのは、時給が安いからだとか)
実際のところ、このような未来に関することはどちらが正解かはわからない
時の経過だけが半か丁かの答えを出すだけで、今は想像するしかない
わからない未来を無理やり選択するには、不完全なシステムかもしれないが
多数決によるしかないかもしれない
問題はその多数決を誰がするか?ということになる
自分は基本的には事情をよく知っている人に任せるのが妥当だと思う
思いつきのようにひらめく人よりも、ずっとこのことを考えている人
そういう人に任せて、それで間違ったとしてもそれは仕方ないかもしれないと思う
人の説明を真実だと思うか、言い訳と思うか?
は直に接しないとわからないかもしれない
「自校式が良いけど、もう無理かもしれない!」
と答えたのは現場を毎日見ている女性(教頭先生)だった
また「限界にきている」と口にしたのは、知らずに声をかけたら
「自分は教師だったから現場を知っている」と答えた男性だった
無理かもしれないという実感も、努力すればクリアできるはず
と思う人もいるだろう
だが、その実感は重い(と思う)
このように人は時間的に制度的に誰かに判断を委ねざるを得ない社会に生きているが
その一つ一つは知らないなところで決まっていくものだと思うこの頃
(人は何事も関心を持たなければいけないか?誰かにお任せは悪いことか?
なんだかわからなくなってきた)
※ところで1の問に男女の判断に大きな違いが見られたので、
多数決をするには男女比は同じでないとまずいかも、、、
少し細かな話(たまたま請願という事態が新城市議会にも起きたので)
最近のマイブーム「ディスタンクシオン」の中にこんな文章があった
自分たちの要求を実現する方法として
上級管理職はとりわけ公的機関への請願という手段に訴えることが多いのに対し
生産労働者・事務労働者は他のどのカテゴリーよりストライキという手段に出ることが多く
また職人・小商人および一般管理職はデモ行進を行うことが多い
つまりは置かれている階級(学歴資本、文化資本的なもの含めて)によって
政治的な働きかけの選択が違ってくるということだ
「請願」が有効な意見の伝え方だとしても、実世界では「請願」という行為を知らない人が多い
話を新城市に限ると市議会のHPで「請願のシステム・手続き」を紹介するページがある
だが、それは庶民の当然の権利のようになっているかと言えば
「知ってる人だけが知っている手段」となっているように思える
だからこの「請願」が手続きに沿って行われて、それが議会で討論されて結果が出ても
それを知る人は全く少ない
ストライキとかデモ行進は「請願」のような抽象的なものではなく、誰もがイメージしやすい
特にデモ行進などは一般市民でも参加しやすいものだ
(フランスではダラダラと歩くだけのデモもあるらしい)
「知ってる人しか知らない手段」は、どんな啓蒙活動をしてもそんなに広がることはないと思われる
だが、現実に起きた「請願」という事実を知らないでいることは、市民は損かもしれないとも思う
新城市議会への請願は紹介議員が必要で、直近の議会に一つの請願が提出された
請願という手段をとった人は、その手段を良く知る立場にあった人物で純然たる一般市民ではない
その内容は、何かと問題の多い(政務活動費の問題、問責決議の頻発など)新城市議会の
体質改善のためにある方法を提案したのだった
内容に少しばかり「力技ぽい」ところがあるのは事実だが、そのくらいしないと現実的な対処法には
ならないかも知れないと思えないこともなかった
結果は「不採択」
問題なのはこの結果ではなく、市民の多くがこの「請願の事実」と「不採択の理由」を
全く知らないだろうということ
実はその2つを知るだけで、いろんなことが見えてくると思う
(例えば市議会の問題点・賛成反対の理屈とそれを考え出す能力)
とは言っても、そんな話は面倒だからと関心が及ばないのを分かる(自分を振り返っても)
結局は政治とか言われるたぐいは、誰かがやってるのを追認したり
知らずに済んでいくものだろうか
少しばかり分別くさくなったおっさんは少し心配
怒りの力は侮れない
それは行動に直結するパワフルさだけでなく
いつまでも人の心に通奏低音のように沈潜してしまう
我ながら情けないが、忘れられない怒りがある
それは新城市の住民投票に関する2つの出来事だ
(住民投票は、身の丈に合わない豪華な庁舎建設の縮小を求めた
市民の呼びかけがきっかけで、紆余曲折の後、議会提案で決定した)
選択肢1 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し
2015年、新城市の新庁舎建設に関して住民投票が行われることになったが
その時の選択肢がこの2つだ
これを見た人(市民)は直感的に何を言っているか分からない
何を言っているか分からない状態で、どちらかを選べ!というのは随分乱暴な話だ
最近出版された前の市長が登場する本では
「住民投票などの制度の原則は、全住民が直感的に判断し、選択できる問いを用意しなければならない」
と評論家風に答えている
だが前の市長の時代に行われたのは、直感的に解りにくいこの選択肢だった
彼は「自分は分かる」と言って、この選択肢による住民投票に異議を感じなかった
(言ってることと、やってることが違う)
だが当事者である市民の自分らは、まずはこの解りにくい選択肢を変更するように働きかけた
住民投票は議会提案で決まったから、当時行われた議会報告会でそれを訴えた
だが議会は何も変更しなかった
この住民投票が行われる条件として前の市長は、この2つの選択肢の比較ができるように
「市民まちづくり集会」を開く様に求めた
ここまでは良いとしても、その先がひどかった
2つの選択肢の良し悪しを比較するのなら、双方(住民投票を求めた側と求められた側)の
言い分の発表時間は同じでなければならない
あるいは、同等の立場で意見を言い合うというのが当たり前のことだ
会場にいた人は、無条件にそのように行われるものだ、行われていたと思ったかもしれないが
全くそうではなかった
選択肢1は行政が決めたプランを実行するというもので、
選択肢2が住民投票を求めた側のプランだが、それぞれの案を発表する時間、
発表する人はとても奇妙なものだった
選択肢1は当然の様に行政が説明、そして選択肢2は市民が発表すると思いきや
なんとこれも行政が説明した
そして「選択肢2は自分たちの計画ではないからよくわからない」と会場で平気で口にした
更に選択肢2を発表する行政の人は、選択肢2の欠点を会場で発表した
(この欠点はデマで、その後調べてみるとそのような事実はなかった)
何故、そんなでたらめなことがおきてしまったのか?
それを追求してみると、そこには玄人にしかわからないようなルールがあったからとされた
つまり「まちづくり集会」そのもののあり方とか運営方法は
市民に公平にジャッジするための機会を与えるものではなく
決められた規則内で行われる集会に過ぎないというのだった
その運営方法によれば、発表時間も発表する人の選択も問題はないとされるものだった
だが会場にいた人の多くは、公平に情報提供がされるもの(されたもの)と無条件に思ってしまう
それは、勘違いするかもしれないが、勘違いするほうが悪い、自分たちはルール内で行ったに過ぎない
との弁解で、この理不尽な行為はいつの間にか市民の記憶から忘れさられるようになっている
ルールを知っているということは、抜け道を知っていることに繋がる
その抜け道をフル活用すれば、合法的に理不尽なこともできるようになる
残念ながらこの事実を知ることになったのは、これがきっかけだ
いまでも思い出すと怒りが沸々と湧いてくる
と同時に、世の中は随分いい加減なところで回っているものだとも感じてしまう
そしてこれは市だけでなく、国政でも似たようなものかもしれない、、と思うと
心配性は不安になってしまう
「決まったものは蒸し返さない方が良い」
これを聞いたのは2回目だった
1回目は、2015年の新庁舎建設見直しの住民投票を求めて署名集めをしてた時で
既に議会の承認も得て進められている事業を、今更蒸し返すのは生産的ではない
というものだった
これはその後いろいろあって(ありすぎて)住民投票は実施され
新庁舎は規模縮小を求めた住民側の住民投票の勝利で終わった
だが結果として今建っている庁舎は規模縮小を求めた案と
従来の案との折衷案のような形に落ち着いた
(形の上では折衷案のようでも、実態は奇妙なものだった)
このゴタゴタはこのブログの「住民投票、市庁舎、リコール、市政」のカテゴリーで
その時々の感情の発露の場として残されている
「決まったものを行政は止めることはない」
と言われるが、そうばかりではないことが地元で証明された
そして2回目はホンの少し前のこと、街で出会った人が
買い上げ価格が異様に高いために裁判までに至った養鶏場の件を指して
「買い上げは議会でも承認しているのに、何を今更蒸し返すのだ」
と少しばかり怒りを込めて口にした
彼は訴訟代表者の裁判に至る行為は、単に市の損害がありや無しやではなく
被告と原告との個人間の問題として捉えているようだった
それはいたずらに騒ぎを大きくしていると認識しているようだった
「でも、この話は買い取ってほしいと言ってきても、あまりにも金額が大きいので
庁内でも検討会議をすることになり議事録が残っている
そこで話された内容は、この土地を購入しても使いみちがはっきりしていない
多分、工業団地として使われることになりそうだが、近くの工業団地は
まだ2区角売れ残っているし、景気の低迷で売れるかわからないので購入に?
と残されているんだよ」
こう説明すると少し表情が変わった
「それにね、不動産鑑定をしたんだけど、その価格を決める根拠として
参考にした土地が1箇所は地元新城、あとの3箇所は豊川市なんだよ
なんで、3箇所が豊川市?」
あれれ、自分が思っていたのとだいぶ事情が違うようだ、、、
彼の顔は興味を覚える表情に変わった
そのあと、この事業の例外が多すぎる進め方をいくつか話したが
お互い次に行くべき場所があったので、話は途中となった
だが彼は「〇〇さん(自分の名前)また店に来て!」
と言って分かれることになった(詳しい話を聞きたいようだった)
「決まったことを蒸し返す」行為はいたずらに騒ぎを大きくしているのではない
ということを、彼は理解したかもしれない
だが彼の冒頭の反応から、市民に情報を伝えることの難しさを身にしみて感じた
まずは市民が市政に関心がない
それ故に問題となっている事実を知らない
そこで説明しても、説明が長くなると面倒な気がしてきて理解する気を失う
更に、この騒動は単なる被告への人格攻撃的な戦いではないと
少しばかり市政に関心のある人の誤解を解くのが難しい、、などなど
市民にこの情報を知らせるには、各家庭に新聞折り込みが効果的と思われるが
残念ながらこの手の印刷物は折り込めない
この何十苦の中で何かをするということは、そして実質的に自腹を切って
行うということは、単なる個人間の意地の張り合いの次元とは全く違う
だがそれを理解してもらうことの難しさ、、、
でも、信じていることをするしかない
「ケインズの美人投票」という言葉がある
普通の美人投票は、美人だと思った人に投票するだけだが
この「ケインズの美人投票」は
「誰が一番になるかを当てた人には賞金を与える」
という条件を追加して投票を行うというものだ
無邪気に好みのタイプの人に投票していれば良いのと違って
欲のある人間という存在は、少しでも得したいと考えるので
できる限り自分の選択が当たるように考える
その結果、自分が美人だと思う選択よりは人は誰が美人だと思うか
を想像することになる
投票する人たちの性格・好みを知っていると迷いは大きくなる
現在、この状況に近いのが月末の新城市議会議員選挙だ
シンプルに「この人が良い!」で済むのなら簡単だが
個人的にはその判断基準では済まされない思っているからだ
現在の新城市議会は大きく2つのグループに分かれている
(今回の選挙には定員18人のうち現職が16人立候補している)
それは問題提起をし続けているグループと(別の見方によれば何でも反対?)
行政の説明を無条件に信じてしまうグループだ(別の見方によれば議員の役目を果たしていない?)
ただし前者のグループは、必ずしも議決の判断は一枚岩とは言えず
個々の案件によって異なる判断を行っている
それは纏まりがないというよりは、個々が付和雷同的な判断をしないことの現れだ
国政でもそうだが、行政と議会に緊張感のない状況は好ましくないと思う
例えて言えば、現在裁判となっている養鶏場の不当な価格での買上げ価格の案件でも
「議員は不動産鑑定の価格の参考とする場所が、
新城市ではなくて豊川市にあることを知っていた」
知っていたなら疑問に思い慎重にことを進めるべき、、
と訴えるグループの意見を聞き入れて議決に臨むべきだったと思うが
それはなされずに、まるで儀式のように議決され、現在の裁判という事態に至っている
つまり議会がきちんとチェック機能を果たしていれば
裁判などという物騒な事態にならずに済んだ可能性がある
あの奇妙な住民投票の選択肢以来、議会ウォッチャー続けている身からすれば
(多少の偏見独断があるのは認めるとしても)
市議会は問題提起をしている人々のグループが増えるほうが良いと思っている
そこで今回の選挙ではその陣営が増えるような選択をしたいと思うが
困るのは、仲間が増えるように!と新しい候補者に投票すると
肝心な元のメンバーが落選してしまうかもしれないと思えてしまうことだ
誰に投票すべきか悩んでいる!
この状態がケインズの美人投票状態ということだ
このように良くするために、投票すべき人に悩むことはあるが
反対に絶対当選すべきでないと思える候補者は、残念ながら二人もいる
「今、言っていることよりも、今まで行ってきたこと」
を振り返れば、彼らにはその資格がないのは自明のことと思われるが
ここが一番の問題だが、大半の市民はそのやってきたことを知らない
当選のための一票だけでなく、落選のためにも一票がほしい、、
と、つい思ってしまう
今月末に行われる新城市の市長選絡みの話
現時点(10月15日8時半)における
新城市長選挙立候補者 公開政策討論会のYoutubeの再生回数は
10月2日 1375回
10月7日 663回
10月14日 247回 となっている
最初の回が多いのは、2日ほど後に中日新聞で報道されたからと思われる
ちなみにリアルタイムの視聴者の最大数は
10月2日 63人
10月7日 46人
10月14日 39人
回を追うごとに減っている
ただ関心を持ち続けている人が、最低でも30人以上いるということは
多いのか少ないのか、、どちらなんだろう
この討論会はケーブルテレビでも放送されているので実数は
もう少し多いと思われるが、それでも圧倒的に多いのは見聞きしない人たちだ
政策討論会が抽象的な話に終始し、わかりにくいことがあるとしても
なんとかわかろうとしてほしい!と個人的には思う
回数を重ねるうちに減っているのは一回見れば「わかったつもり」
になれたからかもしれない
だが本当に面白い(?)のは3回通して見続けることだ
なぜなら討論会に慣れてきた候補者の性格が垣間見えるからだ
(慣れによる油断で)
例えば、討論会は発言時間が制限されているが
その時間を過ぎても話し続ける人
なんとか収めようとする人
などは、規則を守る意識がありやなしやが見て取れる
実際のところ、時間オーバーの人は片方に多かった
(これ以外にも人柄を想像させる仕掛けがあった)
一回目の討論会を見た人が
片方は机に資料をたっぷりと準備していたが
もうひとりはそれほどではなかった、、と感想を漏らした
これなども内容以前に比較対象できる
不意にこの選挙の結果を、当人と同様に気にしている人たちのことを考えた
それは市の職員たちだ
親ガチャではないが、彼らは市長が誰になるかで自分たちの運命は変わるかもしれない
現実は行政の継続があるので大幅な変化はないかもしれないが
それでも徐々に〇〇カラーというのは出てくるもので、職員はどちらが合うタイプの人
合わないタイプかは気になるところだろう
地域活性化に必要な人物として「余所者、若者、馬鹿者」が挙げられる事が多い
この三者は突破力が強い
しかし、それだけにあくが強く使いづらい人物像が想像できる
(以前新城市に講演にきたスーパー公務員はそういうタイプだった)
こういう少し偏屈(と思われる)真面目な人物を
懐深く受け入れることができそうなのはどちらの候補なのだろう
と考えてみるのも面白いかもしれない
個人的な感想としては、一方は現状分析からの対処療法的な政策が多く
もう片方は現状分析からある仮定を設定し、それに意思をもって取り組みたい
としているようだ
だれも先のことはわからないが、どうせなら自分たちが切り開く未来のほうが
面白そうな気がする
それにしても、微妙な立場にいる職員は気になるだろうな
(彼らは議員時代の両人を知っているので本音を聞いてみたい)
先日、地元の店に、この秋市長選に出馬する人のパンフレットが置いてあるので
「本人が来て置いていった?」と尋ねると
知り合いが持ってきて断ることもできず、おいておくことにしたとのこと
地元の店は選挙には慎重にならざるを得ない
表向きに誰々を応援すると表明しない企業は多く、それがその場所で生きていく秘訣かもしれない
次に「この人(出馬表明した人)のこと、どのくらい知ってる?」と尋ねると
パンフレットに書かれたことは僅かに知っておられたが、人柄や今までの判断してきたこと
(そのような仕事の人だったので)などは、全く知らないと答えた
次に「市議会議員はどのくらい知ってる?」と聞いてみた(市議会議員選挙もこの秋あるので)
「5〜6人くらいかな」(新城市議会は18人で構成)
「地元の〇〇と、△△と、それから 近くにポスターがある、なんて名前だったかな」
おそらく、この方は特別にこの手の情報に疎いのではなく、大半の市民は同じようなものと思われる
住民投票が行われる前の自分も議員の名前も顔も知らなかったので、このような現実は大して驚きもない
だが、いろんな話が集まるようなこの店の方は、悪い噂の市議会議員のことも知っているので
「市議会議員はなって欲しい人に立候補してもらえず、勘弁して欲しい人が出て、議員になってしまっている」
と巷でよく聞かれるフレーズを口にした
なって欲しい人が立候補しないのは何故か?
の大きな理由の一つは、家族の賛同が得られないからのようだ
現にその例を数人知っている
もちろん、それだけでなくもっと根本的なところで、エイヤッと出られない何かがあるのだろう
いずれにしても、市議会(市政)のゴタゴタとか、いろいろ現実を見てきたものとしての印象は
市議会議員や首長は、選挙前に表明される勇ましいマニフェストや考え方よりは
数段低いところで日常の行動をしていると実感する
人が得意でなさそうな、しかし多くの人が選ぶという点で最悪の事態は避けられるとされる代表性民主主義だが
人が人を選んで、その人に任せるという行為が、本当に現実的かは少し不安がついてまわる
それは国を見ていてもつぶさに感じることで、能力のある人、共感力のある人、人間的な人として選ばれた人が
その面を発揮することなく、勝ち馬とか多数決の原理を都合よく解釈、利用して自らの立場を守っている
人が人を選ぶ時、その一番の根拠となるのは何だろう
一番間違いがなさそうなのは、選ぶ人が選ばれる人の人柄や傾向をよく知っていることだろう
だが現実には広くそれが可能になることはない
すると、次は信頼できる知り合いから勧められるということがあるかもしれない
「あの人のいうことなら信用できる」
として、判断を他人に委ねるという手だ
一般的に選挙では王道とされるマニフェストの良し悪しは、果たして本当に選択の基準となるのだろうか
マニフェストは対立候補もそれなりのものを出してくるので、それぞれ良いことが提案される
その良いことの優劣の判断を人は果たしてできるのだろうか
(そもそも庶民には必要な背景知識がない場合が多いのではないか)
実態として、より良いものを目指すとして制度は存在する
その制度を利用する庶民は、数年に一度、とりあえずしなければならない行為としての投票を行う
だが現実はそれで一旦終了だ
世の中に政治的なことに関連していないことはない
と諭されても、やはり面倒くさいと感じる庶民の気持ちもよく分かる
と、困ることの多い現実だが、この秋は市長・市議会議員選挙だ
なにかしら、運を天に任せるしかないような気分になりつつあるが
それじゃイカンと!と考えて、庶民は何をすべきなのだろう
困った(あの議員じゃ本当に困るという人がいるので)